ララティーナの婚約 【電子書籍化】【コミカライズ】
死の表現があります。
ご注意下さい。
白い骨のような立ち枯れの木々の森だった。
遠くに山の峰々が、沈みゆく月に照らされて巨人のように座していた。
「ごめんなさい、騎士様。もう血止めの薬がありません。もう私は騎士様をお助けすることができません」
か細い息づかい。呼吸にも満たない浅い吐息の音。止まらない血が私の手を濡らす。
「騎士様。最期です。もう王国への忠誠も騎士の義務も忘れて、最期は自分の心だけを持って死にましょうよ。騎士様の命は騎士様だけのものなんですから。ねぇ、騎士様、騎士様の好きなものを思い浮かべながら自分の心に忠実になって逝きましょうよ。騎士様の好きなものは何ですか? ねぇ、騎士様、綺麗なものに囲まれて逝きましょうよ。私が言葉の雨を降らしますから」
森は猛毒である瘴気が強くて、追手は躊躇している。陽光が全て腐敗したような夜の森に入ることを。私と騎士様を追うということは、瘴気に蝕まれて死ぬということなのだから。
「春は霞、朧な月、雪解けの水、木の芽が吹いて花が咲き、北に帰る鳥が鳥雲に入って渡ってゆきます。清楚な林檎の白い花、風に揺れる淡紫の藤の花、黄色は細い枝がしなるほどに咲く山吹の花が綺麗です」
騎士様は、こんな泥水と血にまみれて死ぬような方ではないのに。
幾度も王国を救った英雄なのに。
「夏は風、青葉の香り、波立つ海、夜の空は明るく速い流星が流れて、銀砂を撒いたように星空が鮮やかです。淡い美しさの朝顔に昼顔に夕顔、爽やかな芳香のラベンダー、水面に漂うような可憐な睡蓮も綺麗です」
でも、国王様が崩御されて。
新たな若い国王様は、騎士様の名声に嫉妬した。
自分よりも人気のある騎士様を疎ましく思ったのだ。
「秋は霧、雪月花の月、風の音、虫の音、散るも残るも美しい紅葉に木々が染まります。散り敷かれた金や銀の花莚の金木犀と銀木犀の残り香、朝露を纏った蜘蛛の巣が貴婦人のダイヤモンドのネックレスのように煌めいて綺麗です」
だから長い戦争で疲弊した国内を救うためという名目で、隣国に停戦の条件として騎士様を差し出す密約を結んだ。
騎士様が盾となっていたからこそ、隣国からの蹂躙を受けずにすんでいたというのに。
「冬は………………」
息が苦しい。
弱々しく震える呼吸が喉を詰まらせて、言葉を塞ぐ。私の腹部には致命的な傷が深く入り、血の雫が地に垂れていた。
さすがに英雄の騎士様を堂々と隣国に売るのは体面的にも政情の支持的にも不可能だったから、交戦中に騎士様が隣国に捕らえられたように見せかける計画を国王様は画策した。
そうして騎士様は、味方であるはずの騎士たちから裏切られて敵兵だらけの戦場に孤立させられたのだ。
私は薬師で。
国内の医師や薬師は命令されて戦場に送られて。私も強制的に馬車に乗せられて戦場に連れてこられた。
でも、敵兵が攻めてきた時、若い娘は足止めに使えるだろうと置き去りにされた──戦場に到着した夜のことだった。
私は逃げて、走って、走って、騎士様と出会って、瘴気の森に逃げこんだけど、騎士様も私も死には至ってないだけの瀕死の重傷で。今、騎士様が動けること自体が本当に奇跡に等しい状態だった。
ボタッボタ、と騎士様の命が血とともに流れ出てしまう。騎士様の青い双眸から光が消えていく。
それでも私を抱き抱えた騎士様の足は止まらない。
目的に向かって、終わりに近付く夜の底を歩く。
騎士様はその名声ゆえに、死体であっても価値はある。
きっと騎士様の首は斬られて晒されて、なぶられることだろう。
私も若い女性というだけで酷い目に遭うかも知れない。
だから、到底助からない傷ならば二人で自分たちの死んだ身体を守ることを決めたのだ。
「冬は…………」
ああ、朝日が昇る。
私は冬の言葉を紡ぐことなく、黄金の矢のような夜明けの光に照され、騎士様に抱きしめられて切り立った崖から飛び下りたのだった。
という前世の記憶が私にはある。
8歳だったけれども、生まれ変わりっておとぎ話の世界だと思っていた、とびっくり仰天してしまった。
髪の色も瞳の色も顔の造形も、もちろん前世とは違う。なのに、声だけは前世と同じだったのは不思議であった。
前世の母国のことも調べたけど、やっぱりと言うか、当然と言うべきか、滅亡していた。
愚かだなぁ。
騎士様がいなくても騎士様配下の最強の部隊がいるから、と思って安心していたのだろうけど、騎士様が指揮するからこそ最強だったのだ。
騎士様個人の武力も周辺諸国に対しての抑止力になっていたのに、それを新しい国王様は理解していなかった。理解しようとしなかった。
騎士様の地位を欲して裏切った副官が、あの最後の夜にべらべらと喋ったと、騎士様と逃亡中に聴いた時も愚かだなぁと思ったけど。
だから、伯爵家の娘に生まれた今世は。
自分の見たいものだけを見て、聞きたいものだけを聞いて、都合のいいものだけを信じる人間には絶対にならないように、と自分に言い聞かせて生きるようにした。
だって税金を払っているのに守られるどころかさらに搾取されて、の前世の生活を経験しているのに、それを自分の領民にも経験させたいとは思わなかった。上が愚かだと下が大・苦・労する生活なんて本当に反吐が出る。
まぁ、身分制度ありきの社会だから、庶民の喜怒哀楽に配慮してくれる貴族は少数なのは理解できるけど。私に社会制度そのものを壊す力なんてないし、そんなことができる権力も知恵も根性も私にはない。故に私は、せめて自分の手の届く範囲内の伯爵領だけでも大事にしよう、と思ったのだ。
でも目立たないように、こっそりと。
前世の騎士様みたいに、優れていることが必ずしも良い結果をもたらすものではない。
出る杭は打たれる、と言うが貴族社会は恐ろしい。
何よりも人間は、自分が損をすることはかろうじて我慢できても、そのことにより他人が利益を得ることには我慢ができない。恐い貴族社会はそこに嫉妬心や欲望や権力や諸々が加わり、辺境の伯爵家など羽根のように軽く吹き飛ばされてしまうことだろう。
私の願いは領民が、飢えることなく渇くことなく、病気や怪我をすれば医師に診てもらえ、少々の娯楽を楽しめる生活水準になることである。
さいわい生まれた環境が助けてくれた。
私は伯爵家のひとり娘にして後継者。
両親は8歳の私の話を馬鹿にせずに聞いてくれ、前世の知識を使った薬草栽培を許可してくれたのだった。
前世のことは両親にも秘密にした。
両親は信じてくれるかも知れないが、万が一他人に露見すれば魔女だの病気だのと悪い噂を囁かれて、伯爵家の体面に泥を塗る可能性が高かったからだ。
私が選択した薬草の需要は高い。
生でも食べられるし、調味料にもなる。肉に擦りこんでもよし、煮込み料理の味つけにもよし。水に入れれば香り水にもなる。でも一番は薬だ。薬師の調合によって胃腸薬にも風邪薬にもなって多岐に渡って利用ができる薬草なのだ。
今までは、薬草は森で採取するものであった。その意識を薬草とは生育ができるものへと変えるのである。
魔の森に接する伯爵領は魔素が多く、魔獣の被害が多発して人間には住みづらい場所である。しかし薬効の高い薬草を育てるにはうってつけなのだ。
魔の森の奥は、魔素が濃密過ぎて瘴気と呼ばれる猛毒の地帯で踏み入る人間はほぼいなかったが、それ以外の土地は村人に恵みを与える豊かな森であった。だからこそ魔獣がいても村々が成り立っていた。
馬車の開いた窓から入ってきた柔らかな微風が頬を撫でる。
山々から吹く風は、芽吹いた緑と土の香りのまじった雪解けの水の匂いがした。
私の馬車は、山の麓にある村に向かって走っていた。
あの巨人のような山は、最期の夜に騎士様といっしょに見た山だ。
だから私は祈った。
どうか騎士様の眠りが安らかでありますように。
もし騎士様が私みたいに生まれ変わっているのならば、どうか幸せでありますように。
聳え立つ峰に太陽が当たり春の残雪が銀色に輝く。神の王座のごとき威風堂々とした山に私は手を合わせた。
私は、薬草の育て方や乾燥方法を詳しく説明するために村々をまわっていた。
幼いとはいえ領主の娘である私を領民は蔑ろにはできなかったし、何よりも貴重な現金収入が可能になると聞いて、たいていの村人は熱心に耳を傾けてくれた。
だって家の庭で草を育てるだけなのだ。失敗してもリスクはない。ただ凄く手間暇をかけて育てる必要があるので大規模な畑は無理であった。ゆえに各家でこぢんまりと花壇のように薬草を植えたのだった。
そして、この薬草栽培は領民の副業として成功をおさめた。額は少なかったが、食卓に肉がのる回数が増える程度の収入にはなった。あるいは子どものお小遣い稼ぎの定番として、丁寧に丁寧に育てられる薬草があちらこちらで見られる風景となった。
次に肥料を普及させた。
私の生まれた王国には、肥料というものが存在しなかったのである。
前世でも私の故郷でひっそりと受け継がれるだけで、そこも戦火で焼けてしまったのだが。
私は、薬草栽培も肥料も秘密にしなかった。
薬草栽培に関しては魔素が関係していたので伯爵領の特産となったが、肥料は王国に爆発的に広がった。肥料は独り占めすれば他領地から目をつけられていただろうし、王国全体の生産量があがって自領だけではなく他領でも餓える人が減れば私はそれで良かったのだ。
戦時下の前世は悲惨だったから。
貴族は贅沢をしていたけれど、平民の多くは飢餓に苦しんでいた。あんなにお腹のすいた生活を、もう誰にも味わってほしくなかった。
そんなこんなで一時的に注目を浴びた伯爵領であったが、田舎の領地として人々からすぐに忘れさられた。王太子殿下の婚約発表という慶事もあったし。
そうして、橋を作ったり河川を整えたりして領地内をちまちま整備して、領民の生活もゆるやかに向上した頃、私は15歳になった。
澄んだ笛の音のような鳥の鳴き声が響いた。
頭上には青空がどこまでもひろがっていて、その青い空をジグザグに切りとるように山々が聳えている。
滑らかな斜線を裾まで伸ばした山の麓には、可憐な花々をつけた野草が緑色の絨毯となって風に吹かれて揺れていた。まるで緑の褥を一面に敷いたように美しい。
遠くに見える山に、いつものように私は祈った。
どうか騎士様の眠りが安らかでありますように。
もし騎士様が生まれ変わっているのならば、どうか幸せでありますように。
「ララティーナ様、そろそろ馬車に」
「はい。今いきます」
私は、王国におけるデビュタントの年頃になっていた。
「領地経営の才のある方を」
「持参金いっぱいの方を」
「魔獣の討伐ができる武力のある方を」
「王都には魔法使いが幾人もおられるとか。ララティーナ様の魅力で是非とも釣り上げて婿に」
「「「「でも第一希望はララティーナ様を大事にして下さるお方です!」」」」
使用人からの激励におくられて、私は両親とともに王都へと出発をした。
王宮でのデビュタントと婿探しのために。
子どもの頃に婚約を結ぶ貴族の令嬢も多いが、私の場合は、成人して相性のよい相手と結婚する方が私が幸福になるのではないか、と両親が見合いの話を断ってくれていた。
正直にいって私は優良物件である。
領地は田舎だが安定しているし、爵位は伯爵、財産もそれなりにある。爵位を継げない次男以下の男性にとって私との結婚は旨みが大きいのだ。
王国で百人もいない魔法使いを婿に、などと身の程を弁えない高望みをしなければ、伯爵家の婿の椅子は激戦なのである。
伯爵領から王都への道の途中には、広大な豊穣の大地を保有する侯爵領があった。
侯爵は父親の友人で、私のことも可愛がってくれていた。
実は肥料の流通に関しても、スムーズにいったのは侯爵家のおかげなのだ。
力のある侯爵家が前面に出て仕切ってくれるように、父親が頼んだのである。
侯爵家の派閥のルートで肥料が流れたので莫大な富が侯爵家に王国中から集まったが、父親の伯爵は富よりも目立たないことを選んだ。田舎の伯爵家が肥料の権利を所有する危険性を、父親は理解していたのである。
そういうわけで。
「よく来てくれたね!」
侯爵は、超ご機嫌な顔をして私たちを出迎えてくれた。侯爵夫人も瞳を爛々としている。侯爵家にはご子息が4人もいるのだ。
私の父親はわずかな抵抗とばかりに、私の髪に小さな白い花を挿した。この花は虫除けとしての効き目があり、伯爵領では広く使われていた。
婿探しに来ているのに何を考えているのか。どうやら父親は婿は欲しいが、娘の結婚には心の葛藤と波乱があるらしい。それはそれ、これはこれ、みたいな感じなのかもしれない。
複雑な表情をしている父親を母親があきれ顔で見ていて、私は隠れて小さく吐息をついた。ちょっとだけ笑ったのはナイショである。
「ララティーナ嬢、わたしの息子たちだ」
侯爵が自慢げに4人のご子息を紹介してくれる。整った容姿と優秀さで有名な貴公子たちだ。なかでも私と同じ年の末のご子息は魔法使いとして大成していた。もともとは耳が聴こえなかったらしいが、8歳の時に魔力に目覚め、魔力によって聴力を補って魔法使いになったと評判だった。
生き物は魔力を持って生まれてくるが、魔力量は少ない。魔法を使えるほどの魔力量を持つものは、人間ならば魔法使いと呼ばれ、動物ならば魔獣と呼ばれる。
魔法使いは貴重でその能力は様々だ。侯爵家の末のご子息も優秀な魔法使いとして将来を嘱望されていた。
「ララティーナと申します」
私は4人のご子息に向かって淑女の礼をとった。
瞬間、末のご子息が双眸を見開く。
瞬きすら忘れたように、ジッと私を見つめる。ジワジワと瞳孔が開いた。
末のご子息がまろぶように私の前に来て、私の右手を両手で包む。鎖のような強い力で。私の手を握りしめた。
「君だ……ッ!」
視線が合わさる。青い眼に私だけを映して末のご子息が言った。
「君の声だッ! この声だ、僕に届いていたのはッ!」
「僕は、僕は生まれた時から何も聴こえなかったのに、8歳の時に君の、君の声が聴こえて。それで僕は魔法に覚醒して! それからずっと君の声が、僕の幸せを祈る君の声が聴こえるようになったんだ!」
驚愕で絶句する私と周囲の人々。
私は心臓の鼓動と呼吸が同時に止まったかのように、息が苦しくなった。
だって、私が祈った相手は……。
「……騎士様……?」
末のご子息は眼に涙を滲ませて大きく頷く。
青い双眸から、ぽろり、と涙が透明な雫となって頬を伝った。
前世の記憶の面影が残る同じ色、同じ青い双眸だった。
私は、末のご子息に握られた手に左手を重ねる。存在を確認するみたいに、温かさを確かめるみたいに、指先で私よりも大きな手を何度も撫でた。
「騎士様……っ!」
声が震えた。涙があふれる。
「僕は、ヴァドクリフ」
「私はララティーナです」
ふたりで今世の名前を名乗りあった。
前世の暗い森の、まるで万病に効く即効薬みたいな死を前にしてではなく。
愛する家族に囲まれて、華やかな装飾が施された明るい光が差し込む応接室で。
ヴァドクリフと私の15歳の少年と少女としての無垢な視線が絡み、泣きじゃくり、笑いあう。打算なく、あどけなく。会えて嬉しいと眼差しで語りながら。
ヴァドクリフが、時間を巻き戻すように言葉を紡ぐ。私は、閉ざされた水脈を辿るように言葉を綴った。
「ララティーナ、春は?」
「霞です、ヴァドクリフ様」
「ララティーナ、夏は?」
「風です。流れる流星に銀砂を撒いたような星空が綺麗です」
「ララティーナ、秋は?」
「霧です。朝露を纏った蜘蛛の巣がキラキラと綺麗です」
「ララティーナ、冬は? 冬を教えて」
「冬は、冬は雪。木の枝に降りた霧氷の結晶が日が差すと輝いて花のように見える木花、蝋細工のような半透明に透ける花びらの臘梅の花、赤く美しい花姿なのに香りのない控えめな椿の花、月の匂いがするような朝の霜柱が綺麗です」
「聞こえる」
ヴァドクリフは耳を指先で押さえた。
「ああ、そうか。僕は冬が聞きたかったんだ。もう魔法を使わなくても聴こえる。普通に耳が聴こえている。聴覚が機能しているよ」
最期の夜にお互いの温もりだけを抱いて崖から飛びおりたように、私とヴァドクリフはお互いを強くきつく抱き締めあった。
私とヴァドクリフの様子を眺めていた侯爵一家は、再会した恋人の感動的場面と思ったようで、婚約の準備だ! と祝杯を上げんばかりに大喜びをしていた。
私の父親は、嬉し泣きか悔し泣きかはわからないが母親にすがりついて号泣をしている。
それを見てヴァドクリフは片膝を床についた。
騎士が姫君に忠誠を誓うように。
私の手を優しくとって口づけをおとす。
「いきなりと思うだろうけれども、聴こえない僕にとってララティーナの声が唯一だった。世界の全てだったんだ。ずっとずっと声の主であるララティーナを想ってきた。だから僕の妻になってくれないか? もう恋では足りないくらいに愛しているんだ」
真摯なヴァドクリフに、私はヴァドクリフが絶えず求め続けてきた声で応えた。
「私もずっと騎士様を想ってきました。喜んで妻になります、ヴァドクリフ様」
「よし! では、この書類に署名をしておくれ。実は婚約式の神官も別室に待機させているのだ、すぐに手続きができるぞ」
弾む口調で侯爵が差し出してきた書類は、婚約誓約書だった。是が非でも侯爵は、4人のご子息の誰かと私との婚約を結ぶつもりで事前に用意していたようだ。
こうしてプロポーズを受けて10分後には、私はヴァドクリフの正式な婚約者になったのであった。
私の父親が、虫除けの役立たずと叫んでさらに大号泣したのは言うまでもなかった。
「カルテット、4/10000」という連載を書いています。もしよかったら、よろしくお願いいたします。
読んで下さりありがとうございました。