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白い雷  作者: 黒崎蓮
ヒマリア編
6/28

第5話:五十パーセントの解答

 彼女は‘財産’だと言った。

 お金と、家具と、この家と、代々受け継がれている家宝―と言っても少し高価な装飾品というだけだが―と同じように、同列に見ているということだ。

 彼女にとっておそらく個人というのは、それひとつで価値のあるものではない。それは恐ろしいことに、自分の子どもにあてはまるだけでなく、自分自身にも価値は無いと思っているのではないだろうか。

 ‘ローズリー家’という集団に自分が存在していること。ローズリー家の財産として、役割を全うして、その一部になっていることで充足感を得ているようにも見える。

 それでもう幸せなんだと、傍から見て感じる。

 子育てはその役割を全うするための義務の一つであると考えているなら、あの仕打ちも扱いも納得できる。

じゃあ、もしも目が覚めて、彼女の言う‘財産’の何かもが壊されて、失われていたとしたら、どう感じるだろうか。

 幸せ。

 人は幸せな状態から不幸な状態になるのを最も恐れる生き物だというのを聞く。

 もちろんそうだろう。誰も不幸になんかなりたくない。‘ずっとこんな幸せが続けばいい’なんて、それこそ心からの願いだろう。

 だが、あの人には幸せに(、、、、、、、、)なってほしくはない(、、、、、、、、、)

 だから、封魔師や騎士団がやってきて、どうしてこんなことをしたのかと動機を訊かれたら、こう答えるだろう。

 ―ワタシ(、、、)ワタシの幸せを(、、、、、、、)取り戻したかった(、、、、、、、、)だけです(、、、、)



 静かな夜だった。

 そのまま同化できるんじゃないかと思えるようなそんな静けさも味わいたかったから、控えめな音量で、俺はギルドの自室でラジオを聴いていた。

 普段この時間にラジオなんてつけることはない。だいたい聴くとしたら朝の時間に世間の諸々なことを知るために、朝食を摂りながら聴くことがほとんどだ。新聞と違って両手が空くから、何かをしながら情報を知りたいという時はうってつけのものだと思う。

 こんな時間に聴くのはたぶん、誰かの声を聞きたいけど、誰かと話をするのが億劫だと、俺自身が今感じているからかもしれない。

 流れているのは、カノン王国全体で話題を呼んだ盲目の歌い手の歌声。目が見えないにもかかわらず、ピアノを弾きながら、ガラスのような美しく儚いソプラノの歌声を舞台中に響かせた弾き語りで、多くの人を感動させたということで有名になった。こういう話題に疎い俺でも聞いた事があって、実際に今聴いている。逆に歌い手とか舞台演劇とか、そういう話題はエリンが好きで、確かこの人のことも大ファンだとか言っていたような言っていなかったような。

 スローテンポの、それでいてその口から紡がれる言葉の一つひとつに気持ちが籠っているように感じられる。そんな歌声をお茶請けに、俺はロックが淹れたコーヒーを一口すする。この歌声のおかげだろうが、スターアップルを食べているときほどではないが、まあまあ美味しく飲める。

「……」

 ゆっくりと時間が過ぎているような気がした。

 それは俺が、‘その時’ができる限り来ないでほしいという願望を、心の中で潜ませているからだろうけど。


 リズ・ローズリーが家から失踪した。

 その知らせは、ユリアさんやスミレさんと話したその日の夕食を食べた後に、リズに‘マーキング’をつけていたミラから聞かされたものだった。

 物体にはそれぞれ固有の‘周波相’のアステルが存在する。感情とアステルの相互関係の深さからか、人間、それに加えて魔物や魔徒に限って、‘個別の周波相’というものを持っているのだという。

 周波相は、人やモノの周りに赤や緑や白、様々な色で複雑に纏わりつくアステルの‘波’や‘相’みたいなもので、意識を集中しなければ見ることも感じることもできない、なんとも説明しづらいものだ。

 本当に高度な星心術師になると、離れた場所にいてもアステル周波相を感じ取って、相手がどこにいるのか、何を感じているのかまでも分かるのだとか。俺もエリンやロックがギルドの中にいるのか、外にいるのかくらいは、集中すれば分かるようにはなったが、たまに外れることがあるし、何を感じているのかなんて、アステルの周波相だけじゃこれっぽっちも分からない。

 分かることができたなら、そもそもこんなに苦労しない。

 全部が全部、それこそ神様のように分かっちゃったら怖いもんなと、言い訳みたいなことを言ってみたくなる。

 リズのアステル周波相を記憶しておいてくれたミラのおかげで、リズが家から飛び出していった―しかも、人間をはるかに超える(、、、、、、、、、、)速さ(、、)で飛び出していったことが分かったのだから、充分すごいことだとは思う。

「あの娘の周波相があった地点に途中から、大量の‘邪気’が出現したのを感じた。この街でこれほど膨大な邪気を放つのは、もう‘奴’しかいないだろうし、このスピードを維持したままひたすら移動しているのを見るに、次のターゲットを目指しているのかもしれない」

「……」

 ミラは言った。珍しく焦っているようにも見えた。

 半分正解で半分はずれ。この意味はとりあえずギルドに帰って、夕食を食べた後に説明しようと、そう言った直後のことだったから仕方ないのかもしれない。

「半分正解で半分はずれ。この意味は言葉通りだ。お前たちがあの豪邸でゆるりと茶を啜っているとき、私は庭から二階にいたあの娘のアステル周波相を計ってみたのだ。結果、あの娘と、昨日の戦闘時に調べた黒猫のアステル周波相は確かに一致した。だがそうは言っても、あの娘が黒猫の(、、、、、、、)一部を構成している(、、、、、、、、、)に過ぎなかった(、、、、、、、)。黒猫を構成する邪気のおよそ半分が、あの娘のものだったというだけだ」

「……」

 俺の嫌な予想通り、リズがヴンディッド・キャットと関係していることは間違いないようだった。リズの家にいた時もそうだが、昨日も俺が奴と戦闘している間、ミラはミラで、奴を構成しているアステルの分析をしていたらしい。見てただけなんて思って悪かったなと思いつつ、こいつのおかげで案外早くに奴の正体を一部ではあるけど突き止めることができたのは、不幸中の幸いかもしれない。

 全部が全部リズの心が生み出した魔物ではないということへの安心と、予想もしていなかった新しい答えへの不安で、だいぶ複雑な気分になりながらも無言でミラに先を促した。

「もう半分は、これも人間一人分、単一のアステル周波相だった。それが誰のものなのかというのは、すまん、周波相はあの娘の分しか調べていなくてな、まだ分からんのだ。そして一割にも満たない残りは、一般的な魔物と同じように、誰のものともわからん、ごく小さな不満や鬱憤が構成する邪気だった。……つまり、あの黒猫は、四年前のような‘一人の人間が自身の感情のみで生み出した魔物’でもなければ、一般的な‘不特定多数の人々の微かな邪気が集まって生まれた魔物’でもない―」

 ―その中間を行くような、極めて不自然な過程を経て生まれた魔物なのだ。

 俺が理解できているか、確認するように所々で間をあけながらミラは説明をしてくれる。

 陥魔や魔物の生成メカニズムは、当然のことだが試験勉強の常識に当たる部分だったわけで、もちろん頭には沁み込んでいるのだが。俺以上に長く魔に携わっているミラですら、少し戸惑い気味になっているところを見ると、今起きているのがどれだけ特別な状況かが分かる。

「……正直、この短い期間に試験勉強で頭に詰め込んだ以上のいろいろなことが起き過ぎて、頭が痛いよ俺は」

「試験内容や参考書も、そろそろ改変しなければならないだろうな」

 ようやく口を開いて愚痴をこぼした俺に、ミラは少し笑って答える。それから急に真剣な表情に戻って、

「私はこのことをロックに伝えてこよう。あの黒猫、とうとうアステル周波相を感じられなくなるほどの邪気を身に纏っているらしくてな。すぐに動かねばかなり危険だ。かと言って、大人数ではいろいろと面倒だから、奴を追うのはあいつ一人に任せることにする。サシの方があいつもやりやすいだろうしな。あぁ、お前はここで待機だ。これ以上は、本当にお前の管轄外だからな(、、、、、、)。なに、この程度、あいつならものの数秒で沈められる。あの娘や、まだ見ぬもう一人も、まとめて助けて帰ってきてやるよ」

 豪快に、そんなことを言った。

 封魔師ではない俺には、まだ管轄外。

 それ以前に、奴と一度戦って、戦力差を目の当たりにしている俺からしてみれば、もう一度やって勝てるかどうかも分からない。

 ミラの言う通り、出しゃばらずにおとなしく待っているべきだろう。

 ここまで分かっておいて動かずにいるのは悔しいが、今の俺では役不足なのは目に見えている。

「すまなかったな、ロイ」

「ん、なんのこと?」

 ミラが、ぽつりと俺に謝ったようだった。謝りたいのはむしろ力不足の俺の方なのだが、何のことか分からず訊き返す。

「あの娘、リズのことをお前が心配していたこと。お前を信じていなかったわけではないのだ。ただ、お前の心配症は昔からだからな。本気にとらえていなかったのは確かだ。それに……お前の気を、あの娘のことで必要以上に煩わせたくなかったというのもある」

「俺の気を……って言ってもな。別に友だちのことを心配するのは当然というか、変な言い方だけど、自分のことを心配しているのと同じような感覚なんだから、そこまで俺に気を遣ってもらう必要はなかったぞ?」

 ミラの方でも、なんだかんだで俺のことを気にかけてくれていたことに素直にうれしいと感じながら、俺は思ったことをそのまま口に出す。

「ふふっ、それを素で言っているのだとしたら、育てた甲斐があったというのかな……やれやれ」

「な、なんだよ母親みたいなこと言っちゃって」

 バカにされているような、照れくさいような微妙な気分になって、俺は吹きだしたミラに反論する。

「母親みたいなもんだろ。こっちはお前が生まれた時から一緒にいるんだぞ?」

 それに対してミラはおどけた様子でそんな返事をする。それから音もたてずにギルドの出口へ、そのしなやかな白い体躯を滑らせていった。


 回想終わり。

 ラジオからはまだ歌声が流れていた。そろそろクライマックスなのか、歌い手の声はさらにその感情を乗せて、震えている。

 俺はただ待つだけ。リズが魔物の宿主ということを見抜けただけ役に立てただろうか。

‘宿主’と言っても、これは本来魔徒になってしまった人のことを指す言葉だけれど、ロックが今回のケースにも当てはめて使っていたのでそのまま使うことにしている。

 その宿主として、俺はいつからリズのことを疑うようになったのだろう。電話がかかってきて、悩みがあると相談した時か? 俺に封魔師になるのかと確認した時か? トニーの言葉にリズが怒って帰ってしまったと聞いた時か? 母親であるユリアさんの特殊な考え方に触れたせいか? メイドのスミレさんによろしくお願いされた時か?

 それとももっと前。あのファストフード店で、リズの不安そうな、暗い顔を見た時からだろうか。

 あの暗い顔は、たしかに俺に既視感を覚え起こさせて、そんな嫌な予感を感じざるを得なかった。

 その前日に出て、ギルドのみんなで討伐したという魔物の話も、無意識的にそう感じさせる要因だったのかもしれない。

 魔物が出て、友だちが悩んでいて。

 因果関係もなさそうなこの二つを無意識的に繋げてしまうほど、俺は怯えていた。

 そして実際にふたを開けてみると、細部は違うらしいものの、俺の予想通りになってしまっていた。

 事実はいつも冷たく、残酷にもそこから離れず動くことのない死体のよう。

 ラジオから流れる歌い手の声がそんな旋律を口ずさんで、それが偶然にも今の状況と合致していたものだから、誰にともなく頷いてしまう。

「ロイ、シャワー空いたよ。……って、どうしたのさ。なんか暗いよ?」

 後ろの扉が開いて、寝間着姿のエリンが入ってきた。

今の時間は夜の八時を回ったところ。髪が少し湿っていて、シャワーを浴びて出たばかりの様子のエリンは、あとはもう寝るだけ、といった感じで寝間着姿だった。

「ん、まあな。なんかさ、今まで散々リズのことをヴンディッド・キャットの宿主として疑ってきたけど。いざそうなんだって、ロックがリズを助けて連れ帰ってきて、そうやって真実を伝えられた時にさ……今まで通りリズと顔を合わせられるかなって、不安なんだ」

 さりげなく、流れていた歌が終わったラジオを消しながら俺は言った。実際はそんなことはないのだけれど、久しぶりに誰かと話した気がして、口を動かしてみるとそんな不安がぼろぼろと零れてくる。

 ロックが魔物を倒して、リズを助けてくれるのは当然の前提だ。いくら俺でもその辺は信用している。魔物に対する戦闘能力は俺の知っている封魔師の中では随一だし、ギルドで受けた依頼成功率はたぶん百パーセントだ。

 唯一の例外は四年前だけど、あれはロックがどうこうできる問題ではなかった。

 あの時は、魔物は倒せたが、宿主は陥魔以前の(、、、、、、、、、)状態では戻って(、、、、、、、)こなかった(、、、、、)

 そういう意味でやや不安な部分は残るけれど、リズが魔から解放されて戻ってくるということを、今回は信じたい。

 今まで通り顔を合わせられるかなんて、そんな自然な心配ができるくらいには信じたい。

「いつも通りで良いと思うけどな。ありのままのリズと接すれば。どういう理由で魔物を生み出しちゃったのかは分からないけどさ、暗い感情とか、憎いって思っちゃう気持ちとか、全部含めてその人―リズなんだし」

 エリンは俺のベッドに座って、何気無いふうに言う。

「‘すべてを照らし、全てを赦せ’ってか」

「そゆこと」

 俺やエリンも含めて、王国の約八割が入信しているステラ教の標語の一つを思い出して呟く。

 世の中に、本当に心の底から悪い人は存在しない。

 憎しみはほんの一瞬の気の迷い。

 だから赦してあげなさい。

 そんなステラ教の教えが広められ、信じ込まれた二千年前にいれば、俺もそれを心の底から信じて、実行するのも楽だっただろうか。

 宗教はあくまで理想の指標。

 そんな風に考える俺とは対照的に、エリンは割と熱心に信仰している方だからか、うんうんと何度も頷く。

「だいじょーぶ! オジさんならなんとかしてくれるって! とりあえず今日は寝ようよ。ロイも疲れた顔してるよ」

 エリンはベッドのバネを使って勢いよく立ち上がって言った。こんな時でもいつもとあまり変わらず前向きなエリンは、やっぱり素直に羨ましい。

「そうだな。ロックがリズを連れ帰ってきたらまた考えれば良いんだしな。今日はとりあえず―」

 寝よう。

 俺が心配する段階は終わった。そう思って気を抜いた瞬間、自分が口にした言葉に僅かな違和感を覚えた。

 何だ? この何とも言えない、歯車がかみ合わない感じは?

 ロックがリズを連れ帰る。

 ヴンディッド・キャットを倒して、リズを連れて帰ってくる。

 ミラによれば、奴は特殊なケースとはいえ魔物に区分される。実際に相対した感触も、魔物と呼べるものだったと思う。

 魔徒と違って、宿主である人間が直接変化した存在ではないから言葉も通じないし、より怪物じみた外見になる。

 魔物は宿主とは独立して存在する。‘分離型’と言われる所以はそのためだ。

 でも、あの時ミラはなんて言った?

 ―あの娘の周波相があった地点に途中から、大量の‘邪気’が出現したのを感じた。

 確か、そう言ったのだったか。

 途中から(、、、、)なのか?

 ミラが大量の邪気を感じたそのタイミングで、宿主であるリズと魔物が分離したという解釈を自然にしてしまったし、できるとは思ったのだが。

それよりも前に(、、、、、、、)、リズは人間ではおよそ考えられないような速さで家から飛び出したのではなかったのか?

 魔物と分離する前では、いや、魔物と分離した後でさえ、宿主にはそんな超人みたいな速さで動く能力は備わらないはずだ。

「どうしたの、ロイ」

「ん……いや……」

 エリンが不思議そうに俺の顔をのぞき込む。俺自身も、この言いえない妙なちぐはぐさに戸惑ってはいるのだが、あと少しで答えが出そうだった。

 家から飛び出して、膨大な邪気が発生するまでの間、リズはなぜそんな速い動きができたんだ? なぜそんな魔物みたいな(、、、、、、)動きができたんだ?

 膨大な邪気が発生したということが、宿主から魔物が分離したという意味に置き換えられるなら、リズとヴンディッド・キャットは別の存在なはずであって、そんなことはできないはずなのだ。

 そうなると、そもそも()リズはどこにいるんだ(、、、、、、、、、、)

 魔物―ヴンディッド・キャットはロックとミラが追っているとして、宿主のリズは今、どこにいるんだ?

「……途中で発生した膨大な邪気ってのは、本当にヴンディッド・キャットのものだったのかな」

「え、どういうこと?」

 俺の呟きに、エリンは首をかしげる。そうだ、エリンは直接ミラから聞いたわけではないからこの辺の詳しい経緯は分からないのか。

 周波相が感じられなくなるほどの邪気だったと、ミラは言っていた。

 だとすると、その‘膨大な邪気’というのが必ずしもヴンディッド・キャットが発していたものとは言えなくないか?

「そうだ、あと、宿主は二人いるんだよ。リズともう一人。そのもう一人はどこにいるんだ……?」

 何か、所々に穴がある。

 とても人為的な何かを感じる。

 騙されているような、何かに誘導されているような、そんな気すらする。

「ちょっと、ロイ。あれ? 寝るんじゃないの? なんで上着を着ようとしてんのよ」

 エリンの言葉に、自分が愛用の白いジャンパーを羽織っていることに気づく。昨日ズタズタに破かれた肩口も、ビアンカさんに完璧に直してもらっているから着心地は抜群だ。

「行くんだよ。リズの家だ。あいつが無事かどうか確かめに行くんだ」

「で、でも、この種類の魔物は宿主にそこまで被害は来ないんじゃないの? 時期だってぜんぜん早いから、‘同化’するのだってまだまだ先なんでしょ?」

 エリンの顔色がだんだん不安げに変わっていく。俺と同じように、ついさっき得たばかりの知識だからか、その話し方に若干のぎこちなさが残る。

 ちなみに‘同化’とは、完全に心を魔に飲まれて暴走状態になってしまい、最後には心神喪失状態になってしまうことを言う。

 もちろん、同化なんていうのはそれこそあの時の二の舞いで、絶対にあってはいけないことであって、エリンの言った通りタイミング的にはまだ起こらないはずのものだ。

 だからこそ、今の状況は何かが変なのだ。

 抜け道を通られているような、奇妙な感覚。

「それとはまた違う問題が起きてるかもしれないんだ。まだ俺もはっきりとは言えないんだけど……エリン」

「な、なに?」

 言いかけて、思考を停めて、俯いていた顔を上げると真っ直ぐにエリンと目が合う。急に俺が顔を上げて驚いたのか、エリンの視線はあっちに行ったりこっちに行ったり落ち着かない。

「とにかく今から俺についてきてほしい」

「え、そんな大変なことなの? 無事かどうかってどういう……」

「分からない。けど、お前の‘武器’を持ってきてもらうくらいには大変なことになっているかもしれないんだ」

「……」

 それが決め手だった。

 それまで状況が飲み込めず、しどろもどろな様子だったエリンの表情が一瞬固まってから、一気に引き締まる。

「前から言ってるけど、あれは武器じゃないよ(、、、、、、、、、、)

「じゃあ、なんて言えばいいんだ?」

 俺が訊くと、エリンは‘うーん’と少し考えてから、

「……女の子の武器」

 ぽつりと一言、人差し指を自分の鼻の前で立てながら、なぜか得意げに言ったのだった。



 エリンを急いで着替えさせ、それぞれの自転車(二輪雷駆はロックが使用中だった)をかっ飛ばしてリズの家に向かうと、あの豪邸の門の前には、見覚えのある人影が立っていた。

「トニー……?」

 自転車を止めて名前を呼ぶと、俺より背の高めのその人影は、ゆっくり俺の方に顔を向ける。街灯に照らされたトニーの顔は、いつもの元気など微塵も見えないような、沈んだ表情だった。

「ロイと、エリンか? どうしたんだよこんな時間に。サイクリングか? ……ってそんなわけねぇか、ははっ」

「そうそうロイに『夜のサイクリング、しないか』って誘われたの! きゃっ、もうロイのえっち!」

「そっか……」

「……え、ツッコミ無しなの?」

 エリンの背筋も凍りつくようなギャグには目もくれず、トニーはぼんやりと目の前にある大きな屋敷のような家を眺めている。

 いつものトニーなら、ここでエリンに一発ボケを返して、ひと騒ぎありそうなものなのだけれど……。どうしたのだろう。というかそもそも、何でトニーはここにいるんだ?

「……あぁ、俺は知り合いの店の手伝いの帰り道でな。ちょうどここが通り道だったから、少し立ち止まってみただけなんだけどよ。リズを怒らせちまったこと、俺、割と気にしててさ。できれば追い出されるの覚悟で今から突撃して謝ろうってくらいの勢いだったんだけど……ここ、妙に静かすぎるんだよ。本当に人が住んでのかってくらい」

 トニーの声が、少しずつ震えていく。ここに偶然居合わせた理由は分かったとして、その先の言葉に、俺は不安を感じざるを得なかった。

「風邪ひいてるから寝てるってのは分かるんだけどよ、リズ以外の人もみんな寝ちまったのか? まだ八時も半分過ぎたくらいだぞ? この時間なら、どこかの部屋の明かりくらい点いてたって良いもんじゃないか? ……そうだよ、お前らがこんな時間にここに来たってことは、何かあったのか? 武器まで持ってきて、魔物でも出たのかよ? もしかして次に魔物が襲う場所がここだっていうオチじゃないよな?」

「……」

 お前にしては考え過ぎだ、変な勘を働かせすぎだと、そう言ってトニーを追い返すことができるかもしれない。

 でも、トニーらしくない、不安をはっきりと声や表情に滲ませた姿に、俺も言葉に詰まってしまう。

 嘘を吐くのは、本当に苦手なのだ。

 苦し紛れに建物を見ても、今のトニーの言葉を聞いたからだろうか、ユリアさんが誇っていたこの豪邸が、寂れた幽霊屋敷のように見えてしまう。

 本当に、明かりも何もない真っ暗なローズリー邸は、なんだか見ているだけで不安になってくるような、そんな錯覚を抱かせる。

「……ふう。トニー、実は―」

 どうせ誤魔化したところで後から分かってしまうことだ。

 覚悟を決めてトニーにすべて話してしまおうと腹をくくった時だった。

 ガタン(、、、)と、大きな物音がして、俺は言葉を止めて物音のした方へと反射的に顔を向ける。

 鉄の柵で作られた門が隔てた向こう側。

 俺たちがユリアさんに追い出されるがまま出ていった、ローズリー家の中へと続く大きな木の扉。

 それが大きく開け放たれていて。

 入り口には、つい数時間前に会って別れたばかりの、これまた見覚えのある顔が二つ。

 ひとつは、メイドのスミレさんだった。シンプルなメイド服を着飾った、黒く短い髪を眉の前できっちりと切り揃えた若い女性。

 もうひとつは、リズの母親であるユリア・ローズリーさん。頭の上に綺麗に結ばれて乗っていた、いわゆる‘お団子結び’は解かれて、今はだらり(、、、)地面に(、、、)ぶら下がっている。

 そう。

 スミレさんに(、、、、、、)言うなら(、、、、)お姫様抱っこの形で(、、、、、、、、、)抱きかかえられた(、、、、、、、、)ユリアさんは(、、、、、、)、死んだように動かなかった。

 その光景は異様だった。

 メイドが主人を抱きかかえているという、なんだか象徴的な光景であったこともそうかもしれない。

 仄かな月明かりがスミレさんの顔を照らして幻想的に見えたから、そう感じたのかもしれない。

 ただ、異様であってもそうでなくても、なぜこんな光景が目の前に存在しているのかが分からなくて、次にどんな行動を取ればいいのか分からなかった。

 何だ? この状況は、いったいどんなことを意味しているんだ?

 エリンを見てもトニーを見ても、同じく混乱している様子だった。

「こんな夜遅くに―」

 スミレさんが一歩踏み出して、何か言葉を発する。

 俺たちの目の前にある鉄柵の門と、スミレさんがいる家の入口との間にはあの大きな芝生の庭があるから、距離的にはかなり離れているはずだったのだけれど。

 その声はやけにはっきり聞こえた。

 夜遅く。

 そうでもないだろう。

 そんな、ユリアさんがスミレさんの腕の中でぐっすり眠ってしまうほど、まだ夜は更けていないだろうに。

「こんな夜遅くに、何か御用ですか?」

 スミレさんはそう言って、微笑んだ。

 目を細めて、最初に俺たちを奥の部屋まで案内してくれた時と変わらない笑顔で。

 ユリアさんを抱きかかえたその様子は、何かの荷物を持っているのだと言われればそのまま信じてしまえそうなほど、不自然な自然体だった。



「どうしたら良いんでしょうね。まだ準備は整っていないのに、あなたたちが予定より早く来てしまうものだから、少し戸惑っているところなのですよ」 

 一歩、足を芝生に踏み出して、スミレさんは言う。言葉とは裏腹に、どこか今の状況を楽しんでいるような、そんな軽い印象を受ける。

 準備? 予定? スミレさんは何を言っているんだ?

 ユリアさんは、どうしてスミレさんに抱きかかえられているんだ?

 どうしたら良いのか分からないのはこっちの方だった。

「なにより、見られてしまいましたからね。このまま作業を続けても良いですが、これからやること(、、、、、、、、)を見られれば、どうせあなたたちも私を止めに入るでしょう。‘猫’が戻ってくる間、少しお話を聞いてくださいな。案外私、話したがりなものですから」

 愉快そうに言って、スミレさんは抱いていたユリアさんを、そっと地面に降ろす。そのまま彼女の身体を跨いで、一歩、また一歩と踏みしめるように歩みを進めて近づいてくる。

 ‘猫’と、この人はそう言ったのか。

 その単語を聞いて俺が思い浮かべられるものは、もう‘ヴンディッド・キャット’以外には無い。

 スミレさんはヴンディッド・キャットを知っていて、‘戻ってくる’と言っていて、見られてはまずいことを、見られたら俺たちが止めに入るようなことをしようとしている。

 つまり、どういうことだ。

 俺の頭は、すでに出ている結論から気を逸らそうと必死に考えを巡らせている。

「あの猫―張り紙にはヴンディッド・キャットと書いてありましたが―を生み出したのは、お嬢様とこの私。お嬢様は無意識的に。私は意識的に。自らの感情を‘彼’からもらった‘あの石’に託して生み出した怪物。そう、あなたの考えは当たっていますよ、ロイ・シュトラールさん」

 あっさりと、そんなことを認めるスミレさん。

 この人の前では名乗っていない俺の名前を、心の中で巡らせていた迷いも、自分が魔物の宿主であることも、俺に対して堂々と、でも独り言のようにぶつぶつと断言するスミレさん。

 ‘彼’。‘あの石’。

 現実を告げられたのだろうけど、何の事だかわからない言葉が理解を妨げて、俺の頭をぼんやりとぼやけさせる。

「‘猫’と意識的に繋がっているおかげで、私には並みの星心術師や封魔師以上のアステルが備わっている。あなたやお友だちの心の中や、あなたの身体に纏わりつく‘波’も、手に取るようにわかる。いきなり結論を告げられても分からない、そんな風に考えていらっしゃいますね」

 楽しそうだった。

 心の中が、考えていることが分かるというのが、楽しくて仕方がないのかもしれない。

 彼女の目は、あの猫のようにルビーに輝いていた。

「始まりは―お嬢様の涙」

 笑みを消して、感情も消したような声で、スミレさんは語り始めた。

 立ち止まったスミレさんと俺たちとの距離は歩数にして十歩分ほど。

「ローズリー家の教育方針は‘アレ’から聞いていますよね。‘アレ’やこの家が決めた鎖に縛られて、決めた道をひたすら歩かせられて、お嬢様は疲れ切って傷ついていた。優秀でなければならないという親や教師―猫が教師の家を襲ったところからも分かるでしょうが、彼らからのプレッシャーに押しつぶされそうになっていた。自分の意志で自分の未来を決められないお嬢様は同時に、自分の道は自分で決めて、それに向かってひたすら努力を続けるご友人や、それとは対照的に将来のことなど少しも考えていない様子のお気楽な恋人さんに、嫉妬を、憎しみを抱いていた」

 スミレさんの言葉に俺は咄嗟にトニーを見る。

 拳を震わせて、唇をかみしめているようにも見えるトニーは、何とも形容しづらい表情でスミレさんを睨んでいた。

 感じているのは理不尽さかもしれなかった。

 ―自分のやりたいことがはっきり決まるまでは、勉強なんてしない。

 あのファストフード店で言ったトニーの言葉は、それこそ本心からの言葉だっただろうから。

 本心を嫉妬や憎しみで否定された理不尽さ。

 リズがトニーに対してそんな感情を抱いていたことを知っていれば、心では思っていても口にはしなかっただろう。

 あるいは後悔かもしれなかった。

 機嫌を損ねて帰ってしまう前にリズのそんな気持ちに気がついて、一言だけでも謝っていれば、こんな形でリズの気持ちを知るという事態は避けられたかもしれなかった。

 少なくとも俺はそんな複雑な気持ちだった。

 積み重ねてきた努力に対して、嫉妬や憎しみを向けられた理不尽さ。俺が封魔師になろうと四年前に決意して、今までやってきたことは、ユリアさんの言葉を借りるのなら‘俺の道’での出来事だから。その道自体を恨まれてしまっては、俺はどうすることもできないじゃないか。

 それでもやっぱり後悔はある。

 なんでリズが苦しんでいることにもっと早く気がついてあげられなかったのかと。

 もう二年近くも一緒にいる友だちなのに。

 王下十三局に入りたいと、そう言ったリズの言葉を疑うことなく信じて。

 無理をしているんじゃないかと少し不安に思うこともあったけれど、それがリズの望んだ道なら何も言わない方が良いんじゃないかと、そんな勝手な解釈をして。

 そんな理不尽さも後悔も、突き詰めてみると言い訳じみていて、自分に腹が立ってくる。

「苦しんでいるお嬢様に、だから私は同情して、同調して、同化しました。いえ、どうかしてしまったというべきなのですかね。小さいころから彼女を見ているから、まるで自分事のように痛く、その気持ちは理解していたのです。……だから、この石を使った」

 言って、スミレさんは胸元から、なぜか夜の暗闇の中でもはっきり認識できる黒い色の石を取り出す。

 石の中心部には、赤や緑や紫色の光が、薄暗く渦巻いていた。アステル鉱石にも見えたのだが、明らかに違っていた。

 石に渦巻く光は、見れば見るほど気分を暗く、不安にさせるような妖しい輝きだった。

「エリン?!」

 隣でトニーが叫んだのが聞こえた。トニーが慌てて駆け寄った方を見ると、エリンが膝をついて、手を口で押えていた。

「おい、エリン……」

「大丈夫。ちょっと眩暈がしたしただけだから……」

 肩を貸した俺にもたれながら、エリンは薄く笑う。明らかに大丈夫じゃなかった。

「療心師の方には刺激が強いのかしら? それは失礼いたしました。この石は、持ち主の負の感情のみを増幅させる特殊な加工をされたアステリアル―‘彼’は‘影石’と呼んでいましたが、些細な不満や鬱憤すらも、魔物を生み出してしまうほど膨大な感情に、ひいては邪気に変換できるものです。お嬢様の感情と、それに同情、同調、同化した私の感情が、あの猫を生み出した。あとはあなたたちも知ってのとおりです。あの教師の家を襲い、そして次は―」

 この家を襲う(、、、、、、)

 スミレさんがそう言った瞬間、突風が俺たちの間を吹き抜けた。

 芝生が、砂が勢いよく舞い上がって、俺は思わず顔を伏せる。

 何か大きなモノが着地したのだろうか、わずかに開けていた目も、吹き荒れる砂嵐にふさがれる。

「‘猫’の背中にお嬢様を乗せ、ひたすら遠くに行くように指示して、この街では一番の強者と言われる封魔師―ロックとかいうあの男をできるだけ遠ざける。そんな陽動作戦もどうやら成功したようですね」

 土煙の中から、スミレさんの声がはっきりと聞こえる。

 目を凝らして、早急に状況を確認しようとする。

 煙の中にはスミレさんの影と言うには大きすぎる、巨大な黒いシルエット。

「ヴンディッド・キャット……」

 後ろから聞こえたエリンのうめき声で、俺も確信する。

通常の猫の倍以上の大きさはある体躯。黒い体毛に黄色い三日月のような傷跡が付いた、ルビーの瞳の魔物。

煙が晴れて姿を現したのは、誤魔化しようもなく、あの黒猫の魔物―ヴンディッド・キャットだった。

「ユリア・ローズリー、貴女は財産だと言いましたね。それはお嬢様も同じですか。優秀であることがそんなに大切ですか。あなたのただ一人のお子さんですよ? 縛り付けるのでもなく、自由に道を選ばせてあげるのが親の務めというものではないのですか。私は―ははっ、私は、貴女が憎いです。貴女の独りよがりな思考が、思想が気持ち悪すぎて反吐が出る……! だから全部壊します。全部壊されて―死んでください」

 スミレさんは身をよじって、短い黒髪を揺らして、笑って、嗤っていた。

 何がそんなに可笑しいのだろう。

 分からない。

 分からないから、無性に怖かった。

 ヴンディッド・キャットはその笑い声に呼応するように、胸を締め付けるような、背筋が凍るような不気味な叫びを上げる。

 そのルビーの瞳は、鋭く、真っ直ぐに屋敷のように巨大なリズの家に向かっていた。

「―させるか」

 気がつけば身体が動いていた。

 ‘雷鳴’を腰から引き抜いて、‘雷衣’を全身に纏って。

 鉄の柵を蹴飛ばして、俺は後ろでエリンやトニーが引き止めるのには目もくれず。

 自分が持てる全速力で駆けて、黒く猛る魔物に刃を振りかざしていった。


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