第12章 黒森の少年 |隈黒《ペウズ》のペウス
黒森には、硅化した倒木が重なる場所がいくつかある。うっそうとした森の中に、ぽっかりとあいた明るい空間は、静けさの中に森とは異質な空気を漂わせていた。
その若者は硅化した一本の倒木の上に寝ころんで、空を見上げていた。黒森の闇がとぎれた隙間から、青い空が覗く。梢の間の遥かな上を、ゆっくりと白い雲が流れていく。木漏れ日が、彼の鼻の上で舞い踊り遊んでいた。
こうした場所は、若者にとって彼の育った風景を思い出させるところであった。母親ペリテアとともに、隈黒族の砦城に来てからというもの、若者が心を和ませる場所は、黒森の一角のこんな場所でしかなかった。あの森に一生留まっていたかったわけではない。砦城の暮らしには彼もそれなりに満足していた。特に徒組と呼ばれる隈黒族の編みだした体術の教練は、若者にとって楽しいものであった。隈黒族の若者の中でも、ずば抜けて大きい若者の体躯は、他を驚かせるほどに素早く動く。教練を始めてわずかの間に、彼は兄弟子達の技量を越えていた。特に槍術・棍術・棒術の三つに限れば、若者相手の教練指南を凌ぐまでになっていた。
しかし、森の中で駆け回って育った彼にとっては、どれも子供時代に自然に身についた動きを転用すればよかったに過ぎない。ただ、蚩鳳を使っての擬斗だけが手加減がうまく行かずに、てこずってはいたが。
若者の母ペリテアは、隈黒の族長パグンズにとって七番目の妻であった。彼女の父親も兄も名のある殻士であったが、隈黒同士の小競り合いで倒れ、帰らぬ人となった。それは、若者がまだ物心がつくまえの出来事であった。聡明であったペリテアが族長のもとを去ってまで、森の奥で暮らすようになったのは、自分の息子を父や兄のような殻士にしたくなかったからである。しかし、そんな母の心をよそに、彼の息子は、森を駆け回り、日に日にたくましくなっていった。その眼差しのなかにときおり、父や兄の面影を見いだすたびに、ペリテアは胸を痛めた。
ある春の日、森の奥にふらっと訪れた甲士は、若者にとっては兄にあたるポレスであった。ポレスが、森の奥に隠棲するまだ見ぬ異母弟を訪ねたのは、黒森の鱗椴の新芽が芽吹く季節であった。
森の鱗椴と同じ高さの蚩鳳を生まれて始めて見たときに、若者はその美しさに息を飲んだ。中から現れた見知らぬ兄ポレスに自分の名前を呼ばれたときにはもっと驚いた。
「君が、ペウスかい。」
族長パグンズは、時折使者を森の奥によこしては、何かれとなく母子の暮らしを気遣っていた。しかし、本人がここまでやってくることは無かった。冬の終わりに森の奥を訪れた使者の口から妻の体の不調を伝えられたパグンズは、何度か城へ戻るように説得の手紙をよこしていた。だが、母ペリテアは、砦城に行くことをずっと断っていた。
ポレスは、その話を聞き、ほんの気まぐれからここを訪れたのである。義母ペリテアとは、何度か城で会っただけであった。ペウスに連れられて、母子の住まいを訪れたポレスは、丁重だが、どこかしら冷たい母親の対応に笑顔で答えた。
「父も、ぜひ戻っていただきたいと言っております。どうですか、体がもとになるまででも、城でゆっくりご養生なされては。」
折からの不順な天候で食べ物が不足し、彼女自身が健康に対して不安を感じていたこともあって、この話をしぶしぶ承諾した。もちろん息子ペウスの砦城へ行きたいという情熱に負けたせいもある。
夜になり、兄弟はいろいろな事を語りあった。次の日の昼過ぎまでに、家の戸締まりと整理をし、身の回りの簡素な荷じたくを整えた母子は、ポレスの蚩鳳の両腕に乗り砦城へと向かった。母にとっては十二年ぶりの砦城への帰還である。城へ戻るにあたって、彼女はポレスにいくつかの条件を伝えていた。砦城には戻るつもりの無いことをはっきりと口にしたのはそのときが初めてであった。
彼女は、息子にも、ポレスのような甲士になることはかまわないが、隈黒の黒森殻士になる事だけは許さないと言った。
彼女の父と兄は共に黒森殻士団の一員として名をあげていたがために、同族の争いで互いに二つの陣営に分かれて、正に骨肉の争いを繰り広げたのである。
彼女は砦城の族長パグンズへのあいさつとその息子の紹介を済ますと、亡き父の墓の側にある館に、年老いた母を訪ねた。今は彼女の弟ペアイザが父親の後をついで黒森殻士の一人となっていた。年老いたペリテアの母は、彼女が森へ去った日のことを昨日の事のように覚えていた。そして、孫にあたる若者の蚩鳳を水蔵の中に大切に育てておいたことを告げた。年老いた母は、自分の一族の悲しいけれど、誇り高き自分の家の血筋とその運命を受け入れていたからである。
「必ず、帰ってきてくれると信じていましたよ。」
老いた母の言葉に、ペリテアは涙を禁じえなかった。
ペリテアの弟ペアイザは隈黒族の黒森殻士としてはもはや中堅の域にさしかかっていた。彼の兄と父親が死んだときには、まだ幼かったペアイザは、姉ペリテアとは逆に、あえて黒森殻士団への道を選び、残された母と一族を養ってきたのだ。彼は三人の娘に恵まれた。しかし、黒森殻士としての彼の後を継ぐべきたった一人の息子は熱病に冒され、わずか五歳でこの世を去っていた。
若者ペウスの凜々しい姿は、ペアイザに、亡き息子が成長したならばこうだったろうという姿を思いおこさせた。そして、ペウスが備えている殻士としての資質は、ペアイザ自身どころか、亡き兄や父のそれをも凌いでいることに気づいた。彼は、姉ペリテアに真剣に自分の後を継ぐべきだと、ペウスのすばらしさを訴えたものだった。族長の血をしっかりと受け継いでいることすらも、ペアイザの心をたかぶらせたに違いない。
ポレスは、若者が城に来て半年後に、廻国修行と称して、旅に出ていった。族長の第五子にあたる彼は父である族長パグンズや第一子パロズとそりがあわなかった。しかし、年下の妹弟や族民の間には、優しく振る舞う御子として人気があった。彼は、かえってその人気が煩わしかったのかもしれない。森の奥から出てきたばかりの若者にとっては、戸惑うばかりの城の生活を優しく見守ってくれたのもポレスであった。ポレスが去った後、気さくな振る舞いをする御子として、族民の間に、ペウスが受け入れられたのも、それとなく族臣たちに若者のことを話してくれたポレスのおかげだといってもよい。
城下の生活が窮屈だと思えば思うほど、彼も旅に憧れた。母ペリテアの容態が安定した時、ようやく彼は自分の胸の内を母に打ち明けた。
反対すると思っていた母は、彼の旅立ちをすんなりと許した。
「ポレス様がなぜ旅にでたのか、本当の理由を知っていますか。」
彼女は優しく自分の息子を見つめた。
「それは、廻国修行で強くなるためでしょう。母様。」
「表向きの理由ではそうです。けれど、本心は第一子のパロズ様と争いたくないからよ。あのまま城にとどまれば、族臣の誰かが、ポレス様を次の族長にと言い出したはずよ。」
「どうして。ポレス兄が族長のになる方が、僕はいいなあ。」
ペリテアは悲しそうにかぶりをふった。
「そうすれば、この一族はまた二つに割れるわ。無駄な血が流れることにたえられなかったのよ。ポレス様はね。」
ようやく息子は、母の瞳の奥にある真意を読み取った。
「じゃあ、母様が僕の旅を許す気になったのも。」
「十六人いるあなたの兄弟も女の子をのぞくと九人。その中で、甲士になっているのは、第一子のパロズ様、第五子のポレス様、第六子のピラシ様と第九子のプロサ様がいるだけなの。あなたを含めても五人しかいない。」
「あのかんしゃくもちのピラシやわがままなプロサの二人がなるくらいなら、まだパロズ様のほうがましだね。そうか、どこかの物好きが、僕を担ぎ出そうなんて言い出す前に、旅に出てしまえばいいんだ。」
母ペリテアは少し寂しそうに、息子をみつめた。そしてうなずいたのだ。
「そうなさい。ペウス。ここに戻ってきて、やはり隈黒の民は変わっていないことに気づいたの。もう、同族の争いはたくさんだわ。あなたと別れるのはとてもつらいけれど。そのほうがいいの。」
「母様。」
ペウスは母の胸に飛び込んで、聡明な母を抱きしめた。
彼は次の日に、族長の許しを受けるために砦城へ向かった。族長の間には、赤い絨毯が敷き詰められ、多くの宮女たちと族臣がパクンズを取り囲んでいた。彼が、母親とともに砦城を訪れてから会うのは二度目だった。そのとき、実の父は、顔を赤らめて酔っている様子だった。だが、今日は違った。
「お前も旅立ちたいそうだな。隈黒族の男はそうでなきゃいかん。ピラシやプロサにも、お前やポレスを見習わせたいものだ。」
「はい、父上。」
そう呼びながらも、この族長に対して、肉親への情をあまり感じられないことが、若者の心を妙にくすぐった。
族長は、ほころんだ顔を族臣の一人に向けると、
「プロゼィア、わしの息子の門出だ。長蔵から、蚩鳳武具一式を選ばせてやれ。それから、ゴリアテへの紹介状も忘れるな。」
族長に呼ばれたプロゼィアは黒森殻士団長であり、パロズやポレスにとっては甲士としての師でもあった。
「ときに、ペリテアは、母は元気でいるか。」
「はい、父上。ようやく、病も落ち着きまして。」
「そうか、そうか。では行くがいい。ただし、お前も隈黒族の甲士として廻国修行へ旅立つのだ。死よりも、敗北を恐れよ。そして、名よりも腕をあげよ。よいな。団長とともに、武具を見つくろうがいい。」
赤ら顔の奥に、若者は、父としてのパグンズの姿をようやく感じることができた。
「はい。」
力強くそう答え、プロゼィアの後に続いて族長の間を退出した。
長蔵で、蚩鳳用の武具を選んでいた若者は、一振りの蚩鳳用の棍を前にして立ち止まった。その姿を見つめながら、プロゼィアが笑った。
「ポレス様といい、御子といい、長蔵の名器はみな持って行かれてしまいますな。」
「これは、そんなによいものなのですか。」
「棍としては、この国一の名器ですな。だが、これを使いこなせたのは、ペリクス団長だけでした。私の知っているかぎりでは。」
「強い人だったんですか。」
「そう、まるで鬼神のようだった。御子には、祖父にあたる方ですよ。」
母ペリテアの父にあたる元団長の話をしながら、プロゼィアは楽しそうに笑った。
「棍を選ぶとはまたおもしろいですな。」
「隈黒の大黒剛蚩鳳は、甲殻が厚く、剣は防げるかも知れませんが、間節を狙われればやはり、動きを封じられてしまう。剣に対するには、攻めの制限のある槍よりも、棍や棒のほうが向いていると思うのです。」
「なるほど、さらに、長柄や棒よりも、棍は攻撃の幅がひろいですからな。」
彼プロゼィアもまた、若き頃に諸国を旅し、腕を磨いたものだった。今旅立とうとする若者を暖かく見つめながら尋ねた。
「まず、どこへ行かれるのです。」
「牛那族の央府に、剣狼と呼ばれる方が逗留されているそうですね。まずそこへ行こうかと考えています。」
「ゴリアテ殿か。また御子は気難しい方を選んだものですな。わたしも、師事を受けたことはある方ですが。そういえば、ポレス様が、たしかそこにいらっしゃるのでしたな。それで。」
「はい、兄上にもお会いしたいし。」
「湖国のキルディス殿のもとにも行って見られるとよいでしょう。もっとも、あのお方は弟子は取りませんが。赤原のロマーナ殿もすばらしい方だが、今は領主として剣の道は退かれたそうですし。けれど、白狗牙殻士団の団殿は多くの修行者でにぎわっているそうですよ。」
「ありがとうごさいます。いろいろと訪ねてみたいものです。」
翌日の朝日の中を、若者は旅立っていった。彼の駆る蚩鳳は、陽光を鈍くうけて黒くなめらかなその姿を黒森の中へ消えていく。見送る母ペリテアは息子の雄姿を涙ぐみながら、いつまでも見つめていた。




