4話:生きるための願い事
「翠、なにか良い願い事に気付いたの?」
小さく問い掛けてみる。しかし翠は視線を一度こちらに向けただけで、すぐにリヴの方へと向き直った。
恐らく無視されてしまうだろうと思っていた。それでも問わずにいられなかったのは、兄の自信に満ちた顔を見たからだ。
けれど今は、碧の質問に答えるより優先順位の高い事が沢山ある。碧はこれ以上の質問を諦め、大人しく翠からの説明を待った。
「君と弟の契約のことで確認したい事がある」
翠がリヴに尋ねる。
「蘇生する事と、君の命を奪う事。この二つは願い事として無効だと弟に言ったそうだけど、他に無理な願い事はあるのかな?」
「その二つのみだ」
「成程、有り難う」
問いの答えを聞いた翠が、片側の口端を上げて小さく笑う。小学生の翠が大人の推理小説を読みながら、この表情で笑っているのを碧は何度も見たことがあった。
それはいつもの省エネモードではない。謎を解き明かした瞬間の、楽しさと興奮が混ざった顔だ。
「最後にもう一つだけ確認したい。契約の順序について、願いを叶えた後に心臓を奪う。これで間違いないね?」
「ああ、間違いない」
リヴの返答に、翠は力強く頷いた。
碧にはまださっぱり分からないけれど、それでも今、もう碧の心に死の恐怖は無かった。
兄が笑っている。
これ以上の安心はないからだ。
「弟の代わりに、俺が願い事を言っても構わないかな?」
「構わないが、お前の弟の心臓を頂くことに変わりはないぞ」
「それなら問題ない。弟の心臓を、君は奪えないからね」
「それはどう言うことだ?」
訝しげに問うリヴに向かって、翠がその願い事を告げた。
「俺の願いは、君を悪魔から普通の猫にすることだ」
翠の言葉に衝撃を受ける。
急いでリヴの方に視線を向けると、なぜかほんの一瞬、微笑んだように見えた。
「リヴが……笑った?」
あまりに一瞬の出来事で、もしかすると見間違いだったのかもしれない。碧は再び、翠の言葉に集中した。
「リヴ。君がこの願い事を受理すれば、君はただの猫になる。猫の君が悪魔としての契約に縛られる事は無いし、当然その能力も失うので心臓は奪えない」
「順序に拘っていたのは、それでか?」
「ああ」と一言頷いて、翠が更に言葉を続ける。
「恐らく普通の猫になった君に、悪魔である『君の意思』は残らないと思う。だがそれは、君を悪魔から猫に変えるのであって、君の命そのものを奪う訳ではない。契約条件として、この願いは無効ではないだろ?」
一瞬の静寂の後、リヴが呟いた。
「無効ではない」
この解決方法を、あのわずか数分間で思い付いたのかと、碧は心の底から感心して翠を見つめる。
「ちなみに、悪魔の君を勝手に普通の猫に変えてしまう責任は、ちゃんと取るつもりでいるよ」
「責任だと?」
「そう。可愛い猫には、美味しいご飯と温かい寝床が必要だろ? 君にその両方を提供したい」
そこまで聞いて、今度は碧もこれから翠が言おうとしている事が分かった。やっぱり翠はすごいやと、碧は心で叫ぶ。
「リヴ、我が家へようこそ。と言っても、俺は東京で一人暮らしだから、実家で碧が君の面倒をみる。猫になった君に、俺の弟を下僕として捧げるよ」
勝手に捧げられてしまったが、悪い気はしなかった。死なずにすんだ。それだけで充分だ。
「その願い、承知した」
言葉と同時に、リヴの背にある小さな翼が消えた。そして、血のように紅黒く濁っていたその瞳が、徐々に澄んだ青色に変化していく。
「永遠には、もう飽きていた……」
瞳の色が完全に変化する直前に聞こえた、このどこか満足げな呟きが、悪魔・リヴの最後の言葉だった。
*
黒猫が一匹。
青い瞳でこちらを見ている。
碧がそっと手を近づけると、恐る恐る鼻先で指の匂いを嗅ぎ、それから甘えるように碧の指に頭を擦り付けてきた。
「翠、見て。猫になったリヴが僕に懐いてる」
碧が笑うと、「みゃー」と高音の鳴き声を響かせる。悪魔だった頃の、渋い低音とは真逆の可愛らしい声だ。
「あの悪魔は、もうどこにも居ないんだね」
心から安堵して、でも同時に、ほんのちょっぴり寂しいような気持ちにもなる。
「可哀想な事をしたと、思うか?」
「ううん。これでもう誰も死なずにすむし、それに翠が願い事を言った時、リヴはやっぱり笑ったんだと思う」
『永遠にはもう飽きた』
彼は人間の命を奪い続ける、この永遠の宿命の中で、命に限りのある何かになりたいと、そう願っていたのではないだろうか。
「よろしく、リヴ」
その体を両手で抱き上げると、柔らかな毛の感触と温かい体温が伝わってくる。猫として、しっかりと命の鼓動を刻んでいた。
「翠、ありがとう。全部、翠のおかげだよ!」
碧にとってのヒーローは、やはり翠だ。胸の奥が熱くなって、碧は泣き出しそうな思いで翠を見た。
しかし、翠の方は既に省エネモードに戻ったようで、「今回は碧のおかげ」と呟き欠伸をしている。
やはり、省エネに戻るのが早過ぎる。
それにしても……。
「僕のおかげって?」
それは、どういう意味だろう。最初から最後まで、碧は何もしていない。むしろやった事と言えば、悪魔の機嫌を損ねる事ぐらいだ。
碧が首を傾げると、まるでそれを真似るかのようにリヴも小首を傾げた。
「飼い主に似るんだな」
小さく笑った翠が、自分の手荷物からコンビニの袋をとりコロッケをこちらに手渡してくる。
「答えはそれだよ」
分からないまま呆然とする碧の横で、翠は自分の好物の焼きそばパンに齧り付いていた。