第四章:エピローグ
それからそれから。
アトリアの街は元通り、とまではいかなくとも邪気は消えて、大聖晶石の浄化機能も正常に戻った。遅かった療心師含む国家封魔師も間もなく到着し、迅速に魔物の残党狩りと住人たちの心ケアが開始された。
俺たちはいったんの休息の後、破壊された街の修復を手伝った。主に瓦礫の撤去や各地区の聖堂に避難していた人々への説明と誘導、迷子の捜索などだった。
そういえばその中で‛ニコちゃん'を見つけたっけ。飼い主に送り届けて、ちゃっかり依頼もこなした。
街の状況がひと段落着いた後、アトリアに在住する封魔師以外は緘口令を敷かれ、街を出るように言い渡された。かなり急な話だったが、物騒な連中がいることで街の混乱を拡大させないため、避難用として開放した神殿にできるだけアトリア市民を入れるためらしい。
なかなかの混乱ぶりだったから今回の本来の依頼主であるマチスさんとはあれから会えずじまいだった。神殿への被害は無かったというから無事でいてくれてはいるはずだが、挨拶もできなかったのは少し悔やまれた。
今回の事件はアトリアだけではない、カノン王国の歴史に残る大事件だったことには間違いない。緘口令が敷かれたとはいえそう遅くなく情報は国中を駆け巡るはずだ。
星都への魔物の襲撃。しかも今回は‛エデーナ戦線'時のように大聖晶石の儀式の隙を突かれたわけでもない。万全な状態の大聖晶石でも魔物や魔徒の脅威に晒されてしまうという前例を作ってしまった。
今回ストラスに唆されて‛疑心の笛'を使ったルナ教徒も、彼が属したアトリアのルナ教会も‛闇の月'との組織ぐるみでの関わり合いは無いと証言したらしい。あくまで彼らは過激派で、自分たちは関係ない。
そう言ったところで、彼らへの風当たりはより厳しいものになるのは明らかだった。ただでさえ‛エデーナ戦線'からのショックが抜けていないなかで、彼らにとっては最悪の追い打ちに違いない。騎士団も今後一層彼らの動きの隅々まで目を光らせるはずだ。
ルナ教というものを俺自身、完全に理解しているかどうかと言われれば全く違う。「人の感情の本質は闇である」という教義のもと、この世の不条理を祈りで耐え忍ぶ極めて後ろ向きな集団。そんな上っ面で、良くない印象を漠然と持っているだけ。
たとえ彼らが本当に‛闇の月'とは無関係でも、人々は‛疑心'をもって彼らを見つめることになる。
‛疑心の笛'が無くても。人々の心にそんな小さな闇が、あの黒フードを見かけるたびに生まれることになるなんて想像もしたくないことだった。
「普段なら考えすぎだと一喝してやりたいところだが、あんな怪物を生み出す星心術陣を持っているとなると話は別だな。あれは小さな負の感情でも起動の‛鍵'にできる術式らしい」
ギルド・オレンジショットの一階カウンター。アトリアからの退去命令を受けた俺たちがおとなしくヒマリアに帰って一日経っていた。
たった三日開けただけなのに、本当に久しぶりに帰ってきた気がする。
昨日の疲れからか、昼を過ぎてもなかなか目を覚ますことができず、ビアンカさんが気を遣ってくれたこともあって今日は臨時休業となった。
隣でコーヒーを啜るロックに、俺は今回の件で感じたことをぽつぽつと話していた。本当にいろいろとありすぎた。こうやって吐き出さなければどうにかなってしまいそうだった。
ロックの目線の先には「星心局途中報告書」と書かれた書類が束になって置かれていた。カノン王下十三局の一つ、星心術やアステルの研究機関である星心局が昨日のうちにまとめた途中報告書だろう。あの混乱のさなか、これだけの情報をまとめた職員たちは徹夜だったのだろうなと無駄なことを考えてしまう。
「星心局が偶然、タルタロスとかいう術式の発生装置と思われる石――‛闇の月'が売りつけている‛影石'と似たようなもんらしい――の欠片を見つけて分析したんだと。分析できるのもすげぇが、問題は‛闇の月'がそんなもんを持っているという点だ。今回きりなのか、複数持っているのか。話は全然変わってくる」
ロックはページをめくりながら唸るように言う。
ストラスは確か、「今回のタルタロスは」と口走っていたような気がする。だとすると複数持っているという可能性が十分に高い。
今回のようなことがまたいつ起こるとも限らないということになる。
「マジでのんびりしてられねぇな。お前が会ったっていう黒い騎士さまに言われるまでもねーって話だわ」
黒騎士の話もロックに伝えていた。その正体は未だに分かっていない。一足早く着いた国家封魔師だったのかもしれないが、ロックやビアンカさんも知らなかった。あれだけの力を持っている封魔師なら、それこそロックの‛黒き雫'のような二つ名が知られていたりしても良いはずだ。
「そもそも邪気を感じたってのなら封魔師かどうかも怪しいがな。しかしそいつの口ぶりだと、‛闇の月'に関して俺たちより情報を持ってるのは確かだろ。また会う機会があったらぜひ情報交換をしたいもんだが」
ロックはそう言うが、どう聞いても平和的に情報交換をするような声色ではなかった。確かにあの邪気は封魔師というより魔徒と言った方が納得がいくくらいだった。
「正直、何から考えたら良いか分からなくなってきたよ」
‛闇の月'。星心術陣タルタロス。封魔師なのか魔徒なのかも分からない謎の黒騎士。とても俺たちだけで考えきれる問題には思えない。
三日前、出発する前に抱いていた漠然とした自信は情けないほど残っていなかった。
「さすがに国が動くさ。星心局は他のお役所よりほんのちょっぴり優秀だからな。近いうちになにかしらの動きをするはずだ。それは俺たちの今後の仕事にも直結する。しばらくは今まで通り依頼をこなす。異変を感じたときはすぐに共有する。お前たちはそれで十分だよ」
励ますようなロックの言葉に不覚にも安堵してしまう。
結局はそこに落ち着くのだろう。封魔師になって日が浅い俺たちは変わらず、現れた魔物を倒し人々を少しでも邪気の脅威から遠ざけること。
できることをやり続ける。かつての先生の言葉は、ここにきて皮肉にも俺の背中を押す。
「街は、元に戻るかな」
先のことを考えるのをやめると、今度は後ろから、後悔にも似た不安が押し寄せてくる。
できることはやった。とどめこそ取られたが、みんなの協力もあって大黒鬼に致命傷を与えて、少しは活躍できたんじゃないかと自分を褒めたい気持ちもある。
でもそれと、今回の事件が街に与えた影響とは別問題だ。
最初に感じた不安は消えていない。あれだけの疑心が、あれだけの邪気が蔓延したアトリアの街はこの先、これまでと同じようにやっていけるのか。
「そこに関しては大丈夫だろうと言っておきたいな。あの程度のトラブルや小さなストレスは時間とともに、皆が不自然に感じな程度に大聖晶石が浄化する。今回は‛疑心の笛'によって故意に連続して起き、かつタルタロスとかいうふざけた術式が自身の起動要因としてその塵みたいな邪気を繫ぎ止めていたから影響が大きかったに過ぎん。最初こそ戸惑うかもしれんが、すぐに日々の忙しさで忘れてしまうさ」
答えたのはロックではなく、ちょうど二階から降りてきたミラだった。泥だらけだった毛並みは昨日帰ってきた後、エリンと一緒にシャワー室に入ってから輝くほど奇麗になっていた。
「そういうものなのか」
「そういうものだ。おとぎ話は大聖晶石がなかったはるか昔の話。時代が違うんだよ」
なぜかミラが得意げに言う。まぁでもそうであるならば嬉しい。信じてもらえなかった、そればかりか自信が知らないところであらぬ疑いをかけられていたマチスさんの奮闘も、彼が撮った写真と一緒にじきに認められるはずだ。
俺も信じて、護衛をした甲斐がある。
近いうちに挨拶もかねてマチスさんに会いに行かねば。
「そういえばミラ、大黒鬼と戦っているときに俺に念話で叫ばなかったか? 諦めてどうするーとかなんとか」
ミラの顔を見て思い出した。あのタイミングで俺に向ける言葉としては違和感があって気になっていたのだった。
「ん? あぁ、それならロックに向かって言ったつもりだったんだが。え、まさかロイにも聞こえていたのか?」
意外というふうに目を丸くしてミラが訊き返す。衝撃が大きかったのか若干口調がおかしくなっている。耳元で大声を出されたような感覚で、むしろ今までで一番聞こえていたと言っても良かった。
「聞こえたさ。確かに大鉈が投げられたと気づいた時には血の気が引いたけど、俺はロックと違ってぜんぜん諦めてなかったぞ」
「ばーか、俺も諦めてなかったわ!」
すかさず反応するロック。
大黒鬼のコアを砕いた直後の危機にはさすがに対処できなかった。大鉈は確実にロックを、そして同じ地点にいたエリンやヒスイを殺しに向かっていた。もうだめかと思ったあの時、たしか大きな光の球が大鉈を飲み込んだのだ。
「あの光も謎だったよな。黒騎士の術にしては雰囲気やアステルが違ったし、その仲間の術だったのかな」
俺は思い付きを口にする。あの場にあんな術を発動できるものがいたとしたら、まずはあの黒騎士しか思い浮かばないし、少なくとも同程度の力を持った術者だろう。
だがミラはまだ目を丸くして、首を傾げすらした。
「光? 何の話をしているんだ。そんなものあったか?」
「え、何言ってるんだよ。すごい大きな光だったじゃないか」
ぽかんとするミラ。本当に心当たりのないことがその顔から見て取れた。
でもそんなことは無いはずだ。大鉈は実際あの光の球に吸い込まれるように消えていったし、それに救われたと言っても良いのだ。まさか光が現れている間中ずっと目を瞑っていたわけでもあるまいし。
「……ん。待て、そういえばそのあたりの記憶が抜けてるな。うん? まったく思い出せんぞ。私はその時どこで何してたんだ?」
「いや、俺に訊かれても……」
ただでさえ戦闘時、どうやって見つけているのか分からない安全地帯から念話で指示や警告をしてくるミラだ。その時どこにいたかなんて近くにいても分からないかもしれない。
「ロックは分かるか? ミラがあの時どうしてたか」
「……」
「おいロック、聞いてるか」
その時一番近くにいて、付き合いも長いであろうロックに訊く。けれど眉間にしわ寄せて、何もない一点を見つめたまま口を閉じたきりだった。さすがに疲れが溜まっているのだろうか。
「……んー、まぁあれだ。歳だよお前」
「なんだとお前もう一回言ってみろ」
しばらくしてから口をとがらせて、ロックはなかなかパンチの効いた返しをした。今回ばかりは前足の爪を全力で解放したミラを責める気は起きなかった。
「歳だよ、と・し! お前も長生きだからな」
「同じ返答を聞きたかったわけではない! 言い直すチャンスを与えてやったのだ! ロイ、お前も何を笑っている!」
言い合って、じゃれあい始めるおっさんと猫。平和的な攻防を見つめているうちに自然と笑いがこみ上げてきて、何を気にしていたのか忘れてしまった。
ひとしきり笑って、視界が歪んだ。それが涙だと気づいて、俺は今回ここまで帰って来れたこと、一人も欠けずにギルドで笑っていられることに改めて心の底から安堵した。
*****
厚い灰色の雲が頭上を覆って、青空なども微塵も見えなかった。
男の手にはそれと同じ色の石の破片が、すでに効力を失って死んだように乗せられていた。
もうすぐ雨が降る。
空を見上げていた男はそう直感して石造りの冷たい回廊を、黒い外套を揺らしながら抜ける。歩いて、歩いてたどり着いた先に木製の大きな扉が壁のように立ち塞がっていた。
男はそれをギィギィと古く重い音を立てて押し開ける。
「お待たせ」
男――ストラスは言って扉の向こう、大広間に足を踏み入れる。
中には共通の黒い外套、フードを被った十一の人影が左右に半数ずつ整列していた。
その間、最奥にはストラスと同じ銀の髪を長く垂らした、赤い瞳の男。眉間に刻まれた皴は端正な貌にひびを入れ、苦しみとも悲しみとも取れるような表情で固まっている。
彼も同じく黒い外套を身に纏い、ストラスを真っすぐに見据えていた。
男の背後には、紅く透き通った巨大な三日月の像が鎮座していた。アステルが込められているのか、淡く光り周りをわずかに照らしている。
「成果は」
男は石のように重く口を開く。張り上げていたわけでもないのに、空間を揺るがすような声だった。
だがストラスはそれに臆することなく歩を進める。それから、ぽっかりと空いていた男のすぐ隣に、他の黒い影と同じように並んだ。
「十分だ。エデーナで使えなかったことが悔やまれるくらいだよ」
ストラスは白い歯を見せて言う。
その報告に黒い影たちは各々の反応を見せる。ある者は喜ばしそうに手を叩き、ある者は腕を組んで頷きを繰り返す。ある者は微動だにせずまるで興味を示していない様子。
その影の誰の表情も、黒いフードの先にある闇に包まれて見ることができなかった。
報告を受けた男は無表情で頷いた。彼の予想通りだったのか、その顔に何の感情も読み取れなかった。
「それともう一つ。‛無限の蔵'を見つけた」
追加報告に、今度は黒い影全員がその顔をストラスに向ける。動かなかった男の目がほんのわずかに見開かれた。
「場所は不明だ。一瞬だけ現れてすぐに消えた。けれど、‛無限の蔵'がまだ存在しているという事実自体、我々‛闇の月'にとっては重要な意味を持つ。そうだよね」
――レグルス・レオンハート。
ストラスは男に向かってそう呼びかけた。
三百年前、闇に葬り去られた名に、男は小さく頷いた。
「再び始動する。タルタロスの叫びに従え。‛無限の蔵'を私の前に差し出せ。この世界に‛真の夜'を顕現させるために」
決して大きくはない男――レグルス・レオンハートの声はこの場にいる十二の黒い影、そしてすべての‛闇の月’への絶対指令だった。
夜は更ける。さらに更ける。
小さな窓からは❘星も❘月も見えはしない。
「ははっ、面白くなってきた。さぁ、創ろうじゃないか。僕たちが何のお咎めもなくイタズラできる新しい世界を」
静かで厳かな夜。
誰かの涙のように静かに降り出し雨の中、誰かの悲鳴のように鳴り出した雷の中、ストラスの声だけが陽気に響いていた。




