じゃれあいの先輩
またの日の放課後。
俺は一匹の犬を連れて学校の裏庭を散歩していた。
実のところ読書部顧問の望月先生に頼まれ、少しだけ犬の世話をすることになったのだ。
なぜ学校にペットの犬がいるのかというと、どうやら哺乳類をテーマに担当の生物の授業を進めたらしいが、予想するに単にお宅の犬を自慢したかったのだろう。
あの先生ならありうる。
隣で楽しく激しく息をまき散らすお気楽な人懐っこい犬の世話もすでに一時間を越していた。
いい加減めんどくさいし、残念ながらゴールデン・レトリバーの散歩に思い切って付き合えるほど体力に自信があるわけでもない俺はグラウンドの隅にあるベンチを思い出した。
休む気でいた俺はグラウンドを独り占めしている陸上部の群れを見て落胆するしかなかった。
だからって部室に行ったりもできないわけで、これぐらいで手を打つしかない。
「人ってなんでペットを飼うんでしょうね」
そこにまた前触れもなく現れた例の人があいさつより早くどうでもいいことを投げかけてきた。
「さあ。かわいいからじゃないですかね」
自己紹介の旨など成り立ちやしない自称先輩は腰を低くし興味津々と犬を凝視する。
「そんな理由だけで一つの生き物を養えるものかしら」
「さあ。いろいろあるでしょう」
「ちょっと貴方、今日は一段と返事が適当なんだけど」
「そーですかね。疲れてますからね」
だってあれこれもう一時間は経っていた。別に動物が嫌いなわけではないが、目的性が皆無でやる気になれない。
そもそも押し付けられたペットの世話にやる気出せるってのもおかしい。
「ふーん。まあ、いいわ。この犬は私が見てあげるから少し休んでなさい」
「そうはいきませんね。′得体のしれない´先輩に人の犬を任せるわけにも」
という間に手綱はすんなり彼女に渡っていた。
正確には俺から渡したんだが。
「ね、言動が一致していないんだけど」
「はいはいと渡すのもなんかなーと思って」
「そう。得体のしれない割に信頼はされてるってことかしらね。少なくともこの子には」
わん!と新しく現れた対象に抱きつく先生のペット。
「ないない。それは信頼というより愛情の乱反射ですよ。ゴールデン・レトリバーは人懐っこしさで有名ですから」
そりゃもう不法不審者に尻尾を振りっぱなすほどにね。
「それならますます変ね。一応猫はまだしも、犬とは飼い主の財産を守る番犬の役割も担っているんでしょう? こんなでは自腹を切りながら養うほどの価値には及ばないと思うんだけど」
「そこは、まあ。文字通り『自腹』を『切る』といいますか」
「ふーん。つまり犬を飼うことで自ら望んで損害を招き入れる、ということかしら」
興味深い見解ね、と首をかしげる先輩。
「そんな意味じゃないけどなぁ」
近頃では人間の赤ちゃんを養うよりまともに犬一匹を完璧に養うほうがお金かかるともいうし、予防接種と来たら人間のより高いし。
もちろん人一人を生れてから少なくとも大学まで行かせるほどの金額には及ばないはずだが、人間もペットも養わない側と比べればその財政も消耗は言うまでもないだろう。
しかし逆をたどればそこまでリソースを費やしてまでペットを飼う理由があるということだ。
「俺はペットとか飼ってないからよくわからないんですが、人間関係で得られないものがあると思うんですよね」
「たとえば?」
今にも先輩を押し倒せるかのようくっついているやつを観察する。
「たとえば、人が今この犬のように先輩の足にくっついたとしたらどうします?」
「殺るわね」
「さすがにそこまではしなくてもある程度いやな思いをするでしょうね。その理由は多分」
「私を見くびらないでほしいわね。完璧をこなしてそこまでしてやるわ」
「先輩。今そこ重要じゃないから黙ってきいてくれませんか」
「う、続けなさい」
「つまり、人は人間同士で距離を置かなきゃ安心できない社会的存在であって、他にもいろいろ考えるべき要素があるんですよ。それに比べこの犬は思ったまま動くことができるじゃないですか。常に距離感を維持しなきゃならない人間同士の関係にとって、この見境なしの愛情は後ろめたさのない心のよりどころになれるんじゃないんですかね」
もちろんこれは目の前の犬をなぞらえての話だが、距離感、いわばスキンシップや対応の重みの違いなどは飼い主にとって絶対関係あるものだと思う。
それに自分より小さな外見、力関係にあっても害なしの相手なら警戒心を持たないことで心の安らぎを得ら
れるはずだ。
先輩はどこか腑に落ちないらしく相変わらず親密度MAXの犬をなでまわしている。
「確かに。自分より弱く見えるものをいちいち敵対したりしないわね。それがお金を費やしてまで手に入れるほどのものなのかは、考えものだけれど……きゃっ!やめっ!」
自分をじーっとみていた先輩の顔を舐めまわしはじめた犬がバランスを崩した先輩に襲い掛かった。
「ちょっと!やめさせなさい!重いっ!」
「いい機会じゃないですか。その身を持ってペットの良さがなんなのか確かめてみたらどうですか先輩」
「なにのんきに眺めてるのよ!貴方、変態なの!?ちょっと、この子本当に重いから!」
「後で教えてくださいね」
俺はこの犬と、正確には街で望月先生が連れ出してるとき何度か遭遇したことはあるけど、ここまでじゃれあってたりはしていない。だからそれを少しうらやましいと思った。
やがて先輩が降り注ぐ愛情の雨から抜け出し息を切らした。
「あ、あんた。覚えておきなさい」
「なんですかその悪役の捨てセリフみたいなやつ。俺はなんもしてないですよ」
「何もしてないのが悪いのよ!最悪よ!」
わん!
「貴方もよ!バカ犬!」
地べたに転がったせいでほこりまみれになった先輩は俺の救助の手を熱烈に拒み、独りで服をたたいた。
「何がペットの良さよ。飼い主でもないのになぜこんな目に……そもそも自分のペットがこう誰もかれも構わずべたつくのもどうかしらね。私だったら絶対いやよ。自分が世話して自分が費やしたお金や時間、努力の代価を他人がこんな簡単に手に入れちゃうなんて」
「あーそれは、この犬種の特徴ですから。話に聞くとチワワなどの小型犬は警戒心が強くて噛まれやすいといいますよ。飼い主でも手こずるそうです」
「そ、そう。飼い主を噛むほど警戒心が強いのも考え物ね」
「じゃあ別にいいじゃないですか。俺なんかさっき遭ったばっかの先輩よりも懐かれてないんでうらやましいくらいですよ」
「ふん、それは貴方がブサイクだからでしょう。勝手な解析しないで」
勝手な解析って、どの口がそれを言ってんだ。まさかさっきほっといたの根に持ってんのか。
「ほら、バカ犬。おいで」
ほこりを払ってなお犬の毛まみれになりたいのか先輩は再び犬を招いた。すると抵抗などせず尻尾を激しく振りながら抱きつくバカ犬。
「ふふっ、他人のものを何一つ努力せずに手に入れるとは少々楽しいものね」
しかし犬は先輩の両手をそのまま抜け向こうへ走っていった。
「えっ?」
遠くに見える人影が誰なのかは見ずとも予想できるものだった。
校内から出てくる女性に抱きつく忠犬の姿がまみえた。
「おい先輩。何が簡単だって?」
「う、ば」
何を言おうとしたのかぎろりと俺をにらんで口をパクパクしては、やめた。
「ふん、私なんかどうせ一時の火遊びだったのよ」
「ぷっ!? あ、あのそれ意味知ってます?」
知ってたらしってたで、知らなかったら知らなかったでどっちも問題な気がする。
「ええ、結局畜生は畜生ということよ。見境なしの雄どもめ。せいぜい15年若年の短命、末永く楽しんじゃなさい」
いいえ、いっそ死んじゃいなさい、と。うまいことでも言ったつもりか。
あとなんでこっち見て言ってんだこの人。俺にも言ってるつもりか。
「犬相手に言いすぎでしょうが。飼い主よりひいきされたいとか何様だよ」
すると少しずつ吠え声が近づいてきた。
走ってくる犬の後ろに望月先生の姿が入った。
飼い主より早く目的地に着いた犬は隣のへそ曲がりに飛びついた。
「……」
端から終始を見ていた俺は、思わず笑いこぼすのを我慢していた。
「さっ、先に言っておくけれど、謝らないわよ」
「お人が悪いこって」
だが俺は確実に聞き取った。そっと犬の耳元に「ごめんなさい」と伝える彼女の声を。
いろいろ言った気はするが、最終的にペットを飼う理由は簡単だと思う。
ぶっちゃけ、周りから見てもペットはかわいい。それが飼い主ときたら言うまでもないだろう。
それで十分な気がした。
ちなみに犬の名前はベッキー。
雌である。