意味ありげでありゃしねー先輩
「小学2年のときから思ってたんだけれど」
オレンジ色に染まる読書部室の中、優雅に湯のみをゆすりながらその人は言った。
テーブルの上に読みかけてある今朝の新聞にはどっかの番組でみかけた芸能人の顔面が遠慮なく載っている。
その記事のある題目を俺に見せながら神妙な顔で聞いてくる。
「この『~させていただく』という表現、あまりにも図々しいと思うんだけれど。どうかしら」
その突拍子のない質問に小2のときという時間帯まで正確に表す必要があったのかはともかく、どうしてそういうことを言い出すのかすら考えても時間の無駄なわけで、俺は適当に聞き返した。
「どうとは?」
「ちょっと考えればわかることよ。もともと『いただく』とは『もらう』の敬語ではあるものの、『~させてもらう』自体、使い方によって相手の意志とは無関係に話者の方から『私はやりたいようにやるから貴方はそれを受け入れなさい』という意味にも使えるでしょ? なら『させていただく』とは結局、丁寧に我を押し通してると言っても過言ではないわよ」
ひねくれた考え方もここまで来たら大道芸だ。
「考え過ぎですよ」
「どうして?」
「もともと『させていただく』という表現は、相手側に許しの意志がないと意味をなさないんですよ。正確には、相手側の意志がないときの場合、先輩が言った通りただの無理強いですが、それはおっしゃる通り無礼で本来の使い方ではないですね」
今ので正しい答えになったかはわからないが、言葉をはじめからただただ否定的に受け取るよりはマシになっただろう。
そして先輩はぐんっと首を縦に振った。
「なによ。やっぱり私の思った通りじゃないの。これほどまでに礼儀なしの文法なわけね」
「あの、俺の話、聞いてました?」
「もちろんよ。貴方の話を総合すると、結局使い方によっては無礼になる、そして私がもともと言いたかったのはこれがその使い方のど真ん中の通りぬく一例ってことなのよ」
はじめに先輩がこの話題を持ち出すきっかけとなった新聞をもっとよく見えるよう俺の手元に置いた。
さっきはパッと見てわからなかったが、内容はこうだ。
家庭持ちの有名な芸能人が愛人との不倫行為が発覚されたという、意外とありふれた記事。その内容中、ゴシップ誌の記者からの質問に『こんなでっち上げに付き合うつもりはない。コメントは遠慮させていただく』という述べがあった。
これが一体なんだってんだろうな。まったく。
そもそも先輩って何がしたいんだろうな。この芸能人を罵りたいのか純粋にこの表現が目に入って気になっただけなのか。
「ってかこの新聞どこで手に入れたんですか。嗜むようなもんじゃないでしょ」
ましてや女優やグラビアアイドルの裏事情などが大々的に載っているところ、ろくでもないものじゃないか。目に毒だろ。
写真とか本当に刺激的で困るんだよなぁ。
「私のじゃないわ。保健室にあったからもってきただけよ」
「勝手に持ってきたらだめじゃないですか」
「ふん、ちょっと借りただけよ。帰る前に戻すわよ」
いや、すでに放課後なんだけどなぁ。帰る前とはすなわち今じゃないかな。
「とにかく私はこの表現が気に入らないわ。この記事だって『取材には応じません』か『お答えできかねます』とか、それこそ言ってしまえば『てめぇに差し入れる飴なんかないんだよ! ふぁくゆー』とかでもいいと思うのよ。敢えて『させていただく』を使うところを見ると、どうも私には『あんたなんかに礼儀立だす気は微塵もないけれど一応自分の世間体のために仕方なくやってる』としか読めないわ。だからいやよ」
真ん中あたりでどうも聞き逃せない部分があった気がするが、いちいち気にしたら負けだろうな。うん。
「この内容の状況なら仕方ないでしょ。嘘か本当かはともかく相応な対応だと思いますけど」
「貴方がそこを理解しているところも気に入らないわね。こういう回りくどい表現を使うことに貴方も抵抗がないということ?」
「なぜそこで矛先がこちらを向くんですか。そりゃ場合によっては俺もこういう表現を使ったりしますけど、だからって無闇に使ったりはしてないですよ。恒例の敬語として使うとき以外は、そうですね。めったにないですが親しい仲の間では軽いノリで使えるかな」
「軽い乗り? どういうこと?」
うーん、自分で言っといて今いちピンとこないが、まああれだ。
「例えば仲のいい女の子の家に遊びに行ったとして、急に『今日、両親が旅行でいないんだけど泊まってかない?』とか聞かれたら『ははは、そりゃさすがにダメだろ。遠慮させていただきます』とかいう冗談交じりの流れにー、ってなんですかその目は」
自分でゴシップ新聞とか持ってきたくせにえげつない視線を送ってくる。
「どうかしたわけではないけれど、ただあれよ。貴方、思ったより考え方が不憫というか……いえ、なんでもないわ」
切るならせめて重要な部分は聞こえないようにしてくれないかな。
「あの、一応補足しておきたいんですけど例え話ですからね」
「ええ、わかり切ってるわ。私のせいよ。ごめんなさい」
わかり切るな。そこはむしろ乗り切ってほしかった。
「と、とにかくこのように使い方によっては何の問題ない表現なんですよ。そもそも言葉ってのは使い方や状況によって意味合いが変わるものですし、それこそ気に入らない部分をいちいち数えてたらまともに話すことすらできっこなしですよ。そもそも問題ある表現だったならすでに時の荒波に消え去ったでしょうが」
もっといろいろあるとは思うが、このあたりで納得はできるはずだ。いくら先輩がひねくれているとしてもこれ以上無意味な疑問は持たせたくない。
何せいつも絡まれるのは俺のほうだから。
「確かにそうね。他の表現も使い方によっては意味合いが変わるー、でもやっぱり嫌いなものは嫌いよ」
開き直ったらもうどうしようもないんですが。
「しかしそうね。まったく同じ表現でも関係によって使い分けられる、と」
先輩は一つ落ちを付けたかのよう、話題の代物を畳んでお茶を飲み干した。
俺は俺でどうでもいい問答での精神的な疲労をライトノベルなどで晴らしたいわけで、今日読み損ねた一冊を再び手に取った。
オレンジ色に染まる読書部室の中、自由に動く二つの人影。そのうち一つがこの場を立ち去る前にやるべきことがあった。
「んで、先輩」
部室のドアに手がけたまま彼女は振り返った。言葉を口にしたりはせず、じっと俺の言葉を待っている。
今日も日頃の行いというべきか。原初的な疑問というべきか。
俺はきっと今回も払えないだろう愚問を投げかけた。
「あんた、何者なんですか」
今更といえば今更で、どうでもいいといえばどうでもいいことである。
しかし俺の知っている限り読書部員は最低人数の4人。彼女は歴代部員でも新入部員でも、人員足しの幽霊部員でも見かけたことなど決してない。
ましてやこの学校内で‘3年生’の俺に知らない‘先輩’など存在するはずもないわけだが、自分を‘先輩’と称した女は毎日のごとく俺の前にやってくるのである。
「だんまりですか、先輩。そろそろ答えを教えてくれてもいいじゃないですか」
すると彼女は唇に指を添えてじっと考える。
言いよどんだわけではなく、とても真剣にセリフを練るだけの空白。
「答えはー、そうね」
どう考えても滑り台になりかねない捨てセリフを残し、彼女は去った。
『遠慮させていただきましょう』
どの口が言えたものか。わざわざ首尾照応にするところがまた彼女らしいというべきか。そもそも彼女らしいのが一体なんなのか赤の他人である俺にわかるすべもないが、ただ一つだけ確かなものはある。
風のせいか単なる錯覚なのか。それこそいろいろ理由はあるはずだが。
ただ、いつも俺の耳にはドアの開く音が聞けていないという、気色悪い疑問が拭えないのだ。