第2章 第32話 紋章の透かし
しばらくして店に戻ってきたハロウさんは、見るからに人柄のよさそうな紳士だった。文化人というのはこういう風体の人を言うのだろう。
「いや、リアヌシティは正直離れたくはなかったんですが」
「みんなそう言うな。オルターじいさんの話じゃどうもそうでもないらしいが、な?」いたずらっぽい顔をしてこちらを見るので、わざとらしく憤慨して見せた。
「いつから変わってしまったのか誰にもわからないですよ。まあ、どこにあっても心は古き良きリアヌシティのままですから、こちらで細々とでも伝統を守れればと思いまして。同じ場所にあっても心まで失ってしまうよりはいいでしょう」
「向こうではどのあたりだったんですか?」ちょっと気になって聞いてみた。
「今、バス停になってるところをご存知ですか? 眼鏡橋のところの……」
「ああ、あのあたりならよくわかります。コノンさんの家がありますね」
「あのすぐ近くでした。昔は村の中心で栄えていたんですが。今じゃさっぱりでしょう」
「それにしても、これだけの店を数百年に渡って守ってきたんですから大したものですよ」
「代々不器用なところがよかったのかもしれません」と言って肩をすくめたのを見て、「頑固一徹ってやつだな。優柔不断なのに比べればよっぽどましだ」と船長にしてはめずらしく褒めた。
「このお店を見れば、ハロウさんのこだわりはわかりますよ。このペンといい、入れ籠の箱といい。いい味が出ている。こちらの紙は手漉きですか?」
「ああ、それはお店ができたころからのオリジナルの紙で、もう何百年も前から同じ方法でつくってます。創業時からずっとあの湖の湧き水を使って漉いてきたんですよ」
湖の水でというのを聞いて、昨日考えた水彩画に使う水のことを思い出した。紙にも水質は当然関係するだろう。
「ハロウよ、早速、例のやつを見せてやってくれないか」
「ああ、この方がそうでしたか」と納得したようにうなづくと、店の奥に入って古い本のようなものを持ってきた。何とも言えない風合いが年月の経過を感じさせる。
「これが、初代がつくったものなのですが、そのころから何ら変わらないですね。当時は羊皮紙という皮を薄くしたものがよく使われていたみたいですが、あのあたりでは、私どもの創業者が植物から紙をつくることをはじめたようで」
革ひもで綴じられた古い本が出てきたので、何か由緒あるのかと思い、「これはめずらしい本なんですか」と聞くと、「おいおい、これを見てもわからないのか」船長がひとこと言いたげな顔をしてこちらを見た。
「えっと、これがあたらしい船長お勧めの本ということ? そういうこと?」
「これだからな、まったく。ページを開いてみな」と呆れた顔をしている。
「あ、今度は文字のない本というわけだ」
「そうじゃなくて、これはノートだろ? ハロウズの」
「え? これがハロウズのノート?……ノートの主が買ったあのノート?」
「まったく感が悪いな。この店で買ったんだよ」
ハロウさんがにこにこしながら、こちらのやりとりを聞いている。
「それで、ここをわざわざ案内したんじゃないの? 世話がやけるじいさんだな、まったく」
ここまで言われてやっと話がわかった。船長もきちんと説明してくれないから人が悪い。
「いやあ、これは驚いた。あなたの祖先が作ったノートを持ってウォーターランドに来た人が……」と言いかけると 、「船長から聞いていますよ」とハロウさんが笑った。「船長に売ってくれと頼まれましたが、これだけは」と申し訳なさそうな顔をしているので、こちらのほうが恐縮してしまった。
きっと船長はなんとか手に入れて、ウォーターランドに届けようとしたのだろう。
「それでだな、ここは顧客台帳が代々引き継がれているわけだ。ノートの透かしでおおよその特定ができるんじゃないかってお話。おわかりいただけましたか」
「わかった、わかった。船長もそれなら早く言ってくれればいいのに」とさすがにひとこと言うと、「こっちだって、いろいろ考えたあげくにやっとここを突き止めたのに、そうやすやすと教えられるわけないだろ」まんまとひっかかったと言わんばかりの大笑いをした。
話を聞いた後、もう一度手製という紙を見てみた。なるほど、電気にかざしてみると、薄い紋章のような透かしが入っている。
「それは創業者が紙の出来具合をみるためにつけはじめたようで、のちには漉いた年を明らかにするという目的に変わったようです」
「なるほど、じゃあ、買ってすぐに書き始めていればばかなり正確な年がわかりますね」いつも記録を書いたあとに押している日付スタンプのようなものだと思った。いくつかの紙があったので、何か違いがないかと見比べていると、後ろの方で「ハロウ、紙の代金は俺が払うから頼むな」という船長の声が聞こえた。
結局、船長に押し切られ、水彩画によさそうなスケッチブックを買ってもらうことになってしまった。
「いつも申し訳ないね」
「気にすることはない。幻覚の世界で宝の山がみつかったときは山分けということだけをわすれなければな」と言うと、自分の行きたいところがあるからと、反対側の路地に入って行った。船長も幻覚の話をまったくありえない話でもないと思っているのかもしれない。まだ、誰にも本当のことはわからないのだ。
それにしても、あの店をみつけたのは船長の大きな手柄だ。これでノートの主にまた一歩近づけるだろう。今、ノートの現物を持っていないことが返す返すも残念でならない。すぐにまたハトポステルを出さないと。
「オルターさん、よかったらこれを」ハロウさんから包みに入った何かを手渡された。
見るとほんの少し色の褪せかけた紺色と白のチェック柄の布ばりのノートだった。
「いや、何も気にされないでいいですから。少し前のノートなので使ってやってください」
「これはありがたい。遠慮なくいただきます。お礼は今度島に来られたときに」
ノートの主と同じようにここでノートを手に入れられたことがとてもうれしかった。ここからこのノートの旅もはじまるのだろう。
船長と別れてから。さらに西のほうへと歩いてみた。町はずれまでそれほどの距離はなく、10分もすると人影もまばらになってきた。堤防が切れたところで浜辺に出るとスレイトン・ケーブが一望できるところがあった。そこは、浜に打ち寄せる波が耳に心地よい、プライベートビーチのような趣きをもった白い砂浜だった。平日のせいか人影もまばらで絵を描くのにちょうどいい場所に思えた。




