第35章 繋がれた星導師ア・マリン
湖国の離宮には湖の底につながる通路があり、その最奥部には岩室が作られていた。
岩室の中には巨大な円筒形の水槽が置かれていた。水槽はいくつもの光る機材と無数の管で繋がれていた。
その水槽の中では一人の人物が長い瞑想に入っていた。豊かな顎髭を蓄えたその男はア・マリンと樹嵐で呼ばれる大星導師であった。彼は聖理師と魔理帥双方の知識と術を極めたものにだけ与えられる称号を彼は持っていた。
彼は獅子王党と行動を共にし、不死王の樹嵐支配の打破を画策していた。その計画の要となる人物は二人いた。託言の子アースと次期玄の姫巫となる少女である。
ア・マリンはかつてやがて玄の姫巫となる少女ともに根の国を訪れ、アースと対面したこともあった。その際には、洞ん爺ことケイロンに時期尚早とたしなめられてしまったが。
呟道の隠れ家から玄の姫巫が奪われた際には、八擁の呟者とともに彼も戦った。遠見の能力者眼海、遠聴の能力者耳地、遠心の能力者意山の三名が討ち取られてしまった。
末那空と阿耶天の二人の呟者によって心と知識の封印術が二重にかけられた。その封印術の時間を稼ぐために、ア・マリンは僧兵とともに戦った。しかし、あまりの敵の数の多さに僧兵達は次々と討ち取られてしまった。最後は棄躯が投入され、その動きを封じようと抗呪文の罠を多数仕掛けていたのだが、罠の作動に巻き込まれる形でア・マリンは負傷してしまった。意識をなくしたア・マリンをこの離宮へと運んでのは、生き残りの僧兵たちであった。
本来、湖国は他国と一線を画しているため、ア・マリンの受け入れは難航した。しかし、ア・マリンが天鱗族の血を引く生き残りであるであることが告げられると、離宮の衛兵たちはそれを女王ニヴィアンにようやく伝え、受け入れを了承した。
天鱗族は離宮の女王の一族である海翡族、洞ん爺やトガリなどの洞守族と並んだ古代種族である。樹嵐へ人々を導いたとされる瑠璃王など統一王朝時代の王はその一族であった。
ア・マリンが回復槽の中で瞑想から目覚めたのは、彼がここに運び込まれてから三週後であった。
「玄の姫巫は。」
ア・マリンが最初に発した言葉は泡となって回復槽の中に消えた。
「ごめんなさいね。ここには海翡族の治療機器しか残っていないの。」
ア・マリンが目覚めたという知らせを従者から聞いた離宮の女王ニヴィアンはすぐに駆けつけた。
「しばらくは安静が必要ね。怪我が治るまで、そこから出すことはできないわ。」
ア・マリンは水槽の壁をどんどんと叩いて抗議した。女王が従者に合図を送ると、ア・マリンに繋がれた管の一つに薬が流し込まれた。ほんの数秒でア・マリンは眠りについた。「不死王は玄の姫巫に手荒なことはしないはず。だって彼の知りたい知識が得られなくなるもの。」
すでに眠っているア・マリンに向かって女王は語りかけた。
「剣聖キルディスが亡くなり、剣崇ロマーナも病に倒れた。いくら不死とは言え、不死王の体とて、もうまもなく限界を迎えるでしょうに。」
樹嵐で生きるものの中で最も長命な人物の一人である離宮の女王ニヴィアンは自室の浴槽に体を横たえた。長い髪が水を吸い込んで上下に大きく動いた。
「やはり、水の中が一番落ち着くわね。ア・マリンもしばらくは水の中にいたほうがいいのよ。」
女王はお気に入りの香炉に火をともすと水の中で瞑想に入った。
彼女は、大地が失われた後に、海中都市の中で生まれた。水の中でも生きられるように、海翡族の髪には水中の酸素を取り入れる機能が備わっていた。海中都市から海への出入りは自由であった。彼女もたくさんの姉妹と共によく海へと出かけた。
大嵐の日には海中都市もひどく揺さぶられ、深い海へ沈降するため、海への外出は禁じられていた。
嵐は何日も続くこともあったが、必ず止むときが訪れた。都市を築いた天人たちは伝心球を用いて空中都市の生存者と連絡を取り合っていた。
あるとき、天空都市の一つが動力源が尽きて墜落するとの連絡を受けた。海中都市は天空都市の墜落予想地点に近づき、多くの人々を助けた。女王の姉妹たちは何度も海へ潜って、溺れそうになっている天鱗族の人々を助け出した。
救出は日の出まで続いたが、太陽が昇る頃には打ち切りとなった。天空都市を運営していた上位の天人たちは、ほとんど都市と運命を共にして海へと沈んでいった。
天空都市の窓から手を振る天人たちの姿は今でも女王ニヴィアンの目に焼き付いて離れなかった。
天空都市の墜落は、天人たちの危機感を高めた。大地のほとんどが水没し、わずかに海退と海進を繰り返してはいたが、人々が住めるような土地は見つけることができなかった。 天空都市と海中都市の天人たちは、天宝輪の技術を総動員して人為的に大地を作れないか研究を始めた。
やがて、生物の成長と強化を飛躍的に進める技術が開発され、天人たちはそれを希望をこめて聖なる胚と名付けた。
海底の数カ所に据えられた聖胚はその地で生き残っていた生物たちの飛躍的な成長を促進した。
わずかに生き延びていた造礁珊瑚に投じられた聖なる胚は、珊瑚の成長を飛躍的に巨大化させ、海面まで突き出す巨大な島を形成した。長い時間をかけて、珊瑚を骨組みとして、流れ着いた種や海鳥たちが運んだ実が島を豊かな森へと変えていった。
人々は天空都市や海中都市から離れ、この巨大な島、樹嵐へと降り立ったのである。
樹嵐には想定されていない危機があった。生物の成長を飛躍的に促進する効果を持つ聖なる胚の影響は珊瑚だけで無く、海棲の甲殻類をも巨大化させていた。現在では、古代化獣と呼ばれている怪物と樹嵐に降り立った氏族との戦いが始まった。
古代化獣の甲殻は堅く、鋏や顎の力も強大であったため、氏族は劣勢に追い込まれた。離宮の女王を含む海翡族は、この古代化獣に対抗するために生育が速く、力の強い生命体を想像した。蚩鳳と呼ばれるこの生命体は、あまりに強すぎるために、氏族の乗り手を必要として暴走を抑えた。
蚩鳳の活躍で、古代化獣はその生息域を深樹海などの樹嵐下部へと追いやられていった。こうして、平穏を得た氏族は樹嵐各地へ広がっていったのである。
海底に置かれた聖なる胚は、そのすべてがすべてが成功したわけではなかった。もう一つの空中都市の天人たちは、地殻に手を加え、人工的に火山島を作り、陸地を生み出そうとした。
試みは成功し、巨大な火山が誕生し、そこから流れ出る溶岩によって樹嵐よりも広い大地が生み出された。天空都市の人々は、動力源が尽きる前にその島に降り立った。
しかし、島はできたものの、火山が噴火を頻繁に繰り返し、降り注ぐ火山灰や火山礫によって安心して住める土地ではないことがわかってきた。
その島に降り立った天人たちは寿命を迎え、数を減らしていった。天鱗族ももともと数が少なかったうえに、食糧不足から来る飢餓に苦しめられて次々と亡くなっていった。
海中都市と天空都市との交流で火山島を訪れていた海翡族の一人の乙女がこの危機を打破するために島の氏族を率いて樹嵐に攻め込んだ。数が少なかった彼女の軍は、兵力として火山島で進化した化獣、魄獣を使役して補ったのである。彼女の名を赤き島の女王マハという。
樹嵐では、氏族による農耕や牧畜、街道の整備などが軌道に乗り、人口を増やしつつあった。
突然の赤き島の女王軍の来襲によって樹嵐は大混乱に陥った。彼女たちの軍が降り立った土地、萌蓬には、羚挂族の地下王宮があった。しかしこの襲撃で多くの住民が命を奪われ、故郷を追われた。地下王宮は戦乱で荒廃し、化獣たちの巣くう迷宮となった。
獅子心王と四天王を中心とする殻士たちが女王軍に果敢に立ち向かった。ことに天獣のの剣を振る者たちの活躍はすさまじかった。各氏族の殻士や甲士、剣士や従士に至るまで死力を尽くして敵と戦った。
戦況が不利になったことを悟った赤き島の女王マハは、自らの氏族に撤退を命じた。帰島に必要ない化獣、魄獣たちは樹嵐に放置された。地下王宮が迷宮と化したのはこのためである。赤き島の女王軍にいた氏族の中には、このまま樹嵐に残り、数を増やしていったものもいた。
離宮の女王ニヴィアンは、赤き島の女王マハの心情を理解できた。平和的に樹嵐に移住することを望んできたなら、受け入れる余地もあっただろう。しかし、いきなりの襲撃と住民の虐殺である。彼女とは相容れようがなかった。
女王は一旦兵を引いたものの、いつ戻ってくるかわからなかった。各氏族は、離宮の女王ニヴィアンに蚩鳳の確保を依頼してきた。女王も危機感からそれに応じた。
しかし、それが樹嵐に戦乱を招く元となった。氏族同士の戦い、氏族内部の騒乱。蚩鳳を用いての醜い争いが始まってしまった。
女王はそれ以降、各氏族の王族や貴族、有力者にのみ蚩鳳を供給して、数を減らすこととした。
やがて樹嵐の戦いは不死王とその軍によって鎮圧された。獅子吼族、丹鬣族、二つの氏族が壊滅的な打撃を受けた後、樹嵐にしばしの安寧が訪れた。
ア・マリンは、この不死王軍と獅子吼族との戦いの中でめざましい活躍を遂げた大星導師であった。彼は、獅子心王に見いだされ、その配下となった。獅子心王の息子である獅子叫王が樹嵐を支配するために各氏族に軍を進めようとした際には、身を挺していさめようともした。しかし、ア・マリンは顧問の立場を解任され、半ば幽閉状態となった。
天空城落城の折、幽閉された部屋を脱したア・マリンは、アースとその母をかろうじて救出できた。しかし、その直後、母子二人は戦鬼士の手によって致命傷を受けてしまった。
アースの母の能力、時凍えの秘術によって母子は根の国へと瞬転した。ポッポ爺がアースを発見したときには、天空城落城からかなりの歳月が過ぎていた。樹嵐の各地を放浪する中、ア・マリンは獅子王党と再会した。そして、牛那族の商人から根の国に紫色の瞳を持つ子がいることを聞きつけた。まだ赤子のアースと再会したア・マリンは洞ん爺と協力する形で、アースの蚩鳳胚を密かに育成して成就の刻に備えたのである。




