第1話 反転する海
ドッコン、ドッコン、ドッコン……エンジンの音が船底のほうから響いてくる。荷馬車のようにずっしりと重いリズムが足から身体に伝わる。慣れるまでに少し時間がかかるかもしれない。
「船長、こんな日が来ると思わなかったね」
「おれは、いつかこの日が来ると思っていた。爺さんはいつかメーンランドに行くだろうってな」
「どうして?」
「船乗りの勘ってやつだな。航海と人生って似たようなものよ。おおよそは見当がつく」
「そういうものかね」
「そこに海図があるだろ。それを見てみな。方位計と合わせると位置がわかる」
言われた通りに地図と方位計を合わせてみる。
「島からメーンランドの方向へ向けて離れている? ということだね?」
「島は見えるか?」
「あれ、地図の向きがおかしいのかな?」
「いや、合ってる」
「しかし、窓に見える島の方向が……違う」
「おかしいだろ? この島の入口は普通じゃないってことだ。常識じゃあり得ない航路だからな」
「島の見える方角が磁石の示すものと違うということ?」
「早い話がそういうことだ。島に方位計通りに入ろうとすると入れない。常識じゃあり得ない方位の組み合わせでやっと到着できるってわけよ」
「そんな話、聞いたことないね」
「ないだろうな。俺しか知らない」と言って高笑いした。
「ただ、俺にはなぜだかわかっている。誰でも自由に島に行かれちゃ困るから教えないけどな」船長の笑い声が操舵室に響く。
外に出て、今出たばかりの島を眺めてみる。いつも島から見ていたのと逆にとても早く遠ざかってるように見える。島から見たとき、遠いものが近くに見えるのとは逆に、目の前にあるはずのものが水平線の端にあるように感じる。まだ出向して数分なのに。
「船長、これはどういうことなんだろう」
「さあな、こればかりは俺にもよくわからない。いずれにしても、見えるものと実際は違うということだ。海から島に入る人は今でも少ないだろ? 昔と変わらず、今でもやっかいな島ということだな。わはは」
「飛行船も同じなのかね」
「俺は飛行船乗りじゃないし、わからねぇな。でも、似たようなことは起こるんじゃないか。今度飛行船のやつに聞いてみな」
船は、一歩ずつしっかりと海底を踏みしめるようにして進んで行く。船長の船は後ろに3つの貨物船を連結しているので相当の馬力が必要だろう。まるで海を走る蒸気機関車だ。
「爺さん、あらためて紹介するよ。こいつはマリエールだ。マリーでいい」
客室には何人か人がいたようだったが、その一人なのだろう。妖艶な佇まいの女性だ。
「はじめまして」しっとりした落ち着きのある声だ。
「俺の仕事のパトロンってところだな。それでいいな?」と言いながらマリーさんの方を見た。
「この人とは長いつきあいで、私が昔働いていたお店のお客だったの。船乗り相手のバーね。今は私の気まぐれにつきあってもらってる人かしら」
「お抱え運転手ってとこか」と言って船長は大きな声で笑う。
「そうね。よく窓も磨いてくれるわね」となにか意味ありげに言った。
「まあ、あれやこれやで持ちつ持たれつってとこだな」
いいも悪いもお互いを知り尽くしている関係のようだ。
「爺さん、マリーと知り合いになっておくといいぜ。こいつはいい女だ」
「いい女……」マリーさんが無表情に繰り返した。
「と、俺は思ってる」にやりとこちらを見た。
「パトロンとしてね」
「金だけじゃないぜ。爺さんのこころの隙間を埋める手伝いをしてくれるはずだ」
「こころの隙間……」船長は何を思っているのだろうか。
「オルターさん、あの島に時々伺っていいかしら?」遠くに見える島を見ながら言った。
「あそこはだれのものでもないですよ。自給自足のようなところだから、マリエールさんのような人に納得してもらえるか心配ですけど」
「ははは、すっかりお嬢様と思われたようだな」船長がおかしそうに笑った。
「私はだいじょうぶ。メーンランドから離れる時間さえあればいいの。必要なのはそれだけ」
「それなら、だいじょうぶでしょう。現実世界からかけ離れたようなところですから」と言うと、マリーさんが少し微笑んだように見えた。
彼女は、ずっと船窓から水平線を見ている。その言葉や物腰からはするとただ漫然とぜいたくな生活をしているというわけでもなさそうだ。お金にはまったく興味がないようにさえ見える。
「いい島だっただろ? あれが俺の愛するウォーターランドだ」
「わかるわ、ダルビーの気持ち」
「なにもない島ですけどね」
「なにもないから大切なものがわかるの」
「そういうことだな。メーンランドは何が大切なんだかわからなくなってるからな」
「なんでもあればいいというものじゃないわ」
気がつくと船の振動も気にならなくなっていた。島を離れるにつれて波も高くなり、海面が巨大な生き物のように大きく呼吸する。
「おっと、灰皿は?」落ちそうになった灰が船長の葉巻にぶらさがった。
「そのドアの横のキャビネットに」マリーさんが落ち着いた声で言う。
「ありがとよ。爺さんこういう関係だ。わははは」
葉巻を灰皿に置くと、船長は舵輪を両手を使って右に大きく回した。島は今まで見えていた左後方から右側に移った。まるで島に戻るように見える。その瞬間、大気がハレーションを起したように原色にフラッシュした。何が起こったのかわからなかったけど、世界の何かが入れ替わったように思えた。気がつくと今まで見えていた島が視界から忽然と消えていた。マリーさんは何事もなかったかのように、船窓から外を見ている。船の向いていた方向に反して、ウォーターランドでの生活がとても遠くにいってしまったような寂しさを感じた。




