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トワイライトブルー

作者: 星野紗奈

どうも、星野紗奈です。


気付いたら2024年も終わりですね。本当、あっという間でした。

社会人になって、自室でパソコンと向き合う時間が減り、執筆の難しさを感じています。

ですが、諦めずに細々と書き続け、変わらず賞などにも応募しており、本作はそんな作品の一つです。

私が成長するのと同じように、私の作品も少しずつ成長していればいいなと願う日々です。

そんな背景の変化も含めて、お楽しみいただけたら幸いです。


それでは、どうぞ↓

 午後六時半過ぎ、お台場。

 一昨日、昨日と同じように就業時間を過ぎて、キーボードの上で指を彷徨わせていると、ぽん、と丸まった背中を小突かれた。ため息をつかれた。疲れた。

 呆れながら笑う先輩に追い返され、歩き、階段を上り、ホームに着いた記憶もないまま、車両に乗り込んでいた。家に帰らなければならなかった。

 足首の凝り固まった感覚がゴムタイヤの振動でぴりぴりとしびれるのを感じながら、うつらうつらと舟を漕ぐ。

 する、と膝を撫でる感覚がして、薄ぼんやりと目を開いた。落としかけた鞄を寸でのところで引っ掴んだ。どっと冷や汗が流れた。疲れた。


「おにいさん、だいじょうぶ?」


 ズボンにできた黒いしみを眺めていると、唐突に声が降ってきた。顔を上げて目を細めれば、三秒かかって視界が明瞭になった。

 ボーダーの半袖シャツに、黒のハーフパンツ、青のキャップをかぶった子どもが、不思議そうにこちらを見つめていた。


「ねえ、カバンおいたら?」

「ああ、うん」

「おもいでしょ?」

「まあ、うん」


 そんな曖昧な返事で鞄を床に降ろそうとした。すると、子どもはまた不思議そうにこてんと首を傾げた。


「となりのせきにおけばいいじゃん。あいてるよ?」

「いや、それは、さすがに」

「だいじょうぶだよ。どうせだれものってこないから」


 言われてみれば、目の前の子どもの他には誰もいない。


「君は、降りないの?」

「うん。まだだよ」

「『まだ』……どこに行くの?」

「おおきいロボットみにいくの!」


 そう言うと、子どもはくるりと窓の方を向いて、青い座席のクッションに膝を沈めた。目線の先では、角の生えたロボットが堂々と水平線を見つめており、白いボディの隙間からは蛍光色の赤が煌々と光っている。

 その眩しさに目を細めたとき、ふと流れる景色に違和感を覚えた。車両が決められた道を進み、ロボットの姿が建物の奥に隠れたかと思えば、いつの間にか先ほどと同じ角度でまた白いボディを見つめているのだ。円を描いて走るのはまだ先のはずなのに、車窓の景色だけが一定の速さで巡っている。空に浮かぶ緋色の雲を睨みつけるみたいに眉間にしわを寄せて、また気づく。どうやらこの車両、一向に停車駅に近づいていないらしい。

 何が何だかさっぱりだが、自分が混乱していることはよくわかる。ふらふらとよろめきながら、銀のプレートを跨いで隣の車両へと移る。顔を上げる。先ほどと同じ子どもがいた。


「おにいさん、だいじょうぶ?」

「ループ、してるのか……?」


 子どもはきょとんと目を丸くしたあと、こちらを指さして言った。


「だから、カバンおきなよ。おもいでしょ?」

「重いけど、まあ、うん」

「さっきからそればっかりだね。おにいさん」

「『それ』って?」

「『ああ』とか『まあ』とか『うん』とか、そういうの」

「ああ、確かに……」

「ほら、また言った!」


 あはっ、あはっ、と子どもが笑う。それが鼓膜の奥で跳ね返るうちに薄黒く変わっていく。笑われている。疲れた。

 遠くのロボットを眺めながら、あはっ、あはっ、と笑い続けている子どもを横目に、足を引きずって動き出す。その場を離れたかった。疲れた。


「おにいさん、はなしきいてた?」


 くすんだ銀色からずらした目線の先で、頬をオレンジ色に染め上げた子どもが、お行儀よく座席に座って両足を揺らしている。一つ前の車両を振り返るが、子どもの姿はない。もう一度前を向く。目が合う。ただ夕日が眩しかっただけかもしれないが、細められた目がこちらを捕らえて離さないような気がした。


「ねえ、こっちすわる? すわってよ」

「……わかった」

「あ! こんどはちがうへんじだ!」


 あはっ、あはっ、と子どもが笑った。一呼吸おいて、腰を下ろした。子どもの座っている席から一つ間をあけた座席だった。腿の裏でシートを押し込んだのを確かに感じた。


「まだカバンおかないの?」

「人が座る場所に荷物を置くのは邪魔だろ?」

「だーかーらー、だれものってこないって!」


 子どもは間の空席をぱしぱしと手のひらで叩きながら、頰を膨らませた。眉をひそめて沈黙する。


「おにいさんみたいなのをね、いじっぱりっていうんだよ」

「俺は……そんなんじゃないよ」

「じゃあなに⁉ ……あ、わかった! コドモにみせちゃいけないものもってるんだ〜!」


 あはっ、あはっ、と笑い続けている子どもにため息をつきそうになって、それをどうにか押し込める。視線を戻すと、相変わらずにたにたと目を細めている。笑われている。


「……置けばいいんだな?」


 恐る恐る鞄の持ち手から指を離した。すると、その重さがクッションに伝わるより先に、横から小さな手が伸びてきた。声を上げる間もなくそれはひったくられ、がちゃがちゃと豪快に中身が飛び出した。


「え、ちょっと」

「へー、すご! これパソコン? なんか紙もいっぱーい。ぜったいおもいじゃんね、こんなの」

「重くないよ。大人は皆、だいたいそういうの持って歩いてるんだから」

「うっそー。ほんとに?」

「本当だよ」

「でもおもいでしょ?」

「そのうち慣れるって」

「『なれる』ってことは、やっぱりおもいんじゃん」

「……重くないよ」

「ほら! いじっぱりだ!」


 あはっ、あはっ、とひきつるように笑っていた子どもが、突然ぴたりと声を止めて首を傾げた。奇妙な間だった。


「おもいのをおもいっていうのは、そんなにだめなことなの?」

「駄目だろ。これくらいでへばってたら」

「ふーん」

「……何だよ」

「おとなだってつかれるときくらいあるでしょ」


 そう言うと、子どもは白く小さな歯をむき出した。


「だってにんげんだもの」

「どこで覚えてきたんだ、そんな言葉……」

「あ! ロボット‼」


 ゴムタイヤの擦れる音の隙間に、言葉は消えていく。子どもは突然興味の向きを変えて、再び窓に頰をひっつけた。手慰みにいじられていた鞄の中身は、青く歪んだ布の上に放置されたままだ。

 急に放り出されて、肺が地面に引っ張られた。吐き出しそうになった息を吸い込んだ。疲れた。

 窓越しにロボットに頬ずりをするうちに、子どもの頭から青い帽子がはらりと落ちた。他に人はいない。これはきっと自分が拾ってやらなければならない。そう思って腰を上げる。膝をかがめる。よろける。息が漏れる。


「……へっ、くっ」


 自分が手を伸ばした先に、もうあの帽子はなかった。かわりに、何かをこらえるような声が聞こえた。顔を上げる。目が、きょとんと丸まった。なんだか見覚えのある顔だ。


「……まあ、子どもの成長は早いってよく聞くし」

「何の話?」


 一回り大きくなった少年が、怪訝そうに眉をひそめた。ズボンはさすがに膝丈ではないが、お気に入りなのか、相変わらずボーダーのトップスを着ているようだ。

 少年から視線を外して、窓の外を確認してみる。きらめく水面の奥には、鮮やかな色彩のコンテナとクレーンがいくつも並んでいる。思い当たる場所はあるが、やはり景色が流れることはない。

 ずっ、と鼻をすする音が聞こえて、少年を見やりながら席に座り直す。少年の肩は内側に丸まっており、背も力ない曲線を描いている。目線を追いかけてみれば、手元をいじっていた。どうやら、爪の根元の青いのが気に食わないらしい。そう思い至ってもう一度少年の顔を見てみると、確かに唇の血色が良くないかもしれない。


「寒いの?」

「うん」


 随分素直な反応が返ってきて、おや、と思わず眉が動く。少年が半袖の裾を引っ張ると、ボーダーのラインが波打った。その波が伸び縮みするのをしばらく見つめていた。


「……何?」

「いや、寒いのかなって」

「だからそうだって言ってるじゃん」


 少年はそう言って不貞腐れた表情を浮かべた。頬の赤さが足りないせいで、少しだけひねくれた大人みたいに見えた。

 自分の健康的な爪色を確認してから、それを袖口に引っ込める。着慣れたジャケットは、案外脱ぐのにも苦労しなかった。申し訳程度にばさ、と新鮮な空気を浴びせた時、久しぶりに動かした肩の筋肉が少しだけひきつった。

 一瞬驚いたような表情を浮かべたが、ジャケットを羽織らされても少年は特に抵抗しなかった。うんともすんとも言わずに、肩の部分がずり落ちそうになるのをきゅっと掴んで縮こまる。毛布にくるまれた子猫みたいだった。

 真向かいの席に腰を下ろし、辺りを見渡す。窓の向こうでは、海風のせいでクレーンの先がまだ僅かに揺れている気がした。


「風邪?」

「違うと思う。今日冷房が寒かったから、多分そのせい」

「それってここの話?」

「ここもそうだけど、科学館がさ、寒かったの」


 少年の言葉で遠い日の記憶が呼び起こされ、ああ、と口を開いた。校外学習か何かで訪れたときに、自分も腹を下したことがあったような気がする。


「……あんま無理すんなよ」

「ん」


 少年はジャケットの端を掴む自分の手を見下ろしたまま、くぐもった声で返事した。アヒルみたいに唇が少しだけ突き出していて、ひとかけらの強がりがそこに残っていた。

 ガゴン、と扉の衝突音ではっと振り向く。鼻息を荒くした見知らぬ青年がこちらにずんずん歩み寄ってくる。驚いて腰が浮かび上がったまま、その圧に押されて一歩、二歩退いた。相手がたじろいでいるのにもかまわず、青年は薄っぺらいシャツに包まれた両肩をがっしりと掴んだ。カチャ、と眼鏡のフレームが不格好にずり落ちた。


「お兄さん‼」

「な、何」

「時計貸してくんね⁉」


 はあ、と息が漏れた。


「『時計』……?」

「そう! 時計‼ その腕時計‼」


 青年にびしっと指さされた腕を軽く持ち上げると、ちゃり、と小さく金属音が鳴った。


「なんで時計? ていうか、今時の子なら皆スマホあるでしょ」

「デートしてるときにスマホばっかチラチラ確認してたらあらぬ疑いをかけられるかもしれないじゃん⁉」

「で、『デート』?」

「いやまあ正確にはデートじゃないんだけど……‼」


 はあ、とまた息が漏れる。二度目の吐息はようやく青年の耳に届いたのか、一つ呼吸をすると、先程よりやや落ちついた声色で話しだした。


「今日、俺、告白するんだ」

「おお、青春」

「だろ?」


 青年はそう言うと、へへっ、と鼻の下を擦った。ボーダーシャツは相変わらず健在のようだが、紺のジャケットにカーキのパンツと、着こなしは随分小洒落たものに変わっていた。


「二人で遊ぼうって、わざわざこの日に約束したんだよ。今日花火あるからさ」

「『花火』?」

「そう! 普通に遊んで帰るかと思いきや……突然、どどん! と花火の音が聞こえてくる……! そんで、その花火の上がった綺麗な空を背景に告白するってわけ」

「とんだロマンチストだな? どこのアニメかと思ったよ」

「……やっぱちょっとキザすぎる?」

「いや、とんでも。それくらいの方がウケるだろうから、自信持っていけ」

「ほんとに〜?」


 青年は先程と同じような茶化す口ぶりだったが、やや下がった眉尻からは心配の色がうかがえる。それが子犬みたいだなと思ったときには、ふっ、と思わず息が漏れていた。


「本当だって」


 そう言って背中を押してやれば、青年はまたへへっ、と笑った。

 毎晩のルーティンをなぞり、慣れた手つきで金属のバンドを腕から外す。鎖に繋がれた腕輪から開放されたように、手首がふわりと浮き上がる。軽くなった手で青年の左腕を引き寄せ、腕時計を巻いてやった。ゴムタイヤの振動の隙間に、カチャ、と金属の擦れる音が響いた。


「……頑張れよ」

「……おうよ‼」


 にっと白い歯をむき出して、青年は親指を突き立てた。それを真似してみると、生暖かい空気が喉を抜けた。口内で泡になろうとしたそれを軽く吐き出してやれば、悪い気はしなかった。

 青年は嬉しそうに左手首の輝きをなぞりながら、来たのとは反対側のドアへ向かって歩いていく。光は決して眩くはなかったが、そのどこかくぐもった金属が夕日の橙色を照り返すのを、自分よりも愛おしげに撫でていた。その姿を慈しむように、ゆっくりと瞬きをした。


 ガコ、と扉の閉まる音がする。青年の姿はもう、そのガラス窓の先におさめられてはいなかった。車両には、誰もいない。久方ぶりの沈黙に、ふと、肩が詰まる感覚がする。忘れていた。そういえば、疲れていた。

 ぐっと、右肩を大きく回す。骨の軋むようなカバンの重みも、ジャケットのつっかえる感じもない。続けて、左肩を回す。勢い余って拳がつき上がる。自分の体が随分重たかったことを知った。疲れていた。

 白く照らし出された肌に、薄く影が伸びる。車窓のほとんどがビルやマンションで埋め尽くされて、初めて隣の車両の異変に気がついた。照明がついていない。真っ暗闇というわけではないが、不思議と見通しが悪い。何かがそこにあるのだろうということは直感でわかった。

 恐る恐る、一歩を踏み出す。体幹の弱い体が車両の振動するままに揺さぶられる。二歩、三歩と流れ出す。

 車両を仕切る戸に手をかけて、先の景色がようやく明瞭になった。薄暗い席で人工的な光と向き合いながら、よれたスーツを身に纏ったその人は、必死に指を動かしていた。

 コッ、と革靴の音が鳴る。膝が震えた。その人は一瞬手を止めたが、こちらに目を向けることはなく、黙ってまた作業を再開した。

 コ、とまた音が鳴る。疲れを思い出す。震えを抑える。歪だったリズムが、徐々にならされていく。やがてその人の目の前にたどり着く。彼は一心に画面の向こう側だけを見つめていた。

 自分が息をひそめれば、カタカタとタイピング音だけが車内に響いた。走行音すらぴたりと止んだような気がした。指先が摩耗し、骨が軋むような音だと思った。


「あの」


 いたたまれなくなって声をかけると、その人は徐々に動きを止めた。それから五秒かかって、こちらをじっとりと見つめ上げた。


「……何でしょう」

「暗くないですか?」

「いえ、特には感じませんでしたが」


 機械的にそれだけ返すと、彼はまた前に目線を戻す。指の動きが加速する。それに合わせて影がちらちらと揺れる。薄い睫毛が震える。視線が泳ぐ。目を擦るのも面倒なのか、片目ずつ瞬きをして誤魔化す。眉間に皺が寄る。不規則に指が止まる。それに苛立つようにキーを叩く音が強くなる。骨が削れる。光が波立つ。焦点がずれる。目が細められる。

 その循環に飲み込まれそうになって、はっとした。この渦を自分は知っていた。疲れていたのだと思い出した。


「やっぱり、暗いですよ。せめてやるならもう少し明るいところで」

「いえ、問題ないので結構です。まだ終わってませんし」


 こちらを見もせず、ましてや自分の言葉を遮って返答されたことに、思わずむっとした。薄ぼんやりと浮かび上がる人影を睨みつけながら、すかさず口を挟む。


「いや、良くないです。体が資本だって、あなたもわかっているでしょう。実際、今もあんまり画面見えてないんじゃないですか?」

「見えてますよ。見えてるからこうして作業が進んでいるんじゃないですか」

「『見えてる』って、視野があるって意味じゃないですからね? 目が霞んでいる状態では作業効率が悪いでしょうと言っているんです」

「たとえ効率が悪かったとしても、やらないよりはやったほうがましでしょう。そうでもしないと」


 ぎゅ、と唾を飲み込む音が聞こえた。一瞬の静寂の直後、ゴムタイヤの擦れる音が取り戻された。彼の指は、再び動き出しそうにはなかった。


「……あなたみたいなのを、意地っ張りって言うそうですよ」

「……そうですか」


 いつの間にか、彼の指先はキーボードの上で丸め込まれていた。目線も画面よりずっと下を向いていて、表情は見えない。ただ、きつく縮こまった肩が、いつかの強がりな少年を思い起こさせた。

 途端に自分が悪いことをしたような気がして、喉元が少しだけ火照った。目を伏せて、それを飲み込む。体内にゆっくりと空気を巡らせる。一息ついて、未だに強張ったままの彼の隣に体を並べる。伝わった振動で、彼の肩が少しだけ震えたのが見えた。


「あの」

「……何でしょう」

「頑張るなとは言いませんけど。自分を一番労るべきは、自分なんじゃないですかね」

「随分説教臭いことを言いますね。一体何様なんですか?」

「…………ごめんなさい」

「……っふ」


 欠伸をこらえたときのような、間抜けな息が鼻から漏れた。不器用な笑い方だった。


「謝るんですね」

「自覚は、あったので」

「そうですか」


 彼の瞳がこちらを向く。ビルの隙間から届いた光が差し込んで、陽光を不規則に反射する水面みたいだった。綺麗だと思った。


「目、痛いですか?」

「そんなには……」

「『そんなに』ってことは、やっぱり多少は痛いんですね?」

「っふ、ずるい言い方ですね」


 彼の笑い方は、いつでもくたびれていた。でも決して愛嬌がないわけではなかった。嫌いになれなかった。


「人間、最初から素直になれたら、苦労なんてしないですよね」

「……そうですね」


 青いクッションの座席の上で、同じ振動に身を委ねる。沈黙が流れる。窓の外の変わらない景色を、真っ直ぐに見つめていた。


「あの」

「何でしょう」

「よかったら、この眼鏡貸しましょうか。ブルーライトカットのやつ」

「ああ、それって度入ってないんですね」

「外すのが面倒で一日中かけてるってだけです」

「あなたも大概ですね……」

「ふふ、そうかもしれません」


 琥珀に透かしたような暖かな色の光を瞼で遮って、フレームに手をかける。カチャ、と鼻あてが鳴る。次に目を開いた時、そこに彼はいなかった。


 午後六時半過ぎ、お台場。

 知らないうちに汗をかいていた体が空調で冷やされて、僅かに身震いする。どうやら、居眠りをしていたらしい。鞄も、ジャケットも、腕時計も、眼鏡も、変わらず決められた位置におさまったままだ。車窓からの景色にも、特におかしな点はない。車内には他にも退勤したらしい大人たちの姿がちらほら見え、自分も同じように家に帰らなければならなかったことを思い出した。

 乗り換えの駅までは、まだ十数分かかるだろう。そう思って、両足を垂直に立て直し、地面から伝わるゴムタイヤの振動を感じとる。足首の凝りはまだ残っているが、思っていたほど辛い症状でもないような気がした。

 微妙な角度に傾いた眼鏡を調整し、ぼんやりした気持ちで外の景色を眺める。そういえば、通勤を始めて間もない頃、お台場の夕焼けだけはいつ見ても美しいと、そんなことを思っていた時期があった。最近はパソコンと向き合うか、疲れに負けて眠りに落ちるかばかりだったから、案外こうやって空を眺めるのは久しぶりだったかもしれない。

 燃え移って紙を焼き焦がすように、溌剌とした橙色が水平線からじわじわと空を侵食している。今は眩しくて耐え難いそれも、当時は見惚れるに十分な輝きだと思っていた。

 やがて瞳の水分が偏り始めたのを感じて、夕焼けから少しだけ目をそらす。ふと、視界の片隅に、青空を見つけた。綺麗だと思った。

 あの青は、いずれ眩い橙色に焼き尽くされて、音もなく消えていくのだろう。人々の目が向くのはいつも神々しく焼けた空の方ばかりで、誰にも取り上げられないまま、それは毎日繰り返されている。時間がない。立ち止まれない。日々消えていく虚しさに気づかれることはなく、また気づくこともない。無自覚で、ちっぽけで、どうすることもできないそれが、これまでないほどに瞳孔の奥を照らした。


 見惚れていた景色がビル群の奥に隠れると、時間はあっという間だった。停車音の後、扉が開いた。二秒して、ホームに降り立つ。人の流れに紛れてエスカレーターの列に並ぼうとしてから、ぎこちなく階段の方へと足を向け直した。ふと横を通り過ぎた顔を見れば、疲れていた。先輩の姿の幻覚も、そこに混じっているような気がした。自分も、疲れていた。家に帰らなければならなかった。

 階段を下りきると、突然視界の明度が上がって、思わず目を細める。何事かと思って顔を上げる。屋根が途切れていた。瞳孔が開く。喉を冷たい風が通り抜ける。愛しい色だった。

 立ち止まりかけたせいで、ぼっ、と誰かが自分の鞄にぶつかった。よろけた。そうだ、疲れていた。

 慌てて歩みを再開しようとして、鞄の取っ手を持ち直す。なんとはなしに目をやった袖口から、青いシャツがはみ出ているのを見つけた。ふとそれに違和感を覚えて、じっと目を凝らしてみる。青色で、細くボーダーの模様が刻まれていた。思わず口角が上がる。それをこらえようとしたが、可愛らしいアヒル口が脳裏をよぎって駄目だった。あまりにも早い再会に、ふっ、と欠伸みたいな不格好な吐息が漏れた。

 午後七時前、新橋。空はまだ明るかった。

最期までお読みいただき、ありがとうございました!

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