第26話 なくしたもの
その日は夕方まで、そのまま横になったまま体を休めた。どうやら外は雨が降っているようで、雨垂れの音が窓の隙間から聞こえてくる。
ドアの外に人の気配を感じたので耳をすませていると、ゆっくりとドアが開いた。
「起きてますか?」遠慮がちな小さな声だった。
「あれ、もしかしてあなたがコノンさん?」
コノンさんというのは、ウォーターランドの灯台で会ったあの無口なうさぎ少女だったのだ。まさかこんな形で再開するとは思いもしなかった。
「よかった」安堵したような笑みが彼女の顔からこぼれた。
手には小さな瓶を持っていた。
「滋養にいいという薬草を絞ったものなので、よかったら」枕元に置いてくれた。
「ありがとう。コノンさんのお陰で命拾いしました」
「私は偶然居合わせただけで何も……でも、ほんとうによかった」
「道端に倒れてましたか? 何も記憶がなくて」
「湖から這い上がったところで意識を失ったようでしたよ。ボートから落ちたのですか?」
最後に海に落ちた記憶と話はつながる。ただ、それは湖の話ではないし、場所もここではなかった。
「なんだか、記憶が途中から途切れていて……」
「鮫がどうだとか、うわ言のように」心配そうな顔でこちらを見ている。
やはり、夢を見ていたのだろうか。そうだとしたら、出島の記憶と海に飛び込んだ記憶がどうしてもつながらない。無意識に湖に飛び込んだとしか考えられない。あのとき見えた人影が現実であれば、どうしてこんなことになったのか。
「ジノ婆さんに会いに行かれたんですよね」と聞いて見た。
「ときどき相談ごとがあるときに……」少し表情が曇ったように見えた。
「私は残念ながら話をできませんでした」
「ジノ婆さんもオルターさんが来られたことを知らなかったみたいですね」
ジノ婆さんが知らない? あのときいた人がジノ婆さんではなかったとしたら、いったい誰だったのだろう。
「ジノ婆さんは出かけることもあるんでしょうか?」
「ほとんど家に。起きてるか、寝てるかの違いだけで」
「猫はいつもあそこに?」
「ほとんど見かけませんけど、あのあたりに居着いている猫がいますね。猫がいるときは、この子が嫌がるんです」と背負っていたウサギを覗くような仕草をみせた。普通より少し短く丸い耳の白ウサギが、いつものように顔を出していた。
出島で見たものは、自分にだけしか見えない幻覚だったのだろうか。やはりユイローの強い覚醒作用だったのかもしれない。
「あの湖は場所によってですが、底がないほど深くて。ボートは気をつけたほうがいいですよ。あそこで行方がわからなくなって戻れなくなった人を何人も知ってます」
「そうなんですか……」ちょっと軽はずみに行動しすぎたことを反省した。
「これはウォーターランドで摘んだ押し花です」カードのようなものを見せてくれた。それは初夏に咲く紫の小さな花だった。焼けたところにたくさん群生していた花だ。また咲き乱れた景色を見ることができるだろうかと思いながら懐かしく見た。元気を出すようにというコノンさんの心遣いを感じた。
「あそこの灯台から海を見た時に、この世界にまだこんなところが残っていたんだと思って」景色を思い出し遠くを眺めるような目をした。「ほんとに世界のすべてを見渡せるようなところなんですね。あそこって……」
「何もない宇宙に浮かんでいるようだったでしょ?」
「わたしたちのリアヌシティは何をなくしてしまったんでしょうか」突然リアヌシティの話になった。
「コノンさんは、ウォーターランドにその答えを探しに?」
「なくしたものがわからなくて……大切なものだと思うのですけど」
「物ではないですね?」
「そうです。大切な何か……オルターさんは、なくしたものはないですか?」
「古い記憶かな」
「思い出ですか?」
「思い出じゃなくて記憶ですね」
「それは大切ですよね。みつかるといいですね」
「私は、きっと何かの気持ちをなくしたような気がするんです」
「気持ちですか……」
「ごめんなさい。変な話をしました」急に我に帰ったように微笑んだ。
「ウォーターランドに行ったときにそれを思い出せそうな気がして、わすれないようにそのとき咲いていた花を摘んできたんです」
「コノンさんのような人にも何かの気持ちをわすれたなんてあるのかな」
「どうなんでしょう。ときどき気持ちの空白を感じる時があって」
気持ちの空白という言葉をはじめて聞いた、どうも記憶ではないようだ。あまり詳しく聞くのもどうかと思い、話題を変えた。
「そのウサギさんは、いつもいっしょなんですか」
「この子は事故で足をなくしたんです」背中のうさぎのほうに顔を向けた。
「それで、背負ってるの?」
「もともと好奇心旺盛な子だったので、いろいろなところを見せてあげたくて。私たち、なくしたもの同志なんです。リアヌシティも同じような気がします」
「じゃあ、記憶をなくした私も仲間にいれてもらえますね」
「はい。でも、命だけは大切に」
「ほんとだね、あはは」
「それでは、私はこれで」
「コノンさん、ありがとう」
彼女はにこりと微笑むと、「お大事に」といい残して部屋を出て行った。
彼女はどうしていきなりあんな話をしたのか、誰かに聞いてもらいたかったのだろうか。それで気持ちが癒されるのであれば、いくらでもお手伝いはさせてもらおう。それが恩返しになるのであれば。
その夜は、疲れが溜まっていたせいか、夕食もしないままにまた眠りに落ちてしまった。
そして、またあのときのような夢を見た。
渦に流れ込んで行くようにして泳ぐ鮫が、振り向きながら「何を見たいか……何を……」と聞いてきた。しゃべろうとしても気が焦るばかりで声は出なかった。「今夜はどこ……」ぶくぶくという泡の音と重なる震えるような声の問いかけは、いつまでもこちらの答えを待っているようだった。
声を出そうともがいているうちに、強い光がミドリ鮫とこちらの間に割り込むように差し込んだ。そのまぶしさに先を行く鮫の姿を見失いそうになる。離れていく鮫が「だいじょうぶ……それがいい……」といいながら夜空の彼方に去って行く。
次に目覚めた時が、湖のほとりでないことだけを祈りながら鮫の行方をずっと見ていた




