第30話 水彩
船長たちがそれぞれの部屋に入った後、オールドリアでの奇妙な体験を書き残しておこうとナーシュさんの書斎を借りた。不思議な体験を解き明かす何か手がかりがあるとするなら、どう考えても六角柱以外に思い当たるものがない。ユイローの幻覚というのであればウォーターランドにだって同じ草はある。それが理由とはとても思えない。ましてやジノ婆が悪いいたずらをしたわけでもないだろう。
鉛筆を指先で回しながら起こった出来事を書いていると、鉛筆の面それぞれに釘穴のような小さな点が打たれているのに気がついた。面の違いをはっきりさせるためのような穴だった。それぞれにあけられている穴の数は3つで、奇数の3、5、7がそれぞれ2面ずつある……。サイコロのように1から6数字が並んでいるわけではない。他の鉛筆も見たが、全く同じ数の穴があけてある。ナーシュさんが気まぐれに開けたとも思えない。転がすと、3、7、3、5、7、5、7……と同じような確率でそれぞれの数字が出る。
この不規則な数字を紙に書いてみると、どこかで見たことのある数字だと思い始めた。もしやと思って2階に上がって廊下に立ってみると、部屋の番号は鉛筆と同じ数字を含めた2、3、5、7、11、13、17、19、23、29、31、37……。飛び飛びの数字が73までつけられていた。縁起のいいと言われる奇数を並べているわけでもないようだ。
部屋数と合わないから宿泊客の部屋割りをこの鉛筆を転がして決めていたとも思えない。その後も、廊下を挟んだ部屋の配置から、それぞれの数字を足したり引いたりして見たもののなんの規則性も関係性も見つけることができなかった。六角錐と鉛筆と不規則な数字に何の意味があるのかわからないままに時間だけが過ぎていった。
考えるのをやめて、体験したことを書き起こしているとさらに時間は過ぎて、気がつくと夜中の12時を回っていた。そろそろ終わりにしようと、鉛筆で描いたオールドリアヌの地図を手に持って、照明に照らし出来工合を見ていると、本棚の端に置かれていた絵筆が目にとまった。ナーシュさんが絵を描くという話は聞いていない。絵筆と金属製のパレットが本でいっぱいの書斎のバランスをどこか崩しているように感じた。
その筆を一本を手に取って紙の上をすべらしてみると、どこかで昔書いた水彩画の記憶が蘇ってきた。絵を書くのは得意ではないけど、白い紙に色を付けるのはきらいではなかった。滲んだ色が混ざり合い、そこに知らないあたらしい世界が生まれていくような感覚が好きだったのかもしれない。
筆の横に立ててあった金属製のパレットを取り出して開いてみると、使い古された固形の透明水彩の絵の具が並んでいた。人のものを勝手に使うのもどうかと思いながらも、ちょっと地図に色付けしてみたくなってしまった。コップの水に筆先を浸し青色の絵の具を少し溶いて湖のところを塗ってみた。湖が少し緑がかっていたのを思い出し、緑色も少し載せてみた。紙の上にのった小さな湖の中で2色の水彩絵具がゆっくりと重なり、まるであのときのもうろうとした意識のように、静かにお互いを受け入れながら混ざり合って行った。しばらく、その様子に見入った。この透明な水が世界を成すもので、色が人や鮫であったら……というようなことをぼんやりと想像してみた。
さらに妄想は膨らみ、湖の水を使って描いてみたらどうだろうとも考えた。湖の水を使って今回の旅を絵に残しておくのもいい思い出になるかもしれない。湖の水でなくとも、その土地の湧き水で絵の具を溶くと土地の何かが加わった色が出るように思う。明日、マリーさんに絵の具を貸してもらえないか聞いてみて、了解がもらえたらこの港の風景から描いてみよう。
島から持参したスタンプを机の上に置くと、まるで自分の書斎のように思えてきた。今日書いた記録に日付のスタンプを押してライティングデスクを閉じた。
こうしていると、この港にいる間はララホステルの副支配人というのも悪くはないかもしれないと思えた。ただ、自然とかけ離れた人工的な生活に染まっていくと考えると、それは甘い蜜のような話なのかもしれない。きっとマリーさんや船長はいやというほどわかっているのだろう。
昨夜、船長がめずらしく時間があるから、明日は港を案内してくれるようなことを言っていた。そのついでにどこか景色のいいところをみつけて写生してみよう。じっとホテルの中にいるよりは、なにかしているほうが湖のことを忘れられていいだろう。
窓から入る風は少し秋の気配を感じさせる涼やかなものだった。港のほうをながめると、もう漁船が出港の準備をしていた。




