第21話 出島
出島の入り口は古い錆びた柵が倒れ掛かっていて、だれでも自由に入れるようになっていた。入り口の周囲も草が伸び放題に生い茂っている。一見見ただけでは、人が生活をしているとは思えないようなところだった。
「こんにちは……」
錆びてた腐食した柵の前から様子を伺いながら声をかけてみたが、答えが返ってくる気配はない。
「失礼します……ね」
庭は想像していたのと違って、手をかけてきれいに棲み分けがされていた。湖からの風が吹き込むと、植え込みの草花がそろってやさしく揺れる。揺れる花は硝子細工のように繊細で、風の調べの合わせた鈴の音が聞こえてきそうだ。小さな庭のそこかしこ溢れる命の営みを感じる。
「入らせていただいてもよろしいですか?」ドアの手前まで入ってもう一度声をかけてみた。
声が聞こえたのか、家の奥でコトリと小さな音がした。少し様子を伺っていると、ドアの隙間から黒いものが顔を覗かせた。
「おお、インク! なんでこんなところに……おまえ……」思わず目を疑った。青い艶のある毛並み、ちょっと気だるそうで冷めた目、どこをどう見てもインクだ。
「インク、ほらこっち」手を差し伸べると、しばらくこちらを見ていたかと思うと、後ずさりしてドアの後ろに隠れてしまった。
六角の石碑といいインクといい、ここがどこだったのか一瞬わからなくなってしまう。これは夢を見ているだけじゃないのか。もしかすると灯台が近くにあるのではないかと周囲を見回してしまった。目を凝らして周りを見ていると、気温が低いせいで湖の上に薄くかかっていた乳白色の霧が出島のほうに流れてきた。それに合わせるかのように周辺の景色が風に吹かれる布のようにゆっくりと揺れ始めた。景色のズレを見ていると、少しずつ自分の意識が現実世界から遠のいていくのがわかる。もしかすると周辺に密集していたユイローの覚醒作用のせいかもしれない。そのうち立っていられなくなって、崩れるようにしてそこに座り込んでしまった。
目の前に広がる湖の方をみると、水面にきらめいていた無数の光の粒が一点に集中し始め、光の水文のようなものができていた。しばらくすると突然水面が大きく隆起し、水文が崩れたかと思うと濃淡のある金色の光の束となり、空に向かって一気に立ち上がった。それは、垂直な虹のようにも、巨大な竜のようにも見える眩いばかりの光景だった。
立ち昇る黄金の柱に目を奪われていると、背後の家の方から誰かが近づいてくる気配がした。すでに、誰なのか聞くことさえもままならないほどに意識は混濁していた。声を聞き取るのがやっとで、返事をすることすらかなわなかった。
「だれか?」
「あ……」
「ナーシュか?」
「い……い……」
もう声の主を確認することさえもままならなかった。老婆に間違いないと思うものの手足の自由もきかない状態で、振り返ることすらもできなかった。意識はさらに遠のいて行く。
「どこ……きた」もう相手の声さえ聞き取れなくなっている。まぶたも重くなって、視界も閉ざされはじめてきた。
立ち昇る黄金の虹がゆらゆらと不規則に揺れ始める。その中に人がいるように見えた。くるくる踊りながら虹の中を舞っている。そしてしばらくすると、その姿は黄金の光の中に溶け込むように消えてしまった。
そうするうちに、ぼんやりとした影が回り込むようにして目の前に立った。
「おま……のか……ソダ……」黒い人影から途切れと切れに声が聞こえる。もう、うな垂れた顔を上げることすらできなかった。
そして、この言葉を聞いたのを最後に、あのときのように深い漆黒の淵へと落ちて行った。まるで鉛のように身体が重く自由がきかない。動かそうとしても自分の体と思えないほどに重くだるい。身体が湖畔のこの土地とひとつになってしまうような感覚にとらわれる。誰かが闇の中から手を差し出そうとしているのがわかるけれど、その手をうまく捉えることができない。
深淵は途方もなく深く、戻る場所さえ見失ってしまいそうだった。もはや、そこは別の世界とも思えるほどに遠かった。一瞬、闇を舞う六角の石碑が見えたけれど、すぐに消え去ってしまった。重い身体は同じところにとどまっているように思えず、時空を超えて移動してるような気さえした。自分が自分でなくなるような感覚、ぐるぐると記憶が周り、どれが自分の記憶なのかさえわからなくなる。なぜ、今ここにいるのか、誰が何をしようとしているのか、すべてが崩れたモザイクのように飛散していく。




