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弟が死んだ日  作者: 紬
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 弟のアパートには何度も来ていた。一番最初は千秋がこのアパートに引っ越した日だ。少しでも安く済ませようと荷物運びを手伝ったのだ。それからも月に一度くらいの頻度で千秋の様子を見に遊びに来たりもした。

 あの頃にはなんとも思わなかったが、この六畳半の部屋は千秋の匂いで溢れている。たった四年間でこんなにも千秋の面影を色濃く刻んでいる。


「あー、父さん達に写真送らないとな…」


 由樹はパシャパシャと何枚か部屋の写真を角度を変えて撮り、そのまま家族共有のグループLINEに送る。既読は付かないが、部屋の片付けをしていれば直ぐ返信はあるだろう。


 人ひとりが死んだ部屋だとは思えないほど綺麗な部屋だった。発見が早かったのもあるだろう。千秋が首を括った日、小学校から幼馴染みで同じ大学に通っている由樹もよく知っている男の子がちょうど遊びに行ったらしい。そのまま首を括った千秋を見つけて、救急車を呼んでくれたのだ。

 そう、警察ではなく救急車だ。千秋はまだその時、僅かながらまだ息があった。けれど搬送先の病院で息を引き取った。


 泣き喚きながら謝罪を繰り返す彼を見て、由樹はアンタのせいじゃないと何度も慰めた。実の姉であるのに、まだ千秋の死を受け入れられず脂汗ばかり滲んだ顔でヘラヘラと笑いながら彼を慰め続けた。


「達也君さ、あの子、めちゃくちゃ泣いてたよ」


 胸ポケットからタバコを取り出し、カチカチと中々火のつかないライターに苛つきながら家主のいない部屋でひとり呟く。やっと火がついたところで由樹は大きく紫煙を吸い込み、たっぷり肺に満たしてからため息と共に吐き出した。

 いつだったか、この部屋は禁煙だよと千秋に言われたっけ。でもまぁ今日くらいはいいじゃないか。文句を言う家主はもう居ないのだから。


「さてっと、何から手を付けようか。服はあたしが着られそうなもんは袋に入れて、布団とかはそのまま業者に処分してもらうか」


 押し入れを開け、ぶわりとより濃く香る千秋の匂いに目を細める。母が定期的に差し入れてくれる柔軟剤を同じように使ってる筈なのに、それでも千秋の匂いだと直ぐに分かる。弟が直ぐそこに居る気さえした。


「実家に居たとき着てた服ばっかじゃん。これとか、あたしがバイトの初任給で買ってあげたやつだし。何年物だよ、物持ち良すぎか」


 少しだけ草臥れた灰色のパーカーを手にして思わず笑う。高級ブランドなんかじゃない。普通にウニクロで買ったやつ。服よりご飯を優先してしまった結果だ。あの時ふたりで食べた回らない寿司の味は忘れない。高校生の週末バイトの時給じゃそんなに量、頼めなかったけど。


 捨てるのは持ち帰ってからにしようと、それほど多くない衣服を由樹は乱雑にバサバサと持ってきた袋に押し詰めていく。そう時間は経っていないにも関わらず、すっかり押し入れの中は片付いてしまった。となると後は本棚にあるものしかない。

 ここで暮らした千秋の四年間は、あまりにも呆気ない。あまりにも少なかった。というより、つい二ヶ月前に来たときよりも物がごっそりと無くなっている。まるで後始末をする誰かのことを想っているかのように、初めから片付き過ぎていた。そんなことは部屋に入った瞬間から、由樹は気付いていた。


「は、ハハッ、なによ千秋、アンタそんなに綺麗好きだった? それともあれか。なんだっけ、ミニマリストってやつ? んなわけねぇか!」


 自分にツッコミを入れてケラケラと笑えば、弟がいつもする少し困ったように眉を下げる笑いかたが目に浮かびそうになって慌てて唇を噛み締める。

 なんだよ、チクショウ。勝手に思い出になんかしてんじゃねぇよ。たかが三日か四日で弟を思い出になんかしてんじゃねぇよ、このクソったれな自分。


「まっ、押し入れはこれで終わりね。──っと、待った待った。なんだよまだあるじゃんか」


 押し入れの奥に小さく置かれている紙袋を危うく見逃すところだった。腰を屈めて引っ張り出したそれはやけに軽くて、迷わず取り出したそれに軽く呼吸が止まった。


「千秋、アンタ──まだ捨ててなかったんかい。元カノの荷物とか勝手に捨てられないタイプ? あたしは元カレの荷物なんざ着払いで送り付けるタイプだけど。え、これあたしが捨てていいの?」


 いやこれどうすんのよ。このシフォン素材の、清楚系代名詞のライトグレーのワンピース。しかも紙袋の底には口紅やファンデーションなどの化粧品も転がっている。

 前回か前々回か、千秋のアパートを訪れた際にこの紙袋を発見した由樹は「元カノの私物。捨てられなくてさ、取り敢えず纏めて押し入れに避難させといた」と困ったように苦笑していた千秋にニヤニヤと「こういうワンピースを着る子がタイプ?」と軽口を叩いてウンザリされたことを覚えている。


「仕方ねぇ!これは保留じゃ!!」


 元々入っていた紙袋にワンピースを畳むことなくグシャリと勢いよく放り込み、後で考えることにしようと強引に意識を次の作業に切り替える。


「千秋め、あたしが今カノだったらぶん殴ってるぞ…」


 ぐるりと六畳半の部屋を見渡し、寂しくなるほど何もない部屋の光景にグッと眉根を寄せる。つい二ヶ月前にはあった筈の大学関連の参考書も、一緒に中古ショップを巡って買った24インチのテレビも、観葉植物だって無くなっていた。確かにそこに存在していたのだと、ぽっかりとした空間だけを残して。


 唯一この部屋に残されたのは、小さなカラーボックスに入ったDVDだけ。これだけは人にあげることも、捨てることも出来なかったのだろうか、と由樹は寂しさにも似た安堵さに目を細める。昔から知っている、千秋の好きなもののひとつが映画だった。


 引き寄せられるように由樹はDVDラックに近寄り、ひんやりとした畳の上にペタリと足を崩して座った。DVDは家で一緒に観たものが多いな、と由樹は懐かしさにタイトルが印字されているDVDの背表紙を指先でなぞりふと思う。


 実家から近い専門学校を選択した由樹は、千秋が高校を卒業して実家を出るまで殆ど一緒の時間を過ごしていた。どちらもインドア派というのもあって、休日は専らリビングのテレビで借りてきた映画を観ることが多かったものだ。

 その頃に観ていた作品の中で気に入ったものを買ったのだろう。あの子は気に入った作品は、それこそ暗記するんじゃないかってくらい繰り返し観たり読んだりすることが好きだったから。


 だからなのか、新しい作品に自ら手を伸ばすことは少なかった、と思う。どうしても気になった作品や誰かと一緒に観る作品以外では自分から積極的に手を伸ばすことは殆どなかった。映画好き、というよりも自分だけの宝石を少しずつ集めて抱きかかえるような、そんな愛しかたをする子だった。


「DVDは持って帰ろう。あの子が集めた好きなもんだから」


 そう多くはないDVDを由樹は持参した紙袋に詰め替える。アクションからラブストーリー、ヒューマンドラマにミステリーにノワール映画までとジャンルは幅広い。けれどどれもこれもあの頃一緒に観た覚えがあるものばかりだ。あの子はあたしとのあの時間を楽しんでいたのだな、と思うと心臓がぎゅっと握り締められたような痛みが走る。


「あたしと観たやつばっかじゃん。はは、千秋らしいな。あの子ほんとに同じのばっか観るんだよね。──あ?」


 ピタリ、とそれまで順調にDVDの背表紙に引っ掛けていた人差し指が止まる。ひとつだけ反対の向きのに入れられたそれ。千秋は几帳面な性格だから、こんなことはしない。こんな風に一つだけ向きを逆にしたりするようなことは絶対にしないし、誤ってやってしまったとしても気付いたら必ず直すタイプだ。


「なんで、これだけ、」


 バクバクと無意味に鼓動が早鐘を打つ。五十グラムにも満たないプラスチックの容器が重くて、引っ掛けた指先が震えている。無性に今、あたしは千秋の秘密を暴いているような気がした。いや事実これは暴いているのだ。それもそうだ、部屋なんてプライベート空間だ。家族さえ知らないひとりきりの時間を過ごす空間なのだ。そんな場所に踏み入った癖して、何が秘密を暴いているような気がした、だ。これは間違いなく、土足で踏み入る失礼な行動。


 家族や友人、顔を知っている者なら尚更、その空間に断りなく立ち入ってプライベートを暴いた挙句そこにある秘密に勝手に期待したり落胆なんてしたりするなんて、それこそ死者の顔に唾を吐くような真似に近い。きっとそうだ。

 だけどそれでも、千秋が自ら死を選んだというのなら、このくらいのことあの子なら予想しているだろう。誰かが、それこそ実の姉が部屋に入るなんて分かり切っていることだ。頭の良いあの子が考え付かない筈がない。


 だからこの一本のDVDは、千秋からのメッセージだ。なんとなくそう感じた。姉だから、なのだろうか。こんなことを思うのは。DNAのあれそれなんて信じていないくせして。


「ハ、ハハッ…AVだったらどうしよっか、なんて、ね…」


 悩んだのは一瞬で、由樹はDVDのタイトルを確認することもなく先ほどの元カノのワンピースと同様に紙袋に勢いよく突っ込んだ。

 なんとなく怖かったのだ。弟の知らない一面を知ることが、ではなく、あの子がなにを伝えようとしているのかに気付くことが。この不自然なくらいに空っぽのこの空間は、弟の自殺が衝動的なものではないと、そう意味しているのだと由樹はとっくに気付いていた。


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