表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
白い雷  作者: 黒崎蓮
ヒマリア編
7/28

第6話: ’ワタシ’という名の檻

 その時は確か高等学校は冬休みで、リズは図書館の自習室にいた。

 山積みになった本を机に置いて、紙にペンを必死で走らせていた。

 その表情は真剣そのもので、周りには誰も寄せ付けない‘壁’のようなものが見える気がした。

 自習室はガラス張りになっていて、外から何気なしに眺めていたら見知った顔があったから、その様子を見ていただけだったのだけれど。

 偶然、俺は顔を上げたリズと目線が合ってしまって、思わず手を振ってしまった。リズもそれを返さないのは悪いと思ったのか、手を振りかえしてくれて、ペンを置き、自習室を出てわざわざこっちに来てくれたのだった。

「別に、良かったんだけどな。そのまま勉強に集中してくれれば」

 無人販売機で飲み物を買ってから外に出て、俺はリズに開口一番そう言った。

「私も息抜きしようと思ってたところだから、ロイが来てくれてちょうど良かったよ」

 茶色の液体―栄養ドリンクだろうか―の入った瓶に口をつけて、リズは少し疲れた表情で言った。どれくらい勉強をしていたのだろう。あんなに本を山積みにして、何かを書き留めていた紙も、数枚どころの量じゃなかったように見えたけど。

「今日は、トニーは一緒じゃないのか?」

「え、あぁ、トニーはいつも図書館には付いてこないんだよ。『こんな静かな所にいられるかー!』って。あはは、トニーって本当おもしろいよね」

 コロコロと、そんな擬音が似合うような笑い方をして、リズは自分の恋人であるところのトニーを面白がっていた。ここでエリンなら『あのおバカを図書館なんかに放り込んだら死んじゃうよ!』とかを続けて言いそうだなとか思って、俺もつられて笑ったのだったか。

 「でも、今日のノルマをクリアしたらトニーとご飯を食べに行くんだ。それを楽しみにして今日は頑張ってるの」

 続いてリズは本当に楽しみにしているふうに、伸びをしながらそう言った。

 本当、このカップルは仲の良いまま続いているなと微笑ましく思いつつ、少し安心する。

 仲が悪いより、仲が良い方がよっぽど良いのだから。

 俺とエリンがこの二人と仲が良いから、尚更に。

 そんなことを思いながら、確かホットココアを口に運んだのだった。

「ロイは、今日はどうしてここへ? 何か調べもの?」

 俺がここにいるのが珍しいからか、リズが質問してきた。

 確かに俺はほとんど図書館にくることなんてない。封魔師や魔に関する資料ならギルドの方が豊富だし、冬休みの宿題をやる気にもなれなかったし、息抜きに小説を読むにしてもやっぱりそんな心の余裕がなかった。

 その時の俺は、何か行き詰っていた。

 息が詰まっていた。

 このまま封魔師になるために勉強して、魔物と戦う力を手に入れて、そのまま封魔師として生きるという選択は間違っていないのか。

 このまま自分の道を突き進んで、間違っていないのか。

 他の道を選んだ方が‘正解’なんじゃないのか。

 認定試験の勉強に、リッキーさんとの修行に、嫌気がさしたというわけではなく、そんな漠然とした不安が、何よりも俺の心を占めていたのだった。

 だから当てもなくぶらぶらと、休みの時間を利用してさまよっていた。

 たどり着いたのがなぜか図書館だった。

 そんなことをリズに簡単に話したのだった。

「うーん、ロイが封魔師になって正解なのか間違っているのかっていうのは、ロイが封魔師になって、ある程度仕事をした後に分かるものじゃない? 今の段階で悩むのは、無駄とまでは言わないけど、ちょっと急ぎすぎなんじゃないかなーと私は思うな。実際になってみて、例えば二年くらいやってみて、それからじっくり時間をかけて考えてみる。そうやって職を転々として、今自分に合う仕事を、胸を張って頑張っている人を私はいっぱい知ってるしね。そういう人たちからはよく、『若いうちは、若いんだからよく考えて生きなさい』みたいなことを言われるんだ。受け売りだけど、今のロイにはこのアドバイスがぴったりかも」

 なってから、正解だったのか間違っていたのかを考える。

 思えば当たり前のことで、リズに言われて確かにと納得しかける。リズに言われると尚更、いつだって正しいことを言われているような気がしたのだ。俺たちと同世代とは思えないような経験の広さと考えの深さをたまに見せるから、余計に信じてしまう。

 いつも通り、なんだかその流れに流されるのも面白くないし、引っかかるところもあったから、少し考える素振りをしてから俺は言った。

「でも、そういうのってずるい感じがしないか? なんかこう、あとだしじゃんけんみたいでさ」

 後出しじゃんけん。

 何かをしてから、その良し悪しを考える。

 俺はそこに、相手が出す手を見てから悠々と自分の手を後出しする、みたいなズルさを感じたのだった。今となっては分からないけれど、その時は本気でそう思ったのだ。

「ぷ……あははっ、ロイって、もしかして結構ピュア? いや、真面目なのかな?」

 そんな俺の疑問に、リズは吹き出した。少し間をおいての笑いだったので、答えを待っていた俺は拍子抜けする。

「な、なんでだよ」

 ピュアは置いておいて、真面目は言われたことはあるけど、真面目はどちらかといえば断然リズの方だと言って訊き返す。

「だって、じゃんけんって……。まぁでも、これも受け売りなんだけど、私たちは若いから、何かを変える自由とかチャンス-ロイ風に言うなら‘後出しじゃんけん’をする機会はいくらでもあるんだって。だからもし迷っているなら、今からでも自分に向いてるのを探せばいいと思うし、なってから考えるってのでも良いと思うし。それこそロイの自由だよ」

 上手くはぐらかして、リズはやけに大人びたことを言った。なんだかビアンカさんにありがたい話をされている時と同じような感覚になって、しばらく考え込む。

「それにさ、もし‘じゃんけん’だって言うなら、私は―」

 ずっと勝ち続けなければならないじゃない。

 リズがそう言った表情を、その時の俺は見ていなかった。

 なんだそりゃ、と言った俺に、リズはなんでもないと返したから、それ以上訊き返すこともなかった。

 でも、今ならわかる。

 あの時のリズは、きっと泣いていた。

 表情ではわからなくても、その時はすでに泣いていて、傷ついていたのだろう。

「ロイ、じゃんけんしようよ」

 突然そう言われた俺は、特に疑問も感じずにそれに応じる。

 じゃーんけーん。

 俺はパー。

 リズはチョキ。

 見ての通り、後出しする余裕もなく、俺の一発負けだった。



 ―ヴゥン。

 そんな鈍く重い音が耳に入った途端、黄色い、三日月型の衝撃波が、ヴンディッド・キャットに一直線に向かっていた俺の視界を覆う。

「―!」

 飛んでくる衝撃波は左右に二つ、俺に向かって真っ直ぐに。

 俺は身体を左にステップを踏み、右側にあった衝撃を躱し、左の三日月を雷鳴で払いのける。三日月型のアステルの刃の感触は、重い空気の塊を斬っているような、ともすれば消えてしまいそうなもの。それでも、触れれば確実に対象を切り刻むような胆の冷えるような感触だった。

 雷鳴に弾かれた三日月は狙う対象を失い、芝生を、地面を抉りつくして消滅する。

 あれが直撃すればいくら雷衣でも抑えきれない。

「あっぶなーい! ロイ、避けるなー!」

 後ろからエリンが無茶な文句を垂れる声が聞こえた。

 ちらりと一瞬顔を向けると、頬を膨らませるエリンと、呆然と立ち尽くすトニーの顔が見えた。すぐ隣の石の塀は、さっき俺が避けた三日月に当たったためか、煙を上げながら粉々に砕け散っていた。

 エリンはさすがに馴れているからか、いつもと変わらない調子だったが、トニーはこれが魔物と遭遇する初めての経験なのかもしれない。青白い表情で、もちろんエリンのように俺に悪態をつく余裕なんてなさそうだった。

 そりゃそうだ。それが当たり前だ。

 トニーのような‘普通の人たち’に、魔物の被害どころか、魔物の姿すら見せず、安全に暮らしてもらうために封魔師みたいな存在がいるのだから。

 ましてや、今目の前にしているのは恋人であるリズが生み出した魔物なら、そのショックが大きくないはずがない。

「くっ、エリン、トニーを連れて逃げろ! お前ら守り切る自信、正直俺には無いぞ!」

 正直に、俺は言った。強がって最悪の事態に陥ったら、取り返しなんてつかない。言っている間にも、黒い尻尾が鋼のような硬さで襲い掛かってくる。

「戦うのはロイの仕事。守るのは私の仕事……! 大丈夫、任せなさいって!」

 エリンは逃げるどころかそう言って、両手を空にかざし始める。

「バブルドーム!」

 エリンの叫びに呼応するように、両手から青白いアステルの奔流が渦巻き出す。渦はエリンと、それからトニーを覆うように広がっていき、最後には半円状で半透明の水の膜が出来上がった。

 バブルドーム―水属性の星心術。リッキーさんとの修行の時、本当に最初期に覚えようとして、習得した星心術だったか。水の膜で覆った対象を、敵の攻撃から守るためのバリアのような術。確かにそれなら少しの間、ヴンディッド・キャットの攻撃が流れてきても防げるかもしれない。

 少しの間なら、だ。

「バカ言ってんな! お前のバブルドームもせいぜい俺の雷衣と同じ防御力……あの三日月なんて喰らったら―!」

「―だそうですよ、‘猫’」

 俺が全部言い終えないうちに、今まで口を閉じていたスミレさんが、そう言ったのが聞こえた。

 ―ヴゥン。

 精神を逆なでするような低い音が直後、耳に入る。

 俺は咄嗟に振り向いて走り、迫る衝撃波を次々と薙ぎ払っていった。狙う対象は俺からエリンとトニーに変わったようで、断続的に、あらゆる方向から刃が飛んでくる。

「雷火飛散!」

 ‘雷鳴’が輝き、火花を散らす。その火花は光の針になって、黄色い刃に向かう。

 パン、パンという破裂音と一緒に、それらの刃は方向を誤り、いくつかは消滅して狙いとはまったく違う地面を抉る。

 エリンの方を確認すると、まだ逃げようとしない。それどころか腰に掛けてあったポーチから、‘武器’を取り出していた。

 ‘女の子の武器’

 何が女の子の武器だ。そんな危険なモノが、女の子の武器であってたまるか。

 エリンが取り出したのは丸みを帯びたフォルムが特徴的な、一昔前に出回っていた短身の銃。持ち手と銃身の間には俺の雷鳴と同じようにアステル鉱石がはめ込まれている。

 ―フォーマルハウト。

 ビアンカさんから譲り受けたという、エリンの護身用の武器。

 武器としてだけではなく、使用者の星心術発動のサポートもできるアステリアル。

「バッシャーバレット!」

 エリンは術名を叫ぶと同時に、その引き金を引く。

 銃口からは、バブルドームに重なるように、幾何学模様が描かれた円形の光―術陣が出現する。大きい円の淵に描かれた小さい円から、勢いよく噴出されたのは無数の小さな水玉。

 いや、水玉と言うには優しすぎるそれは、‘水弾’と呼ぶべきで、飛来してくる刃を正確に撃ち抜いて対消滅させていく。

 キィン、バシャリ。

 雷鳴の火花がいくつか狙いを外して消えていくのに対して、フォーマルハウトの水弾は寸分違わず黄色の刃だけを消して、水となって消えていく。

 霧状になった水が、光の残滓に照らされてキラリと煌めく。

 星心術の精度と強度は悔しいけれどエリンの方が上。何度か恥を忍んでコツを教えてもらったくらいだ。

 だけど―。

「はぁ、はぁ……ほら、次来なさいよ……」

 その精度と強度を維持する体力はかなり不足していた。リッキーさんの『エリンさんは短距離走型ですね』という言葉が思い出される。

 今のでかなり体力とアステルを使ったようで、自身とトニーを覆う水の膜の形も見るからに危うく歪み始めていた。

「だから……なんで逃げないんだよ!」

「リズを救うには、トニーの力が必要なのよ……」

 近づいて声を荒げる俺に、エリンは息を切らしながら言葉を絞り出す。

 どういうことだ。

 リズを救うと言っても、今目の前にいるのはそのリズと、スミレさんが生み出したヴンディッド・キャットだ。

 あたりを見渡してもリズはいない。スミレさんは黒猫の背中に乗せたとか言っていたが、今はどこにいるんだという不安も同時にせり上がる。俺が見えていないだけで、近くに倒れていたりするのか?

 所々抉られて無残にもでこぼこになっている芝生に目を通すけど、リズの姿は確認できない。

 エリンの―療心師の本分として、リズに対する心のケアを言っているのなら、それはこいつを倒してからの話になるはずだ。

「やるしかないのか」

 考えれば考えるほど焦ってしまう。

 そう感じた俺は、二人を守りながら戦うことに決めた。

 どうにか、してやる。

 これ以上エリンに問いただしても、バブルドームの維持を邪魔するだけだ。

 意識を集中させる。

 雷衣を幾重にも重ねて、雷鳴にアステルを注いで構え直す。

「どうしても邪魔をするというなら、いくらお嬢様のお友だちと言えど容赦はしませんよ」

 無機質に、スミレさんは言って片手を上げる。

 その掌の中には、彼女が‘影石’と呼んだ禍々しい石。

 それが仄暗い光を発した刹那、ヴンディッド・キャットが猛る。物悲しく、叫んでいるようにも見えた。

 黒い体毛に浮かぶ傷という傷が、一斉に輝き始める。まるでヴンディッド・キャット自身が発光しているかのような眩しさに、俺の目がわずかに眩む。

 それでも狙いは直線上にいる黒い猫ただ一匹。

 そしてこの発光はこいつが三日月の刃を放つ前触れ。

「エリン、頼んだ!」

「言われなくても!」

 叫んで、俺は駆け出す。

 ―ヴゥン。

 同時に、前方から眩い光の刃が重低音を響かせて襲い掛かる。

 芝生を蹴って、蹴って、抉られた部分に足を持っていかれそうになりながらも進み続ける。

 体感する速度はむしろさっきよりゆっくりだけど、実際には一瞬の出来事なんだろう。

 いくつかは雷衣を貫通して、ジャンパーの袖を引き裂いていく。またビアンカさんに直してもらわないと。

 当たったら俺はバラバラだ。

 だけど俺は避けない。

 信じているから。

 訓練で何度この連携プレイをやったことか。

「バッシャーバレット!!」

 エリンの声が響く。

 バシャリッ、バシャッ。

 後ろから放たれた水玉、否、水弾が、俺を綺麗によけながら黄色い刃だけを破壊していく。その弾の速さは、まるで違う時間軸に存在しているのではないかと思えるほどの高速。気が付いた時には重低音も聞こえなくなり、身体を掠める刃もなくなり始めていた。

「―!」

 黒猫の顔が目前に迫った瞬間、時間差で傷が黄色く光るのが目に入った。咄嗟に防御の構えを仕掛けるも、俺が雷鳴で弾き返すよりも速く、水弾が光の刃を消滅させた。

 いける。

「雷鳴一閃!」

 俺は叫んで、刀身にアステルを纏わせて、真一文字に振り抜こうとする。

 もちろん、その赤い瞳に視線を合わせることはしない。

 ―ガチリ(、、、)

 そんな奇妙な音が響いて、俺は途中で斬撃を止められたことを悟る。

 雷の斬撃は、大口を開けた黒猫の牙によって受け止められていたのだ。

 ただそれだけなら。

 俺はさらに力を込めて、牙を、口を、そのまま身体すらも引き裂く勢いで押し返そうとしたはずだ。

 だけど。

 ―ごめんね、ロイ。

「……?!」

 そんな声を聞いてしまって、俺は反射的に見てしまった。

 赤色の、深い光を見てしまった。

 にやりと嗤う、スミレさんの顔が視界の隅に映った。

「がはっ……!」

 硬直した俺の鳩尾に、鈍い一撃。

 それがあの鋼のような尻尾からの一撃だったと分かった時には、その衝撃で吹き飛ばされ、石壁に身体を打ちつけられていた。

「ロイ?!」

 エリンの焦る声がどこか遠くで聞こえる気がした。答えようと口を動かすと血の味がして気持ち悪くて、上手く声を出せない。

 雷衣でダメージが軽減、拡散されたはずだけど、それでもかなりの損害だ。

 無駄に全身に衝撃が拡散されたおかげで、身体中が軋んで、揺れているような感覚になっている。

 尻尾から繰り出されたのは、例えるならこん棒の‘突き’。

 硬質な上に面積の狭く、それゆえに威力の高い打撃が、俺の身体の中心に直撃したのだった。

 なんとか動いた左手で腹を確認すると、ジャンパーのその部分は大穴が空いていた。それでも奇跡的に内出血程度で済んでいそうだった。雷衣を纏っていなかったら確実に身体の方に大穴が空いて、内臓をまき散らしていたのだと思うと胆が冷える。

「まだ……生きてる」

 冷える胆が残っていて良かったと思いつつ、俺はなんとか立ち上がる。口から出た言葉はほぼ無意識だった。

 ぼやけた視界で状況を確認してみると、俺たちが不利なのは火を見るよりも明らかだった。

 俺はこんな状況だし、エリンはアステルに限界が来たのか、膝をついて、バブルドームすら形を保っていない。トニーだけが歯を食いしばって立ち尽くしていた。

 前方を見てみると、ヴンディッド・キャットが得物を狙う獣のごとく、低い姿勢を取って俺たちを見ているようだった。

 さっきの声は、いったい何だ?

 あの猫から、確かにリズの声が聞こえた。

 幻聴、にしてはやけにはっきりと。

「あなたたちがここまでやるとは、正直思ってもみませんでした。さすがあのギルドにいる封魔師といったところでしょうが……。もうその様子じゃ戦えないでしょう。あなたたちも私たち(、、、)の復讐対象に入ってはいますが、それよりも……」

 俺の心の中にある疑問に答える様子もなく、スミレさんは無表情を崩してから、再びローズリーの豪邸を振り返る。

「あっけなく壊すんです。薬が効きすぎましたかね、そろそろ起きても良いんですよ、ユリア・ローズリー。起きて、括目しなさい。すべてが壊れるその様を……くふふっ……!」

 スミレさんは堪えきれない様子で、言葉を詰まらせる。

 この人は本気だ。

 ポール先生の家を壊した時のように、粉々に砕いて、バラバラに壊すのだろう。

 玄関のところで横たわっているユリアさんはピクリとも動かない。このままこの家を壊そうとしたら、ユリアさんはその下敷きになってしまう。

 そんなことになって、その後はどうするつもりだ?

 この人だって働く場を失うし、俺たちという目撃者がいる分、逃げられるはずはない。リズの暗い感情を代行して、それだけ済めば後はどうでも良いのか?

 そんなことはさせない。俺は雷鳴を構え直して、一人と一匹に向ける。

「いくら抵抗しても無駄ですよロイさん、エリンさん。他の封魔師が来るまでの時間稼ぎかもしれませんが、この家には結界を張った。封魔師ですら、誰もここに来ることはできない。それくらいの自信はあります。それくらいの力は手に入れた……! ははっ! 気分が良いですねぇ、こんな力を自由に使えるなんて!」

 魔物の宿主は結界なんていう高度な術も使えるらしかった。しかも‘誰もここに来ることはできない’と言ったからには、この場所に行こうとしてもなぜか迷ってしまうような、他人の感覚を欺く方の結界だろう。スミレさんの言う通り、ギルドの誰かが駆けつけてくれるのを待っていたというのもどこかではあった。‘陽動作戦’とやらに引っかかったロックがここに来るんじゃないかという淡い期待も。

 結界。

 ……ロックはこういう術に嵌められるとめっぽう弱そうだからなぁ。

 この事態を察知してこっちに向かってくれていたとしても、案外近くで迷ってそうである。

「どうしても先に死にたいというのなら……その願い、叶えて差し上げますよ」

 スミレさんは首だけこちらに動かして、冷淡に笑って、影石を掴んでいるのであろう右手を振り上げる。

 死にたいわけが、あるはずないだろう。

 ここまでやってきて、封魔師になれずに終わるなんて。

 友だちすら守れずに。

 友だちすら助けられずに。

 こんな状態で死にたいなんて言うくらいなら、四年前のあの時にすでに俺は息絶えていたはずだ。

 息絶えるのではなく、俺は生きたいんだ。

 生きて戦うんだ。

 そんな胸の内で雷鳴を強く握るけれど、アステルをだいぶ消費してしまったようで、さっきまでのように強く光ることはなく、なんだか弱々しかった。

 そんな弱い光すらも踏みにじるように、今度はヴンディッド・キャットから俺に駆けてくる。

 芝生を踏みしめて、さらに地面に歪みを作って。

 エリンの水弾はもう期待できない。俺の力でも、受け止めるのがやっとだろう。

 だけどできるのはそれくらいしかない。

 できるかもわからない。

 衝撃をなるべく抑えるために、俺は雷衣―かなり薄い膜になってしまったが―を身に纏う。

 ヴンディッド・キャットの牙が俺を喰らうまで、あと、三歩ほど。

 受け止めて、やる―。


「なーに諦めようとしてんだよ、ロイ」


 上空から、そんな聞き覚えのある声が降ってきた。

 聞き覚えがあって、聞き慣れていて、ウザったいなぁと思ってしまって、脱力してしまうような、そんな声。

 刹那。

 ばすん、と肉を断つような嫌な音に、俺はヴンディッド・キャットの背中に一本、黒い線が突き刺さっているのを確認する。

 ヴンディッド・キャットは時が止まってしまったかのように動かない。

 それは線ではなく、一本の黒い太刀。

「ロック……」

 黒い太刀―それはロックの‘水無月’だった。

 それを認識した直後、再び時が動き出した合図のごとく、黒い魔物の悲痛な叫び声が響いたのだった。


「ようやく本性現しやがったな、メイドさんよぉ!」

 ロックは長方形の豪邸のてっぺんに堂々と立って、声を張っていた。遠目から見ると何か、いや、誰か(、、)を抱きかかえているように見える。

 隣にはミラもいた。尻尾が垂れ下がっていて、項垂れていて、どことなく落ち込んでいる様子が気になったけれど、特に怪我とかは無いようだった。

 黒い一人と白い一匹は三日月を背に立っていて、おとぎ話に出てくるヒーローのようだった。

 ほんと、演出好きなおっさんだ。

「ロック、ですって……? この結界を掻い潜ってたどり着いたと言うの?」

 スミレさんが、心底信じられないという声色で呟く。

 それにロックは不敵な笑みで応えて、その場から飛び上がる。次に瞬きをした時には、ミラと一緒に俺と、苦しむヴンディッド・キャットの間に立っていた。

 刀身は腹を貫いて地面に突き刺さっているようで、ヴンディッド・キャットは前に進もうとはしているが、下手に動くことはできない様子だった。

「オジさん!! 良かった、なんか、‘よーどーさくせん’? に引っかかって迷っちゃてるのかと思った!」

 エリンが泣きそうな声でロックに叫ぶ。その声に俺もようやく飲み込めて、安心からか身体中の力が抜けたような感覚になる。

「まーな、俺だけならここに来れなかったかもしれねぇな。だけど、俺と一緒にうちの猫(、、、、)が付いて行ったことを見逃したのが、このメイドさんの運の尽きだってわけだ」

 得意げに、ロックは隣に佇むミラを顎で示す。

「すまんな、ロイ。本当に申し訳ない。こんな誘導に引っかかるなど、普段では考えられんミスだ……」

 得意げに示されたミラの方はと言うと、こっちに申し訳無さそうな表情を向けて謝ってきていた。

「……」

 やめてくれそんなつぶらな瞳で見つめられたら許すしかなくなるだろ。

 それに結界を破ってロックをここまで連れてきてくれただけで十分仕事はしてくれた。

「宿主とはいえ、この子を囮に俺たちを巻こうってのは感心しねぇよ、マジで」

 ぼそりと呟いたロックに視線を移すと、やっぱり誰かを抱きかかえているようだった。

 短い栗色の髪。薄い水色の寝間着に包まれた手足が、ロックの腕の隙間からだらりとぶら下がっている。

「リズ? リズなのか?!」

 誰よりも早く気が付いたのはトニーだった。

 今まで一言も喋らずに状況を見守っていたせいか、声はガラガラに枯れていたけど、その名前はしっかりと呼んだ。

「だいじょーぶだ、トニー。この子はちゃんと助かる。だからもう少し待ってろよ」

 ロックは俺たちの方まで歩いてきてから言って、リズをトニーに慎重に抱えさせる。気絶しているのか寝ているだけなのか分からないが、外傷は無いようだった。

「ロックさん、ありがとう……。俺、リズに謝れないまま、このまま……」

 トニーは嗚咽で言葉を詰まらせながらリズを受け止める。

そんなトニーの様子を見届けてから、ロックは二人に向けてぱちりと指を鳴らす。するとすぐに、二人の周りに瞬時に半透明なドームが出現した。見た感じこれもバブルドームなのだろうけれど、さっきエリンが施したものと比べて、だいぶ頑丈そうだった。見た目は大差ないのだが、なんというか、エリンのを泡のバリアとしたなら、ロックのそれはガラスでできた堅牢な城壁、といった感じだ。

「バブルドーム。これがあれば、あんなやつの攻撃なんてぜんぜん効かねーぜ」

 白い歯を見せながら、自信たっぷりにそんなことを言う。普段なら軽くいなしてしまうそれも、こんな状況だと頼もしい以外の何物でもなかった。

「さて、メイドさんよ。言いたいことは山ほどあるが……」

 振り返って、ロックは表情を厳しいそれに戻す。目つきは射抜くように鋭く、いつものおちゃらけた雰囲気はどこへやら、別人のような風格が感じられた。その表情のままつかつかと歩みを進めて、俺の隣で止まる。

 対するスミレさんは、ロックの視線に怯んだ様子で一歩、後ずさる。

「お嬢様のため、か。よくもまぁ、そんなこと言っといて、その大事なお嬢様を、俺をおびき出すための囮なんかに使いやがったな。それだけであんたの言葉は嘘くさいっていうか、胡散臭いってのに……」

 ロックは言って、周囲を見渡すためか、首をぐるりと動かす。俺もつられて見てみると、改めてひどい状況だということが分かった。

 入り口、鉄柵の門を始めとする豪邸を覆う石壁は、粉々に粉砕されていた。昼間に見た時には青々と綺麗に駆り揃えられていた芝生も、抉られ、踏みにじられてぐちゃぐちゃになっている。そんな荒れ果てた中でぽつりと、ローズリー邸だけが虚しく威厳を放っているようにも見えた。

「本当に、こんなこと望んでいたのかよ。なぁ(、、)リズ・ローズリー(、、、、、、、、)

 ロックは振り返らず、前に声を飛ばすようにその名前を呼んだ。

 リズはトニーに抱きかかえられてロックの後ろにいるはずなのに、なぜかスミレさん―いや、目線は完全にヴンディッド・キャットの方に向けて、その言葉を言っているようだった。

 ただ叫んだだけ。そうとも見えるロックの様子に、俺は少しだけ違和感があった。

「な、なにを言っているんですか……」

 スミレさんが俺の気持ちを代弁するように呟く。ただ、それはかなり動揺した様子で、何かに怯えているようにも見えた。

「ほんとは、ほんの小さな不満だったんじゃないのか。ひとりでに漏れちまった弱音だったんじゃないのか。それは放っとけば、新しい道へと進める、選択肢を選べる、そんなきっかけの感情だったんじゃないのか。それをそこのメイドさんが、主人に対する自分の憎しみを晴らすために利用した。本当のところは、そうなんじゃないのかよ」

 ロックは目を細めて、独り言のような、誰かに語り掛けるような、どちらともつかない口調で言葉を紡ぐ。

 ロックが何を言おうとしているのか、いまいち掴めない。

 でも、確かに被った。

 四年前、あの人をこちら側に(、、、、、、、、、)呼び戻すために(、、、、、、、)必死に説得(、、、、、)しようとしたあの時と(、、、、、、、、、、)、ロックの姿が被ったのだった。

「何を言うのかと思えば……。私は徹頭徹尾、お嬢様のためを思ってこんなことをして……!」

「あんたには聞いてねーよ。あんたがそう言うのが本当なら、なんであんたは自我を保って(、、、、、、)いて、リズはこんな状態(、、、、、)なんだよ?」

 ロックがスミレさんの言葉を遮って、語気を荒げる。責めているような、挑発しているようなそんな口調で、俺は戸惑う。

 こんな状態? 見たところリズは眠っているように見える。

 ‘陽動作戦’がスミレさんの計画の一つだから、玄関で横たわっているユリアさんと同じように眠らされているだけではないのか?

「心を闇に病んだ名家の娘。それに同情した忠誠心の高い使用人は心を鬼、いや魔にしてその原因である家と主人を倒そうと決意する。涙を流しつつ、破壊の限りを尽くし、すべてを終えた二人はどこへ行く当てもなく旅に出る……。そんな展開だったんだろうよあんたの中では! だが生憎、俺は聞いちまったぜ。あんたの心の叫びを。あれはどう聞いても、‘お嬢様のために仕方なくやった’くらいの感情じゃない。もっと大きくて、激しい個人的な感情。あんた自身の憎悪、殺意、狂気。それくらいの言葉でも生ぬるいくらいの負の感情。それこそ、今あんたとヴンディッド・キャットの周波相は同じ色を、波相を、振動をしているように見えるぜ……!」

 ロックは口元を少し上げて、細めていた目を開く。その眼には何が映っているのだろう。俺にはうっすらとしか感じることのできないスミレさんとヴンディッド・キャットの周波相が、同じように見えるのだろうか。 

 スミレさんを見ると、まるで推理小説で犯行の方法と動機を同時に言い当てられた時の犯人のように、その顔には焦燥の色が浮かんでいる。

 ヴンディッド・キャットを見ると、背中に‘水無月’が突き刺さっているままだからか、苦しそうに呻き声をあげながら、もがいていた。

 どちらも苦しんでいることに変わりはなかった。その意味ではどちらも同じ存在と言えるのかもしれない。そうなのだと言われれば、そう見える。

 でも。

 やっぱり違う。

 ヴンディッド・キャットはスミレさんが生み出したと同時に、リズが生み出したモノでもあるから。

 そしてその違和感の正体は、次のロックの言葉で分かることになる。

「それを今もなお、必死に食い止めようとしているんじゃないのか、リズ!」

 ロックの呼びかけに答えるかのように、ヴンディッド・キャットはその動きを止めた。

 泳ぐように手足を動かすのも、猫が威嚇するときに出すような鳴き声も止めて、飼い主に怒られた一匹の飼い猫のように項垂れて、

『―ごめんなさい』

 そう、口にした。

 黒猫から発せられたその声は紛れもなくリズの声であったけれど、俺は確信することができてしまった。後ろでトニーに抱きかかえられているはずなのに、それがリズの声だと咄嗟に判断できてしまった。

「良いんだよ、謝るな。うちのロイとエリンを殺さないでいてくれただけでもめっけもんだ」

 ロックは表情を崩して、穏やかな声で言う。

 その意味がよく分からなかったけど、すぐに悟る。この声は、俺の‘雷鳴’とヴンディッド・キャットの牙が重なった時に聞こえた声だった。

 ―ごめんね、ロイ。

あの時の声は、リズのものだったのだ。

『こんなことに、みんなを巻き込みたくなかった……。でも、止めて欲しかった……。私じゃもうどうにもできないから……!』

 ミラと同じく、これも念話なのだろう。頭に直接響くような声だった。悲痛な響きが、俺の頭を、胸をかき乱す。

『うぅ……うううウウウウぅぅぅ……』

 気づけば黒猫は、涙を流して泣いていた。こっちまでもらい泣きをしてしまいそうな嗚咽が、すすり泣きが胸を締め付けるようだった。

 あの時と、そして今聞こえている声はリズのものだということ。

 それが意味していること。

「リズはすでにこの黒猫と同化しかかっている。どうやったか知らねーけど、その黒猫は二人の心で作った魔物なんだろ。それでどちらかの心が同化―つまり飲み込まれたってことは、もう一方の心が強すぎたってことだ。一方の憎しみとか、妬みとか、そういう感情が強すぎて、もう一方の心を飲み込んで、一つになろうとしている。この場合、どっちがどっちか、もうはっきり分かるだろ」

 同化。

 その言葉に俺の背中に悪寒が走る。

 つい数時間前、エリンと話していたことだ。まだ陥魔したばかりだろうから、同化の心配はする必要はないとエリンを安心させようと言ったばかりだった。

 それがもうすでに起こっていて、リズの心はすでに魔物―ヴンディッド・キャットの中に存在している。

 後ろにいるリズはすでにリズですらなく、ただの抜け殻のようなものということか。

 憎い。死んでください。壊します。

 スミレさんの言葉は、もう何度も聞いた。言葉通りの感情をたっぷり含んだ独り言のような恨み言は、耳を塞ぎたくなるほど聞いた。

 だけど、俺はリズの気持ちを、心を直接聞いたわけじゃない。

 あくまでスミレさんから聞いたリズの感情でしかない。

 リズは本当のところはどう思っているんだ?

 巻き込みたくなかった。止めて欲しかったと、リズは言った。

 ロックの言う通り、飲み込まれそうになりながらもリズがスミレさんの激情を抑え込もうとしているのなら、リズはもしかしたらもう―。

「だから、だから何だというのですかぁっ!!」

 そんな淡い期待を抱いて口を開きかけるが、声を発する前にスミレさんの怒号に遮られる。

「貴方たちに分かるのですか?! ローズリー家という異常な空間に、ずっと閉じ込められていた私の気持ちが! 完璧主義者という名の、異常者の集まりですよここは! その重圧は自分の娘だけでなく、血の繋がりの無い私にまで及んだ! ここでは私は人ではない。ユリア・ローズリーの財産の一つ。どんなことだって、どんな時だって完璧じゃなければならない道具のようなもの……。手に入れたかったんですよ……私は私の自由を……!」

 響き、漏れ出る怨嗟の声。

 そこにはもうスミレさん以外の感情はどこにも見当たらない。

 叫ぶ彼女の目は憎しみに、ともすれば狂気に血走っていた。

 ユリアさんへの、ローズリー家への憎しみが、彼女が魔物を生み出した理由。

 言葉にしてみれば‘憎しみ’という短い単語で終わってしまうけれど、怪物を生み出すには十分すぎるくらい、スミレさんの感情は激しくて暗くて深いものだというのを、その声が、表情が、ビリビリと肌に感じさせる。

ワタシ(、、、)ワタシの幸せを(、、、、、、、)取り戻したかった(、、、、、、、、)だけです(、、、、)。……なのに、それのどこがいけないというのですか!!」

 絶叫という言葉があてはまるその声を合図に、スミレさんは右腕を上げる。握られていたのは変わらず仄暗く輝く影石。

『ああああああアアアアぁぁぁぁぁああァァあっっッッ』

 光に同調するように、リズが、ヴンディッド・キャットが、黒い怪物が叫び声を上げる。念話で流れ込んできたのは声だけでなく、言い表せない何かの感情。

 悲しみ。怒り。後悔。憎しみ。

 そんな感情を抱いて何がいけないのか。

 いけないことはないと思う。

 心があれば誰だって、いつだってそう感じることはある。

 だけど良くない理由をつけるとするなら、今回の場合なら一つあるじゃないか。

「くそっ! エリン、あの石だ! あれをぶち抜け!」

「え、えぇ?!」

「良いから、その方が早い!」

 ロックが後方にいるエリンに叫ぶ。エリンは何のことだか分からないようだったけど、すぐに銃を構えて術を発動させようとしているようだった。

 ヴンディッド・キャットは、もがいて暴れて飛び上がり、‘水無月’の刀身を自分に完全に貫通させて脱出する。白い翼をいっぱいに広げて着地したその姿は、伝承に伝わる天使のようにも悪魔のようにも見えた。

 羽ばたいた突風に吹き飛ばされそうになりながらも、俺は自分の中から出てきた言葉を素直に口にする。

 そこにあったのは個人的な感情で、たぶん怒り―だと思う。

「―リズが、泣いているでしょう」

 ぽつり。一言呟いて、俺は‘雷鳴’を片手にヴンディッド・キャットに三度目の突撃を開始した。

 キィン、バシャリ。後ろでバッシャーバレットが一発放たれた音がした。確認できたのはスミレさんの憎しみに満ちた表情と、その手にあった黒い石が同時に崩れ去って、破壊されたこと。それだけで十分だった。

「‘天上に鎮座する空神よ。その大いなる力により恵みと慈しみの涙を注ぎ給え’―レインフィールド!」

 軋む身体を無理やり走らせる俺の背後で低く、ロックが‘詠唱’を始めるのが聞こえた。ある程度の大技になると、‘詠唱’を必要とする星心術が中には存在する。星心術の使用を制御、監督する星心局で定められたルールであり、詠唱をするとしないとではその成功率にかなりの差が出ると言われる星心術のひとつ。

 ロックが行うこの詠唱は何度か聞いているし、それがどんな効果を持つものなのかも知っている。

 だから一度俺は足を止め、それに合わせて(、、、、、、、)自分の技を発動させるために‘雷鳴’を地面に突き刺す。

 三日月の模様を光らせ、刃を放とうとしていたヴンディッド・キャットの足場に、大きく紺色に光る円陣が出現する。その光に一瞬怯んだヴンディッド・キャットは、技の発動を中止する。

 ぽつり。

 その次には黒猫の鼻先に、身体に、前足に後ろ足に、ぽつりぽつりと水が―いや、雨が降り注いだ。

 ぽつりぽつりは、ざあざあと、その勢いを増していく。

 ほんの三秒くらいの、ヴンディッド・キャットの頭上にだけ現れた豪雨。それだけで黒い毛並みはびしょびしょになり、水分をたっぷりと含んだことが分かった。

 たった三秒の詠唱技だったけれど、それだけで準備(、、)は完了だった。

 突き刺した‘雷鳴’に、俺はアステルを注ぎ込む。雷へと変換されたアステルは今か今かとバチバチ火花を散らす。

 水浸しの黒猫に呼ばれているかのように。

(はい)雷爆波(らいばくは)!」

 一瞬、俺の足元の地面で、バチリと電流が走った。

 その刹那、ヴンディッド・キャットはまるで落雷に直撃したかのように、白い光に包まれ、爆音を上げる。それからびくん(、、、)と、叫び声をあげる間もなく、黒く大きな身体を痙攣させて、ボロボロの芝生に倒れ伏した。

 あれだけ手こずったヴンディッド・キャットが、この一撃で戦闘不能になったのだった。

「まだ消滅してない。最後のとどめを刺してやれ。んで、解放してやれ」

 一瞬の出来事。

 自分自身でもそれに呆然としていると、ロックがウインクをしながら俺の肩に手を置いて言う。たぶんロックが何かしらの術をかけて俺の術の威力を何倍にも強化したのだろう。それが分かって、苦笑しながら俺は‘雷鳴’構え直す。

 ―今、自由にしてやる。

 目の前には、翼も所々焦げて、黒猫と言えるのかもわからない傷だらけの黒い怪物。

 隣には呆然と立ち尽くす、魔物の宿主であり、宿主の使用人でもある女性。

 そしてもう一人。

 あの黒い怪物の中には、苦しみ続けている友だちがいる。

「雷鳴―」

 一歩、近づいてアステルで光り、振動する‘雷鳴’を振りかぶる。

 誰かから聞いた声じゃなくて、お前の声が聴きたいんだ。

 できたなら、もう少し早く言って欲しかった。

 俺じゃなくても、エリンに、何より先に恋人のトニーに。

 できなかったからこうなってしまっているのだろうけれど。

 ‘助けて’という一言で足りなかったら。

 愚痴でも恨み言でも、なんでも聞いて、受け止めてやる。

 そのために俺は封魔師になったんだから。

「― 一閃!」

 二歩目で黒猫の目の前まで到着して、迷いなく振り抜いた。

 刃は確かに黒い身体を斬り裂いた。重たい、存在すら危ういような実体を斬った感触が腕に、バチバチという破裂音が爆音に変わるのを耳に、眩しいくらいの真っ白な光を両目で感じて―。

 今まで拒絶され続けていた気がした俺の心が、刃と一緒にリズに届いた。

 そんな錯覚を、確かに感じたのだった。


 *****

 ―助けてくれてありがとう。

 私に手を差し出してくれた‘彼’に、私は言う。

 この言葉が届いているかどうか、正直分からない。

 私の前にいる‘彼’の姿も、ぼんやりとしていて見えない。

 真っ暗な闇の中にいて、ただひたすら暗い感情に流されて、消えそうになっていた意識が、突然現れた真っ白な光に照らされて、形を持ったかのようにはっきりとしてきた。

 ここがどこなのか、全く見当もつかないけれど、私は助かったのだと、なぜかそう断言できる。

 お母さんに対する憎しみ。

 完璧を求める家に縛られて、私は一つの場所に行くように、ただひたすら努力をさせられた。

 それは嘘じゃない。

 自分を生んでくれて、育ててくれた存在なのに、死んじゃえとすら思った。

 いろんな人からいろんな話を聞いた。

 大都市に出稼ぎに行っている男性。

 政治家のおじいさん。

 将来、私が入ることを約束された、十三局の局員の女性。

 みんな、それぞれの人生を持っていた。

 それぞれが自分の意志で自分の道を選択して、時には悩んだり苦しんだりして。

 そんな当たり前のことが羨ましかった。

 閉じ込められた檻の中で、私は夢を見ることしかできなかった。

 その檻の中から、翼を生やして飛び立ちたかった。

 そんな嫉妬を、憎しみを、どこにあてることもできなくて、私はあの石に願ってしまった。

 スミレの感情が私に流れてきたのはいつだったのだろう。

 気づいたら私もスミレと同じように、憎い、壊したいと、そんなことを思っていたような気がする。

 でも私がこの怪物を生み出したのには間違いがないのだ。

 私の感情は、包丁で指を切ってしまって血が止まらないような、あの小さな傷のように、止まらなかった。

 自分の意志では止められなかった。

 スミレを止めようと思った私自身も、実際のところ憎しみや嫉妬は止まらなかった。

 お母さんさえいなければ。

 ローズリー家という家にさえ生まれなければ。

 私に期待の目を向ける先生が、本当に鬱陶しい。

 ロイやエリンは、自分の道を自由に選んで、生き生きとしていて、羨ましい。

 トニーは―。

 トニーいつも楽しそうで、私を笑わせてくれて、隣にいてくれて、嬉しいはずなのに、憎まずにはいられなかった。

 ……ごめんね。

 私はトニーが大好きなのに。

 初対面で、何も知らない私のことを‘好きだ’なんて言ってくれた人は、あなたしかいなくて。

 さらに付き合っていって、‘もっと好きになった’なんて、本当に誰にも言われたことはなかったのに。

 私のこと、嫌いになっただろうな。

 薄れていた意識の中で、今私を包んでいるあの怪物の視界に、トニーがいたのを確認していた。

 私の醜い姿を、汚い姿を、真っ黒な姿をトニーに見られたということだ。

 嫌われた、かな。

 だったら、もうこの手は取らない方が良いんじゃないのかな。

 目の前に差し出された手。

 挙げかけていた手を、私は降ろす。

 この手を取らなかったら、私はどうなるんだろう。

 この怪物と一緒に、消えてしまうのだろうか。

 たった一人の好きな人に嫌われた世界なら、もう戻ってくる意味もない。

 だったら消えてしまっても―。

『ざけんなぁぁ!!』

 そんな叫び声が聞こえた。

 とても聞き慣れた声で、とても聴きたかった声だった。

 下げかけた私の手をしっかりと掴んでいたのは、ロイというのが私の予想だったのだけれど―。

『トニー……?』

 私は彼の名前を口にする。

 そうした途端に涙があふれた。

『俺がお前を嫌いになるだと? んなわけねーだろ!』

 トニーは言う。せっかくその姿をこの目で確認できたのに、またすぐに涙で視界が歪んで、彼の輪郭がぼやけてしまう。

『へっ、俺がバカで羨ましかったか? 妬ましかったか? イイじゃねーかよ、恨んで憎めよ。俺のこと、憎んだまま好きになれ。誰かを憎むなんてフツーだよ、フツー。お前が誰をどう思ってようが、俺は何を言うつもりもないし、お前を嫌いになったりしない。そんな生半可な覚悟で、俺は一年生のあの時、お前に告ったわけじゃねーんだぞ?』

 よくもまあ、そんな恥ずかしいセリフが言えるよね。

 そうやってバカにしようと思ったけど、いつものようにはいかなかった。

 胸からあふれ出てくる気持ちが、嗚咽以外に変換されなくなっているみたいで、私はなかなか言葉を口にすることができない。

『……でも、本当、ごめんな。気づいてやれなくて、本当悪かった。頑張っているお前の前であんなこと言ったら、普通怒るよな……。はぁ、本当バカだよな俺』

 そんなことはない。

 そんなこと、私が勝手に気を悪くして、怒っただけなんだから、トニーが気に病むことなんかじゃない。

 なんでトニーが泣きそうになってるのよ。

 自分を責めないで。

 その代わり、私をここから連れ出してほしい。

 いろんな人に謝って、いろんな人に‘ありがとう’って言わなくちゃ。

 私はトニーの手を強く握る。

 それが合図だったかのように、真っ白な世界がものすごいスピードで動いていく。

 真っ白なのに、景色が流れているのが分かる。ぐるぐると回っているのかもしれなかった。

 通り過ぎる白い世界の途中で、金色の何かが視界の隅に入った。

 その隣には黒い大きな穴が口を開けていた。

『おいしいところ、取られちゃったなぁ』

 金髪をポリポリと掻いて、黒い穴に手をかざしながらロイは言った。

 そんなことはない。

 約束通り、私を助けてくれた。

 怪物を倒して、私を解放してくれた。

『ここから出られる。行こうぜ、お二人さん』

 穴を顎で示すロイ。先に行かせてくれるみたいだ。

『ありがとう』

 私はお礼を言う。どう感謝していいか分からなかったけど、その一言だけは言わなければと思ったから。

『封魔師として、当然のことをしたまでだよ』

 ロイは鼻を高くして言う。自分の道を完全に決めた、だいぶ前に悩んでいたと時とは大違いの、ちょっと羨ましくなるような顔だった。

『ロイ、じゃんけんしよう』

 私は思い立って、提案する。ロイはちょっと意外そうな顔をしてから、苦笑して、右手を拳の形にして前に出す。

 じゃーんけん。

 私はグー。

 ロイはパー。

 私の負けだった。

 悔しいような嬉しいような、そんな複雑な気持ちに私は思わず笑ってしまう。

 後出しすればよかったな、なんて、ちょっぴり後悔しながら。

 私は飛び立つ。

 トニーと手を繋いで。

 ‘私’という名の檻の中から、自分の足で。

 自分の意志で。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ