隙間女の噂
夏も盛りの8月上旬。蝉の鳴く声が体感する暑さに拍車をかけている。
世間の大学生は海だキャンプだと夏休みを満喫しているところだが、何故か今、僕は山奥にある廃墟となったホテルの前に立ち、人を待っている。
異常気象と言われているこの夏の暑さだが、山の木々に囲まれたこの場所は世間と隔絶されているようで、暑いのにどこか肌寒さを感じる気がした。
「なーんか、肝試しって言えば夏だけどさ。花の大学生にもなってやることかね」
そうぼやきながら隣で大きな伸びをしているのは、同じ講義をとっている友人の早坂暢だ。
「隙間女の噂を確かめに行くって話だけど、マジでここに出んの?隙間ならどこでも出るんじゃね?」
「そんなこと言ったらあらゆる隙間に女の幽霊がいることになるよ」
「確かに…それは勘弁だわ」
お互いに軽いノリでここに来ることになった、そんなことの始まりはセメスター最終日。
大学生活も2年目となった暢と僕は夏休みの旅行の計画でも立てよう、と講義室でそのまま旅行雑誌やパンフレットを開いて話し込んでいた時だった。
「夏休みの予定?」
後ろから突然声をかけられ、怒られたわけでもないのに心臓が跳ね上がるようにどきりとした。咄嗟に振り返ると、そこに立っていたのはサイドに髪を結んでメガネをかけた、見たことのない女性だった。先輩のような雰囲気だが、顔立ちは同じくらいか歳下にも見えなくない。ニコリと笑った顔は少し幼くも見える。
「私、倉敷紗和子。4年生。オカルトミステリーサークルの部長やってます」
どうやら童顔の先輩だったらしい。しかもオカルトミステリーサークルなどと如何にも怪しいサークルが学内に存在していたことも驚きだが、その部長というのにも胡散臭さしか感じない。
「名前が長いからオミ研って私は略してるんだけどね。具体的にわかりやすいサークル名を大学が指定してくるもんだからこんな名前になっちゃった」
はぁ、と曖昧に相槌をうつしかできなかった。
サークルだけでなく、この倉敷佐和子という人物もなかなか変わった人のようだ。
戸惑う僕たちをよそに、先輩は続けて言った。
「君たちは隙間女って知ってる?」
隙間女。都市伝説で有名な話の一つだ。
唐突な話に暢を見ると、同じくこちらを向いた暢は訝しげに首を傾げる仕草をした。
「簡単にしか知らないというか、そのままですけど、隙間に女の霊が出る…ってやつですよね」
記憶を引っ張り出してそう言うと、先輩は「そうそう!」と大きく頷いた。
「その隙間女がどうかしたんですか?」
「それがね、近くの廃ホテルに出るって噂らしいのよ」
「近くの廃ホテルって、大学の裏山にあるあの廃墟の?」
そんなホテルの存在は僕は知らなかったのだが、暢は心当たりがあるらしい。
先輩は嬉しそうにうんうんと頷いている。
「あの廃墟、隙間女の噂なんかあったかな…。昔女子高生の殺人事件があってその殺された少女の霊が出るとか、肝試しに入った大学生が行方不明になっただとか、そんな噂は聞いたことあるけど」
あくまで噂だからなぁ、と暢は付け足す。
いわゆる曰く付きと呼ばれる心霊スポットではよくある噂話だが、勿論その真偽は分からない。
「火のないところには噂は立たないって言うでしょ?
そこで!私と隙間女の噂を確かめに行きましょう」
握手を求めるように手を出した先輩に、「はぁ!?」と思わず口をついた。
その声は暢と重なり、講義室に響いた。
---そんなこんなで今日、僕たちはその廃墟の前に立つことになったのだ。
断ろうと思った時には、「じゃあ明後日の17時、廃墟前集合ね!」と先輩は踵を返して部屋を出ていってしまったのだ。
残された僕たちは唖然とするしかなく。
「まじか…」と小さく呟いた暢の声だけが虚しく教室に響いた。
時計を見ると、17時ちょうどを指している。ふと前を見ると、先輩が手を振りながら駆け寄ってくるのが見えた。
「お待たせ!時間より前に来てるなんて感心感心」
「当然っすよ〜」
どことなくデレデレと顔を緩めている暢を小突き、本題に入るよう促した。
「隙間女の噂を確かめにって話でしたけど、何か手掛かりとか条件みたいなものとかあるんですか?」
「んー…手掛かりという手掛かりは今のところないかな?」
「え、本当に隙間という隙間を見て幽霊を探す感じで…?」
「面白いこと言うねー暢くん。隙間を見て直接幽霊探すんじゃなくて、このホテルの中に隙間女の噂につながるような手掛かりがないかを探すって感じかな」
「改めて聞きますけど、なんで隙間女の噂を調べようってなったんですか?サークル活動の一環で?」
「まぁ、そうだね。学校からも近いし、サークルの活動でもあるし。何より、この噂がなんだか気になっちゃって…」
先輩の言葉は尻すぼみしていくと、少し深刻そうな表情になった。
しかしすぐに切り替えるように笑顔を見せると、暗くなる前に入ろうと言って廃ホテルの入り口へと向かっていき、僕たちも後に続いた。
大きく割られた正面のスリガラスの扉を超えて中に入ると、やはり建物の中だからか少しひんやりとしているように感じた。
1階はフロントと部屋案内のパネル、観葉植物があったであろう植木鉢が残っているくらいで、意外にも比較的荒らされず整然としていた。
「思ったより何も残ってないな」
「確かに…ってお前こういうとこ来たことあるのか⁈元の内装とか雰囲気とか知ってる系⁈」
いや、来たことないけど。
と正直に言いたいが、なんとなく暢と同じだとされたくない気がして口を噤む。
ちらっと見やった紗和子先輩は、既にスタッフルームと書かれたドアを開けたり、棚を覗き込んだりと忙しそうだ。
「だってさ、このホテルって、いわゆる『そういう』ホテルだよな?」
「まぁ、潰れる前はそうだったみたいだね。内装もそんなだし…」
「そうだね、そういう『でる』ってホテルだね!」
別の期待に満ちた目を向ける紗和子先輩の横で、暢は複雑そうに「ですねー…」と肯定している。
そんな暢を見ない振りしながら、改めて全体を探索してみることにした。
フロントらしき場所には内線だろうか固定電話のようなものが置いてあるだけで、あとは沈みかけている夕陽の光に反射した埃しかない。
壁にはチラホラよくある落書きがされている。
フロアマップにもいくつか落書きがされているが、2Fと書かれた場所に『出る!』と書かれていた。
まぁ心霊スポットでは見かけなくもない落書きだが、もしかしたら隙間女の噂を確かめにきた誰かが残したメモ…と取れなくもない。
フロントの奥には鍵をかけてあったのであろうフックが並んでいるが、当然のように肝心の鍵は一つも残ってはいなかった。
「なぁ、これって…」
暢が僕の袖を引いて指をさす。
フロントのテーブルの上に、一枚の紙が置いてあった。ノートの切れ端のようなそれは文字のインクがやや滲み、紙自体は傷んでしまっていて古いものか最近のものなのか判別がつかなかった。
ただ一言、『先にいきます』と書かれていた。
「え、どういうこと?誰宛?」
「肝試しに来た人がメモを残したのか?」
「いや、携帯があるし今時メモなんて残す…あ、圏外だからか」
「うん。それとも自殺ってこともあるのか…?それか心中とか?」
「怖いこと言うなよ…先輩にも見せようぜ」
振り返って先輩を呼ぶと、走り寄ってきてメモを覗き込んだ。そして驚いたように目を見開いている。
「それ…!」
先輩はそのメモをひったくると、少し震える手でそれを掴み眺めている。
突然鬼気迫る様子になった先輩に僕は少し気後れした。
「先輩…?」
恐る恐る暢が声をかけると、先輩はハッとして僕たちの方を見て言った。
「私、このメモ見たことある」
「え?」
「前に一度、ここに隙間女を探しに来た時に見た」
前に一度調べたから、と先輩に誘導されるように1階から上の階に移動することになった。
エレベーターはもちろん動いておらず、エレベーターの隣にある非常用階段と書かれた扉から2階へと向かう。
階段は建物の外にあるらしく、扉を開けるとひぐらしの鳴く声がより大きく聞こえ、蒸し暑い空気が肌を焼くように感じた。
少しサビついた階段を登りながら、僕は先輩に問いかけた。
「前に一度来てるんですか?」
「うん、実はそう。その時にあのメモを見つけて、誰か他に人がいるか、それとも隙間女がいるかって思って。それで気になってたのもあるかも」
どこか他人事のような先輩の言い方に引っかかった。でも、来たことがあるならあるって言ってくれればいいのにと言う文句の方が大きく、だったら言ってくれればよかったのに、と思ってしまう。
「ごめん、先に言えばよかったよね」
文句が言葉に出ていたようで、先輩が謝ってくる。
反射的に「いえ…」と返してしまい、それ以上言及することはできなかった。
2階への扉を入ろうとドアノブに触れようとしたところで、先輩が僕の手を掴む。
「どうしたんですか?」
「2階は調べなくて大丈夫だよ。3階行こ」
「え?何でですか?」
「さっき前に一度来たって言ったでしょ?その時に2階までは調べたの」
確かに、既に調べた部屋を確認しないことはおかしくはない。
でも、改めて調べると見つかることもあるんじゃないか。
何より1階のマップにあった『出る』という落書き。
手がかりがある可能性…そして隙間女に会う可能性は他より高いはずだ。
そう言うが、先輩はうーん、と困ったように唸っている。
「今日は3人いますし、改めて探索してみたら新しい手掛かりが見つかるかも…」
「2階は1階と同じでほとんど物が残ってなかったけど、隅々まで調べたんだよね。私が居た日も別に『出なかった』し…だから何もないと思うよ。1人だと時間もかかっちゃって、2階まで調べるのが限界だったの。今日はせっかく2人に来てもらってるし、全部の階を調べたいから早く上に行こう?」
有無を言わせず掴んだ手を引っ張るようにして、先輩は3階へと登っていく。
暢も怪訝そうな顔をしていたが、「先輩の言い分も分からなくはないし、全部調べて最後に2階調べたら良いんじゃね?ここで隙間女に会っても怖いし…」とコソッと耳打ちされ、僕は渋々頷いた。
3階に着き扉を開けると、これまでの自然の匂いから一変、季節にそぐわない冷たい空気とカビの臭いが鼻をつき思わず眉を顰めた。
「カビくせー!マスクしてこりゃよかった…ゲホッ」
しばらく誰も入っていないのだろう。埃とカビの匂いで充満している廊下を袖口で口元を覆いながら進む。両サイドに2部屋ずつ、合計4部屋あるようだ。
僕たちは1部屋ずつ一緒に見て回った。
1階にあった落書きはここには見られず、廃墟になってからほぼ誰も来てないのだろう、マットに残る足跡は少ない。どの客室もベッドルームととシャワールームの2つしかなく、テレビや冷蔵庫といった備え付きの家具類もほぼ撤去されていて、閑散とした様子だった。
「1階でも思ったけど、何もないな…」
隙間女に関するもの、と言うよりそもそも物が何もない。
「2階も壁紙とかちょっとしたインテリアが違うくらいで造りは同じだったし、何も残っていなかったよ」
「隙間女と言われてても、隙間も限られてるし気配もしないよなぁ」
3人で隅々まで探索してみたが、1階で見つけたメモ以外に特に変わったもの見つけられなかった。変わり映えのない内装に恐怖感も薄れ、探すところがなくなった暢は、隙間を見つけては覗き込んでいる。
「ところで先輩、サークルの他の人はなんで一緒に来ないんすか?」
「サークルって言ってもまだ私と友達の2人しかいないんだよ」
2人でサークルと言えるのか…。
「よくサークルと認めてもらえましたね」
「まぁ部活じゃないし、サークルだから結構自由だよね。これから部員は増える予定なので、とかいって押し通ちゃった」
「増える予定の部員って?」
「んー、君たち?」
先輩は楽しそうに笑っている。…が、目は本気そうだ。話題を変えなければ。
「もう1人の友達の人はどうしたんですか?」
「いなくなっちゃったの」
「え?」という僕たちの声と、先輩が何かを見つけ「あ!」と言う声が重なった。
「この鞄…亜美のだ」
ベッドの向こう側の隅、その床に落ちていたのはシンプルな色のトートバッグだった。
中を調べてみると、講義で使っていたであろうプリントやノートが入っている。
ノートには整然とした綺麗な文字が並んでいて、一枚破った跡があった。
「さっきのメモ、多分このノートだ」
メモ自体は傷んでいるため切れ端がしっかりとわかるわけではなかったが、書かれている文字と薄く見えるノートの線からこれで間違いなさそうだ。
他に手がかりはないかとトートバックを探ねていると、背後から誰かの視線を感じた。
だが、そんなはずはない。
ここには僕と暢と先輩、3人しかいないはずだ。そして3人とも、全員この鞄に視線を向けている。
じゃあこの視線は…。
額にヒヤリと汗が滲む。
振り返りたくないが、このまま視線を浴び続けるのも精神が削られる様だった。
自分の心音がうるさくて、周りの音が聞こえない。
ただ視線だけが刺すように背中に向けられている。
勇気を振り絞り振り返ると、『何か』と目が合った。
「ひっ」
思わず喉から漏れ出た声に、先輩と暢も振り返り息を呑んだ。
棚の隙間から、女の人がこちらをみている。
その隙間は数センチしかない、当然人が隠れられないような場所。
つまり、その女の人は『人』ではなくーーー
「隙間女…」
噂は本当だった。
まじかよ、と暢も唖然としている。
先輩も目を丸くして、隙間女に釘付けになっていた。
隙間女はギョロリと眼球を動かし僕たちを舐める様に見ていて、金縛りにあったように体が動かない。
視線自体が僕たちをその場に縫い留めているかのように思えた。
「亜、美…」
絞り出すような掠れた先輩の呟きに、隙間女は先輩の方を一瞥すると、スッとその暗闇に消えた。
「そんな…亜美…」
「亜実?」
「え、先輩って隙間女の知り合い⁉︎」
暢のひっくり返った声に、先輩は逆に落ち着きを取り戻し、大きく息をつく。
僕たちに向き直ると、実はね…、と話し始めた。
紗和子先輩と友達、吉村亜美さんは二人でこのサークル活動をしていた。
そして、都市伝説の起こりについて調べ、実際のスポットに行ってその噂について調査するといった活動をしていた。
ある日大学内で、『学校裏の山間にある廃ホテルで殺された女生徒が居てその霊が出る』という噂が出回る様になった。
何故そんな噂が出たのか、いくら調べても出所は分からず、該当する事件も当時の新聞やニュースはなかった。
こうなったら実際に行ってみるしかない。
そう結論づいた先輩たちは、この廃ホテルへとやってきたらしい。
「あの日私、亜美と一緒には行けなかったの」
調査に行くと決めた日、大学の講義が長引いて待ち合わせの時間に遅れてしまったのだ。
廃ホテルの前に着いた時には、既に中に入ってしまっていたのか亜美の姿はなかった。
「ひとまず入り口を探してみようと思って中に入ったらところで、あのメモを見つけて」
僕たちが今日フロントで見つけたメモ、「先に行きます」は亜美さんの書き置きだったようだ。
それを見た先輩は2階まで調べたが、日が暮れてそれ以上は探せなかったということらしい。
「それから亜美はいなくなってしまって…。あれから噂になっていた隙間女は、もしかしたらいなくなった亜美なんじゃないかって思って、今日講義室に残っていた貴方達に協力してもらおうって思ったの。」
「友達がいなくなったなんて、そんな大事なこと最初から言ってくれたら良かったじゃないっすか。だったらもっと人呼んだり色々準備しできたのに」
「ごめんなさい。でも初対面だったし、軽い感じの方が来てくれるかなって思って。」
困ったように笑ってみせた。
僕は何か引っ掛かったが、それが何かはハッキリとせず、それ以上聞くことはできなかった。
3階の残りの部屋も確認したが、亜美さんの手掛かりになる様なものは何もなかった。
残すところは4階のみだ。
先輩に続いて、僕、暢と並んで階段を登る。
先輩は勇足で駆け上がるようにトントンと進むと、早く早くと僕たちを急かすように手招きする。
ひぐらしが鳴き夕焼けだった外は、蒼が深くなりやや紫がかった不気味な色になっていた。
不気味といえば、非常階段を登る足音も異様に響くように感じてしまい、やはり心霊スポットと呼ばれるだけあるなぁなんてぼんやり思った時だった。
後ろにいた暢が僕の裾を引っ張って言った。
「なぁ、気のせいなら良いんだけどさ…足音おかしくねぇか?」
「え?」
不気味だとは思ったが、何か変とまでは思っていなかった僕は改めて耳を澄ませてみた。
軽やかに登っていく先輩の足音、僕たちの足音、そしてさらにもう一つ…
下の方から近づいてくる足音。
「え、俺ら以外に誰かいる?」
「まさか…こんな廃墟でバッティングなんかしないだろ普通」
「だよな…でも絶対誰か上がってきてるよな」
確実に聞こえる足音と共に、人の気配。
「気のせいじゃないよな…怖いって」
「に、逃げるしかないんじゃないか?」
そんな言い合いをしているうちにもどんどん近づいてきた足音は、僕たちの後ろで止まった。
「君たちは…」
男性の声がして振り返ると、そこには30歳くらいだろうか、見たとこのない青年が立っていた。
「えっと、あのー…人間の方ですよね?」
真剣な顔でありえない内容の暢の質問に、青年はフッと笑って頷いた。
「はい、人間で間違いないので安心してください」
はぁーー、と暢は大きく安堵の息をついた。
「君たち大学生?もしかしてそこの大学?」
「そうです。」
「やっぱり。僕もあそこの卒業生なんだ。何年生なの?」
ニコニコと人好きする笑顔で話すこの青年は、八坂宏人というらしい。
「こんなところで何をしてたんだい?」
「僕たちは隙間女の噂を確かめにきたんですよ」
「隙間女…そんなこと調べってるってことは、もしかしてオカルトミステリーサークルの人?」
「え、知ってるんですか!?」
紗和子先輩と亜美さんしか在籍してなくて、在校生の僕たちは聞いたこともないサークルだったが、数年前はもう少し人がいたんだろうか。
その疑問に答えるように、八坂さんは続けた。
「実はね、僕の好きな人がそのサークルにいたんだ。」
「え、青春っすねぇ。俺たちも先輩の友達の手がかり探して解決したら合コンとか行ってみちゃう?」
「先輩?」
そうだ、先輩。と4階を見上げると、バタンと扉が閉まる音が聞こえ、先に行ってしまったようだ。
「他に誰かいるのかい?」
「あ、はい。大学の1つ上の先輩が一緒に来てます」
「その先輩に頼まれて今日は来たんすよ」
「へぇ…」
その声色は先ほどまでの人当たりの良さとは程遠いもので、一瞬ゾクリとした。
声とは裏腹に、青年はニコリと笑い言った。
「僕も行っていいかな?」
正直暢と僕だけでは心細く、大人である八坂さんが加わることは単純にありがたいことだ。
だが、なぜだろうか。人間だった安心感、人が増える心強さに紛れて、妙な胸騒ぎがした。
ひとまず行動を共にすることにした僕たちは、階段を登りきり4階へと到着した。
4階には一室だけしかなく、いわゆるスイートルームのようで異様に広い部屋だった。
「せんぱーい?」
一室しかないのに、先輩の気配はなかった。
だが確かにこの部屋に続く扉が閉まる音がしたし、ここに入るまでに先輩の姿はなかったのだから、ここにいないはずもない。
ベッドルームや風呂場などあちこち探索をすすめる中、八坂がそういえばと問いかけてきた。
「ところで、君たちの先輩は何故隙間女を探しに来たんだい?」
「それが、ここで友達がいなくなったらしくて。その噂の隙間女がもしかしてその友達なんじゃないかって調べにきたみたいですよ」
「友達が隙間女…?どういうこと?」
僕たちは先輩から聞いた話をそのまま八坂に説明した。
「へぇ、そうなのか」
八坂の様子は依然として穏やかだ。
それはこの場に不釣り合いなほどで、浮かべた笑みはどこか仮面の様にも見える。
「だとしたら、僕は嬉しいよ」
時が止まった気がした。
思ってもない返事に、「は?」と思わず声が出た。
八坂は先ほどの仮面のような作った微笑みではなく、屈託ない笑顔を浮かべていた。
「あの噂はね、僕が作ったデマなんだ。だから都市伝説でもなんでもない。」
「どう、いうことですか、?」
「当時好きだった子がいたっ話したでしょ?その子が都市伝説とかそういう類の話が好きな子だったから、気を引きたくてさ。
それで、この噂を流して彼女に興味を持ってもらうようにしたんだ。最初は純粋に付き合ってほしいってお願いするために、呼び出す目的だったんだけどね。でも断られちゃったから。
それならいっそ、その噂を真実にして彼女を都市伝説の主人公にしてあげようかなって」
言っている意味が分からない僕とは反対に、名案でしょ?と誇らしげに話す八坂は狂気じみていて、思わず生唾を飲んで後ずさる。
「意味わかんね…」
暢も八坂のただならぬ様子に後退りすると、ゴンっという音と共に棚にぶつかった。
暢は思わず棚を振り返り、目を見開いて息を呑んだ。
僕もつられてそちらを見る。
そこには、手があった。
棚の隙間から、手が出ている。
マネキンとは違う、やけに生々しい、だが生きているものとも違う手。死体の手だった。
それを認識した瞬間、腐臭が鼻について思わず嘔吐き、口元を覆った。
「こ、れは、」
「君たちが探してた隙間女って、彼女のことかな?残念ながらそれはただの死体だよ。
君たちはさっき下で隙間女に会ったんだって?彼女の本体はここに居るんだから、彼女は無事に都市伝説になれたんだね!」
異常だ。
常識では測りきれない思考についていけない。
「都市伝説にしたら喜ぶとか、そんな訳ないだろ!自分がしたことを正当化したいだけじゃねーか!」
暢がそう叫ぶと、八坂は苛立ちを露わにしてこちらを睨みつけてくる。
その時、八坂の後ろで、キィっと扉が開いた。
「亜美…そこに居たんだ…」
「先輩…‼︎」
開いた扉の前には先輩が立っていた。
どこに居たんですか、とか、そいつ危ないから逃げて、とか、言いたいことは山ほどあるのに、喉は凍りついたように言葉を発せず、ただ口をぱくぱくと動かすだけだった。
先輩は僕たちには目もくれず、横を通り過ぎて棚の前に向かうと、隙間から出ている手をそっと握る。
そして震える声で親友の名前を何度も呼んでいた。
「亜美…亜美、ごめんね…遅くなって、ごめん…」
亜美さんを探していた先輩。こんな再会は予想していたのかもしれない。
待ち合わせに遅れなければ、また違った結末があったのだろうか。先輩の気持ちを考えると、胸が痛んだ。
変わり果てた亜美さんの前で泣く先輩を、八坂は驚いたように目を見開いて呟いた。
「お前は…倉敷、紗和子か?なんでお前が」
そこまで言ったところで、先輩の様子が変わった。
これまで一緒にいた先輩の雰囲気から一転、纏う空気が冷たく禍々しい。
「な、なんだ…動けない…」
ベッドの横に立っていた八坂は、その場から動けないようで立ち尽くしていた。
ふと八坂の足元を見ると、ベッドの下から伸びる手に足首を掴まれている。
その手の先には、3階で見たあの目。
先輩はゆっくり立ち上がり八坂に一歩一歩近づく。
来るな、と叫ぶ声は少し震えていた。
八坂の目の前まで行くと、ポケットに手を入れライターを取り出した。
そして徐に火をつけて見せる。
「や、やめろ…何する気だよ、お前たちの好きな都市伝説が体験できただろ?」
人を殺しておいてまだそんなことを言うなんて、どうかしている。反吐が出そうだ。
先輩の顔もまた、怒りに満ちていた。
「許さない。こんな風に亜美を、殺した貴方を、絶対に許さない」
先輩はそういうとベッドにライターを放り投げた。
ベッドのシーツは乾いていたはずなのに、そこに油があったかのように勢いよく燃え上がる。
八坂の断末魔が響き、僕も暢もその場から動けなかった。
「…巻き込んでごめんなさい。」
そう言うと先輩は僕たちの方まで歩いてくると、手を取って立ち上がらせてくれた。
情けないことに完全に腰が抜けていたのだが、その手に掴まるとフッと足に力が入った感覚がした。
その手に縋るように立ち上がると、そのまま先輩は出口に向かって手をひいた。
階段を降りながら、僕たちは誰も何も言わなかった。いや、言えなかった。
先輩に先導されるまま玄関を出る。
外はもう完全に夜だった。
見上げると、まだ炎が消えていないのだろう、ホテルの4階の窓は微かに真っ赤な炎を映していて、先ほどまでのことは幻ではない現実なのだとぼんやり思った。
「一緒に亜美を探してくれてありがとう」
先輩の声に視線を戻すと、そこに先輩の姿はなかった。
「え、先輩…?紗和子先輩!?」
できる限りの大声で呼びかけるが返事はなく、パチパチと遠くで燃える音と虫の声しか聞こえなかった。
「け、警察…消防も呼ばないと、あ、救急車も」
暢も動揺しながら携帯を出し電話をかけようとするが、指先が震えて中々ボタンが押せずにいた。
このホテル入った時には圏外だったのに、なぜか今は電波は届くようになっているのに気づいたのは電話をかけた後だった。
それから十数分、サイレンの音が近づいてくるまで僕たちはただホテルを眺めることしかできなかった----。
到着した警察と一緒に山を降りた僕たちは事情聴取を受け、あの廃墟に行った経緯を説明した。
先輩の友人の遺体を見つけたこと、出会った犯人の青年のこと、先輩が行方不明になってしまったことも全て。僕たちの言い分を、警察は怪訝な表情で聞いていた。
そしてその日は無断での敷地侵入について釘を刺されたのみで、それ以上は何も言及はされず、「気をつけて帰れ」と部屋を出された。
自宅アパートへの帰り道、暢とも会話はなかった。
お互いただ地面を見つめながら、軽く手を上げてぎこちなく挨拶してそれぞれの部屋へと帰宅したのだった。
数日後。携帯に電話がかかってきて、警察署へ呼び出された。
暢も同じだったようで、一緒に警察へ向かうことにした。神妙な面持ちをした警官は、この間僕たちの事情聴取をしたのと同じ人で、連れられた先は取り調べ室だった。
ドラマで見たことのない部屋に緊張しつつ、促されるままに椅子に腰掛けた。
「単刀直入にいう。例のホテルから死体が出た。」
驚きはなかった。
先輩の友人の亜美さん、そして八坂のものだろう。
実際に僕たちも見たのだから。
警官の表情は複雑そうで、暢が先を急かすように言った。
「先輩は!紗和子先輩は見つかったんですか⁉︎」
「見つかった、といえばいいのか…」
「正直に教えてくださいよ!」
どこか歯切れの悪い返事に、カッとなったように暢が畳みかける。同じ部屋にいた警官が止めに入ろうと動いたのを、目の前の警官は手で静止した。
曖昧な物言いに、嫌な予感が背中を伝った。
「どういうことですか…先輩は見つかったけど、手遅れだったとかなら覚悟してますよ」
あの日僕らを逃した後いなくなった先輩、もしかしたら亜美さんの元へ炎の中に戻っていた可能性もある。…考えたくはないが。
警官の様子に、紗和子さんが無事ではなさそうなことが確かだから、悪い予感しかない。
暢もそれは分かっているが、歯切れの悪い言葉に苛立っている様子だ。
「俺は言葉は選べないタチだから、そのまま言うぞ」
僕と暢は少し背筋を伸ばし、居住いを正した。
「死体が出た。3人だ。1人は吉村亜美、もう1人は八坂宏人、そして、倉敷紗和子のものだ」
やっぱりか。と思い目を伏せた僕は、続いた言葉に固まった。
「ただ、死因が焼死なのは八坂だけだ。吉村と倉敷は、細いロープ状のもので首を絞められたことによる窒息…つまり他殺だ」
「え?」
「だから、お前らの取り調べだ。そのために来てもらった」
トントンと取り調べノートを指して警官は言った。
「いや、俺らじゃないっすよ!」
先輩が他殺?いつ、誰に?
昨日外に出たあの瞬間まで、先輩は僕たちと一緒にいたんだ。
八坂の仲間が実はいたのか?誰が先輩を?
「お前たちこの間の証言で、倉敷紗和子は一緒にあの廃墟に行ったと言っていたがそれはあり得ないんだよ。確かに八坂はこの間の通報してきた火事で焼死していたようだが、そもそも吉村と倉敷はは10年前に死んでるみたいだからな」
「は…?どういうことですか」
「こっちが聞きたいさ」
ぐるぐると回る思考に追い打ちをかけるような内容に、もう頭の中は真っ白だった。
警官曰く、解剖結果から二人の死因は絞殺による他殺であり、遺体は10年ほど経過していたとのことだった。
10年前に先輩は既に誰かに殺されて死んでいた?
じゃあ声をかけてきた先輩は生きているはずがない…幽霊?
「八坂については他殺の可能性もあるし、そう考えるとお前たちはアリバイはなく現場に居合わせた有力な容疑者という訳だが」
「僕たちはやってません」
キッパリとそう言うと、警官はあっさり「わかった」と言った。
ドラマで見る過酷な取り調べを想像した僕は拍子抜けして、そんな簡単に良いんですかと聞いてしまった。警官が言うには、ライターは八坂が握るように持っており、焼けた後に持たせた形跡はなかったことから自殺の線が濃厚と考えられるとのことだった。
僕たち2人については、アリバイはないが動機も接点も証拠もない。有力な容疑者の可能性も否定はできないが、それと同じくらい偶然なぜかその場に居合わせた一般人の可能性が高いという扱いのようだ。
「事件についてはこれくらいだな。今回は特に何か罪に問われることはないと思うが、まぁ肝試しもほどほどにしておけよ」
警官はノートを閉じて立ち上がり部屋を出ようとする。
「あの、1つ聞いても良いですか?」
気になることがあった。
ホテルを出てから居なくなってしまった先輩…の霊。
本人はずっとどこに居たのだろうか。
「あの、紗和子先輩の遺体はどこで見つかったんですか…?」
何となく感じていた嫌な予感が的中した。
「2階の廊下だよ」
先輩が2階に行こうとしなかった理由。
あの時先輩の手を振り切って、扉を開けてしまっていたら…。
やめよう。
きっと先輩は自分見つけて欲しかった訳ではない。
「一緒に探してくれてありがとう」と言った先輩。
きっと先輩に代わって亜美さんを見つけるためには、誰かの手が必要だったのだ。
それがたまたま、あの日出会った僕たちだったのだろう。
先輩が満足して心残りがなくなったのなら良かったと今は思う。
そして新たな都市伝説として噂にならないよう、僕と暢はこの事件については大学生活の一夏の思い出として互いの心に留めておくことにした。
ここまで読んでいただきありがとうございます!
初投稿で、読みにくい部分も多いかと思いますが少しでも楽しんでいただけたら幸いです。