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緑男  作者: とるとる映
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書き途中

緑男(みどりおとこ)

 

 あれはもう何十年も前になる。

 初夏の日曜日、俺たちはラムネをしゃぶりながら、シニアリーグの練習試合からの帰路を意気揚々と歩いていた。ラムネは監督の奥さんから配られたいつもの「ごほうび」だった。俺は他のみんなの話に相槌を打ちながら、川原の練習場近くにある鉄橋が橙色の西日に照らされてぎらぎらと光っていたのになんとなく意識が向いていた。道路沿いに生えた雑草から田舎臭い匂いがほのかに漂っていて(当時の俺は知らなかったが、大人になってそういう環境から離れてやっと気づいた匂いだった)、頭上では何か鳥の群れが矢印になって横切っていた。

 それからしばらくして住宅街を貫く県道を歩く頃には各々の試合中の小さくて拙い武勇伝がひとしきり語り終えられ、

「じゃあ、また、俺ん()で。待ってっから」

 マサヤは手を振って、彼の家の方向へ大通りの車道を急いで横切っていった。反対側の歩道に着いてから、いくぶん足取りはふわふわと軽くなった。

「友達をさ、自分家()に呼ぶのって、なんか、こう、()()ずかしくない?」

「わかる! 逆におとんやおかんの友達なんかが来ると、妙に身構えちゃうんだけどな」

 このとき、確か最初に言ったのがヨウヘイで、次がナオトだ。二人は家が近所で、学校のある平日も休日の練習のときも、二人はいつも仲良く一緒に帰っていた。

「じゃあ、またな、キョウスケ!」

「遅れんなよー!」

 言い訳しつつも、マサヤと同様に浮き足立っている様子を隠しきれてない二人が去っていくのに手を振って、それから、俺の眼は鋭くなった。二人が行った方向と逆、独り狭い路地をいくつか走り抜けて最短ルートで家を目指す。試合後の肩はいつも重いけれど、今日はいつにも増してキツかった。それに、道中で夕方五時に鳴った市のチャイムが自分を追い立てているようで、つい無理して走るペースを上げてしまう。


本当は自分も今晩の予定に胸を膨らませており、鼻息を荒くしているのだ。


 ――なんて、俺には絶対にありえないことだった。

 

 着いて、玄関のインターホンを鳴らす。一回目のコールですぐに扉がバンッと勢いよく開いた。しかし、出た人物はそれとは裏腹に、深く沈んだ声だった。

「…兄ちゃん、今日もママとパパ、喧嘩してるんけど」

 ハヅキは水色のデニム・スカートの端を両手で弄んでいる。

「今日、本当に大丈夫そうなん…?」

 上目遣いのハヅキの肩を押して、とりあえず家の中に入って扉を閉めた。

 俺は出来るだけ、落ち着いた声を出せるよう、かすかに口元を緩ませながら小さく息を吸った。

「ん、大丈夫。それよりも、ちゃんと兄ちゃんの分のお菓子も用意してくれたか?」

 と、俺は笑って言った。

「うん、お兄ちゃんはコンソメ味のポテチ、私はグミだよ」

「グミは何の味?」

「んー、…わかんない。フルーツミックスだから」

「そっか。よし、じゃあ、着替えとお菓子をバッグに詰めて、部屋で待ってて。あとちょっとしたら、出発だ」

 ハヅキの頬がみるみるうちに桃色に染まり、見開かれた瞳が玄関の灯りの橙色をはらんだ。

「わかった!」

二階の兄妹部屋へと続く階段をトタトタと軽快に上っていく。そして、俺は自分のぬかるみへと戻っていった。


「だからっ、いちいち痛がってんじゃねぇっ! 何とか言えよ!」

 野太い叫び声と金属質な何かが割れるような音が居間から聞こえた。扉を開けると、そこには腕で顔を覆いながら座りこんだお母さんと、立って顔を上気させた父の姿があった。お母さんの服は茶色く濡れていて、近くに小さなガラスのコップが転がっていた。

「どうしたの、お父さん」

「ああ、おかえり」

 と、俺の方には見向きもしないで言った。

「…こいつな、また飯に髪の毛入れやがったんだ」

 そう言って父はまたお母さんに「不味くなんだろうがっ!」と咆哮を浴びせた。お母さんの肩はぶるぶると小刻みに震えていた。

「…お父さん、大丈夫だって。多分、たまたまだよ」

「たまたまも何も、ついこの間もあったことだろうが。わざとやってんだよ、こいつは」

 尚もお母さんはずっと伏し目がちに押し黙ったままだ。

「髪の毛って、他のおかずにも入ってるの?」

 このとき、初めて父の目がじろりと俺に向いた。

「さあ、わからんな。でも多分入ってるに決まってる」

 と父は当たり前じゃないかという顔で言った。こんなときはいつも体の中の薄い粘膜が冷えてしまうような、気持ち悪い気分が湧き上がってくる。父のことが憎い。しかし、実の息子である以上、きっと自分にも父と同じ狂気的な部分があるのかもしれない…。

 結局どう答えればいいのかわからなくて、口からこぼれたのは何の変哲もない陳腐なセリフだった。

「じゃあ、それはもう俺とお母さんが片付けるよ」

 言って、これは少し嫌味なセリフだなと気付いた。父の額にみるみるうちにしわが寄って、眼光が鋭くなっていった。

「お前、それはどういう――」

「ほっといてよキョウスケっ! 別にいい! 私が片付けるから!」

 口を挟んで、お母さんが激しく喚きだした。赤子のようで、二、三セリフをただ繰り返しているだけだったが、最後に顔をフローリングに突っ伏してしくしく泣き始めたころには、父の眼光は薄くなっていた。

「…もういい。俺は今日は外で食べてくる。キョウスケも一緒に来ないか?」

「俺はいいよ」

「遠慮するな。どうせ家に夕食はないんだし」

「ううん、そうじゃなくて、実は今日これから友達ん家に泊まる約束があったんだ。言い出すの遅くなってごめんなさい」

「なんだ、そうだったのか。いいよ、わかった。夜道は気いつけろよ」

「うん、ありがとう」

 父は俺の方をちらっと見ただけで、居間を出て廊下をドスドスと粗雑に歩いて行った。

 父が去っていった後の居間には嵐の過ぎた後の気だるい空気が漂っていて、少し居心地が悪かった。お母さんは少し何か考えていたが、やがてガラスのコップを拾って無表情に立って、テーブルに並んだ料理を片付け始めた。

「今日、これから友達ん家に泊まるから、帰るの、明日になるから。それと、これ、ハヅキと俺が食うから、持ってってもいい?」

 俺はチャーハンが盛られた大皿を指さしてお母さんに聞いた。お母さんはにっこりと笑って、何も言わなかった。


 俺は砂まみれのユニフォームをようやく脱いで、洗面所の洗濯機の中に突っ込んだ。トランクスとタンクトップだけの姿になって、洗面台で顔をざぶざぶ洗った。しかし、何度洗っても額と髪の毛の境界線から砂がこぼれてきて、結局、そのまま頭も軽く洗った。

 顔を上げると、目の前の鏡にタオルを持った妹の姿があった。振り向いて、差し出されたタオルを受け取った。

「…兄ちゃん」

「ん? どした?」

「…大丈夫?」

「何が?」

「その、…パパとママのこと」

「あー、うん。大丈夫。なんとか収まった。それと、お父さんがああだからなかなか言い出せなくて、、急いで帰ってきたんだけど、うん。大丈夫。ちゃんとお泊りの許可はとれた」

「そうじゃなくて…」

「ん?」

「…ううん、なんでもない」

「…なんかよくわかんねえけど、話せるようになったら、話してくれな」

「うん。じゃあ、玄関で待ってるね」

「おう、すぐ行く」

 ハヅキは生まれつき精神に障害を持っていて、そのせいで他人よりも自分の気持ちをうまくしゃべれないと昔お母さんが教えてくれた。だから京介が守ってあげるのよ、と付け加えたのは多分ちょうどそのころ父が暴行を起こして工場をリストラされて家族にも暴力を振るうようになったことと関係があるのだろう。


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