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白い雷  作者: 黒崎蓮
ヒマリア編
4/28

第3話:傷ついた猫

 ―私を助けてくれる。そう、言ったよね?

 彼女は言った。

 縋るような目で、確かめるような口調で。恨めしそうな顔で。

 雨が降っているせいか、彼女の目から流れているのが雨水なのか涙なのか分からなかった。

 涙を流して泣いているのかもしれない。

 あるいは、もう涙は枯れ果ててしまって、雨水だけが自然の法則にしたがって流れているだけかもしれない。

 もっと早く気が付くべきだった。

 いや、本当はとっくに気がついていた。

 彼女の心はボロボロだったということに。

 彼女の心は一人で寂しく泣いていたということに。

 一言で良いから何か言葉を。

 一人で良いから誰かの手を。

 言って欲しかった、掴みたかったことくらい、俺は気がついていたはずだったのだ。

 今思い返せば、彼女との日常のやり取りの中に、彼女が苦しみ続けていたことが分かる場面はいくつもあった。

 見て見ぬふりをしていたのか。

 ‘関係ない’と切り捨ててしまっていたのか。

 ―嘘つき。

 彼女の口から、黒く、禍々しい感情の塊が吐き出される。俺に向かってきた悪意だということは、明白だった。

 闇の属性だということが一目で分かる黒色のオーラを全身に纏って、彼女の身体が変化を遂げていく。

 肉が乖離し、骨が軋む、今まで聞いた事のないような残酷な音を奏でながら。

 灰色の体毛。

 長い耳。

 両手に装備された半円状の刃物。

 彼女は化け物へと姿を変えた。

 陥魔して、魔徒と化してしまった。

 貴女の息子が、貴女の父親が、貴女の帰りを待っているんです。

 当時の俺では、知る由もなかった、考え着く余裕すらなかったであろう情報を、ただひたすら喚くように彼女に投げかける。

 届くはずもなく。今や獣と化した彼女の腕の先端にある、半円状の刃が、俺の視界を埋め尽くした。

 その時から俺は、取り憑かれていたのだろう。

 苦しんでいる人は助けなければ。

 そうしなければ俺は―。

 そんな思いに取り憑かれて、ここまでがむしゃらに生きてきたのだろう。


*****


 砕かれたコンクリート。切り裂かれた何かの家具の一部。獣に咀嚼されたらしい材木の断片。

 何もかもぐしゃぐしゃだった。

 何もかも粉々だった。

 それらはすべて悪意によって破壊され、作り出された一つの絵画のように、静かに俺の目に映っていた。

 両隣の建物は綺麗に、なんの損傷もなく建っているのに。

 その建物の空間分だけ、ぽっかりと空白が空いてしまっていた。最初から存在すら許されないことを示すかのように。

 それは形もなければ音もない。

 ひたすら激しい感情によって抉りだされた、総毛立つような空間。

「いるぞロイ。用心しろ」

「わかってる」

 ミラの声に、俺は'雷鳴'を腰のベルトから引き抜く。剣幅の広い、白く鏡のような光を放つ両刃の刀身。鍔の装飾には少量の金が使われていて、全体の重さのバランスを取っている。中心にはめ込まれているのは星心術の力を増幅させるための球体のアステル鉱石。黒い革の持ち手が、しっくりと俺の手に馴染む。

「'雷衣'……!」

 いつ飛びかかられても良いように、俺は会得した数少ない星心術を自分にかける。

 雷衣。

 文字通り雷の衣。

 雷属性のアステルを薄い膜のように身体に纏わせる、主に防御のために使う術で、極めれば銃弾すら身体に張られた電気の膜で跳ね返すことができる。流石に銃弾は無理だが、ちょっとした星心術による攻撃や武器による打撃ならダメージを軽減して跳ね返すことができるくらいには極めた。

「ふむ、力のコントロールはできているようだな」

「これはもう得意技のひとつだからな」

 視線は瓦礫の山から離さず短く答えた。静電気を浴びたような、今やもう慣れた感覚を全身に、俺は少しずつ家の残骸に近づく。ここまで粉々だと中に住んでいた人たちもひとたまりもなかっただろう。

 両隣の家の人たちは気がつかなかったのだろうか。これだけのことが起きたのだから、周囲に轟音が鳴り響いていてもおかしくないのに。

「まさに魔物にのみ為せる技と言ったところか。なかなかの強敵かもしれんぞ」

ミラの言葉に頷いたと同時に一歩、警戒のレベルを一段階上げて踏み出した。

「-!」

 'それ'はタイミングを計ったかのように瓦礫の山の中から飛び出てきた。火山が噴火するかのような勢いで、その黒い物体は月明かりを背に、俺を睨みつける。

 目と目が合ったのはその一瞬だけだった。

 危うく吸い込まれそうな、紅黒く輝くルビーの瞳。

 闇夜に溶けそうな黒い体毛は、全身に複数ある黄色の切り傷のようなものによって際立っている。

 異様に長く見える四肢と尻尾も真っ黒。

 三角の耳に三本ヒゲ。

「お前の仲間っぽいぞミラぁ!」

「私はこんな奴知らん!」

 黒い物体-より正確に言うなら黒い猫型の魔物が、獲物であるらしいかぎ爪による斬撃を容赦なく俺に向かって振るう。間一髪、後ろに飛びのいた俺は驚きを紛らわすためにミラに叫ぶ。ミラの反応はもっともなものだったし、通常サイズのミラに比べて目の前の魔物は大きすぎる。

 これではまるで虎だった。でもやっぱり、身体に比べると小さめな顔や全体のフォルムから猫と形容したほうが正しいのかもしれない。

「騎士団が来る前に片付けられるかな」

「やってみる」

 ここで仕留めなければ、五百年以上前の名前を今も引き継いでいるカノン王国の警察機関-カノン王国騎士団に真っ先に疑われてしまう。こんな人間離れした技ができるのは魔物か、そうでなければ星心術の使用を公式に認められている職業に就く者-この場合は現場にいる俺なのだから。

「―!」

 俺は半円を描くように右に移動して、黒猫の死角に入る。そこから地を蹴って、正面の脇腹に切っ先を向けながら突進する。雷衣があるから、少しくらいのダメージは受け流すことができる。訓練で獲得した戦闘スタイルを早速実践することにした。

 黒猫の方も黙って攻撃を受ける気はもちろんないらしく、長い尻尾で俺の雷鳴による斬撃を受けきる。

「くっ!」

 鉄の塊をぶっ叩いた時のような衝撃が、腕に響く。しかしそれに怯んでもいられない。咄嗟に半歩下がってから、再び左足をバネに飛び込む。

 俺の中で高まりつつある戦意が、雷のアステルに変換されているのが、雷鳴の鍔部分にはめ込まれているアステル鉱石の輝きでわかった。輝きは刀身に沿って、剣全体を煌めかせる。

 雷の力を込めた雷鳴による突きが、一直線に黒猫へと吸い込まれていく。

「危険だロイ!」

 切っ先が脇腹へ届くまであと数ミリのところだった。俺のフードから離れて後ろで戦況を見ていたミラの声が耳に届いた。

 その後の俺の動きはもはや反射だった。雷鳴のほの白い光とは別の、黄色い三日月型の光が視界を埋め尽くした瞬間、俺は自分の身体の重心をわずかに下にずらす。俺の身体は飛び込んだ勢いをそのままに、黒猫の長い手足と地面の間をくぐり抜けていく。ターゲットを失った雷鳴の切っ先は、俺の身体ごと黒猫の背後の瓦礫の山に当たり、爆音を鳴らした。

「おえ、口に砂利が……」

 盛大にスライディングした形になった俺は、うつ伏せになったまま呻く。口を動かすと砂や小石が嫌な音と感触を残した。気持ち悪い。

 慌てて身体を起こして状態を確認すると、ジャンパーの肩の部分がボロボロに斬られていた。

「その黒猫の身体に刻まれている黄色い切り傷!そこから刃型の衝撃波が放たれていた!あまり近づくと八つ裂きになるぞ!」

 遠くにいるのだろうか、ミラの姿は見えず、声を張り上げているような念話だけが耳に届いた。俺の知る限り、ミラに戦闘能力はないから一緒に戦ってくれとまでは言わないが、せめてその気だけは見せて欲しかった。

「それはともかく……刃型の衝撃波か」

 その衝撃のおかげで服は破けて、雷衣まで解除されてしまったらしい。

「雷衣が無かったら両腕が無くなっていたわけか……」

 封魔師になるどころの話ではなく、普通の生活も困難になるところだった。

 魔物と戦ったこと自体初めてではなかったが、ここまで強力なのはロックと共闘でもしない限り経験はない。

「さて、どうしよ……うおっ!」

 悩む間も与えられず、今度は長い尻尾による刺突が俺に向かってきた。間一髪で横に避けるも、つい一瞬前まで俺が足をつけていた地面は深く抉られてしまった。続けて二擊、三擊と、見た目以上に硬い尻尾による刺突を避け、雷鳴で弾き返しながら黒猫の様子を伺う。黄色い三日月型のあの斬撃には、発動の前に一瞬だけ切り傷が発光するという予備動作があるから、なんとか避けられるものの、あまり発動させ続けると近隣の建物に被害が及ぶ危険が高まる。

 それに-こういうタイプの攻撃は、嫌でも‘あの時’を思い出してしまうから余計に気分が悪い。

「雷衣!」

 俺は再び身体に電気の膜を纏わせる。もう一度突っ込むしかない。俺の得物はこの雷鳴一本。斬りつけるにしても突き刺すにしても、近づかなければ刃は届かないのだから。

 今度は真正面から。頭をぶった斬る。

 相手が本物の動物や、まして人間だったらそんなことはできないが、相手が魔物ならなんとか気持ちの踏ん切りはつく。

 斬りつけたって血は出ない。感触も、生身の生物のそれではない。

 こいつらは生きているようで、生きてはいない。

 見えている姿だって、本当のものとは限らない。

 揺らぐ、不確かな存在だ。

 言いようのない、触れようのない、悪意の化身。

「うおおおおっ!」

 雷鳴を顔の前で水平に構え、駆ける。

 黒猫のルビーの瞳を、まっすぐに捉える。

 しかし、それがいけなかったようだった。

 見てはいけない、そこに確かに存在する、紅い瞳が輝いた。

「そ、そんな……!」

 俺と黒猫の視線が重なった瞬間、俺の身体はぴったりと動かなくなってしまった。状況を説明すると、ただそれだけのシンプルなものだった。しかし、今まさに黒猫の頭めがけて雷鳴を上段に振り上げている俺にとっては、かなり深刻なことだった。

 胴がガラ空きだった。

 そこに尻尾の刺突や、三日月の斬撃を打ち込んでくださいと言わんばかりの、見事ながら空き具合だった。

「かなしばりってやつか……そんなこともできるなんて聞いてないぞ!」

 とりあえず文句を言ってみるけれど、黒猫は反応することもなく、じっくりと俺を舐めるように見つめる。どこを切り裂いて、どこを抉ってやろうか。そんなことを考えているのかもしれない。魔物の嫌な特徴だ。襲う人間に、恐怖や絶望という負の感情を抱かせてから殺すという、残虐な性質が、この黒猫にもしっかりと兼ね備えられている。

「ここで、終わるわけにはいかないんだよ。まだ始まってすらいないんだ。こんなところで……!」

 負け惜しみだろうが、辞世の句だろうが、ここで怖がるわけにはいかない。

 こんなところで絶望するわけにはいかない。

 こいつの思い通りにならないように、言葉を紡ぐ。

 まだまだ俺にはやるべきことがあるのだから。

「……ウ、ウァガァッ……!」

 紅い瞳を見つめ、睨み続ける。

 ひたすら、穴を開ける勢いで。

 黒猫が口元を歪める。笑っているのか苦しんでいるのか、判別がつかないが、俺の方は徐々に身体の拘束が解かれていくようだった。

「雷鳴―」

 上段のまま構えた腕が動くのを確認して、俺はアステルを雷鳴に集中させる。この黒猫、瞳によるかなしばりをしている間は他の技を発動することができないらしい。こいつがかなしばりの維持にこだわり続けていて尚且つ、理由は分からないが、その効果が薄れている今なら、一撃を打ち込むことができる。

 雷鳴の刀身が、雷のアステルを帯びて光り出す。

 今度こそ。

 ただ、振り下ろすだけ。

「―一閃!」

 白い一閃が、黒猫の頭を縦に一直線、浮かび上がった。

 雷が落ちたかのような轟音と、膨大な量のアステルを抱え込んだ雷鳴の持ち手の振動が、俺の腕に痺れるほど響く。

 黒猫の頭を確かに真っ二つに斬り裂いた。

 確かに、そう見えたのだが。

「三振。バッターチェンジだな」

 驚くほどに手応えが無かった。その感覚と、後ろから姿を現したミラの言葉で、俺は標的を討ち損ねたことを理解した。

「あの状態から逃げられるなんて……」

「まぁ、一言でお前の実力不足とは言えんよ。上を見てみろ」

「上?」

 言われた通り、真っ暗な空を見上げてみる。目を細めてみると、遠くの方で白い鳥のようなものが飛んでいるのが見えた。

「まさかあの黒猫、羽を……?」

「翼を生やすことができる。つまり変形できるということ。奴がそれだけ強力だったということさ。落ち込むことはない」

 一応慰めてくれているようだった。

 至近距離からのあの斬撃を後ろに飛んで避け、さらに翼を生やして飛び去るなんて技を、どうやらあの短い瞬間でやられたみたいだ。

「訓練みたいに上手くはいかない……か」

「だなー、理想と現実はいつだってかけ離れている。誰の言葉だったか、ムカつくけどだいたいその通りだと、俺は思うぜ」

「ロ、ロック、なんでここに?」

 背後には気配も無く、ロックが立っていた。服装は昼と変わらず紺のコート。この暗闇の中ということも相まって、その姿も闇に呑まれているように見える。

 腰にはロックの愛刀、'水無月'がぶら下げられていた。

「その家に住んでたおっちゃんおばちゃんを、騎士団病院に送り届けてきたところだよ。そのついでにあの化け猫をぶっ倒そうと戻ってきたんだが……まさかお前らがいるとはな!」

 がっはっはっと、近所迷惑を考えない豪快な笑い声が耳にうるさかった。

「病院にって、じゃあ、ここに住んでた人は無事なのか?というか、いつそんなことを……」

「あー、一気に訊くんじゃねぇよ!耳が痛い」

 お前に言われたくないと思いつつ、俺は口を閉じる。表情から、ロックがだいぶ疲れているということが分かったから。

「腕の骨が折れたくらいで、まぁ命に別条はなしだ。ま、詳しくはギルドに帰ってからだ。まーったく、こんな時間に、しかも街の中で出るってのは、いったいどういうことだってんだよ。しかも確実にこの家のみを狙ってるときた」

 ロックは踵を返しながら、文句を垂れる。

 確かに、普通の魔物とは違った。個人の負の感情が暴発し、その宿主を変化させてしまう陥魔によって生まれる魔徒と違って、悪意の塊である魔物は、その存在を構成する悪意に従って無差別に人を襲う。

 だけど今回はロックの言った通り、この二階建ての一軒家のみを狙ったのがはっきりわかった。

 完膚なきまでに、ボロボロに。

 まるでそこに住んでいる人に、深い恨みがあるかのように。

 言うなら、そう、魔徒みたいな魔物だった。

「魔物が個人を狙う。最近はそんなのばかりだろ。……本当、'奴ら'はめんどくさいことをする」

 ミラもまた疲れたようにため息をつく。こいつ、見てただけなんだけどなぁ。

「じゃあ、ここに住んでたのは、誰だったんだろうな」

 俺はふと、半ば独り言のように、浮かんだ疑問を呟いた。

 ロックはおっちゃんおばちゃんと言っていたけど。

「あー、それがよ。病院に連れてって身元確認したら、びっくりしたぜ」

「どうして?」

「お前の学校の先生だったんだよ。ヒマリア高等学校勤務って書いてあった。名前は確かー」

 ロックが、今は無い家の住人の名前を口にする。

「ジョン・ポール」

 温和そうな、小太りなあの先生の顔が脳裏に浮かぶ。

 それは、確かにロックの言う通り、俺の学校で数学を教える教師でありー。

 リズの担任教師でもあった。



「本当、何してきたの?!ボロボロじゃん!ほら、上着脱いで!怪我ない?大丈夫なの?」

「大丈夫、雷駆の運転失敗して転んだだけだから。あと、ごめんエリン。クマのぬいぐるみ、買ってくるの忘れた」

「まだ引っ張る気か!」

 ギルドに帰って早々、エリンに怒られまくった。

 あの後俺たちは、騎士団の白黒車両とすれ違う形でロックの雷駆に乗ってギルドに帰ってきたのだった。

 通報、というか直接騎士団まで報告しに行ったのがロックだったから、駆けつけた騎士達に簡単な説明をしただけで、後はお咎めなしで帰ることができた。

 むしろお咎めはギルドに帰った後のエリンの方が強烈だったというのは、だいぶ体力を消耗して帰ってきた俺には予想外で驚いたくらいだ。

 もう寝てると思ったのになぁ。

「あと、バレバレの嘘はやめてよね。どうせまた無茶してきたんでしょ。オジさんも止めてよ!」

「いやぁ、俺の知らないところで勝手に戦ってたからなぁ。止めようがないぜ。そんなことよりエリン、コーヒーくれ。117でよろ」

「……オジさんなんて胃もたれになっちゃえ」

 悪態をつきながら、しっかりと俺の分まで熱いコーヒを入れてくれたエリンに礼を言って、今は誰もいない一階のレストランの一席に腰を落ち着ける。エリンはもう眠気の限界だったようで、詳しいことは明日教えて欲しいと言って、ミラを抱き抱えながら寝室に戻って行った。

「もー、こんな遅くまで出歩いている男どもは放っておこう!ミラちゃ~ん、エリンちゃんと一緒に寝ましょうね~!ぬいぐるみなんて無くても私にはミラちゃんがいるからね~!」

「……」

 ものすごい不機嫌な顔をしながらエリンに抱かれて撫でまわされているミラが、‘どうにかしろ’とアイコンタクトを送ってきていたようだが、俺は俺で疲れていたので気づかないふりをした。

 それからロックから、俺の知らない事情を聞いた。

 具体的には、いつ、どうやってポール夫妻を助けたかということ。

 どうやって俺たちより早くあの崩壊した家にたどり着き、黒猫の攻撃をかい潜ってポール夫妻を救出し、騎士団まで送り届けることができたのか。

 その理由は、一言で言うなら、魔物に対する察知能力の違いだった。

 俺たちが魔物の'能力発動の気配'を感じてあの場所へ向かったのに対して、ロックは魔物が'誕生した気配'を察知して、対応したのだ。

 つまり、人々の負の感情が形を伴って変化した怪物が誕生した気配、その瞬間の気配を察知したということ。

「三番通りのバーに行った帰りでな。ほんと、偶然感じたんだよ。気配のする方へ行ってみたら、すぐ近くであの黒猫野郎がその辺の家の屋根を踏み台に突っ走って行くのが見えた。だから追いかけた。普通、魔物は生まれたその場で暴れるはずだろ?人の多い、こんな街中なら尚更だ。だけどあいつは、明確な目標があるようにあの家に向かって行ったんだぜ。まぁ、それからは、あの黄色い衝撃波でバラバラにぶっ壊される家をかい潜りながら、あの二人を助けたってわけだ」

 と、そんな風にロックは説明した。

 ここでも格段に違うレベルの差というものを見せつけられたわけだった。俺があの黒猫の気配を感じられたのも、いつも以上に'そういう感情'に敏感だったからだ。

 何かに悩んでいる、何かに苦しんでいるのかもしれない友だちのことを考えていたから。

 それにつられて、思い出したくない思い出と、感情を思い出してしまったから。

 それに比べてロックは、さすがベテランと言わざるをえない。

通常、いや、その時は酒を飲んでいたのだから、酔っている状態でそれに気づいた。

 並の封魔師では、魔物が何かの能力を発動した気配を察知することはできても、魔物が'誕生する'気配まで感じ取ることは至難の技だからだ。

 悪意はどこにでも存在する。

 怪物はどこにでも潜んでいる。

 どこか遠くにいるようで、すぐ近くにいるかもしれない。

 だからこそ魔物や魔徒といった存在が、明確に悪意を向けた時ならまだしも、'生まれた'瞬間を察知するなど、そう簡単にできるものではない。

 いちいちそんなことに感付いてしまっていたら、狂ってしまいそうだ。

 それをさも当たり前のようにやれるロックは、なんだか手の届かないような存在に思えた。

「そういうことだったのか。……それにしても、昨日も呑んでたのに、今日もまた呑んだくれてたのか。ロックは。少し呑む量を控えたらどうなんだよ……」

 そんな賞賛の言葉を俺が言葉で伝えるわけもなく、説明しながらコーヒーの香りと一緒にアルコールの匂いまで振りまいていたロックにいちゃもんをつける。

「はっ、何をいまさらだなロイ。俺は仕事がない日はだいたい酒と一日を過ごすんだよ!三番通りのバーにあるアントリア産の葡萄酒は美味いぞー。今度連れてってやんよ」

「未成年を酒場に連れてく気か」

「バレなきゃ大丈夫だっつーの!」

 こんなダメ大人だから、尚更言う気が失せてしまうというものだ。

 本当、変な言い方だが、素直に尊敬させてくれないのがロックだった。

「俺、もう寝る」

「あー、そうだな。ガキンチョは寝る時間だ。寝とけ寝とけ、明日も学校だろ」

 ロックの煽りみたいなおやすみの挨拶は無視して、俺は二階の部屋に戻るために席を立つ。

「ロイ。お前、あの魔物について何か知ってんのか?」

「……なんで」

 何事もなく寝室に行けるかと思った俺の背中に、ロックの声がもう一度かかった。雑談の続きでもするかのような声のトーンに、俺は逆に背筋が伸びてしまう。

「いや。あんなに早く現場にいたし、ガイシャがお前んとこの先生だったからよ。何か関係があるんじゃねーかと思ってな。最近は多いんだよ。魔物が特定の個人を襲う事件がさ」

 それはミラも言っていたことだった。

 魔物が個人を狙う。

 個人に渦巻いた負の感情によって存在そのものが化け物や、伝承にある悪魔のような姿になってしまった魔徒のように。

 自身の悪意に従って、自分の憎んでいる対象、怒りの対象を苦しめ、殺める魔徒のように。

「普通、人間一人が放出する負の感情とアステルの混合体―業界用語では邪気と呼んでるアレは、本当に微弱なもんだ。それが何十、何百人分と合わさって生まれるのが魔物ってのは分かってるな。そいつらに'人間の区別'なんてつかない。だけど魔徒は、そいつを構成してるのはそいつ自身の負の感情だけ。人間の区別はつくし、ターゲットだって明確だ」

なんだか長い話になりそうだったので、俺はもう一回椅子に座り直す。

 この雰囲気のロックは、いつものふざけたこいつとは違う。

 訓練所でたまに相手をしてくれる時のような、真剣な表情そのもの。調子が狂わされるこっちの身にもなって欲しい。

「じゃあ、今回のあの猫はどうなんだろうな。あいつの姿は紛れもなく魔物だ。魔徒みたいに人間っぽくなかったし、言葉は話さなかった。だけどただ一つ、魔物と違ったのは、あいつが明確なターゲットを持ってあの家をぶっ壊したことだ。これじゃまるで魔徒みたいだよな」

 ―あの家を、もしくは住人であるあの夫妻を破壊の対象として見た、ただ一人の個人が生み出した魔徒みたいな魔物だよな。

 ロックの言葉にさらに付け加えるなら、そう言いたいのだろう。

 ―相談したいことがあるの。

「……あの魔物が、不特定多数の人たちから発生した邪気じゃなくて、特定の誰か一人のものから生まれたのかもしれないって言いたいのか?でも、そもそも前提として、そんなことがあるのか? 魔物(、、)が個人(、、、)から(、、)生まれる(、、、、)なんてことが……」

 嫌な予感を振り払って、俺はロックに訊く。

 答えがはっきりと分かっているにもかがわらず、訊いてしまう。

「ある。お前が四年前に巻き込まれた'あの事件'だってその一例だ。お前があの時ターゲットとして狙われたのも、そういうタイプだったからだ」

 灰色の体毛。

 長い耳。

 両手に装備された半円状の刃物。

 ロックが'スティンガーラビット'と命名した、四年前に俺が遭遇したあの魔徒みたいな魔物が、脳裏に浮かぶ。

 俺はずっとあいつのことを魔徒だと思い込んでいたけれど、区分的には魔物だったようだ。

 たった一人が生み出した悪意の化身。

 そうか、あの人は(、、、、)たった一人(、、、、、)であんなやつ(、、、、、、)()

「……まー、なんだ。言いたいのは、何か知っててもお前はこの件に関わるなってことだ。試験を終えたっつっても、まだお前は学生で、一般人の域を出ないからな」

 あの時を思い出すとどうしても暗くなってしまう俺の顔を見かねてか、ロックは雰囲気を戻して言った。俺の身を案じて忠告したのか、或いは釘を刺したのかもしれないそんな言葉を。

「分かったよ。ロックはてっきり俺に、ポール先生をよく思っていない生徒とか先生を探してくれとか頼むんじゃないかと思ってたよ」

「そんなことするかよ。教師なんて恨まれてなんぼだろーが。俺が学生の頃なんてうっぜぇやつはいっぱいいたけど、そんなの今から思えば愛の鞭っていうステキなもんだったんだよ」

 なーんつってな、と豪快に笑って、ロックはカップに残っていたコーヒーを一気に飲み干す。

 話の流れ的に、俺がヒマリア高等学校の生徒ということを利用して、そんなようなことを頼むのかと思いきや、そんなことはなかった。

 まぁ、ロックの言う通りだろう。他人が何を思っているのか、どう思われているかなんて、そんなの本当のところは分からないのだ。

「ま、この件に関わる関わらないを抜きにしても、お前も相当腕を上げたよな」

「ん?何のこと?」

「よくあの猫が暴れてんのが分かったなってことだよ。すげぇじゃねーか。一人前の封魔師でも、できないやつはできないんだ。封魔師になるっていう宣言は、どうやら本気のようで安心したぜ」

「……」

 ロックは普通に俺を褒めてくれているようだった。リッキーさん以上に俺を褒めないロックが、本当に久しぶりにそんなことを言ったから、しばらく何を言われているのか分からず、言葉を返せなかった。とりあえず何も言わず、コーヒーカップに口をつける。

「あ?なんだよ。人がせっかく褒めてやってんのによ」

「いや、なんでもない。慣れないことをされたせいか、急激に喉が渇いちゃって」

「はぁ、何だそりゃ!」

 笑いながら怒り出したロックを隅に、俺はカップを呷ったけれど、すでに中身が空だったから、飲むフリだけをしてその場を凌いだのだった。



 俺が春の夜空に、あの黒猫との無様な戦いぶりを見せつけていたその日の朝から、封魔師ギルド・オレンジショットは動き出していた。

 ‘ヴンディッド・キャット’。‘傷ついた猫’。

 ロックはあの魔物にそんな名前を付けて、このヒマリアの街に警戒を促していた。

 具体的には、このギルドでよく仕事をもらっている常連の封魔師たちにヴンディッド・キャットに関する情報を流したり、魔物に対抗する力を持たない人たちに簡単な注意書きを配ったりした。俺やエリンも通学の傍ら、途中にある家々を回って配った。

 通常の猫の倍以上の大きさはある体躯。黒い体毛に黄色い三日月のような傷跡が付いた、ルビーの瞳の魔物。

 魔物の命名権はだいたい最初に対応した封魔師にあるから、今回はロックにあった。捻りのない名前だと思ったが、別に文句もないのでそれについては何も言わない。

 名前なんて重要ではない。

 魔物は、封魔師にとって討滅するべき対象であって、それ以上でもそれ以下でもない。

 そんな風に思っている封魔師は多いだろうが、今回はそう断言できる自信はない。

 友だちからの相談。

 前触れもなく学校を休んだその友だち。

 現れた魔物。

 被害者は―その友だちの担任教師。

 無関係だと、偶然だと切り捨ててしまって良いのだろうか。

 できることなら切り捨ててしまいたかった。こんなのはただの取り越し苦労だと、早く誰かに言って欲しかった。

 様々な負の感情の集合体が魔物。

 本来なら、自然現象としての‘陥魔’に沿って言うのなら、たった一人の感情であそこまで強力な魔物は生まれない。

 たった一人で生み出すことができるのは―と言うより、‘為る’ことができるのは魔徒の方だ。

 ポール先生が担当するあのクラスの生徒全員が彼を恨んでいたり、あるいは数学も担当しているから、数学嫌いな生徒たちが彼を逆恨んでいたりしていた?そんな小さな鬱憤が貯まり溜まって魔物を生み出した?

 それは無いと、個人的に思う。あの先生は教え方もうまい。気性も穏やかな方で、叱り方だって、ただ喚き散らすような、生徒に嫌われやすいものでもない。

 あるいはヴンディッド・キャットのターゲットは、ポール先生だけでなく、ヒマリア高等学校の教師全員という可能性も考えられる。教師に対する小さな不満が、悪意が、魔物を生み出した?

 いや、でももしそうなら、昨日の時点でもっと多くの被害者が出ていないとおかしい。ポール先生にのみ、負の感情が向いていたと考えるのが妥当かもしれない。

 そしてそもそも、そんな小さな不満だけなら、あそこまで強力な魔物は生まれない。

 そうなるとやはり、最初に抱いた懸念がもう一度顔を出す。

 ロックの言っていた、たった一人の人間から生まれた魔徒みたいな魔物という懸念を。

 誰かが、ポール先生に悪意を、それもかなり強烈な悪意を持っていた。その彼、もしくは彼女が魔物を生み出して、先生の家を、家具を、思い出の写真を、財産を、何もかも破壊し尽した。

 後から聞いてみると、ヴンディッド・キャットのポール家に対する破壊は、ポール夫妻本人たちにと言うよりも、彼らが持っていた‘物’に重点的に向けられていたということだった。

「友だちを疑うなんて……したくないんだけどなぁ」

 散々遠回りして、推理と言うにはあまりにもお粗末な推論をした結果、一番たどり着きたくない結論にたどり着く。

 ―リズ・ローズリー。

 ロックは、‘三番通りのバーに行っていた時’と言っていた。リズが住んでいるところも、三番通りの道沿いにある大きな家というのをトニーに聞いた事がある。

 ―あのヴンディッド・キャットは、リズ・ローズリーが生み出した魔物である。

 そう疑う余地は、無いとは言えない。

 このヒマリアの街は広い。もちろん、リズだけが容疑者なわけがないし、ポール先生が学校というコミュニティ以外の人から悪意を向けられているのかもしれない。

 最初から、相談を受けて欲しいと頼まれた時から、リズのことをそういう不安の目で、あるいは疑いの目で見ていたからこんな結論が出るのかもしれない。

 だけど昨日から続く一連の流れと、‘あの時’の経験から、何度思考を繰り返してもそういう結論にしかたどり着くことができない。

 たぶんこれは理性ではなく感情の問題だ。

 仮にリズがヴンディッド・キャットを生み出したとして、その動機はといえば、それこそ検討なんてつくはずもない。遠回りの推論をするのもバカらしい。

 人が、誰をどんなふうに心の中で思っているのかなんて、分かるはずもないのだから。

 傷ついた猫。

 名は体を、体は名を表すというのなら、魔物に関して言えば、それらは同時に生み出した者の心の様を表すこともあるのではないだろうか。

 ロックはこの件には関わるなと俺に言った。

 魔物を見つけ出して倒してやろうとか、そういう風に直接的に関わるつもりはない。その先がどんな展開だろうと、ただ友だちを助けるだけだ。

 傷ついているのが、あのリズなら、俺は動かないわけにはいかない。

 取り越し苦労ならそれで良い。むしろ取り越し苦労だと自分でも思う。

 だけど、‘関係ない’と切り捨てて後悔するのだけは、もう絶対にしたくなかった。


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