第2章 |鹿晋《ナトフ》族のポッポ
どれほどの刻が流れたのだろう。いや、それはほんの一刹那なのかもしれない。落ちていく奈落の深さを測り知ることすら、若き獣アースには考えられなかった。一度、灰色羊歯の鱗幹に打ちつけられたときに、己を取り戻したものの、大王角蚩鳳の光翅を使って体を浮かせることを思いつくまでには、四度もあちらこちらにぶつからねばならなかった。
左肩にはガリアの「峰砂斗」によってつけられた傷を負っていた。左右の光翅のバランスをとれないうちに、もう一度灰色羊歯の鋸葉にぶつかった。刺の粗い鋸葉の上を転がりながら、樹皮の珪化した鱗幹にしがみついて、ようやく体を支えられた。
周囲はすでに淵樹海の植物相である灰色羊歯や銀杏土筆の団隗に覆われていた。ここは言葉を理解する者たちの立ち入らぬ領域であった。辺樹海の民、鹿晋族の民ですら、入り込むことを恐れる魔海であった。今では時の流れに忘れかけられた太古の化獣どもの跳梁する淵樹海に入り込んで、生還することは蚩凰を駆る甲士ですら難しいことであった。なおかつ樹嵐の創世当時の殻士や甲士達にとっての最強の敵は、まさに平原に生息していた数種の古代化獣であった。古代化獣は海から這い上がってくる巨大な甲殻類で、頑丈な殻と強力な鋏を持っていた。
やさしかったポッポ爺は創世の甲士達と太古の古代化獣との「戦いの誉れ」を何度も歌ってくれたものだった。アースの生まれ育った鹿晋族の村ですら、この淵樹海からは遥かな上層にある。
アースは灰色羊歯の鋸葉と鱗幹の間に体を横たえた。鱗幹から珪化した樹皮がこぼれ落ちた。あいつガリアはここまで追ってくるだろうか。あいつも深手を負ったはずだ。僅かな安心が若き獣を深い眠りへと誘い込んだ。
傷つき疲れた少年の心は、幼き頃の鹿晋族の村と帰っていった。夜明けの光がかすかに淵樹海にも届きはじめていた。アースはゆっくりと眠りに落ちていった。
アースの育った鹿晋族の村は、茎谷と深樹海の間にはさまれた小さな棚原にあった。鹿晋族の人々は樹嵐の他の民族に比べて小柄で、浅黒い肌をしている。黒くつぶらな瞳と少し尖った耳は、根の国に特有とされる薄暮の中でも、彼らに安全な行動をもたらしてくれた。
胚蝉と呼ばれる大蠱を屹桃の根で育て、乳を搾って暮らす静かな毎日。胚蝉の繭からは粗いが丈夫な布を織ることもできた。
屹桃の若枝を束ねた苫家ではあったが、茅葺きの屋根は雨の少ないこの地では十分な暖かさを保ってくれる。村の小さな家々からは、鍋で煮込むフクランの香りが絶えたことはなかった。争いもなく、話と言えば、天気の事や胚蝉の育ち具合の事ばかりであった。
ポッポ爺は鹿晋族の村では偏屈で通った独り者であった。だが、幼かったアースには優しくしてくれた。村のはずれの小川縁にある水車小屋が二人の家であった。ポッポ爺は村の痩せた畑で穫れる粟麦を粉にする仕事を生業として生活の糧を得ていた。その粉は家々で焼かれるナンワンの材料となった。収穫期には、水車小屋の奥の石室は、村で採れた粟麦を入れた袋であふれるのだった。ふだんは偏屈で寄りつく者もいないポッポの水車小屋も、この時ばかりは活気づくのであった。
彼は、人々の頼みに応じて、少しずつ粟麦を粉に挽いて渡すのだ。
アースが物心ついたときには、水車小屋の中で粉だらけになって、ポッポ爺に邪魔だと怒鳴られながらも粟麦の実を臼に入れるのを手伝っていた。そうでないときは、村の高台にある鏡のような池に行っては飛魚を釣ったり、根の国の入り口にある洞爺の穴に遊びに行ったりしていた。
ポッポ爺にはどうしてだか世話を焼いてくれる姪がいた。アトナという鹿晋族の村でも評判の器量よしの娘で、親戚一同から疎まれているポッポ爺の水車小屋を叉陽に一度は訪れて掃除だの洗濯だのをしていったものだった。
ポッポ爺のつくる粟麦パンは村一番のうまさであったが、アトナの煮込むフクランと合わせたら、村中の大人達が泣いておかわりをたのむほどの美味であった。
村の子供達は誰も彼もいたずらざかりで、アースともよく遊んだ。家が近かったプッルやションカとは、毎日のように釣りをしたりかけっこをしたりして遊んでいた。少し年上のウィグロは、弟のウィブレの手を引いて遊んでいる三人をにこにこと眺めていた。
しかし、まだ子供である彼の背が村のどんな大人より大きくなるころにはその三人をのぞいて口を利くことさえなくなってしまった。
よく見れば、肌の色も、鹿晋族の民とは違う。特にアースの持つ濃い肌の色や、紫色の瞳は、鹿晋族の人々とは違っていた。特に尖った小ぶりな耳を持つ鹿晋族に対して、アースの耳は丸みを帯びていた。
アースは、しばらくしてとても無口な少年になった。
そんな無口な少年にとって、アトナは甘えられる唯一の存在だった。母を知らないアースにとって、温かなぬくもりをもたらしてくれる彼女こそ、ポッポ爺と水車小屋をのぞいては何よりも大切な人であった。
その日もアトナは煮込んだフクランを鍋に入れてアースのいる水車小屋へ来ていた。鍋から立ち上る甘い香りに二人は匙をもってにこにこ笑っていた。
「お待たせ。温めなおしたから、気をつけて食べてね。」
アトナは優しく二人を見つめながらテーブルについた。
「アトナ姉ちゃんは食べないの?」
アースが尋ねるとアトナは
「家で食べてきたから。」
と言って笑っていた。
「もう少ししたら、私水車小屋へはあまり来られなくなっちゃうかも。」
アトナが悲しそうにうつむいた。
「めでたい話なんだから、そんな顔をするな。アトナ。」
ポッポ爺がアトナに優しく声をかけた。
「どうしてアトナ姉ちゃんは来られなくなるの。ここに。」
アースはほっぺたにフクランの汁を付けたままアトナに話しかけた。
「アトナは嫁に行くんだ。族長の長男シブレ様のところへな。」
「お嫁にいくの?」
「そうじゃ、めでたいことじゃ。」
「会えなくなるのはさびしいね。でもアトナ姉ちゃん、おめでとう。」
そういうとアースはうつむいているアトナに向かって笑いかけた。
「ほっぺたに汁がついているわよ。これからはちゃんと自分でふくんだからね。」
アトナは手にとった布でアースのほっぺたをふいた。
「ありがとう。うん。自分でするよう頑張るね。」




