一章
昼の市場は忙しい。不足した生活用品や夕飯の食材を求め、大勢の人で溢れかえる。そしてその全員が口を動かすものだから、まるで、へたくそな楽器団の演奏のような騒音があたりに響き渡っていた。
「相変わらず、毎日毎日にぎやかなもんだな」
その市場から少し外れ、人気のない路地で青年は呟いた。ボロボロな服に泥だらけのズボン、穴の開いた靴を履いた、誰から見てもわかる家なき子。盗んだパンを少しづつちぎって食べる姿は実に哀れで、また彼自身は18歳であるが、その汚らしい容姿は30を超えているかのように見える。
「お母さん!あの食べ物買ってよ!」
「一個だけよ。夕飯が食べられなくなっちゃうからね」
そんなやりとりがうっすらと聞こえる。自分にはない、望めば食べ物が手に入るという環境。町中の人が持っているのに、なぜか自分にはないもの。盗まないと今日一日生きることすら難しい暮らし。人生の内容のすべては、生まれた家で決まってしまう。青年は、そんな理不尽に対する怒りをその辺に吐き捨てた。誰にも、いや、盗人である自分以外の人にはなんの罪もないとわかっているから。
「贅沢だよな。今日食べられるものがあるだけマシだってのに」
パンはひどく乾燥していた。口の中の水分を奪われるが、空腹をしのぐための選択肢は他にはなく、その上安全に飲めるほど清潔な水など彼の周りにはあるはずもない。
喉が渇いたと心の中で愚痴をこぼす。そんな負の感情が、ただでさえ近寄りがたい彼の雰囲気をよりつよめていた。
しかし、青年に一つの足音が近づいてくる。とても、小さな足音が。
「おーじさん。はい、お水」
甲高くも優しさを含んだ声に、青年はうつむいていた顔をあげた。そこには、彼とは正反対の綺麗な白いワンピースを着た少女がたっていた。肩まである黒髪は艶があり、ほのかな桃色に染まった頬と唇は、そのワンピースとよく似合う白い肌をより美しく感じさせる。
少女は水の入った瓶を青年に差し出し、笑いながら続けた。
「まだそんな服着てるの?新しいの買えばいいのに」
「そんな金があるようにみえるか?」
みすぼらしい青年と天使のような少女の会話は、傍から見ればかなり異様な光景である。貴族の娘とその召使にすら見えない。それほど身なりに差があった。
「お金が足りないならパパやママに頼めばいいじゃない。おしゃれに全く興味のなさそうなあなたが服を買いたいと言えば、きっと喜んで贈ってくれるわよ」
無邪気な顔で天使はそう言った。毎日こんな場所にいる青年に親などいるはずもない。だが、その純真さを傷つけてはいけないと感じた青年は、無理して笑顔を作りながら答える。
「そうかもな。今度頼んでみるよ」
「そうしなさい。というか、お水。せっかく持ってきてあげたんだから、ありがたく飲みなさいよ」
「ああ、いただくよ」
天使のもたらした水は乾ききった青年の喉を潤した。さながら神のもたらした聖水がごとく、青年の心すらも穏やかにさせる。700mlはあろうか、瓶に入った水を一瞬で飲み干してから青年は訪ねた。
「ぷはぁ、生き返った…それにしても、なんで俺が喉が渇いてるってわかったんだ?」
「だって、おじさんいっつもパンばっかり食べてるじゃない。なのにお水を飲んでるところをみたことがないんだもの。それに、自分では気づいてないかもしれないけど、会うたびに具合悪そうにしてるわよ」
「よく見てるんだな」
「ふふっ、もっと褒めてくれてもいいわよ」
彼女の鋭い観察眼には驚いたがふにゃりと笑う小さな顔は年相応であり、少し開き直った態度は素直に感謝しづらくさせる。
「てか、今日も抜け出してきたのか?」
「もちろんよ。普段私の面倒を見ているのはプロの警備じゃなくてただのメイドだもの。少しの間目を盗んで逃げだすなんてたやすいわ」
彼女はこの町を治める領主の娘だ。王国の貴族ほどではないが、それでも庶民とは比べ物にならないほどの財を有している。にもかかわらず、その家の一人娘がこんな昼間から堂々と脱走できるのだから、余程自由奔放な育て方をしているのであろうと青年は推測した。
「ずいぶんとざるな警備だな。ばれてどうなっても知らんぞ」
「大丈夫よ。私がいなくなったことをパパにそれを報告すれば、自分のクビが飛ぶって分かっているもの。だってそうでしょ?14歳の女の子に出し抜かれて逃げられましたなんて、私が戻ろうが戻らまいが、そんなメイドは解雇されるわ。黙っとくのが自分のためなのよ」
かわいい顔からは想像できないほど狡猾で恐ろしいことを言う彼女に、青年は若干引き気味であった。
小さくため息をついた彼に、少女は本題に移るために声色を変えて食い気味に話した。
「ねえ、そんなことよりもいつものおじさんの話を聞かせてよ!私、今日もいろんなことを知りたいの!」
少女の言ういつものとは、青年の経験した話や、豆知識のことだ。二人が初めて出会ったとき、青年が彼女に最初に話を聞かせた時から、少女は青年に夢中になった。そうしてその日から毎日、少女は青年を訪ねては知恵や冒険譚をねだっている。
青年も慣れたことで、頭の引き出しから、彼女にまだしたことのない話を持ってきて話し始める。
「今日もか?そうだなぁ、じゃあ空を見てみろ」
「綺麗ね。いいお天気」
「それはそうだが、そうじゃない。鳥の群れがいつもより低く飛んでいるのがわかるか?」
青年は空を指さしながらそう言った。
「言われてみればたしかにそうね。でもそれがなにに関係あるの?」
「鳥が低く飛んでると、だいたい数日後に雨が降るんだよ。理由は知らんがな」
「へぇ、不思議ね。でも面白いわ」
小さな天使様はお気に召したようで、青年は何よりだった。そんな話を小一時間ほど聞かせてやると、少女は満足げに、だが少し好奇心を含んだような表情で青年に問うた。
「おじさんって、どうしてそんなにたくさん面白いことを知ってるの?その恰好からして、学者さんじゃないことはわかるけど」
「一言余計だ。まぁ、人より外で生活する時間が長かっただけさ」
青年は過去の話を他人にしない。それは単に、昔を思い出したくないだけであるが、この無垢な少女に聞かせるにはあまりに酷な話でもあった。
きっと心優しい彼女は、話を聞けば泣いてしまうから。
「おじさんも大変なのね」
「嬢ちゃんほどじゃないさ」
「ねぇ、私のことは名前で呼んでって言ってるでしょ」
そういうと彼女は、少し火照ったほほを膨らませ自らの不機嫌さをアピールした。そのあまりの可愛らしさに照れたのか、はたまた名前を呼ぶ恥ずかしさからか、青年ははにかみながら小さな声で言った。
「悪かったよ。エーリエ」
自分の名前が呼ばれたのを聞くと、エーリエは嬉しそうに笑った。
普段は頭のよさそうな話し方をする彼女だが、時折見せる幼さは万人受けする可愛さであろう。
「それでいいのよ。あれ?そういえば私、おじさんの名前知らないわ」
それを聞いて青年はびくっとした。2人は出会ってから一か月になる。しかし青年はまだ一度も自分の名を名乗っていなかった。
「いいんだよ俺の名前なんて。覚えてもらうほどの名じゃない」
「私が名前で呼びたいの!いいから教えなさい」
エーリエが強く訴えると、青年はよそ見しながら口を開いた。
自分が最も嫌いな単語を口にするために。
「シュバリエだ」
それは、青年が初めて他人に自分の名を教えた瞬間だった。
「シュバリエ…」
エーリエは青年の名前を心の中で何度も呟く。そのたびに心が温かくなるのを感じるが、彼女はそれがなぜなのか知る由もなかった。美しい響き。そう思った。
「素敵な名前ね」
エーリエがそう言うと、シュバリエは表情を暗くして返した。
「俺は嫌いだ」
「え?」
予想もしなかった答えに、エーリエは思わず聞き返してしまう。どういう意味なのか聞こうとした、が
「そろそろ日が落ちるぞ」
シュバリエはそれを遮るように、いつの間にか顔を隠し始めた太陽を指さして、帰宅を促す。
「え?そ、そうね。帰らないと…」
その様子を見てエーリエは察する。彼の言ったことに言及すべきでないと。
予想の通り、シュバリエの先の発言は無意識なものだった。少し気まずくなった空気を入れ替えるため、シュバリエは冗談交じりに言う。
「一人で帰れるか?」
それを聞いたエーリエは、自分のことを心配してくれた嬉しさと、馬鹿にされたことへのいら立ちで声を張り上げた。
「か、帰れるわよ!馬鹿にしないで頂戴!」
「いや、そんなつもりで言ったわけじゃ、悪かったよ」
「ふんっ」
彼女の大声に驚いたのはシュバリエだけではない。エーリエ自身も、とっさに出た自分の音に肩を震わせた。数秒時間をおいて落ち着きを取り戻したエーリエは、シュバリエの方へ振り返り、天使のほほえみを浮かべて言った。
「じゃあね、シュバリエ。新しい服、楽しみにしてるわ」
また会いに来る。そういう意味が込められたであろう別れの挨拶を聞いて、シュバリエも微笑みながら返した。
「ああ、気をつけて帰れよ」
そうしてエーリエは背を向けて、鼻歌を歌いながら歩き始めた。帰路に就く小さい後姿を見つめながらシュバリエはぼそっと声に出す。
「てか、おじさんじゃねぇし」
心に生まれた寂しさという感情に、気が付かないまま。
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