第3章 |聖理師《ワーラリンディアム》 ア・マリン
アトナが族長の長男シブレと結婚してからしばらくたった。もう来られないといっていたアトナであったが、折を見てはポッポ爺とアースのもとへやってきてくれた。
族長の家は鹿晋族の中でも裕福であった。根の国の名産である胚蝉酒を牛那族の商人へ手渡す窓口としてその仕事を一手に引き受けていたからである。しかし、その一族は全員が働き者で、決して威張ることなく、他の鹿晋族の村人にも親切にしていたので評判がよかった。
長男のシブレ、次男のスブレともにとても大きな体をしていたため、荷駄車で集められてきた胚蝉酒の入った壺を軽々と運んでいた。
シブレとスブレは、時折水車小屋にきて、粉にするための粟麦の袋を置いていった。その度にアースに声をかけてくれた。
「おいアース大きくなったな。」
「いやお前、大きくなりすぎだぞ。」
「そういや、俺たちと同じくらいか。」
「いや、スブレ、お前よりでかいわ。」
「何を言う、シブレ兄。あんたよりもアースのほうがでかいぞ。」
こんな会話が来るたびに水車小屋で交わされていた。二人が来る耽美に柱の前に立たされて、アースは背比べをさせられていた。鹿晋族のだれよりも背が大きいことを気にしていたアースはいつも複雑な気持ちで二人の会話を聞いていた。だが、
「できたわよ。」
とアトナが呼ぶと
「はあい。」
と元気よく三人で居間へと駆け込んだ。フクランの甘い香りが漂っていた。
「おなかペコペコだ。」
「おおありがたい。力仕事はやはり腹がへる。」
「僕も。」
「アース、お前は仕事はしてないぞ。」
「あはははは。そうだけど。」
「はい、みんなで食べるわよ。」
アトナは全員にフクランを配って渡した。
「おお、アース、来年の春には、アトナの子供が生まれるぞ。」
スブレがアースに話しかけた。
「おい、こら。スブレ。」
「なんだよシブレ兄。めでたいことじゃないか。」
「まだ家族以外には言ってないんだぞ。」
「何言ってんだ。ポッポとアースは家族みたいなものだろ。」
「そうよ。二人には教えて大丈夫。でも私から伝えたかったわね。」
「ああ、義姉さん。すみません。うれしくって。つい。」
「なんだ、なんだ、なんだ。」
水車から帰ってきたポッポが笑っている四人を見て戸惑っていた。
ある日の事、数少ない友達のウィグロと弟のウィブレ、プッル、ションカたちと久しぶりに飛魚釣りにいくことになった。今ではすっかり大人と同じ背丈になり、働きも一人前にするウィグロは、今日は弟のウィブレの面倒を見ると言って、屹桃の根に働きに行くのを止めて出てきたのである。
樹嵐の下部にあるという根の国のこの地まで、暖かい陽射しの差し込むよく晴れた日であった。
鏡池に着くとそれぞれが工夫を凝らした竿と仕掛けで釣り糸を垂れた。飛魚の癖を知り抜いているのはションカで、村の下手な大人連中よりも釣果があった。短気なプッルは投げ込み方も荒いので、流木に糸を引っかけることだけは誰にも負けなかった。
あっというまにお昼時となり、アトナの焼いてくれた胡桃パンとウィグロが持ってきた度数の弱い蝉乳酒と、焼き立ての飛魚の食事となった。
食いしん坊のプッルはションカの釣り上げた飛魚を3匹もたいらげた。久しぶりに仲間に入ったウィグロは口数こそ少ないが、常に微笑みを絶やさなかった。弟の口に焼いた飛魚をせっせと運んでいた。
その時、アースは誰かの視線を感じて振り返った。鏡池の波ひとつない水面の向こう側に三人の姿があった。
「あれ、万年銀杏の洞ん爺だぜ。」
プッルが声を張り上げた。深樹海の中でも鹿晋族が降りていくぎりぎりの領域に、洞ん爺と呼ばれる老人の住む万年銀杏はあった。村に来るのは年に二度の太陽と月の祭りの時ぐらいであったが、病にかかった村人が、万年銀杏を尋ねることは度々あった。プッルも一昨年、父親に背負われて、洞ん爺に病気を治してもらったことがある。
アースは洞ん爺がポッポの数少ない友達であるので、そこには何度も行ったことがある。洞ん爺は、いつでも空にそびえ立つ万年銀杏の洞の中で薬草を煮詰めたり、木の実を粉にしたりしている。村の長老よりも古い話を知っていて、アースに面白おかしく聴かせてくれた。
「他の二人は誰だろう。」
一番年長であるウィグロが知らなくては、村から出たことのない他の者が知るはずもなかった。一人の背はいままで見たこともないぐらい大きかった。鹿晋族でいちばん大きな身長を持つのは族長の次男スブレである。その倍はありそうだった。土色の外套をまとい、顔は黒々とした髭と頭巾で覆われ、ほとんどわからなかった。頭巾には皮と銀色に輝く輪でできた頭環をしていた。
もう一人の背丈はウィグロぐらいであったが、ほっそりとして外套からわずかに緑かがった長い髪がこぼれていた。その瞳は鏡池よりも深く緑色の光をたたえていた。どこか悲しげな瞳であった。よく通った鼻筋と小さな口元。
アースが始めて見る鹿晋族以外の少女であった。
洞ん爺がこちら側を指さして何かを大男に話しかけていた。大男はこちらをじっと見つめているようだった。そして両の腕を水平に上げ、静かに何かをつぶやいてから胸の前で組んだ。すると、男の影が消えたかとおもうと、音もなくその巨体が空に浮かんだ。ちょうどアースたちの目の高さぐらいに大男の足が持ち上がっていた。
「魔理帥だ。あの大男は魔理帥だ。そうでなきゃ宙になんか浮くもんか。」
大声で叫んだプッルと、すぐ後ろにいたションカは持っていた焼き魚を放り投げると、村の方へ通じる小道へと駆け出してしまった。ウィグロはすぐには逃げ出さずに、アースの顔と空に浮かんだ大男の顔とを見くらべていたが、大男の姿が池の中程までくると、さすがにこらえきれずに、弟の襟首をひっつかむとプッルとションカの後を追いかけた。ただ一人アースだけ大男の空に浮かんだ姿には魅せられていた。池の水面には大男の浮かんでいる辺りを中心にして、微かな波紋が起こっていた。大男は両の腕を広げるとアースに向かって微笑みかけた。
「大きくなったな。」
アースを見つめるその瞳には己が子を見守る父のような優しさが込められていた。
大男がまた何かを話しかけようとした時、鏡池の向こう岸から洞ん爺が叫んだ。いや、それは声にならない声、沈黙の声であった。聖理師同士だけが語り合う神聖語の一つであった。
「・・・ア・マリン。時は未だ満ちてはおらぬぞ。‥‥そのことを忘れるな。お前の今なさねばならぬことは、この玄の姫巫を連れ、彼の者の手すら届かぬ安息の塔へ赴くことじゃ。」
洞ん爺は口髭一つ動かさずにその言葉を発していた。アースはなぜかその言葉をはっきりと聞きとれた。意味は分からなかったが、この二人は遠く離れても会話していることが分かった。ア・マリンと呼ばれた大男は振り向いて洞ん爺に向かって大きくうなずいた。そして再びアースを見つめると優しくよく響く声でこう語りかけた。
「預言の子よ。我が名は聖理帥でもあり、魔理帥でもあるア・マリン。『失われた塔』の司祭だ。成就の刻が来たなら再び巡り逢おう。よいか、託言の子よ。我らに残された刻はわずかだ。」
大男ア・マリンは静かに瞳を閉じ、外套を翻してもと来た水面の道を帰って行った。池の向こうには厳しい眼差しの洞ん爺とあの不思議な瞳の少女がいた。大男と少女は見たことのないような巨大な翼虻にまたがると鏡池の上を二度ほど旋回してから飛び去った。




