第4話:雑談と冷淡と決断と
「……そんなわけで、実は俺もさ、お前らに相談しようかと思ってたんだ……」
ヒマリア高等学校の学生食堂は例のごとく混み合っていた。味は決して絶品とは言えないが、値段相応のクオリティと値段以上の量を目当てに、俺たちのような育ち盛りの学生が群がるからだ。
わいわいがやがやと賑わうそんな食堂の中で、沈み気味のトニーの声が俺の耳に届く。この前のような四人掛けのテーブルに、この前と同じような席順で俺、エリン、そしてトニーが座っていた。リズは今日も休んだようで、トニーの隣はぽっかりと空洞ができてしまっている。
もともと俺が口火を切って、リズが二日も続けて休むなんて珍しい、なんて言ったのが始まりだったわけなのだが。いつのまにかトニーが、俺たちにこの昼休みの時間を使って‘相談事’を持ちかけているような図になっていたのだった。
エリンには打ち明けたのだが、もちろんトニーは、リズに関する俺の推論については何も知らない。
「つまりトニーは、この前のロイのお疲れさん会の後、リズとちょっとケンカをしちゃったってことでしょ。んで、仲直りがしたいと、そういうことだよね!」
皿に乗っていた大きめの鶏肉の揚げ物を一気に口に頬張り、ゆっくり咀嚼して飲み込んでから、ようやくエリンはトニーに返事をする。トニーが言葉を発している間、短い相槌と頷きだけを返し、無駄に割り込もうとしなかったエリンの姿を見て、聞き上手だなと素直に感心していた俺だったのだが。たぶんこいつは昼飯に夢中でがっついているだけだというのをつい今さっき確信して、この得意げな横顔に拳を入れたくなったのだった。
友だちとして、というのはもちろんそうなのだけれど。もっとこう、療心師のタマゴとして、‘上手く相談に乗って助言をする’という役割を少なからずエリンには期待していたのだ。
「いや、ケンカというか仲直りというか……そういうんじゃなくて……」
トニーも自分の説明が悪いのかもしれないと、もう一度自分の言いたいことを言葉に変換しようと四苦八苦しているようだった。大丈夫だトニー、今のは飯に夢中だったエリンが悪い。
「つまり、この前トニーが言った言葉で、リズを不機嫌にしてしまったみたいなんだけど、何がいけなかったのかと、そういうことだろ?」
「うーん、そう!そんな感じだ!」
俺なりの要約をトニーに示すと、どうやら伝えたかった質問内容を上手くまとめられたようだ。エリンは「ほー、すごーい」と気の抜けた返しをしてきたものだから軽くチョップをしておいた。
それはともかく。
トニーがあの時言った言葉。
―自分のやりたいことがはっきり決まるまでは、勉強なんてしない。
これもまた短くまとめるとこんなようなことを、あの時トニーは言ったのだった。
あの後俺たちと別れた後、リズと一緒に帰り道を歩いていたトニーは、あの時言った言葉は本当にそう思って口にしたものだったのかと、そう訊かれたらしい。
トニーは何気なく「そうだよ」と肯定したのだが、次に返ってきたリズの言葉は、今まで聞いた事のないような低い声色で―。
―羨ましいね。
そう、言ったのだという。
そう言い残して、トニーを置いて走って家まで帰ってしまったのだという。
「俺が悪いんだよなー。あんなリズ、俺見たことねぇもん。声からしてあれは絶対怒ってた。でも、だとしたらどうしてかなーといろいろ考えてたんだがなー……。」
だんだんとトニーの声が小さくなっていく。エリンと似ていて、バカみたいに気丈に振る舞っているのが多いのだが、一度気を落としてしまうとけっこう引きずるのがトニーなのだ。この様子だと、だいぶ真剣に悩んでいるようだった。
「あんたのお気楽さに頭来ちゃったんじゃないのー。ほら、あんたと違ってリズって頭良いし、しっかり先のこと考えてるし」
「お前に言われるとめちゃくちゃむかつくなエリン……!まぁ、だけどそれもあるかもしれねぇんだよな……。あいつ、専門教育学校の受験なんてまだまだ先なのに、毎日夜遅くまで残って勉強してたりさ。だいぶ前なんか、朝にすっげえ死にそうな顔して登校してきたから、どうしたんだって訊いたら、‘朝五時に起きて、政治家とお話するための朝活に参加してきたの’とか言ってたし……」
「でもそれは、お前だけのせいじゃないというか……」
想像以上に凄まじいリズの努力っぷりを前に、俺も途中で言葉を詰まらせてしまう。
そんな過酷な環境下にいる中で、トニーのあの言葉を聞いたのでは、もしかしたら頭にくるのかもしれない。将来の目標と言っていた、王下十三局に、それほどまでして入りたいのだろう。今のところとはいえ、なりたいものも無く、だから勉強なんてしないと言っているトニーには、何か物申したい気持ちがあったのだろう。
俺もつい先日まで試験に追われていた身ではあるから、その気持ちも分からないわけではない。
……よくこんな正反対な性格で二年近くも恋人関係が続いたなというのは心の中で思うだけにしておく。
「ふむふむ、なーるほどね~。ふふっ、でも、よくそんな北と南みたいな真逆な性格でこんなに長く付き合えるわよね!あははは!」
「……う」
「……」
「……ん? ……あれ、ここ笑うところじゃ痛ッ?!」
もちろん俺のチョップが頭部に当たったエリンのリアクションである。
「何すんのよ!」
「お前こそ何してんだ」
「何って……雑談?……あう」
もう一発。
雑談感覚で悩める男子の相談に乗ってやがったのかこいつ。
「でもまぁ、なんか話して楽になったわ。あいつがまた学校に戻ってきたら、そこで謝る! ついでに何で怒ったのか訊く! 怒ってんなら俺に直接ドンと言えってな! うん、あいつなら許してくれる! てか、そうじゃないと俺が困る!」
「え、あぁ、それなら良いんだけどな……」
ガッツポーズをして、急に明るくなったトニーに、俺は曖昧な返事をする。そもそも、傍から見ればこんな些細なことで腹を立てるというのもリズらしくなかったのだが、今のところはトニーが元気を出してくれたので良しとするべきなのかもしれない。
本人のいないところで話してもあまり意味の無いことだとも思うし、本当のところは分からないのだから。
「はぁ、ほんと。あいつ、頭は良いくせに何か肝心なところが抜けてるっていうかさ。強がり過ぎてるって、俺は思うんだよな」
本当の、確実なことは分からない。
だけど、トニーがため息のように呟いたその言葉にだけ、俺ははっきり同意を示すことができるのだった。
ヒマリアの街は太陽が西に傾き始め、快晴だった空にも雲が現れ始めていた。春の暖かい風が止むことなく吹き続けて、散歩をするにはちょうど良い気温だった。
俺たちがやっているのはあての無い散歩ではなく、ちゃんとした目的地へ向かうための徒歩なのだが。
「エリン。お前もうちょっと言葉を選ぶというか、思ったことをすぐ口に出すのはどうなんだよ? 俺、お前がいつ爆弾発言をするかヒヤヒヤしてたんだぞ」
快適な道の上で、パンの入った袋を二つ抱えて歩きながら、俺はエリンに物申す。
ちなみにこの袋は、俺がかなり前から行きつけのパン屋‘どんぐり’のものだ。二つ持っているのは、一つは俺とエリンの分、もう一つはこれから行く場所へのお土産だ。中身は両方とも‘スターアップル’というアップルパイで、俺の中ではこの店一番の美味さを誇る商品だ。この‘スターアップル’のおかげでロックの淹れるインスタントコーヒーが何倍も美味しく感じられる。この美味しさを語るには俺の語彙力が圧倒的に不足しているのだけれど、俺にとっては至福の味であり、故郷の味であり―。
―甘くて苦い、思い出の味でもある。
それはともかく。
俺と、なぜかいつも以上にご機嫌なエリンは、これを手土産にリズの家に向かっている。何のことはない、ただのお見舞い。そうであってほしいと信じつつ、道すがらの雑談をしているところだった。
「てへ。お口チャックが必要だったかな?」
「てへ、じゃねーよ」
口は災いの門というのはたまに冗談ではなく、真っ当な教訓として機能する。今回は相手がトニーだったから良かったが、これが全く知らない相手ともなると、軽いチョップ一発だけでその場を収められる自信はない。
「まぁ、でもさ。私だって一応言葉は選んでるんだよ?」
「……」
「え、何、そのウソつきを見るような目は」
「目の前にいるんだから仕方ないだろ」
「う、うそじゃないよ!」
俺の視線にエリンは慌てて否定を示す。どうやら本気で言っているらしい。
「うーん、こういうのをあんまりネタばらししたくないんだけど……。相談に乗るっていうのも、ただ優しく寄り添って相手の話を聞くだけじゃダメなんだよ。ただ優しく寄り添うだけじゃ、人の暗い気持ちは晴れないし、なんて言うのかな、‘毒’みたいなものは抜き出すことはできないんだよ。たまにはこう、刺激して吐き出させてやらないと」
「……」
エリンは立ち止まって、一つ一つ言葉を選び抜きながら喋っているようだった。その様子と内容がさらに説得力を増すようで、俺はしばらく返事をできずにいた。
‘悩みごとの中には相談するだけで解決するものもある’と言っていたのは確かビアンカさんだったか。思えばトニーの悩みも、結局はトニー自身がリズに謝ることで、面と向かって話すことで解決できそうな問題だった。エリンが軽口を言うことで、トニーが自分自身でその悩みを口に出すことによって、解決させようとした。そういうことなのだろうか。
そんなことを考えながらあの場にいたのなら、エリンを連れてきて大正解だったのかもしれない。
「だからエリンちゃんはわざとあんな風に相談に乗っていたのでしたー!」
「……本当かよ」
「あれー?!納得してくれると思ったのに?!」
エリンの話自体には納得したが、それをエリンが実際にやっていたかどうかは別問題だ。
俺が心の中で思っても言うまいとした言葉を、あんなにあっさりと口走ったエリンを思い出して、そう簡単に納得はできない。あの場にいなかった人も、エリンの視線が昼飯だけに集中していたあの時の光景を見れば、こんな深いことを考えながら発言していたことを認めたくなくなるはずだ。
「なんかうさんくさい」
「誰が臭いのよー!」
「うさんくさいって言ったんだよ!」
そんなバカなやり取りをしているうちに、リズの家に着いたのだった。
話に聞いた通り、豪邸と言って良いほどの大きな家だった。一見集合住宅と見間違うほどの長方形の建物は煉瓦で作られていて、窓の数からはその家にある部屋の多さが分かる。
あれ? あいつ一人っ子っじゃなかったのか? それも確か母親と二人暮らしだというのも聞いた事があるが……。まさかこの広い家を二人で? リズはあまり自分のことを喋らないから知らなかったけど、もしかして相当なお嬢様だったりするのだろうか。こんな広い家なら母親一人で掃除するのは難しいだろうし、もしかしたら召使いやメイドさんの一人や二人いるのかもしれない。そうだとしたらちょっと見てみたい。
いろいろなものに目移りしながら上げていた視線を戻す。鉄の柵で閉められた正門の向こうには、犬や猫がのびのびと走り回れるくらいの芝生の庭があった。
「ここでミラを遊ばせたら絶対喜ぶな」
「あまり私を舐めてると切り刻むぞ」
「……!」
それは何気なく呟いた言葉で、エリンに軽く相槌を打たれるだけで終わるだろうと口にした言葉だったのだが、いつの間にか俺の足元にいた本猫―ミラに聞かれてしまったというまさかのオチだった。
ぎりぎり声を出さずのリアクション。
本当にいつの間にいたんだこいつ。
「あら~、ミラちゃんだ! 私が大好きで付いて来たんだね、こいつ!」
ミラの姿を確認するなり表情を柔らかく崩壊させて抱き着こうとしたエリンだったが、ひらりと避けられて、危うく頭から地面に突っ込みそうになる。
「おおう、反抗期?」
「……お前に媚びへつらうことなどないがな、私は」
バランスを立て直して呑気なことを言うエリンを横目で睨むように見て、俺にしか聞こえない念話でさらりとひどいことを言う。聞こえてたらマジでエリンは泣いてたかもしれないと思うと、このままミラの声はエリンに聞こえないままの方が良いんじゃないかとも思う。
「あぁ、いつの間にというのなら、つい今しがた追いついたというところだ。お前が不安に思っているという、リズだったか? その子の様子を見るためにな」
エリンのことは徹底的に無視しながら、でも結局は抱き上げられて頭を撫でられまくっているミラは、相変わらずの、なんだか偉そうな口調で言った。こんな姿では、それもあくまで口調だけだが。
「うん、ありがとう」
俺はそれに対してミラに念話で礼を言う。
特定の言葉や感情を、光やエネルギーへと具現化、視覚化できるというのがアステルの大きな特徴の一つで、それを利用した星心術は数多くある。というか、それがほとんどだ。その中でも、念話は伝えたい言葉を、声を発さずに意志だけアステルに変換して相手に届けるというもので、この仕組みは電話にも応用されている。
ミラとのコミュニケーションのためだけに覚えた術だけど、果たしてちゃんと伝わっているのか、習得してずいぶん経つけど曖昧なところが多い。
でもたとえ伝わっていなくても、感謝はするべきだろう。魔徒とは違って、魔物を生み出すタイプの陥魔は、ただちにその宿主に変化をもたらすわけではないという知識を、昨日のうちにロックからもらっている。変化がなくとも、ミラが直接リズのことを見れば何かが分かるはずなのだ。魔に対する知識と索敵能力はロックやビアンカさんも認めるほどのものなのだから。
「でも私はさー」
と、エリンは立ち上がってリズの屋敷みたいな家を見上げながら言う。
「リズが陥魔しちゃってたり、オジさんが言ってたみたいな魔物を生んだりすることなんてないと思うんだけどな。リズみたいな子は、先生と一番相性がいいタイプじゃん」
リズが陥魔して魔物を生み出し、その魔物が先生を襲った。
そんな心配性ここに極めり、みたいな懸念を俺はエリンに伝えていたのだ。
ただの思い過ごし。ただの勘違い。
だけどそれを本当に見過ごしてしまうことの恐ろしさは、俺は直接的に、エリンは間接的に知っている。
果たして、リズは俺が心配するような存在になってしまっているのか。
それともそうではないのか。
なんにせよ、エリンと一緒の下校時で、ミラまでも俺がリズの家に寄る時に来てくれたのだからベストなタイミングだった。
「だから、ただのお見舞いだよ」
エリンを、自分自身を安心させるように言って、俺は門の横に設置されていた呼び鈴を鳴らした。
「せっかくだから、少しお茶でも飲んでいってください」
中から出てきたメイドさん(やっぱりいたようだ)に案内されて奥の部屋に進んでいき、そこで待っていた女性に、俺たち二人は断る間もなく茶の席に勧められているという状況だった。
ちなみにペットは入室禁止だそうで、ミラは入り口で締め出しを食らってしまった。初っ端から出鼻をくじかれた感じだったが、『中に入らずともできることはある』と前向きなことを扉越しで言い残したミラとは分かれることになった。涙目だったような気がするのはきっと気がするだけだと思いたい。
この家の主の女性、つまりリズの母親―ユリア・ローズリー。娘と同じ茶色の髪を頭の上で団子の形に整えていて、若々しくは見えるのだが、細く鋭い目が厳しく、年相応の落ち着いた印象を与えている。そんな彼女からは、およそ表情というものが見えなかった。
「……」
「……」
長く、そして何か重いものにのしかかられているような沈黙に、俺だけでなくエリンまでも勧められた紅茶に手が出せないでいた。
……なんだ、これ? 俺たちは尋問でも受けているのか?
紅茶を用意されながらの優雅な拷問。字面だけみるとこんなにミスマッチな言葉もないだろう。
それくらいのプレッシャーを少なくとも俺は感じていた。
「こ、このお紅茶、おいしいですね! どこの茶葉なんですか?」
我慢の限界だったようで、エリンは紅茶を啜りながら当たり障りのない雑談を、場違いなほどテンションを上げた様子で振る。どれどれ、そんなにこの‘お紅茶’は美味しいのかと俺もティーカップに手を伸ばしかける。こんな豪邸だから、きっと紅茶の茶葉だって厳選しているに違いない。
「あぁ、お恥ずかしい話ですけどこれ、昨日デパートで安く売っていたもので、特に特別なものでもないんですよ」
「……」
ですよね、と俺は心の中で相槌を打ちながら伸ばしかけていた手でそのままティーカップを持って紅茶をすする。うん、これはギルドでロックのコーヒーに飽きた時にいつも飲む普通の‘お紅茶’だった。
庶民派なお金持ちのようだった。
「お二人の話は、娘から聞いています。なんでも封魔師になるのだとか……。あぁ、エリンさんはもう療心師の資格を取得していらっしゃるんでしたっけ。難しい試験だと聞いていますし、それにそんな危ない仕事を自ら進んでやろうというあなたたちの志、私は素直に感心しますわ」
平坦な口調で、ユリアさんは言う。それでも特に嫌味な感じが無い分、直球な褒め言葉しかなかったのでなんだか身体中がかゆくなる。
封魔師はそれこそ、魔物や魔徒が一般的に認知され始めた三百年以上前からの長い歴史を誇る職業で、魔を倒し、人々を助ける姿は、いろいろな物語や芸術として受け継がれて、認知されている。
もちろんそういった魔を倒せず、逆に殺され、人々を守れなかったなんていう話も同じくらいある。だから子を持つ親としては、口で褒めてはいても、表情や口調に出るほど、心から賞賛できる職業でもないというのが、一般的な見方だ。
「ここのパン屋さんの袋を見ると思い出してしまいますね。四年前のあの事件……」
―凄惨なあの事件。と、ユリアさんは俺たちがお土産で持ってきたパンの袋に視線を落として言う。その言葉に俺は自然に拳に力が入る。彼女に特に悪気があったわけではないのだろう。
少なくとも彼女は、俺がその件に関わっていることを知らないのだから。
お土産、もう少し考えればよかったと、今さらになって後悔する。あの事件は俺だけの問題じゃなく、ヒマリアの街に深い傷を残すような事件だったのだから。
「そ、そうだリズ……さんはどうですか? 体調の方はまだ良くなりませんか? リズさんが二日も続けて学校を休むなんて、今までなかったものだから私たち心配でお見舞いに来たんですけど」
あらぬ方向にそれかかっていた話題を、エリンが元に戻そうとする。俺は拳の力を抜いて、安心のため息をそっと心の中で吐く。たぶん俺だけだったら、不自然なほど長い時間を空けて黙りこくってしまうだろうから。
「リズ。あぁ、娘は……熱自体は昨日の段階で治ってはいたんですよ。でも、なぜか学校に行きたくないというものですから、仕方なしに休ませたんです」
「学校に行きたくない?」
ユリアさんの言葉に、今度は俺が訊き返す。
そんな言葉がリズの口から出て、言ってしまえばサボりみたいなことをやるなんて、少し信じられない思いだった。
成績優秀。品行方正。真面目。周りに気を配れる。
優等生をそのまま浮かび上がらせたかのようなリズが、学校に行きたくない?
と、そこまで疑問に思ってからふと、別に成績の良し悪しと学校に行きたい行きたくないというのはそこまで関係無いことだと気付く。
熱は引いていても身体はまだ怠くて学校に行けるような体調じゃなかったのかもしれないし、そうでなかったら俺たちの知らないところで、それも学校で何か嫌なことがあったとか、いろいろ考えられそうだ。
前者は身体的に、後者は精神的にリズが心配になるけれど、もしかしたら一昨日の夜にリズが言っていた相談事というのはこのことなのかもしれないと、頭の中で次々と考えを巡らす。
「私の教育の落ち度でしょうか……。こんな風に育てた覚えはないのですけど、お恥ずかしい。学校に面目が立たないうえに、ローズリー家のご先祖様や亡くなった夫に顔向けできないわ……。本来なら無理やりにでも行かせるのですが、娘がどうしてもと言うものですから……。今も呑気に眠っているのではないかしら―」
―あの失敗作は。
「……」
俺は思わず息をのむ。それはたぶん、隣のエリンも。
ユリアさんは俺が心配していた諸々のことなど少しも思っていない様子で、俺からしてみればだいぶズレたことをため息交じりに言ったこともそうだったのだが。
最後に吐息とともに漏れた、本当に微かなささやきみたいな言葉も、同時に聞いてしまったから。
表情らしい表情―呆れたような、困ったような表情をようやく見せながらの言葉だったので、どうやら冗談ではなく本気で言っているらしい。
―親として、それはどうなんだ?
率直にそう思った。
俺自身、両方の親がいない身ではあるけれど、今のユリアさんの反応がおかしいことくらいは分かる。
親みたいな存在のロックや、ビアンカさんやリッキーさんやマーキスさんや、ギルドに来ていた大人たちと、エリンやミラみたいな兄弟のようなやつらと、長く時間を共有しているから分かる。
―失敗作。
彼女は、そう言ったのか。自分の娘に向かって。
自分の不備を恥じるような表情と口調。
いや、最後のそれはもう自分の不備ですらなく。
家族に決まった形は無いというけど、でもこのリズとユリアさんの関係はまるで―。
「ローズリーさん、今の言い方は、その、少しひどいと思います。リズだって一生懸命頑張って、そのせいで疲れて風邪を引いたのかもしれない。私からしたら、あんなに止まらずにずっと走り続けているような子、見たことないし―見ていられません。熱は下がっても、少しひと休みしたいっていう気持ちはあると思うんです! ……それに、そんなこと言っちゃったら―」
リズがあなたの道具みたいじゃないですか。
エリンは言った。俺が心の中ですら言い淀んでいた言葉を、口に出して、音にして言った。エリンにもユリアさんの最後の言葉が聞こえていたのだろう、リズの呼び方や、語気の強さの変化など気にする様子もなく堂々と言い切った。
お前は強いな、と、口に出しそうになったのをなんとか抑える。
そう、俺が感じていた‘ズレ’と、もっと言うなら‘既視感’はそういうことだった。
身近なビアンカさんで例えるなら。
彼女は数十回か数百回に一回ほど、料理に失敗する。俺から見れば完璧超人のビアンカさんが失敗をするなんてこともなかなか見られるものじゃないが、メインディッシュでもデザートでも、とにかく失敗したときに、彼女はばつの悪そうな顔でこう言うのだ。
―ごめんね、こんな失敗作を作っちゃって。
自分の作ったモノが上手く形にならなくて、不満げで、恥じ入るような表情。
残酷なことに、ビアンカさんの表情と、ユリアさんのそれが、ぴったりと重なってしまったのだった。
「道具、というのとは違うわエリンさん」
エリンのその言葉に、それこそ恥じ入る様子も、かと言って怒る様子もなく、ユリアさんは変わらず淡々と言葉を返す。
「彼女は私が、いえ、私と夫が作り出した財産、そして次への種です。私がそうであったように、ローズリー家の血を引くものとして優秀で完璧でなければいけないのですよ。あなたたちにはまだ話していないかもしれないですけど、娘は王下十三局への入局を目指しています。将来彼女が十三局の局員になれたとして。到達点にたどり着くというのはもちろん、それまでの道筋も、そしてそれから先も、傷ひとつつくことなく生きなければなりません。ローズリー家は―私たち家族は、そうしてきました」
だから学校を休むなんて、もっての外なのです。
ユリアさんは、そう言い終えて、心なしか満足そうに口を閉じた。
それが当然なんだと。それが絶対的に正しいことなんだと言わんばかりに。
何か言葉を、と焦るけれど、言えるわけがなかった。
俺もエリンも、その隙の無い断言に、次の言葉を継ぐなんてことができるはずなかった。
リズの様子を見るという当初の目的を果たすことなく、ローズリー家の大きな扉を開けて外に出る。
ユリアさんの勢いに押されるがままに。
逃げ出したようなものだった。
すでに外はオレンジ色に染まっていて、西から差す夕暮れの光がやけに暖かかった。
「……」
「……」
俺もエリンも無言だった。
ここに来る前の雑談はどこへやら、お互い軽口を言う元気もなくなっていた。
正直なところ、ユリアさんと話して、リズの様子を間接的にではあるけれど聞いて、俺は少し安心していたところがあったのだ。
ずる休みだなんて、リズも完璧じゃないんだなとか、ユリアさん並みに偏った見方でリズを見て。
リズのような完璧に見える人間で、魔に呑まれてしまう人というのは、エリンの言ったように、頑張って走りすぎて、止まることを知らずに壊れてしまう人だったり、無理をしてしまう人だったりする。
彼らにとってサボりーつまり手を抜くというのは、そういう張り詰めた空気を抜くのと一緒で、陥魔をある程度まで抑える効果がある。
たったそれだけのことで、効果はあるのだ。
だから、安心していた。
エリンの言う'毒'を、自分で抜くことができるなら大丈夫だと安心していた。
陥魔なんてのはただの思い過ごしで思い違いだと。
でもリズは。
リズはすでに壊れてしまっているのかもしれないのだ。
酷い言い方かもしれないが、ユリアさんが、あの人が親だという時点で、俺の楽観視はもうすでにあてにならなくなってしまった。
「ロイ……気持ち、じゃなかった、鬱陶しいから頭撫でるのをそろそろ止めてくれ。私の方からも成果を説明する」
「ん、あぁ、ごめん」
そういえば家から出てすぐに別行動をしていたミラと合流して、ぼーっとしたまま流れでミラを抱き抱えていたのだった。ミラの頭がくしゃくしゃなのを見ると、自分がだいぶ考え込んでいたのが分かる。思わず口に出して謝ってしまったから、エリンにはちらりと横目で見られたが、すぐにまたぼんやりと上を向いて何か考え事を始めたようだった。いつものような軽いちょっかいをかけてこないところを見ると、エリンもエリンで考えるところがあるのだろう。
「結論から言うとだな」
「あの……!」
ミラが念話を使って話しだそうとした瞬間、後ろから別の声が耳に届いて思わず振り返る。
見ると、門のところから走ってきたのか、俺たちをユリアさんがいた部屋まで案内してくれたメイドさんが、息を切らしながら俺たちを呼び止めたようだった。
「どうかしましたか? 忘れものとか、特にしていなかったと思うんですけど」
息を整えるメイドさんに、俺はズボンのポケットを触って確認しながら言う。持ってきたものといえば、学校のカバンとお土産のパンだけだけど、特に忘れたものは無い。
「いえ、そうではないんですが……。私はローズリー家の使用人をしております、スミレと申します。確認をしたいのですが、あなたたちは封魔師なのですよね?」
おかっぱの黒髪、彫りの浅い顔立ちと名前から極東のキリエ大陸にある国出身だということが分かる若い女性のメイドさん―スミレさんは、目を細くして俺とエリンを見定めるような視線で見つめる。その表情だけなら、主人のユリアさんに似ている気がした。
「えぇ、そうです。俺はまだ正式に資格を取っているわけではないんですが、エリ……彼女は療心師の資格を取得済みです」
その視線に少し気圧されながらも、俺はユリアさんに説明したのと同じようなことをスミレさんにも伝える。
黒と白の色を基調に作られた、所謂メイド服の肩の部分が少しずれているのを見ると、だいぶ急いで来たみたいだ。俺にとってはメイドさんや執事とかいった人たちはお金持ちの家にしかいない、実物は初めて見る珍しい人たちだから、その服装とかをついまじまじと見てしまう。
その視線になぜかエリンが気づいたようで、肘で脇腹をつつかれる。
「そう、ですか。お聞きしたいのですが、あなたたち封魔師は―」
スミレさんはそんな俺の視線に気づいた様子もなく、口を開いて言う。
その最初の一言を彼女が口にした段階で、なぜか俺は彼女が言おうとしていることが分かってしまった。
今日はこれで何度目の既視感を覚えればいいのだろう。
「どんな人たちから発生した魔物も、どんな人から陥魔してしまった魔徒でも、分け隔てなく討つことが出来るのですよね?」
縋るような目で、確かめるような口調で、恨めしそうな顔で―それは俺の錯覚かもしれないが―彼女の口は、俺の予想と全く同じ動きをする。
そんなスミレさんの質問に、俺は間髪入れずに答える。
一昨日、リズに同じ質問をされた時に言ったのとまったく同じ言葉を。
一言一句、迷うことなく断言した。
「……。ありがとうございます。それだけ聞かせていただければ十分でございます。お嬢様を―」
よろしくお願いします。
隣にいるエリンも、俺の腕の中にいるリズも、怪訝な顔をして俺とスミレさんのやりとりを見ていることだろう。
スミレさんが俺に何を言っているのか。俺がスミレさんに何を言われているのか。
俺自身、認めたくはなかったけれど。
でもよろしくお願いされてしまったからには。
もう思い過ごしだとかは言ってられなかった。
深く、深く頭を下げたスミレさんは、その後は何も言わずに来た方向へ帰っていってしまったのだった。
「……あの使用人に話を遮られて癪ではあったのだが」
少し間をあけてから、ミラが不機嫌そうに念話で俺に話しかける。一昨日の夜もそうだったが、こいつはなぜか誰かに話を割り込まれることが多いようだ。
「結論から言おう。リズとかいう娘に関するお前の心配事だが」
―半分正解で半分はずれだ。
ミラは言った。
だいぶあいまいな表現だったけれど。
不安も疑問も残る回答だったけれど。
半分正解で半分あたりという結論を告げられるよりは、いくらか俺の心は救われたような気がした。
娘の友だちと名乗る学生二人が帰った後、ユリア・ローズリーは特に何を感じているわけでもなく窓の外の夕焼けを眺めていた。
自分の、いや、ローズリー家の教育方針を、生き方を人前で話してしまったのは柄にもないことをしたとは思ったが、それも彼女にとっては人前で常識を確認することと一緒だったので、すでに気にしていない。
気になり始めてしまったのは自分の娘のことだった。
彼らに話してから、娘に学校を休ませたことを後悔し始めていた。
たかが高等学校の出席日数とはいえ、完璧に傷がついたのだ。
一度目は本当に風邪をひいたのだから、それを無理やり連れていってしまったら他の学生に迷惑をかけるし、そんな状態で送りだしてしまえば母親である自分が責められるという心配があった。
しかし今日の欠席は、ただのずる休みだ。熱は下がっていた。顔色も良くなっていたはずだ。体調は万全だっただろうに。
二度も同じ失敗をするなんてあってはならないのに。
考えていくうちに、朝に抑えていたはずの彼女の怒りはふつふつと湧き上がっていった。
なぜか息の上がっている様子の使用人スミレに洗い物を命令しておき、すぐに娘の部屋のある階段を上る。無意識に足に力が入っているのが軋む木の音で分かる。
惰眠を貪っているのか。中からは何一つ物音が聞こえない。「入りますよ」という、自分の娘に対するものとしてはやけに他人行儀な声をかけてから、勢いよく扉を開ける。
中には。
もがいて、暴れた末に乱れたのであろうベッドのみ残されていて。
彼女が怒りをぶつける対象はどこにもいなくて。
窓が乱暴に開け放たれていた。
「……リズ?」
本当に、本当に久しぶりに自分の娘の名前を呼んで、彼女は焦る気持ちを抑えて窓の下を見るために駆け寄る。窓の外、地面の下には彼女の想定していた最悪な光景は繰り広げられてはいなかったが、視界に映った何かに、奇妙な違和感を覚えた。
それは白い羽だった。
羽であることは分かったが、それが何を意味するかまでは理解が追いつかない。
できないのではなく、なんとかして理解するのだと自分に言い聞かせるも、後ろで再び扉が開く音がして、その思考は中断される。
なんだ、ただ用を足していただけかと、内心ホッとして、でも厳しい表情は崩さずに振り返る。
振り返って、自分の後ろにいるのが娘かどうかも確認できないまま。
霧状の水分が顔にかかったのと、鼻の奥にくる鋭い匂いを感じるとともに。
彼女の意識は突然、闇に落ちていったのだった。