3話:悪魔と兄・翠(みどり)
「翠! 久しぶり! 元気だった?」
「その猫どうしたんだ?」
笑顔で出迎える弟の姿が見えていないのだろうか。そう思うほど見事に挨拶を無視された。
昔から、翠はよく言葉を端折る。現状で、一番重要度の高い言葉から選んで口にするからだ。
頭の回転が早過ぎるせいか、小学生の頃はそのせいでよくクラスメートを怒らせていた。
しかし中学に上る頃には、翠が家族以外の前でこの態度をとることは無くなった。翠のことを良く思わない同級生から、碧が虐められるという事態が起ったからだ。
それ以来、翠は人前で好青年の振る舞いをするようになる。そうして、会話の残念だったイケメンから、残念な部分だけがとれ、ただのイケメンとなった翠はとにかくモテた。
男性の平均身長より少し高い碧もスタイルには自信はあったが、翠は更に高く百八十センチ以上ある。柔らかなウェーブの髪はパーマではなく癖毛だったけれど、見事な『無造作感』を醸し出していた。
直毛の碧はこの無造作ウェーブというものに憧れて、色々とセットに奮闘してみたが、結局うまく出来ず、そのまま前髪を下ろしている。
いつもバレンタインデーに沢山のチョコを持って帰ってくる兄のことを、幼い頃から碧は羨ましく思っていた。
「猫、拾ったのか?」
「ううん。そうじゃなくて……。翠、実はこの猫、悪魔なんだ!」
「寝惚けてるだろ」
普通はそう思うであろう当然の言葉が翠から返ってくる。
「やっぱ、そう思うよなー」
どう説明するのがいいのか頭を捻り、碧はこれ以上自分が話すよりも、悪魔であるリヴに言葉を発してもらうのが一番手っ取り早いと考えた。
「リヴ。こちらが兄の翠です」
だからと言ってどうすればいいのか分からず、とりあえず悪魔に兄を紹介してみる。しかし先程の翠と同様に、見事にリヴにも無視をされてしまった。
「え? なんで?」
リヴは一般的な猫のように体を丸くして寝転がり、前足で首を掻いている。
「もしかして、契約者以外の人がいると普通の猫になるとか? あんなに無駄に偉そうな口調だったのに、肝心な時に喋らないなんて、どうやって説明すればいいんだよ!」
碧が頭を抱えて叫ぶと、リヴが寝そべっていた体勢をゆっくりと起こした。
「聞こえている。そのまま愚弄を続けるなら、今すぐ喉元噛み切るぞ」
強烈な脅し文句が飛び出し、普通なら恐怖に震えるところだが、碧はリヴが言葉を発した事が嬉しくて、笑顔で翠を振り返った。
「ほら! 喋っただろ! 悪魔なんだよ!」
感情があまり表に出ない翠が、珍しく驚愕の表情を浮かべている。当然の反応だろう。猫が、喋ったのだ。
しかし、翠は不測の事態への順応速度も早いのか、すぐにいつもの感情省エネモードに戻っていた。
「戻るの早!」
どう考えても、目の前の現実を受け入れるのが早過ぎるのではないかと思う。楽観的な碧ですら、もう少し戸惑ったというのに……。
もちろん翠なら冷静に対処してくれるだろうと思い、碧も頼りにしているのだが、たまには兄が狼狽えている姿も見てみたいと思ってしまう。
そんな事を考えていると、「碧。説明!」と、この状況に至る説明をするよう翠に急かされた。
その一方で、「先程の愚弄に対する謝罪はまだか!」と、リヴまで詰め寄ってくる。
この二人、気が短いところが意外と似ているなと、碧はそんな事を思っていた。
説明を少し待って欲しいという意味を込めて、とりあえず兄の方を向いて愛想笑いをしてから、碧はご立腹な悪魔に先に謝罪することにした。
「なんか、ごめんなさい。……態度がでかいって、つい本音が出ちゃって」
「なんだと?」
「や、な、何でもないです!」
翠が来てくれた安心感で気が緩み、明らかに碧の失言が増えている。つい、口を滑らせてしまった。焦って兄を見ると、残念な生き物を哀れむような目でこちらを見ていた。
その残念な生き物があなたの弟ですよ。だから助けて。と碧が目で訴えていると、翠が大きな溜息を吐く。
それから悪魔の方へと向き直り、丁寧なお辞儀をするように、凛とした姿勢でリヴに頭を下げた。
「弟に代わって謝罪するよ、申し訳ない。これで先程の失言に対する怒りを収めてくれないか。馬鹿な奴だけど、俺にとっては大事な弟なんだ」
翠のお手本のような素晴らしい謝罪に、リヴが納得したように目を伏せた。
この短い時間で、謝罪の良い例と悪い例が具体的に二つ揃ってしまった。悪い例が自分という現実が悲しい反面、頼りになる兄を誇らしくも思う。
昔から、省エネ対応であっても翠は優しい兄だった。本気で困っている時は必ず助けてくれる。本人の前で言った事は一度もないけれど、子供の頃からずっと、碧にとってのヒーローはテレビの中の戦士ではなく隣にいる兄だった。
「ニヤニヤしてないで、お前は早く俺に事情を説明しろ!」
呆れたような声でそう言って、翠がデコピンをしてくる。
「痛っ!」
額を抑えて痛みに耐えながら、碧は悪魔・リヴとの契約内容を慎重に思い返した。
・なんでも一つ願いが叶うこと
・その代償に心臓を奪われること
・願い事の猶予は三日であること
・心臓を渡さないという願いは無効なこと
・願わなくとも三日後に心臓を奪われること
・悪魔の命を狙う行為は禁止であること
この条件を満たした上で、死なない為の願い事を考えなければいけない。
ここにやって来てから今に至るまでの経過を、碧は頭の中で順を追って説明していく。その言葉を、翠は黙って聞いていた。
碧が話し終えると、その場は一瞬、静寂に包まれた。
うつむいていた翠が、ゆっくりと顔をあげる。普段、感情があまり表に出ない翠の瞳に、まるでこの難題を楽しんでいるかのような光が見えた。
碧の辿々しい説明と、その説明を聞くわずか数分の間に、翠は願い事の答えにたどり着いたのかもしれない。
碧がそんな風に思うほど、翠の目は自信に満ち溢れた輝きを放っていた。