忘却のしろ
古くも、新しくもなく、過去でも、未来でもない時のことである。
御伽噺の大好きな少女は、誰もが知っていて、誰も行ったことのない御伽の国を毎日探していた。
ふと、男が顔を上げると、手を伸ばせば触れられるほど近くに少女がいた。
「こんにちは、お嬢さん」
男は驚きながらも、優しく温かな声でそう言った。
少女はびくりと肩を震わせて、
「こんちには。」と、口を開いた。
「申し訳ありやせん、少し驚かせてしまったようだね。なにぶん、人に出会うのは久方ぶりでね」
その声は先ほどよりも優しくゆっくりと、どこか懐かしさを感じさせるようであった。
その声は少女の緊張を和らげるには十分だったが、少女の眉は僅かに強張っていた。
わずかばかり遅れつつ、
「…私こそごめんなさい。誰も居ないと思っていたの」
と、つられて少女も頭を下げた。
男はそれにすこし慌てたようで、
「なあに、わたくしもだあれも来ないと、たかを括って気を抜いていたもんでございますから、お互い様と言ったところでございましょう。
しかし、言葉というものを今しがたまで忘れていたものですから、わたくしの口から出ている音がお嬢さんに伝わっているようでなにより」
などとおどけ、それに少女はクスクスと上品に笑った。
「ごめんなさい…少し可笑しくて」
「可笑しいとは……嬉しい言葉で。わたくしの言葉でお嬢さん1人を笑顔にできるとはつゆとも知らず、これまで過ごしておりましたゆえ、誇らしいかぎりでございます」
少女は動きを止め、その心底嬉しそうな声を聞いていた。
「あなた、お名前は?」
「あぁ、それは至極自然な疑問でいらっしゃる。しかしこれは困りました。
というのも、わたくしはわたくしについて、他の誰よりも分からないのでございます」
「なんだ、私と同じね」
「はて、わたくしのような哀れな男と、可憐で聡明に見えます貴方様、如何様な共通点がございましょうか?」
「私も私について知らないの」
と、少女は男の隣へと座った。
「あぁ、悲観することはございません。…知らずにいることと、忘れてしまうことは同じようで同じことではないのでございます」
「…悲しい声ね。あなたは忘れてしまったの?」
「…そうでございましょう。貴方様の疑問で初めて自らの忘却を思い出しているのですから」
「難しいことを考えるのね」
「あぁ、わたくしは浮つき少しばかり格好つけてしまったようでございます。なんと言えば良いのでしょうか……忘れていたことを忘れてしまっていたのでございます」
それは孫に翻弄される祖父のように嬉しさと恥ずかしさの混じり合った声であった。
「ごめんなさい、それでも私は同じに思うわ」
「それも一つの真理、どちらも正しさをもつのでございましょう」
「私の名前は聞かないの?」
「わたくしどうも忘れっぽいもので、貴方様を忘れたくはないのでございます」
「ふぅん」
少女は会話が楽しいのか、そよぐ風に体を預けていた。
「あなたはいつからここにいるの?」
「わたくしがいつからここにいるかといえば…ずっとでございます。」
「ずっとって、どのくらい?」
「ふぅむ、わたくしが存在してから貴方様に会うまでの間、と言えば理解できますか?」
「…わかる、けど。よくわかんないわ」
「……その問いには答えがございますが、貴方様には少しばかりむつかしい話になりますがよろしいでしょうか?」
少女がこくりと首を縦にふる。
「わたくしがここにいるのではございません。わたくしがいるからこの場所なのでございます」
少女は明らかにその話を理解できていない様子であった。
男はカカッと笑い、
「こちらからも質問をよろしいでしょうか」
「わたしばかりごめんなさい、なんでもいいわ」
「はて……お嬢さんはどうしてここに?」
少女は少し考えた素振りをして、
「…わからないの、いつもみたいにお屋敷を抜け出して、森へ来たの。それで、気がついたらおひさまの匂いに誘われてここにいたわ」
「ほぅ、おひさまの匂い…でございますか」
男の少し驚いた声に、
「ここはおひさまの匂いでいっぱいだわ」
少女は目一杯胸を膨らませて深呼吸をした。
「素晴らしきお答え、ありがとうございます。では、貴方様の疑問をば」
男の声は満足げであった。
「…じゃあ、あなたはここで何をしているの?」
その質問に2人の会話が初めて途切れた。
しかし、そこに気まずさや遠慮はなかった。少女は男が必ず答えてくれると思っていたし、男は少女に対し誠実であろうとした。
そしてその時間がどれほどであっても、そこはおひさまの匂いで満ちていた。
男がふぅと息を吐き、短く息を吸う。
「一日に一度、花を…手折るのでございます。そしてわたくしはそれに涙を流すのでございます」
「どうして?」
「わたくしにもわからないのでございます。理由など、忘れてしまいました」
「では、どうしてそんなに声が震えているの」
少女の手が男の頬に触れる。
「忘れたくなかったから、忘れてしまったことを覚えているのね」
少女の手が濡れる。
「貴方様が言うのであればきっと、そうなのでございましょう。わたくしは…わたくし、は…」
少女は男の頬から手を離し、太陽にかざす。
「……花を摘む時、どうして涙を流すの?」
「さて…考えたこともございませんでした。わたくしはなぜ涙を流すのでしょうか」
「今日は、お花を摘んだの?」
「いんや、ちょうど花を手折ろうとしたらば、貴方様がいらっしゃったのでまだでございます」
少女の指先が乾いていく。
「じゃあ、今からいつもみたいにお花を摘んで、私に教えて。あなたの見ているものと、感じたこと」
「ええ、他ならぬ貴方様の頼みでございます。お言葉に甘えさせていただきます」
その声は、僅かに強張っている。
少女から遠ざかる足音、
「わたくしはまず、花を前にしゃがみ込みます」
「何か感じる?」
「美しい花でございます。真紅の花弁が幾重にも重なって、ちょうど貴方様の白髪と赤い瞳によく似合うでしょう」
少女は頷く。
「では、手折らせていただきます」
少女には、その声が少女だけに向けられたようには、聞こえない。
そしてその瞬間に鳥や虫は息を潜め、凪、世界が音を忘れたようである。そこにプチリと小さく、儚い音が響き、世界は音を思い出す。
「何か感じる?」
「美しい花でございます。しかし、先ほどまでの真紅の花弁は白に染め上げられてしまいました」
少女は男に近づき頬に触れる。
「いつもそうなの?辛い?悲しい?」
「わかりません。いつもこうでございます。どんな花を手折っても白に染め上げられます」
少女は手を男の頬から離し、地面に優しく触れた。
すると、少女のふれた地面から気がつけば芽が出て伸びて、気が付かぬ間に花を咲かせる。
「摘んだ花はどうなったの?」
「こうなると、消えてしまうのでございます」
少女は男の横に座る。
「ごめんなさい、ありがとう」
「はて、先ほどからなぜ謝るのでございますか。わたくしは貴方様に罪悪感を与えてしまうのでしょうか」
「……癖よ、気分を害したなら謝るわ」
「あら、貴方様にはお茶目な一面もございましたか」
少女の頬がむくれる。
「……それで。摘んだ花の白はどんな白だったの、ミルクのようだった?それとも、雲?雪?お砂糖?どれに似ていたかしら」
その問いに男の呼吸が短くなる。
「そんなに狼狽えないで、困ったわね。私の目が見えないばっかりに」
「あぁ……嗚呼……ッ」
少女は狼狽えるしかない。
「どうして、どうして泣くのよ。…っごめんなさい、もしかして、ミルクも雲もお砂糖も知らなかったかしら」
「違います。違うのでございます。わたくしはなんと、なんと愚かであったのでしょう。なぜ忘れてしまっていたのでしょう。ずっと、ずっと…」
2人の間に強い風が吹き、木々が騒ぎ出した。
「いつかまた逢えばきっと……
少女は気がつくと、森の入り口で倒れていた。
かつて森の中に小さく丸く光が差し、世界中の全ての花と、絵本の中にしか咲かない花がいっぺんに咲き乱れていて、世の中の全部の色がある場所があったという。
そこに樹木は一本たりとも生えていないが、取り囲む木々の梢はそれ以上に伸びる機会を虎視眈々と狙っていたらしい。
かつてそこに足を踏み入れた少女曰く、その中心には、優しいお爺様のように、気品溢れる紳士で、幼き子供のように涙を流す不思議な男がいたらしい。
男は一日一本、花を手折ってはその花を白く染め上げてしまうのだ。
そしてその男は笑顔がいつも素敵だという。
しかし少女は目が見えなかったと言う。
ではどうして男の笑顔がわかるのかと尋ねれば、
「頬に触れればわかるのよ」
と微笑んだそうだ。
しかし、男はどうしてそんなことをしていたのかとと尋ねると、少女は口をつぐんだという。
少女が大人になり、結婚式を挙げるとき、彼女の着たドレスは世界中の花とありとあらゆる造花を集めて作られた。
参列者たちは口を揃えて、どの花もさして美しい色には思えなかったと言ったそうだ。
目が見えないこと、世界から目を背けること
どちらが盲目なのか
読了ありがとうございました。
もし、よろしければ励みになりますので評価やいいね等よろしくお願いします。
また、他にも短編を投稿しています。