第2話:異夜な予感
「どうだよ。俺の淹れたコーヒーは絶品だろ」
「そうは言ってもこれ、インスタントだろ」
「この粉と水の絶妙なバランスは俺にしかできねーな」
「……いや、酸っぱいし」
目の前には得意げな顔をしたロックの姿があった。冬の気配も完全に消えて、春になったというのに紺色のロングコートを室内で着て、長い髪を後ろで馬の尻尾のように縛っているその風貌は、なんだか見ていて暑苦しかった。
奇しくも今日のビアンカさんと同じ髪型ではあるけれど、彼女は毎週のように髪型を変えるので今日は不幸にもこいつと偶然被ってしまったということらしい。髪型も一緒で、ギルドマスターと副ギルドマスターという、けっこう上の立場にいるという共通点もあって、俺にとっては二人とも育ての親という感謝で頭の上がらない存在であるというのに、ロックには素直に感謝しようと思えない節が、俺にはある。
「この酸っぱさが良いんだろうが……子どもには分からねぇかなー」
「コーヒーは苦いものだろ」
「つい最近まともにコーヒーを飲めるようになったガキンチョがコーヒーを語るなっての」
特にこういう子どもっぽいところが。大人なのに、子どもなのだ。俺自身大人とは言えないけれど、こういう大人にはなりたくない。
場所はギルド一階レストランの席の一つ。そのテーブルの上にはこいつが毎回のように買ってくるインスタントコーヒーが入った瓶。瓶には銘柄なのか、‘117’と書いてある、そのコーヒーにロックはだいぶ前からはまっているらしく、事あるごとに俺やエリンに勧めてくる。コーヒーの飲めないエリンにしつこく勧めていたら、一度見たこともないような顔で怒られたらしく、それ以降はしわ寄せの如く俺への被害が増大している。酸味の強いコーヒーで、俺はそこまで好きにはなれないのだが、こうも何回も飲まされているとぶっちゃけ慣れてしまった感はある。なぜかむかつくのでロックには言わないけれど。
「ようやくいろいろやり終えて落ち着いたと思ったらこれか……。まったくお前たちは静かに茶をすすることもできんのか」
無意味な言い争いが始まる前に、俺とロックの間に仲裁の声が入る。声と言っても、俺とロックの頭の中にだけに届く特殊な‘声’で、他の人たちにはきっと聞こえていない。脳内に直接響いているような、落ち着いた女性の声―俺にとっては物心がつくより前から聞き慣れている声の方向に、顔を向けた。
「ミラ、どこにいたんだよ。今日は珍しく起こしてくれなかったし」
顔を向けた、というより椅子から離れて、しゃがんで身体ごと彼女の方に向けたと言った方が正しいかもじれない。声の主がわざわざしゃがんで話しかけてきたとか、声と口調がやたらと落ち着いた女の子が話しかけてきたとか、そういうのではなく。
単純に声の主が、俺がしゃがまないと目線を合わせられない猫だったからだ。
「バカもん。ロイもそろそろ一人で起きなさい。本当は試験日の時も起こさないつもりではいたんだが、その、いつもの癖でな」
白い体毛。眩しいくらいの金色の瞳。首からはアステル鉱石で作られたものなのだろう、虹色の光が渦巻く球体のペンダントをかけた猫―名前はミラにお説教されてしまった。
猫の声が聞こえるとか、猫に話しかけているとか、俺の頭が可笑しいと思われるかもしれないけれど、そうではない。ミラは言葉を話す猫なのだ。正確には星心術の一つで‘念話’というのだが、彼女は人間と意思疎通ができる珍しい種類の猫らしい。らしい、というのは、俺は物心つく前からこのギルドで育てられていて、歩き始めたくらいの小さいころの遊び相手はミラだったから、普通猫は言葉を話す動物だと思っていた。今でもミラ以外の猫を見るたびに話しかけられるのではないかとそわそわしてしまうくらいだ。
「なーにがいつもの癖だ。お前も子離れできないだけだろーが」
「そ、そんなことはない!一人で起きないロイのせいで習慣になってしまったのだ!」
しゃがんだ俺を置き去りに口論を始めるミラとロック。別に俺はミラから生まれたわけじゃないし、ミラが起こしてくれなくても一人で起きられる……はずだ。
「どーだかな。子離れできてるっていうなら、その証明に'わん'って鳴いてみろよ」
「関係ないよな?私が子離れできないのとそんな畜生みたいに鳴かなきゃならんことに関係はないよな?」
「お、やっぱり子離れできてねーじゃん。ほら、やってみろよ」
「お前ちょっと落ち着けよ」
ちなみにミラが喋ることを知っているのは俺とロック、それにビアンカさんだけだ。面倒だから他の奴には言うなと本人、もとい本猫に言われている。だいぶ長く生活を共にしているエリンも、ミラのことは普通の猫だと思っているようで、出会うごとに撫でまわして可愛がっている。
「これが落ち着いていられるかよ~! うちのロイが封魔師になるかならないか、あと一週間もしたら分かるんだぜ? 武者震いが止まらん」
「それは貧乏ゆすりだろ……」
俺は耐えかねてツッコむ。机をガタガタと揺らさないで欲しい。コーヒーが零れてしまうし、せっかくのティータイム(と言ってもこの酸っぱいコーヒーだが)が台無しである。
あのファストフード店でだらだらと過ごした後、トニーとリズと別れて、俺は試験までにお世話になった人たちにお礼を言うために、エリンとも一度別れたのだった。合格でも不合格でも、とにかく感謝の気持ちだけは伝えておきたかったのだ。
まずはなにより‘ブルース訓練所’だった。封魔師になろうと決意した四年前から、ここで武術や星心術の技術を教わっていた。三年間はエリンと一緒に。最後の一年は俺一人で。教えてくれていたのはリッキー・ブルースという男性の元封魔師。現役の頃はロックやビアンカさんとともに名を馳せていた封魔師だったらしい。旧知であるロックの頼みで、ほぼ俺だけの為に、空いた施設を借りて訓練所を開いてくれた。面倒くさいと言って俺の指導を丸投げしたロックのせいと言うべきなのか、おかげと言うべきなのか、リッキーさんは快く引き受けてくれた。
神父のような優しい顔立ちと口調なのに筋肉隆々といった、少しアンバランスな外見をしたリッキーさんは、お礼を言いに来た俺に一言、‘頑張りましたね’と言ってくれた。いつ穏やかな笑みを浮かべていて、口数もあまり多い方ではないリッキーさんの褒め言葉として、俺にとっては充分に嬉しいものだった。
次はトリポリ工房。俺の相棒、というか愛剣である‘雷鳴’をメンテナンスに出していたから、それも兼ねてのことだった。ここの主人であるマーキス・トリポリさんも、同じく元封魔師で現役の頃はロックと一緒につるんでいたらしい。リッキーさんや、たまにロックともやる模擬試合で傷んだ‘雷鳴’を、俺の使いやすいようにカスタマイズしてくれていたのだ。アステル鉱石を使って俺のアステルと‘雷鳴’のアステルの波長を合わせたとか、専門的なことで説明されても正直俺には分からないことだらけだったけど、彼のおかげで訓練を滞りなく続けられたのは確かだった。
‘ヒャヒャヒャ!もし封魔師になれたとしても、定期的に‘雷鳴’は見せに来いよ、ロイ坊。俺の至高の一振りなんだからさ‘
赤いアフロ頭に細い体躯。ロックからは‘マッチ棒’と呼ばれている、かなり独特な笑い方をするマーキスさんは、自分の子どもを自慢するかのように、礼を言いに来た俺に答えてくれた。
そして最後はギルドに戻ってビアンカさんである。朝は忙しくてお礼を言えなかったけど、改めて言うことにした。
ビアンカ・オレンジショット。ギルド・オレンジショットのギルドマスター。一応現役の封魔師らしいけど、俺は他の封魔師に仕事を紹介しているところしか見たことはない。週間隔くらいで茶色の髪の型が変わる。銀縁の眼鏡をかけている。年齢は……そうは見えないけど、たぶんロックと同じくらいだ。
気づいた時には父親も母親もいなかった俺にとって、ビアンカさんは住む場所を、帰る場所をくれた母親みたいな存在。あくまで母親‘みたい’なのであって、彼女は一貫して俺を息子として扱わなかったし、俺も彼女には母親ではなく、近くにいる大人の内の一人として、気づいた時には敬語で話して、接していた。この辺、ガンガン絡んでくるロックとは正反対だけれど、その距離感はとても心地よかった。
‘お礼なんて良いよ。それこそ、合格してからにしなよ。封魔師になったら、まぁ、その身体で払ってもらえれば良いからさ。’
要するに封魔師としてここで仕事を引き受けるという形で恩を返してくれれば良い、という意味なのだけれど、だいぶギリギリの発言をイタズラっぽく笑って言うのだ。容姿が若いだけに、ちょっとドキッとしてしまう。
大勢、と言っても時間の関係で三人だけだが、お世話になったお礼を言って今に至るわけである。
流れでロックにもお礼を言おうかと思って、この席に呼んだのだけれど、いつも通りといえばいつも通りに、対面すると言葉が引っ込んでしまう。封魔師になろうと思った一番の要因は、やっぱりロックにあって、それこそ今の俺の原型はロックにあると言えるのだけど―。
「どうしたんだよ、ロイ。そんな虫を見るような目をしちゃって。可愛い顔が、台無しだぜ?」
いつの間にかロックの右手にはコーヒーカップではなく、ワインボトルが収まっていた。それも結構酒が入っているらしく、顔が赤い。
……これだもんなぁ。 四十を過ぎたオヤジに、ウインクしながらそんなことを言われた日には鳥肌立ちまくりである。
少なくともビアンカさんにお礼を言った時点では、ロックにもお礼を言っておこうという気持ちは十分すぎるほどあったのに。言うべきなのだろうけど、なんだか興醒めだった。
「ところでロイよ……ロックに対するイライラを私で解消しようとするのはやめろ……」
そんな文句に、自分がミラの頭を撫で繰りまわしていることに気が付く。ついいつもの癖で、考え事をしている時にはだいたいミラの頭を撫でてしまうのだ。今は考え事と言うより、ストレス発散に近い。ミラは鬱陶しそうに、でも半分気持ちよさそうにおとなしく座って俺の撫でまわしを受け続けていたらしい。
「あぁ、ごめん。そういえばミラ、お前今日は一日どこにいたんだよ。さっき、『お前たちはいろいろ終えた後なのに落ち着かないな』みたいなこと言ってたけど、近くにいたのか?見かけたなら声をかけてくれれば良かったのに」
ロックは無視して、ミラに話題を振ることにした。たとえ目の前で常連の女性封魔師にナンパを仕掛けてビンタという反撃を食らっている副ギルドマスターのおっさんがいても、俺はまったく知らない。
「ふん、私くらいになると近くにいなくてもお前がどこで何をしているのかなんてお見通しなのだよ。そこの黒いのは知らん。知っててもしょーもないから言わん」
自慢っぽくそう言って、続いてロックの方を流し見て呆れたように言った。この二人……一人と一匹は、俺が生まれるより前からの仲らしく、ミラがロックに送る蔑みの視線も容赦の欠片もない。この様子だと、仕事をしていたふうではないので昼間からぐうたらしていたのだろう。エリンの話だと、昨日はそれなりに大きな魔物が出て、ロックもその対応に追われて疲れていたのかもしれないが、もしそうだとしたら残念過ぎである。
「なんだよぉ~猫まで俺を邪険に扱うのかよぉ~ほら、可愛がってやるから~!な!!」
「に゛ゃーーーー!!!!やめろ!!痛い!ひげ、痛い!!」
ナンパに失敗した腹いせか、ロックは涙目になりながらジョリジョリと、いやさ、もはやゴリゴリとミラに頬ずりをしていた。ミラは涙目というか本気で泣いていた。せっかく威厳を保っていた口調が台無しになるくらいに。
「と、とにかく、今日私は大事な用事があって朝から出かけていたのだ」
なんとかロックに猫パンチを食らわせて脱出したミラは平静を装って言った。綺麗に整っていた毛並みが台無しになっていてイマイチ決まりきっていなかった。
「大事な用事?」
「そう、大事な用事だ。これは人間の生活に深く関わることでな、対応を間違えれば人間社会は崩壊寸前に……」
「ロイくーん!電話だよ!リズさんって子から!」
ミラがノリノリで話し始めたところで、カウンターにいたビアンカさんに呼ばれてしまった。ちょっと物騒な単語も聞こえてきて気になりはしたものの、喋り続けているミラの邪魔をするのは悪い気がしたので、そっと離れて受話器を持つビアンカさんのところに向かう。『彼女か?』と絡んできたロックは当然無視した。
リズから電話。珍しい、というか初めてのことかもしれない。
「もしもし?」
俺は不思議に思いながら電話の向こうにいるリズに話しかける。
「ロイくん、ごめんね。夜遅くに、電話なんかしちゃって」
返って来たのは、つい数時間前にも聞いた、くぐもったリズの声。申し訳なさそうにそんなことを言ったが、時間はまだ夜の七時。夜遅く、というほどでもなかった。リズの家はいろいろ厳しいというのをトニーから聞いたことがあるけど、こういう時間感覚もそのせいなのかもしれない。
「いや、大丈夫だよ。それより、どうしたんだリズ。俺に電話をかけてくるなんて珍しいな」
「うん、ちょっと、相談したいことがあって……」
相談。その言葉をまさかリズから聞くことになるとは思わなかった。どちらかというと彼女は、相談をするよりされる側というイメージがあったからだ。実際俺も何度か相談に乗ってもらったことがある。そもそも俺の相談事が漠然としたものだったから、彼女の助言も的確なものばかりとは言いづらいけれど、それでも話すだけで心が軽くなったことは覚えている。
「相談か。いいぜ、俺にできることなら言ってくれよ。なんだかんだでリズには助けられたことも多かったしな」
「え、でもまだ何も言っていないんだけど……」
「友だちの相談には乗るもんだ」
助けられたからにはその恩返しがしたい。そんな気持ちが早まって、俺は内容も聞かずにそんなことを言った。これで俺一人じゃどうにもならない重い話だったらどうしようとか、そんな不安は無視することにした。この軽さは、認めたくないけどロックに似てきたのかもしれない。
「……ありがとう。電話だと話しづらい内容なの。できれば明日学校が終わってから、今日と同じお店で待ち合わせできないかな?」
「あぁ、わかった。そうだ、エリンは連れて行った方が良いかな?」
同じ女の子ということと、仮にも療心師の資格を持っているという理由で、エリンも一緒にいたほうがいいかもしれないと、俺は思った。話しづらいということなら尚更、相談を受けるというのは本来俺ではなく、エリンの方が適任者なのだから。
「いや、ロイだけでいいよ。ロイじゃないと、ダメ、かもしれないから」
「そう、なのか?わかったよ。リズがそう言うならひとりで行くよ」
「ありがとう、ロイ。ほんとにありがとう」
俺じゃないといけない理由。
同性のエリンでもなく、恋人のトニーでもなく、俺だけを選ぶ理由。
釈然としなかったが、あまり深くは訊かずにひとりで行く条件も飲んだ。詳しくは明日と、本人が言っているのだからこっちはこの時点で詮索する必要もないだろう。
「ロイはさ……」
俺がそう思って、別れの挨拶でもして電話を切ろうとした時だった。本当に、弱々しい声でリズが言葉を発したようだった。
「封魔師になるんだよね」
「あぁ、そうだよ」
質問の意図は分からなかったが、俺は簡潔に答える。これはもう決めたことで、ここまで踏み込んだ以上、今更引き返すことなんて、絶対にないことだ。
「封魔師は、暗い感情から生まれた化物を退治する人たち。そうだよね?」
「そうだよ」
変な質問だったが、俺は答える。
どうしたのか、何があったのかと訊けばいいのかもしれない。
だけど、先を踏み込むのは、やっぱりどうしても怖かった。
「どんな人から発生した魔物も、どんな人から陥魔してしまった魔徒でも、分け隔てなく倒すことが出来るんだよね?」
「もちろん。魔物は魔物だ。魔徒は魔徒だ。人の心の中で消化されきれず、アステルの力で具現化してしまった、心の闇が生んだ怪物だ。そこに差別なんてない。‘誰が、どんな状況で、どんな感情でその怪物を生み出したか’なんて、考慮に入れる必要なく、討滅するのが俺たち封魔師の仕事だ」
まるでもう自分が封魔師になったかのように俺は断言するように言った。心を掠める不安を、文字通り断ち切るように。
「そっか。わかった。うん、ロイになら、安心して相談に乗ってもらえると思う。ありがとう、また明日ね」
電話が切れた。最後のリズの声は、心なしか明るくなっていたように思う。
「大丈夫だ。ちゃんと俺が助けるから」
俺は周りの人の誰にも聞かれないように、小さくそう呟いて、受話器を置いた。
何から、どうやって助けるのかなんて、そんなことは分からなかった。ただ、ひとりでに口から出た音の塊。
それは、今回も一歩踏み込めなかった臆病な自分を、安心させるための独り言に過ぎなかった。けれど、そうするしかこの不安を、この嫌な胸騒ぎを落ち着かせることはできなかった。
高等学校二年生として学校に通うのもこの一週間で最後だった。
その残り少ない日数の内の一日が、たった今終わった。時期にして中等学校の頃から封魔師になるための修行を始めているけれど、やはり学校の授業との両立はきつかった。俺もエリンも、高等学校は卒業するようにロックと約束させられているから、もうあと一年の我慢だった。成績はいつもギリギリのところを彷徨っていたけど、今のままいけばなんとか卒業できるだろうというのが担任の教師の見解だった。俺が封魔師になることについては、どちらかいえば反対らしいけれど、それでも応援はしてくれている。その思いは、無駄にはできない。
たとえ認定試験の合否がわからなくても、学校を卒業していなくても、気持ちの上ではすでに俺は封魔師だ。
-だからこんなところで逃げ腰になってはいけない。
目の前には教室の扉。中にはリズがいるはずだ。放課後に昨日の場所で相談に乗るという約束をしたから、一緒に行こうと思っていたのだ。
「……よし」
「ロイ!どうしたの?」
「うわっ!」
扉を開けようと手をかけたと同時に、後ろから声をかけられた。深呼吸をして、心を決めていたからか、判別できるエリンの声だったにも関わらず驚いてしまった。
「なに?なにやってるの?」
「あぁ、まあな。ここの先生に教えて欲しいところがあって」
俺はとっさに嘘をつく。まぁ、ここはリズの教室でもあると同時に数学を担当する先生が担任を務める教室でもあるから、二人のどちらも出てこない今のうちはまだ嘘にはならない。
「ふーん、成績なんてギリギリで良いとか言ってたロイにしては珍しいことじゃん。認定試験が終わったら急に成績が気になりだしたとか?」
別に嘘をつく必要もなかったけれど、なんとなくエリンの手を借りたくはなかった。つまらない意地だったが、当然エリンは気づく様子もなくからかうように訊いてくる。
「別に、そんなんじゃないよ。分からないところは何であれ、気になるじゃないか」
「はぁ、そうなんだ。ほんと、ロイは真面目っていうかさ~、神経質だよね~。私には真似できないな、そういうの。疲れちゃいそうで」
分からないところを聞きに行くというのがすでに嘘だったから無難な返事をしただけだったのだが、エリンは流さずに食いついてきた。そのままスルーして帰ってもらうというのを望んでいたのだが、今日に限ってなぜかエリンは足を止めて会話を続けようとしているらしかった。
「神経質か。確かにエリンには無縁の言葉だな」
「ん、なにそれバカにしてる?」
ニコニコ顔で拳を握り締めるエリン。暴力反対だ。
「半分正解で半分あたりだ」
「ほー。……ん?って、バカにしてるんじゃない!」
言葉の勢いには騙されてはくれなかったみたいだ。一度出てきてしまった意地はなかなか収めることはできない。エリンにはその辺を察して先に帰ってもらいたかったから、雑にあしらったつもりだったのだが、逆に盛り上げてしまったらしい。
「じゃあ今日は一緒に帰れないの?」
「そうだな。悪いけど、今日は先に帰っててくれ」
俺はエリンを先に帰そうともう一度扉の方へ顔を向ける。このままエリンをからかい続けていれば何時間でも時間をつぶせてしまう。
「なーんだ、せっかく今日はこの後何にもないし、ゆっくりのーんびり話しながら一緒に帰ろうと思ってたのになぁ。エリンちゃんガッカリ」
「いつも一緒に帰ってるんだから、今日くらい別に良いだろ?暇なら店の手伝いでもしてれば良いんじゃないか」
顔は見えないけど、声を聞く限りでは言うほど残念そうでもないエリンの声を背中に、俺は言った。エリンとは住んでいるところも一緒だから、嫌でも登下校を一緒にすることになる。俺が八歳くらいの時にエリンがあのギルドにやってきたから、もう十年くらいになるのか。十年毎日とは言わないまでも一緒に登下校しているから、今日くらい良いだろう。最近は試験へのストレスのためかエリンに愚痴しか言っていなかった気がするし、一緒に帰らなければエリンも俺の愚痴を聞かずに済むだろうから。
「……」
もう行ったのかと確認するために顔だけを後ろに向けると、まだエリンが立っていた。
「ん?どうしたんだエリン」
エリンには悪いが、ここに立ち止まっていられるとリズが来てしまう。来てしまったら来てしまったで先に店に行ってもらえば良いのだが、きまりが悪いのは確かだ。
「別にそんなさ……そんな寂しいこと言わなくても良いじゃん」
「えっ」
「ちょっと傷ついた……かも。どうしてもっていうなら仕方ないけどさ。じゃあね、先帰ってるから」
言葉を挟む隙も与えずにエリンは言って、廊下をスタスタと歩いて行ってしまった。
「あー……」
どうやら機嫌を損ねてしまったらしい。女の子は、というか特にエリンはテンションの振れ幅が激しいから、なかなか扱いが難しい。何度か同じような失敗をしているから、エリンの落ち込んだ横顔で、今回も失敗してしまったことが分かってしまった。今はリズのことで頭がいっぱいになっていて、エリンをあしらう形になっていた俺にも責任があることは分かるのだが。
「それにしたって、そんな落ち込むことないと思うけどなぁ……」
嬉しい時は嬉しい。悲しい時は悲しい。はっきり顔や声に出るエリンみたいなのは、その感情を判断するのは簡単だが、その分直接的に、逃げ場のない対応をしないといけない。
人間の感情は難しい。
散々学んできたことだ。散々思い知らされたことだ。
不用意で無意識な言葉や行動が、どれほど人の心を傷つけるのか。
そして今回もきっと同じ。
一つのことに夢中になりすぎると他のことがおろそかになりがちな俺の、最も気を付けなければいけない部分。
後でエリンにおみやげでも買っておこう。さすがにそれで機嫌が直るとは思えないけど、明日の朝にはけろっとして、また一緒に登校することになるのだろう。
「おや?確かきみは……」
そんなことを考えていたら、何の前触れもなく教室の戸が開いた。実際には中で一日の授業の終わりの挨拶でもしていたのかもしれないけど、考え込んでいた俺には聞こえなかった。
「こんにちは先生。あの、リズさんに用事があるのですが、居ますか?」
出てきたのはこの教室の担任教師。小太りで温和そうな彼の身体の向こうに、帰り支度をする生徒たちが見える。その中からリズの姿を目で探しながら俺は言った。
「リズ。あぁ、リズ・ローズリーくんね。彼女は今日珍しく、風邪で学校を休んだんだよ」
「休んだ?」
「うん、今朝お母さんから連絡があってね。一年生の時から今まで一度も休んだことなんて無かったのになぁ。皆勤賞も夢じゃないと思ってたんだけど、勿体無いよねぇ。まぁ彼女の成績なら、一度の欠席くらいどうってことなく挽回できるのだろうけどさ。僕、彼女にはすごく期待しているんだけど-」
出来の良い自分の生徒を自慢する先生の言葉を、俺は半分上の空で聞いていた。これじゃエリンに怒られ損だなという感想は頭の隅に追いやるとして。事は俺の知らないところで、悪い意味で進んでしまっているのではないか。そんな不安が、ここで俺の頭にはっきりと形になってきてしまった。
*****
-きみには期待しているんだよ。
少女は耳を塞いだ。
-あなたには立派に育ってもらわないと困るのよ。
少女は目を閉じた。
受話器を置いて、ベッドに倒れ込む。
昨日から、あの黒フードの男に会ってから調子が悪かった。何も聞きたくなかった。何も見たくなかった。微妙に身体が熱くて、重い。珍しく風邪を引いたのかもしれないと、少女は虚ろな意識の中で思った。
-二年生ならまだ良いけど、三年生になったらなるべく休まないようにね。きみの優秀な成績を欠席なんかで傷つけたく無いだろう?
うるさい。誰がそんなことを思っているのだろうか。
-王下十三局で働くためには高等学校の授業一つひとつがとても大切なのよ!できるこ となら無理してでも行って欲しいわ。
うるさい。誰が、いつ、カノン王国最高行政機関に入りたいと言ったのだろうか。
耳を塞いでも、目を閉じても、自問自答が内側で絶えず少女を締め付ける。
少しは抗おうと、頑張ったつもりだったのに。勇気を出したつもりだったのに。
-結局、私は勝てなかった。
心の中の言葉は暗く、黒く変色して少女の身体中を駆け巡る。
じんわりと身体が熱を帯びる。
いらつきが怒りへ。
不安が憎しみへ。
失望が絶望へ。
羨望が嫉妬へ。
いつしか彼女の掌の中にあった黒い石は消えていて、その意識すらも、闇の奥深くへと消え行ってしまったのだった。
意識が消え入る寸前に視界に入った、黒い猫の残像を瞼の裏に焼き付けて。
*****
あの後、俺は念のため昨日四人で行ったファストフード店でリズを待っていた。風邪で休んだというのが本当なら来るはずがなかったのだが、相談するために、心を決めるためにわざわざ学校を休んでから来るということも万が一にも考えられたから、行ってみたのだ。その場合は、本当に重く深刻な相談事があるということなのだろうけれど、やっぱりリズは来なかった。
ただ単純に風邪をひいて休んだだけなら、まだ良いのだ。
だけど、昨日から感じる俺の'嫌な予感'が当たってしまっているのなら、今の状況はかなり悪い。
あの時と、状況がよく似ているのだから。
'自分のよく知る人間が陥魔して、魔徒と化してしまった'、あの時と、よく似ているのだから。
何より、リズとコンタクトが取れないというのが不安なことだった。
夜の八時頃まで待ってからギルドに帰った俺は、リズの家に電話をすることにした。リズの母親と思われる女性から、こんな時間に電話をかけてくるなんて非常識だと厳しく注意を受けてしまったけれど、それは軽く受け流し、リズの様子を訊いてみたのだ。
-娘は朝から熱を出して、今は寝ています。
風邪をひいたことは事実だったようだが、直接リズの様子を、心境を知ることができず、結局手詰まりだった。
「うーん、どうしたもんかなぁ」
ギルド、俺の部屋の中。すでに時計の針はてっぺんを回って、日付が変わってしまっていた。
リズと接触できないという最大の心配事を残したまま、俺は今寝床に就こうとしていた。ぜんぜん眠れるものじゃなかったけれど、俺は無理やり身体を寝かせる。
「不安そうだな、ロイ」
俺の真上からミラの声がかかる。窓際のあの狭いスペースで月を見上げるのが、こいつの寝る前の習慣だ。白い尻尾がゆらゆら揺れているところしか見えないけれど、きっと今もそうして俺に話しかけているのだろう。
「あぁ、不安だよ。リズの状況が分からなくて不安だ。リズの相談理由が、トニーと味の好みが合わないから喧嘩したんだとか、そんなしょーもない理由なら俺もこんなに不安にならないし、別に今日相談を受ける必要は無かったし、あそこで遅くまで待つ必要もなかったんだ。だけど-」
-ロイは、封魔師になるんだよね?
あの言葉を無視して、リズのことを一回忘れてスヤスヤと眠ることはできない。
遠回しに、俺に助けを求めている。相談の内容は聞かなくても、言葉にされなくとも。
-ロイになら、安心して相談に乗ってもらえると思う。
自分の中の魔物を抑えられないのかもしれない。相談。悩み。端から見ればそんな小さなものが、誰かの中では大きく、暗い怪物を生むことがある。リズが必ずしもそうだとは限らない。
言えない傷。
癒ない傷。
だけど、俺が封魔師になるということを確認したなら、きっとそういうことなのだろう。そう考えておいて、用心しておいて損はないだろう。
「でもなロイ。エリンのような療心師ならともかく、お前のような封魔師は、魔徒の事前発生を食い止めるのは本業じゃないだろう」
俺の心の中を読むように、ミラがのんびりとした口調で言った。
分かってはいる。癒すことではなく、壊すことが本業だということは、分かって封魔師になったのだから、嫌というほど自覚はしている。
ベッドのすぐ横に立てかけてある愛剣の'雷鳴'を視界の隅に、俺は自分の立場を確認する。
「だけど、本業じゃないからといって何もしないなんてことは、俺にはできない。何か困っているのなら、せめて話を聞くことくらいならできるだろ」
友だちなんだから。
まして、リズ自身が俺に助けを求めているのかもしれないのだから。
「心配し過ぎだとは思うがな。相談を受けて欲しいと頼まれただけだろう?仮に、万が一にもそのリズとやらが陥魔してしまう可能性があるのだとして、まだお前は正式に封魔師になったわけではないだろ。そもそもまだお前の本業じゃない。管轄外と言ったところなんだ」
「……」
今度はやや厳しい口調になっていた。
心配し過ぎ。たしかにそうかもしれない。
だけどもしこの嫌な予感が当たっていて、何かが起きてしまったら、俺は同じ間違いを繰り返すことになる。
それとも俺にそんな資格は無いと言いたいのだろうか。封魔師じゃない俺に、リズを助ける資格は無いと。
でも誰かを、何かを助ける資格とか、そんなものが必要なのだろうか。
「……あー、もう分かったよ。そんな顔をするな。本当にお前は頑固なお人好しだな。そんなお前だから、私はお前が封魔師になることを止めなかったんだ。魔物や魔徒とやり合おうなんていう酔狂な仕事に就こうなんていうのは、魔物に大切なものを奪われた復讐者みたいな奴が多いが、たまにいるんだよな。お前みたいなやつが」
俺の顔は相当考え込んだそれになっていたのだろう。ミラが耐えられないという表情を、小窓の方から顔だけ出して示してきた。
「俺のやってること、間違ってるかな?」
「全然。不気味なくらい正しいよ。正しすぎて、眩しいくらいだ」
「なら、良いんだけどさ」
あまり褒められた気はしなかったが、たぶん俺はもう何を言われても気を変えることはないだろう。お人好しはともかく、ミラの言う通り俺は頑固者なのかもしれない。だけど、助けて欲しいと望んでいる人を助けることが、そもそも正しくないことなんてないと、俺は思っているのだ。
目の前で失われそうな光、とか、輝きみたいなものは、なるべくすくいあげたい。
「それに―」
ミラが声色を変えて言葉を発しようとする。月の光に照らされて、見ようによっては銀色に輝いて見えるその白い体毛が、'ぞわり'と総毛立つのが分かった。そしてそれが何を示すのかも、分かってしまった。ほぼ同時に、俺の全身も震えあがったのだから、尚更だ。
「それにお前の、いや、'私たち'の管轄外ではなくなったのだから、まったく問題は無い」
胸の中をかき乱され、ごちゃ混ぜにされるような感覚が、ミラにもしたのだろう。
空気を伝って、負の感情に満ちた力が発動した感覚が、ここまで伝わってきたのだから。
「昔、教えたことがあったな。この世界には人間の負の感情から生まれた怪物が二種類存在する。負の感情が、この世界に空気のように流れ存在する力の元素アステルと反応、結合して誕生する'魔物'。つまり'分離型'。そして、一人の人間の中で負の感情が急激に増殖し、その宿主の存在が根源的に変化してしまった結果生まれたものを'魔徒'、'定着型'と呼ぶ。さてー今回の場合は、どちらかな?」
「分離型だ。魔物が生まれて、今まさに力を解放したっていう感じだろ、これは!」
魔物が近くで、それもかなり近い場所で魔物が力を使った気配を感じたのだった。
ミラの質問に答えながら、俺はベッドから勢いよく身体を起こし、'雷鳴'を掴んで駈け出す。扉を開けて、暗い廊下を走り抜ける。
さっきまでミラと話していた内容はもう考えず、頭の隅に追いやる。
この気配からして、魔物が何かを破壊するための力を発動したということ。つまり、その力によって何かが、誰かが被害を受けている可能性があるということ。
考え事をしている場合ではなかった。
「ちょ、ちょっとロイ!どこに行くのよ!」
扉の一つが開いて、寝間着姿のエリンが俺を呼び止める。眠そうな目をこすっている様子を見ると、エリンは今の状況に気づいていないようだった。
「お土産!」
「はぁ?!」
「今日、俺エリンにひどいこと言っちゃっただろ?そのお詫びのお土産買いに行くんだよ!」
俺は足を止めずにそんな口から出まかせを言った。
「え、あぁ、それは別にもう良いっていうか私もワガママ言っちゃったかなーって……ロイ!待ってって!私もう怒ってないからー!」
「クマのぬいぐるみで良いかー?」
「なっ、買ってきたら逆に怒るわー!」
俺は足を止めずにエリンの見事な切り返しを聞いてから、階段を飛ぶように降りて、突進するように扉を開けて外に出た。冬は終わったのだけど、夜風はまだ肌寒かった。
「距離的に二キロ圏内にはいる。かなり近い……ということは街の中だ。まさか街の中で魔物が生まれるなんてな……星都市カノープスからそんなに離れていないのに、まったく最近になって多いな……商売繁盛で私たちには好都合なのだが……」
いつの間にか俺の上着の中にいたミラが、背中側から顔を出してブツブツと愚痴のようなことを呟いていた。
「二キロ……。ロックの二輪雷駆を借りるか」
「ライセンスを取ってからろくに運転してないのに大丈夫なのか?」
「そんなこと言ってる場合じゃないだろ」
「そんなことと軽んじて事故ったらどうするのだ」
後ろからの声しか聞こえないが、なぜかミラが俺をからかっているのだということは分かった。
「はいはい安全運転するから大丈夫だよっと!」
俺はギルドの裏の駐輪場まで行ってロックの黒い二輪雷駆に跨る。お隣のクレド大陸で発達した科学と、このカノン王国を含むグロリア大陸で培われた星心術の合成技術―アステル鉱石技術によって生み出された産物。つまり、アステリアルの一つだ。中には封魔師による回収対象になるほど危険なものもあるが、多くは人間の生活を助けるために生み出されたもので、家具や仕事道具などに利用されている。
二輪雷駆は名前の通り二つのタイヤを持っている乗り物で、搭乗者や、バッテリー代わりになるアステル鉱石のアステルを原動力に動く。ロックの雷駆はなぜか前者だから、運転者-つまり俺にはけっこうな消耗になるからあまり使いたくはなかったのだけど、これが俺の可能な限りの一番速い移動手段だから仕方がない。
「そこを左!」
「了解!」
俺のアステルに反応した雷駆がバチバチと音を立て、風を切って夜のヒマリアを進んでいく。雷駆の駆動音にも負けない鋭いミラの声に、俺は指示通りハンドルを左に切った。
けっこうなスピードを出していたから、一気に景色が変化して軽い目眩に襲われる。
こんな時間だからか、大通りに走る車の量もまばらだった。そのおかげでスピードはかなり出ているのが、目の前の景色があっという間に近づいていることで分かる。
視線を動かして周りを見渡しても、魔物が暴れたらしい跡も、騒ぎも起こっていないように見える。
「そこを右だ」
「わかった」
ミラの指示に、俺はハンドルを傾けて右折する。同じような住宅街が続くのだろうと、そう思っていた。
「……なんだよ、これ」
「……ここで間違いは無いようだが、これはひどいな」
‘ほぼ’同じような住宅街だった。
ただ一箇所だけを除いては。
雷駆に乗っていた時の身体の感覚を元に戻すために首を左右に振る。それと同時に、目の前の光景が現実だということを確認する。
俺とミラの目に映っていたのは、瓦礫の山だった。
元がなんだったのか、かろうじてその破片から分かるか分からないか、ギリギリのところまで破壊し尽くされた、一軒の家の成れの果てだった。