第1話 ことのはじまり *
わたしがこの地を訪れたのはかれこれ50年も前のことになりましょうか。それはもう見渡す限り水浸しと言っていいような島で、とても人の暮らせるようなところでありませんでした。
岩礁の多くはユイロー(湯色)と呼ばれる水草におおわれ、島の北端にぽつりとあった灯台だけがかろうじて人のいた気配を残していました。苔の住処となってしまった灯台の他には先住者たちが生活した跡を残すものは何も見あたらず、まるで時の淀みの中に取り残されてしまったようなところでした。汽水の沼地に横たわる流木からぷつりぷつりと湧き出る小さな泡だけが、流れ去った時間の記憶を残しているかのようでした。
国の書誌省から発行されていた南部シミリーナ地方の文献によると、ミドリ鮫の現れる時期にはこのあたりで漁をするものも多くいたようで、手こぎの船が灯台のぼんやりした明かりだけを頼りに、波間を流木のように揺れている様子が見られたそうです。ミドリ鮫漁以外にこの地について書かれたものはなく、広い海にぽつりと浮かぶ島の姿は、まるで群れから取り残されてあてもなく漂う大きなクジラのように見えたかもしれません。
私が、そんな辺境の島に興味をもったのは、このあたりをよく知るという煙草屋のジギ婆さんから聞かされた話にはじまります。それは風もなくねっとりとした空気に包まれた夏の夕べのことでした。私は学校帰りに木材置き場の裏の藪のあたりで、夕暮れ時になると星空のように輝く空虫を探しをしていました。いまでもあの日に見た夕焼けの色は忘れられません。私の横で夕日をじっと眺めていた婆さんが、突然思い立ったように大きく唸り声をあげたかと思うと、絞り出すような声で話はじめました。
「いいか、これだけはだれにも話してはならんぞ。それは、おまえさんの知らないずっとずっと遠くの小さな島で起きることさ。そこではな、誰もが寝静まったころあいを見計らってな、見たこともない大きな時間がゆるりと動くさ。ゆるりとな。それは間近で目にしたものにしかわからない光景だそうじゃ。でもな、一度それを見てしまうと、もうそこからは戻ってはこられないぞ。いつか迎えがきたらよおく考えることじゃ」
カゴの中にいる空虫を一心に覗き込みながら話すジギ婆さんの姿は普段とは別人のように見えました。作り話とも、うわさともつかないような気味の悪い話だったので、子供心に婆さんはなにか悪いものにとりつかれてしまったのではないかと思ったものでした。時間がゆるりと動く? そんな話はだれからも聞いたことがありません。おかしなことを考えつく婆さんだなと思いながら、また雨期の合間の空虫採りに夢中になってしまいました。そして日が沈むまでのわずかの時間のあいだに、その奇妙な話は記憶の欠片となってしまい、ふたつに割れて見えたあの夕日の燃え上がる色だけが深く脳裏に刻まれることになりました。
それから18年余りの歳月が流れ、私は有名地方紙として名の知られたゲール新聞社で校正主任を任されるようになっていました。こどものころにはどこでもみかけたあの空虫もめったに目にすることもなくなり、町の中心部にはたくさんのお店が軒を連ね、地方から運び込まれてくる手工芸品や農産物を求める買い物客で賑わっていました。この日もこの地方の初夏に特有の絹のようになめらかな風が吹いていました。観光にもちょうどいい季節で、新聞社でも長めの休暇を取る人が多くなる時期です。
やわらかい陽射が差し込む編集部で仕事の手を休め、私はアシスタントのケルミ嬢から旅行土産にいただいたカルミーナティを楽しんでいました。独特の渋みから好みがわかれるお茶ですが、彼女は私が好きなことを誰かから聞いていたのでしょう。自分のお土産もそっちのけで探してくれたそうです。彼女のそんなやさしい気持ちが編集部をいつも明るくしてくれます。私は久しぶりに口にしたそのお茶を楽しみながら、積み上げられた資料の山を整理していました。
そのとき偶然目をやった古いサイドテーブルの上に色あせた封筒があることに気づきました。いつも仕事用として愛用していたテーブルなので見慣れない手紙があること自体が不思議ではありました。ずいぶん古い封筒だなと思いながら宛先を見ると前の編集長宛に書かれたものでした。偶然目にしたこの一通の手紙が長く忘れ去られていた記憶を呼び覚ますことになるとは、そのときは思いもしませんでした。
週末に締め切りの仕事もひと段落し書類の片づけをしていたときでした。窓から一筋の風が吹き込んだかと思うと、あの古い封筒が私の足元にひらひらと舞いながら落ちてきました。仕事の書類かもしれないと手にしてみると青いインクで描かれた文字が今でも乾いていないように水を含んでいることに気がつきました。古い封筒に乾いていないインク。編集長宛に書かれた手紙ではありましたが、どうにも気になってしまい、手元にあったペーパーナイフで封を開けてみることにしました。中の便箋もかなり古いもののようでしたが、インクは表書きと同様に湿り気を残すものでした。二つ折りにされた便箋をゆっくりと開いてみると、宛名もないメモ書きのような1枚の紙が入っていました。
それは艪を波に取られて不思議な島に迷い込んだという男からの売り込み情報でした。そこに書かれていたのは、星も流れ落ちてしまいそうなほどにねっとりとした霧の夜に、目の前にあった島が蜃気楼のようにゆっくり揺れながら消えていったと書かれていました。殴り書きのような筆跡からするとかなり慌てていたのかもしれません。くすんだ封書の消印を見ると24年も前に書かれたものでした。差出人の名前はカミール・ヤイハブと読めました。カミール……そう、カミールは忘れもしないあのジギ婆さんの亡くなったご主人の名前でした。
私は、その手紙を見たとたんに、もう居てもたってもいられなくなりました。そこにあった島がゆるりと消えてしまう……時間がゆるりと動く……ゆるりと……忘れていたジギ婆さんの話が鮮明に蘇ってきました。ふたつの話のなにかがつながっていくという思いがふつふつとわき上がりました。そのころにはあのジギ婆さんも亡くなっていましたから、当時の話を確認するすべもありません。それがあの話しと同じ場所で起きたことなのかどうかもわかりませんでしたが、島への思いは抑えられないほどに膨らんでいきました。
その翌日から急き立てられるようにやり残していた仕事の片付けを始め、1週間後には長期の休暇申請を出して、手紙に書かれていた場所を訪れることを心に決めていました。ちょうど町の統合話が持ち上がっていたころでもあったので、編集長からの引き止められましが、私のまだ見ぬ地への思いは断ち難いものになっていました。あのころは、寝る間もないほどの仕事を抱えていたので、少し町から離れたいという気持ちもあったのかもしれません。そこに出かければ自分の知らない何かに出会うことができるかもしれないと。
突然目の前に現れた24年前に書かれた手紙。それは自分にとってとても大切な何かを伝えようとしているのではないだろうか。待ち焦がれていたものにやっと出会える、何の根拠もない期待だったと思います。ゆるりと動くなにかは私の心をつかんだまま離れず、思いがけず知らない土地へと引き寄せられていきました。そして、ひと夏の滞在という家主との約束で部屋の片づけをして住みなれたアパートの鍵を手に街をあとにしました。