前日譚:間宮古書店の日常(後編)
走れメロス。
その物語の中で、メロスは10里(39キロ)の道のりを往復する。
その作中の描写から、ゴールまでの時間経過を読み取り、その少年はメロスの走る速度、つまり平均時速を検証した。
そうして出された時速は、3.9キロ。
これは、子供や女性が歩く速さに匹敵する。たくましい筋肉のついた屈強な大人の男性が、全力で走る速度ではない。
勿論、物語として、メロスは力を振り絞って走ったのだが……。
あくまで科学的に、『メロス走っていない説』が誕生したのだ。
「碧。検証した少年は、タイトルは『走れメロス』より、『走れよメロス』の方がいいと思います。と、ユーモアあふれる言葉でこの論文を締めくくっている」
祖父の言葉に、碧は笑う。
そこに補足をするように、翠が言葉を挟んだ。
「まあ。今のような舗装された道路を走った場合の計算だから、砂利や岩で塞がれた、道なき道を走っていたと考えると、走ってもその速度になったのではないかという意見もある」
「そうなんだ……。じーちゃんと翠は、どっちだと思うの?」
「儂は、なんだかんだでやっぱり、科学的にも走っていて欲しいな。太宰の走る描写の躍動感や疾走感は素晴らしいものがある」
「翠は?」
今度は兄に視線を向ける。
「俺は、ゴール前だけ全力で走った説を推す」
「え? 途中だらだらして? それってメロスが……ちょっと嫌な奴じゃない?」
「読めば分かるけど、なかなか走り出さないからな。ずっと走っているような印象だけど、親友を人質にいつまで走らないつもりだよって思うくらい、走り出さないぞ、あいつ」
「あいつって!」
まるで知り合いのような翠の物言いがおかしくて、碧は「フハッ」と声を出して笑う。
「太宰治もあの世で驚いているだろうな。まさか小説の内容を、科学的に検証されるとは思わないだろ」
「でもなんか……楽しいね!」
そう言って碧が二人の顔を見つめると、祖父が嬉しそうに手を叩いた。
「碧が文学の話を楽しいと感じた。素晴らしいことだぞ、碧!」
祖父は瞳を輝かせて喜んでいる。
「じーちゃん。僕、走れメロス読みたくなってきたよ」
「いいぞ、碧! 走れメロスはな。この論文の情報を知った上で、一行ずつ本文に突っ込みを入れながら読むのも楽しいぞ」
--メロスは激怒した。
「走ってないくせに」
--メロスは黒い風のように走った。
「歩いてたくせに」
「じーちゃん。それいいかも!」
「そうだろ〜! 碧が読書の楽しみを知った。なんて良い日だ。碧、今から喜びの舞を踊るぞ」
「うん! 秘技、喜びの舞!」
「碧、強そうだな。儂は究極進化、喜びの舞!」
「じーちゃん、やるな。ハイパーアルティメット、喜びの舞!」
「まだ負けんぞ。神々の集いし宴、喜びの舞!」
グレードアップしていく言葉にくらべ、碧も祖父もヒラヒラと両手を広げて回転しているだけだ。
「読書の喜び知ったんなら、本読めよ……」
兄に突っ込まれたが、気にしない。
「翠! 僕とじーちゃんの舞。どっちが優勝だった?」
張り切って兄を振り返ると、全ての感情をシャットダウンしたかのような、完全に無の瞳をした翠がこちらを見ていた。
季節は八月。
溶けてしまいそうな暑さの夏休み。外では相変わらず蝉の大合唱が続いている。
そして間宮古書店の店内では、外の蝉に負けないくらい、碧と祖父の高らかな笑い声が響いていた。
*
それはまだ祖父が生きていた頃。
三人で過ごした、暑い夏の思い出の一幕。
「じーちゃん、天国でばーちゃんに会えたかな?」
「死ぬ前に待ち合わせするって日記に書いてたんだし、会えただろ」
「そうだね! 会えてるよね!」
「ああ」
「太宰治にも会えたかな?」
「どうだろうな。でも、じーちゃんの事だから、もし会えてたら……」
「絶対に、喜びの舞、披露してるよね!」
「太宰もドン引きの、貴方に出会えた喜びの舞、披露してるだろ。じーちゃんなら」
「うん!」
碧は祖父の残した日記帳を抱き締めて、兄の翠と一緒に微笑んだのだった。
了
*参考&引用文献
・太宰治『走れメロス』
・一般財団法人 理数教育研究所開催「算数・数学の自由研究」『メロスの全力を検証』
★
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