第7話 リブロールの朝 *
***** ノート *****
干潟のような土地の端に立つとすぐに、そこに似つかわしくない7メートルほどの小さな灯台があることに気付きました。だれもいないこの島にぽつりと佇む姿は、まるで孤高であることを楽しんでいるかのようにさえ見えました。ただ、この灯台をつくるためにかつて人が足を踏み入れていたということは間違いありません。浅瀬の多い島の周辺でミドリ鮫漁が行われていたことを考えれば、灯台も安全な漁のために必要なものだったでしょう。本に書かれていたミドリ鮫のことが事実であったのだと考えると、人の気配も感じられるような気がして少し楽になりました。
灯台の建つあたりは海から2m程度の高さがありましたが、島の大部分は海抜のほとんどない土地で、人の住むことを許さないきびしい環境であることはすぐにわかりました。もし今日が潮の引く時期であるのなら、潮が満ちたときには間違いなく海に水没して島の姿は見えなくなってしまうでしょう。島と言うにはあまりにも低いその土地は、水平線との境もあいまいで、澄み渡った青空の中に溶け込んでしまいそうでした。
少し先のほうになにか動くものがあったので目を凝らして見ると、それは昨日寝る前に見たもう一艘のボートでした。誰かが自分より先にこの島に渡っていたのか、それとも引き潮に流されてこの島に流れ着いたのか。メーンランドの街から2日もの時間をかけてこんなところ来る人がいるとも思えませんが、あの入り江からこの島に渡る手だてはなくなったということを考えると、ここで誰かに会えることを祈らずにはいられませんでした。
おーい、おーい……
広い空に浮かぶ雲はなにも答えることもなく先を急ぐように大きい空を横切って行きます。しばらく空を眺めていると、自分の立っているこの島のほうが流されているような錯覚を覚えました。そして、地面の多くは草とも海草とも判別のつかないような植物で覆われていたため、一歩進むたびにずぼりずぼりと足先が地面に沈みました。不安定な足元を確かめながらゆっくりと灯台の見える内陸に向かって歩きました。とりあえず、この島の少しでも高いところに居場所を確保することを急ぎました。天候が崩れでもしたら小さな島は波に逆らうこともできず見渡す限りの海原に押し流されてしまうことでしょう。
世界の果てまで続く紺碧の空と海 その隙間にとぷとぷと漂うこの島
***** ノート *****
灯台に来たときには、いつもこのページに書かれている情景を思い出す。彼もきっとこの場所に立って海を見渡したことだろう。今と変わらないこの360度見渡せる水平線を眺めながら、だれも知らない島の神秘に畏敬の念を感じたかもしれない。潮の心配が無用だったことだけは救いだったことだろう。干潮時には潮位が下がり島が海に沈むことはなかったはずだ。灯台を出たところの道端にある石碑に書かれている文字は長年の風雨にさらされて読むことはできないが、きっとこの灯台にゆかりのあるなにかを後世に伝えようとしたに違いない。それはノートを書いた主を弔うために誰かの手によって刻まれたものなのかもしれない。そう思うとこの場所が時間を超えて遠い昔へ一本の線でつながっていくような不思議な心持ちになる。
灯台を出てすぐ東に向かうと左の海辺にメーンランドで流行する音楽を聞かせてくれる喫茶店がある。私がこの島に来たばかりのころ、同じようにあてもなく一人で歩いていた人にばったり出会った。1日中本を読んで暮らしたいという私と、音楽を聴いて過ごしたいというノルシーさんはすぐに意気投合した。いつかみんなが好きなものを持ち寄って楽しく過ごせるような島にしたいとよく話したものだ。そんな二人も今では島でもっとも古参の住人になってしまった。店先で窓を磨いているのはノルシーさんだろう。朝までお店にいることも多いからもしかすると昨夜も寝てないのかもしれない。話好きで好奇心旺盛なノルシーさんのお店には客人が絶えない。週末はいつも朝方まで明かりがついている。カウンターに座った常連客と何かを話すわけでもなく音楽に耳を傾ける時間だけが静かに流れている。時折楽器を手にして弦をはじいてみる人もいるようだけど、演奏をするわけでもない。そして、鳥たちのさえずりが聞こえる時間になるとだれに声をかけるでもなくぽつりぽつりと席を立ちそれぞれの家路につく。
「ノルシーさーん、おはよー!」
少し遠いとは思ったけど声をかけてみた。
「昨日は遅くまで何してたのー! あまり根を詰めないほうがいいんじゃなーい?」
ノルシーさんもこちらに気づいていたようだ。灯台とノルシーさんのお店の間をさえぎるものもないから、お互いの窓からよく見える。
ノルシーさんの店エバンヌを左に見ながら、草花の咲く小道を海沿いに数分歩くと私の店リブロールに着く。古来から使われているグレン語で、「ゆっくりしたとか穏やかな生活」という意味だそうだ。島に最初に届いた本の中からいただいた名前だ。しかし、本屋の店名なんてあってないようなものなので、今でも名前があることを知らない人は多い。
店の近くまで行くとミリルさんがお店でだれかと話していた。こんな時間にだれかと思ったらコピだった。あの二人がこんな朝早くからお店で話しているのを見るのはめずらしい。とにかくコピは朝にめっぽう弱くて、午前中に姿を見かけることはまずない。
「おはよう、コピ。今日は早いね」
「とりさんといっしょ! きれいなほんみてた」
「きれいな本?」と言いながら本棚に目をやった。
「あ、この前入った、あの『青い扉』って本のことですよ。表紙と裏表紙しかなかった本。ページのない本なんてめずらしいってお話をしたあの本です」
そう言うと、机の上の開いて置いてある本をミリルさんが目で示した。
「ああ、あの本ね。おもしろい本だから見てごらん。ページがまったくなくてね。本と言っていいものなのかどうか。文字がないから表紙だけの絵本なのかな。船長の選んでくる本はいつもおもしろい。あの時も表と裏表紙しかない究極の本だって聞かないから、本ならせめて1ページはほしいと言うと、中身なんて読む側が考えるものだから、表紙だけあれば十分物語になるって聞かなかった。おもしろいことを言う人だよね」
「おそらにあるおまど。おひめさまとおじさまのおうち!」
「あら、コピちゃんすごい。そんなこと考えてたの? 私なんて『赤い扉』はあるのかなーって思っただけよ。だめだわねー」
「じっじはおまど?」
「そうだな……ある大潮の日にこの本が海の水を全部飲み込んで、島民を救うっていうのはどうかな?」
「あら、それも面白いですね。本当に、そういう役に立つ本だといいわ。本棚の一番上に飾っておこうかしら。島の守り神として毎日安全祈願をしないと。お店に来た人に話すのも楽しいかもしれないですね」
「おひめさまもたすかるの」
コピがくりくりした目を輝かせる。
「あはは、こんなふうにそれぞれの話ができてしまうのがこの本の面白いところかもしれないね。さて、今日は船が入ってくるまでここでゆっくり待たせてもらおうかな。ミリルさん、ちょっとおじゃましますよ。今日こそは船が桟橋に入るのを期待しましょう。あのままじゃあ、まるで蜃気楼だからね」
「あら、おじゃまするなんて、ここはオルターさんのお店ですよ。どうぞ遠慮なく。ちょっと朝のお茶を入れてきますね。コピちゃんもよかったらどうぞ」
ミリルさんはティーポットにお湯を入れながら楽しそうに夏の唄を口ずさんだ。




