第6話:嵐のように
アトリアの街には神殿以外の高い建物がないから、大黒鬼の巨大さは余計に目立った。
頭の二本の大角は天を刺し、木の幹のように太い腕と、その手に握られた大鉈が禍々しい邪気を放っていた。
ずしり、と一歩地面を踏む。その歩みはかなり遅いが着実に神殿へと向かっていた。右手に握られた大鉈は周りの建物に当たる度にガラガラと嫌な音を立てる。
そう遠くない場所からは戦闘音が聞こえる。おそらく他の封魔師たちが新たに沸いて出た魔物たちに応戦しているのかもしれない。
ひと際強いアステルの流れを感じて、俺は少し離れた家屋の屋根に立つ男の姿を見つける。大剣を持った彼が見つめる先には大黒鬼。視線を動かすと同じように剣を構える男が二人、大黒鬼を囲むように屋根の上に立っていた。
「あいつら、やる気だな」
ロックもその三人の姿を視認したようで、そう呟く。周辺に沸いた魔物であれば数十匹は倒せそうな強力なアステルが彼らの剣に宿っていた。
一歩、大黒鬼がまたその大樹のような足を上げた。
そのタイミングを狙っていたのか、男たちが一斉に飛び上がる。全員が炎属性のアステルなのだろう、大黒鬼に向かって斬撃が赤い流星のごとく振り下ろされていく。
「いや、あれはまずい!」
ミラの警告が耳に響いた直後、大黒鬼が動いた。鈍い歩みとは打って変わって瞬時に大鉈を振り上げる。
そこからはあっという間の出来事だった。横薙ぎに振られた大鉈は重く空気を裂きながら一周、大黒鬼の周りを回ったように見えた。
「くっ……?!」
直後に轟音。めきめきと建物や電灯、放置された車両が破壊される音が鳴り響き、身体を押さえつけるような衝撃波が十分に離れたここまで届いた。
何が起きたのか。ただ彼らの斬撃と、そしてその命さえもかき消えてしまったことだけは分かった。つい数秒前まで感じられた熱いアステルも微塵も残っていなかった。
――。
状況を理解する間もなく、今度は北東方向から黄金色の光弾が一直線に大黒鬼に向かう。
別の封魔師の攻撃か、今度は俺と同じ雷の属性。
迸る雷には強力なアステルが内包されていた。けれどそれも同じく、大黒鬼の振るった大鉈に止められる。神殿が鳴らす鐘の音とは真逆な歪な轟音を鳴らして、大鉈と雷弾が接触する。
きりきりとした鬩ぎ合いもつかの間、大黒鬼は大鉈を振り切る。雷弾は向かった倍のスピードで打ち返され、数秒後に爆音を鳴らした。おそらく姿の見えない術者のもとへと返ったのだろう。
大黒鬼は無傷のまま何事もなかったかのように、神殿の方へと向き直ってまた一歩、歩みを進めようとしていた。
「……」
「あの大鉈が厄介すぎるな。接近戦はおろか、遠距離の術も力業ではねのけると来たか」
唖然とする俺をよそに、ロックは冷静に分析する。巨体に加えてあの反応速度、どう分析しても付け入る隙があるようには見えないのだけれど。
「だが、確かに弱点はある。奴の言っていたコアだよ。あの巨体の力の動力源とも言うべき部分は、胸にある赤い模様の位置だ」
ミラは俺の不安を感じ取ったのか、言葉を足す。
言われた通り大黒鬼の胸には赤い半月――ルナ教を象徴する模様が描かれていた。確かにアステル周波相を意識して見てみれば、他の部位に比べてアステルの濃度が異様に高い。
色は純黒。紛れもない闇属性、負の感情のみで構成されたアステルだ。
「アステルが流れる血管のようなものが浮き出しになっていると言って良い。あそこを叩けばかなりのダメージを与えられるはずだが……」
「同業者が命を張って証明したように、攻撃は届かないと。いや届くが火力が必要なわけだな」
ロックは言って、‛水無月'を構える。何か策があるのか、その顔には久しぶりに見る、歳に合わない子供じみた笑みが浮かんでいた。
「どうするつもりだ?」
「まずはあの大鉈だ。あいつをどうにかしなきゃ誰の攻撃も通らない。俺の最大火力を叩きこめば少なくともこっちから攻撃の隙はできるんじゃねーかと思ってな。その隙を、お前に叩いてもらう」
「お、俺に?」
「ついてきたからには、活躍してもらうぜ」
予想外の作戦に声が上ずってしまう。覚悟は決めてきたが、いきなりの大役に握りしめていた拳に力が入る。
「ちょ、ちょっと待てロック。いくら弱点がさらけ出されているとはいえ危険だ。叩くならお前が行くべきだろう」
「あの雷弾、確かに良い威力だった。だけどせいぜい奴の動きを止められたのは五秒。ロイはそれ以上止められるか? 今のお前じゃ無理だろう?」
ミラの制止に、ロックは至って真面目に反論する。悔しいが正しい。ここにきてまた、自分の実力不足に嘆くことになるなんて。
「だったら俺が止めて、その間にロイが叩くほうが良い。あの雷弾で五秒なら、俺は三十秒止められる自信があるし、なんならぶっ壊せるかもな?」
「……筋は通るがむかつくなお前。分かったよ、止めはしないから必ずロイが安全なようにやってくれ」
ロックの力は知っているし疑っているわけではないが、そう自信満々に言われると逆に清々しい。ミラも呆れたように首を振りながらロックの方針に賛成を示した。
「よし、そうと決まればロイは奴に近づけ。敵意さえ見せなければあっちから攻撃はしてこないはずだ。でけぇ図体してるからな、距離感を見誤るなよ。三十秒以内で懐に入って攻撃できる距離にいろ。俺の技が見えた段階で走り出せ」
「分かった。信じてるぞ、ロック」
「おー歯がゆい。お前からそんな言葉が聞けるなんてな」
「良いだろ別に。任せたからな!」
ロックが白い歯を見せて親指を立てたのを確認して、俺は背を向ける。同時に水のアステルが背後で静かに集まっていくのを感じた。溜めを伴う大技を使う際のロックの気配だった。
「出発しようとしたところ残念なお知らせだ。また新しく沸いたぞ」
念話が耳に届く前に、周囲の気配が少し歪んだのを感じていた。相変わらず多種多様な魔物が、光に群がる蛾のように俺たちの周りを囲んでいた。
「メインディッシュの前に片づけないといけないみたいだな」
少し洒落た感じで言ってみたが正直余裕はない。ここまでと、そしてこれから使う力を考えると余力は少しでも残しておきたいところだ。
俺は‛雷鳴'の柄に手をかける。温存してはおきたいが、ここでやられては馬鹿らしい。
「ヒャハ、いい加減雑魚は飽きたんだが?」
「まぁ、仕方ないですよ。さすがのアレスさんもあの巨人を一人で相手にするのは無理でしょう?」
「良かった、二人もミラちゃんも無事だね?!」
けれど剣を抜く必要はなかった。騒がしく、懐かしくも感じる声は群がる魔物の外側から、それぞれのアステルの気配とともにやってきたから。
次にやってきたのは爆発音と星心術の起動音。壁のように俺たちを囲んでいた魔物たちは炎に飲まれ、緑光の雨に打たれて消滅していく。
切り開かれた道の先にはギルド・オレンジショットのメンバーが欠けることなく立っていた。
「良いところに来たな! この辺の雑魚は任せたぞ。俺は少し力を溜め込まないといけないからな!」
ロックは‛水無月'を構えたまま言う。魔物に囲まれてからもその姿勢を崩していないところを見ると本当に動くことができないらしい。それだけ集中が必要ということなのだろう。
「ロックが隙を作って、俺があいつを叩く。みんなはロックの援護を頼んだ!」
なるべくロックの負担は減らしたほうが良い。そう判断して俺は三人に指示を出す。内容を飲み込むのに時間がかかったのか、そろって目を丸くした。けれどまた同じ説明している時間は無い。俺は返事を待たずに足にアステルを込める。
「アレス、ロイに付いて行ってくれ。コアをぶっ叩くならお前の火力も足しになる!」
「お、おう! よくわからんが任せろ!」
一歩目を踏み出そうとしたところで後ろから声がかかる。アレスがついてきてくれるなら万が一の時に頼もしいが、ロックの援護が手薄になるのが気がかりだった。
「ロック、大丈夫なのか」
「俺の心配なんかしてんなよ。大丈夫だ、素敵なレディたちに周りは守ってもらうからな」
軽口を言うロックの隣にはすでに杖の先端から光刃を出現させた臨戦態勢のヒスイと、フォーマルハウトを握るエリンが立っていた。特にヒスイの力は今回震えあがるほど見せてもらったから心配する必要はなさそうだ。
「よし、アレス行こう」
「ヒャハ、とりあえずターゲットはあのデカブツだな? やってやろうじゃねーか!」
嬉しそうに言う隣のアレスから炎のアステルが湧き上がるのを感じる。今にも爆発しそうなそのアステルに押されるように、俺は地面を蹴った。
*****
目の前の景色が流れていく。抉られた壁、割れた窓、戦いの跡か放置された炎や雷のアステルの残滓がいたるところに漂っていた。
他のエリアは少なくともここよりは酷くはなっていないはずだ。この大黒鬼が出現してからさらに魔物が沸き出したらしいが、アレスたちが戦った感触としては強さに変化は無いようだった。
だとすれば俺たちがあの大黒鬼を倒すことで、本当にこの地獄が終わる。ストラスの言葉を鵜呑みにしたようで気分が悪いが、どのみちあんな巨大な魔物は倒さなくてはいけない。
「まるで戦争だな」
俺は走りながら呟く。我ながら他人事のような声で自分で驚く。まだこれは現実ではないのではないか。そう信じたい自分がいるのは確かだ。
「こんなことにならないために封魔師がいて、大聖晶石があるんじゃねーのかって話だ。ヒャハ、こんなんじゃいつまで経ってもガキどもがのんきに暮らせねぇよなァ」
独り言のつもりだったが、アレスにも聞こえていたらしい。ボーテスでのことを言っているのだろうか。いつもの口調ではあったがその低い声には、何かもっと古い過去を思い出しているような遠い感覚があった。
「子どもも大人も、できればこんな悪意の塊に一生出会わずに済めばそれで良いはずなんだ。俺は許せないよ。それを広めようとする闇の月も魔徒も」
――先生も。もはやあのストラスという魔徒は先生ではないのだ。‛疑心の笛'でこの街から人々の信頼を歪ませ、正しさを霞めさせた張本人。
もしかしたら治らないかもしれない傷を、彼はこの街につけたのだ。
「けっ、同感だね」
アレスが答えて立ち止まる。話している間に大黒鬼の真横に接近した。さっきの封魔師たちへの反撃で壊された建造物の残骸で足場は悪かったが、大黒鬼の周辺だけは更地と言って良いほどでその衝撃の大きさがうかがえる。
「あとはロックの攻撃が大黒鬼に向かった段階で胸のコアを叩く。俺が先に行って一撃、アレスが二撃目で確実に仕留めよう」
「ヒャハ、なんだよトドメはもらっちまっていいのかよ」
「一撃で仕留めて見せるつもりさ。念のためだよ」
そうは言うが万が一の撃ち漏らしや不測の事態に備えて提案した。ロックがアレスを連れて行ったのは、単純に二人同時にというよりは、こういう狙いもあるはずだ。
大黒鬼を見上げる。近くで見ると改めて巨大さが分かるが、最初よりさらに歩く速度が遅くなっているようだった。ミラの言う通りなら、大聖晶石に絶えず浄化を受け続けているからだろう。
――。
そうこうしているうちに背後から、全身を刺すような殺気とアステルを感じた。馴染みのある水属性のそれはロックのもので、大技の準備ができたということだろう。
大黒鬼も感じたのか、振り上げかけた脚を降ろしてからゆっくりと振り返った。
合わせて俺は静かに‛雷鳴'を抜く。自然に呼吸は少なくなり、耳から入る音は遠ざかって小さくなっていった。
「来た」
アレスの声と重く空気を叩き割るような音が重なった。近づいてきたのは三日月状の淡い青色の衝撃波。大黒鬼と同じくらいの高さを持つそれは、轟々と音を立てながら車両用の道路を真っすぐに進んでいく。
大黒鬼は避けられないのか、避けるつもりがないのか、大鉈を下段に構えて受け切ろうとしているようだった。
「‛雷衣'!」
あの姿勢であればおそらく切り上げるときに胸はガラ空きになるはず。巨体ではあるが‛雷衣'で強化した足で助走をつけて飛べば、一太刀を浴びせるにはここで十分な距離なはずだ。
足元を確認して‛雷衣'を発動する。この直線上であれば障害物も少ない。
前を見据える。同時に、大鉈と青い衝撃が接触してすさまじい衝撃が身体を襲った。
「行くぞアレス!」
「おうよ!」
叫んで地面を蹴る。後ろからは火傷しそうなほど熱いアステルがついて、急かされているようだった。
大黒鬼は予想通り下段から切り上げた大鉈で衝撃波を受け止めている。きりきりと邪気と水のアステルが迸っては飛び散るが、どちらが押されるというわけでもなく均衡を保っていた。
豪語するだけのことはある。俺が今まで目にしたロックの技の中で間違いなく三本の指に入るほどの強烈な一撃だった。今にもその大鉈ごと叩き切りそうな勢いだが、そうなると逆に計画が狂う。
「――‛雷鳴'」
右足で踏み込んで、つま先に溜めた雷のアステルを軽く暴発させる。反動が‛雷衣'全体に伝わり、包んでいる身体を丸ごと宙に浮かす。あとは大黒鬼にめがけて急加速をしていくだけ。
ガラ空きの胴に、禍々しい赤い三日月の模様がくっきりと描かれている。確かに間近に来ると、気を抜けば全身を食い破られるような強い邪気を感じた。
だけどそれも終わりだ。ロックの作った隙を逃すわけにはいかない。この一撃ですべてを終わらせる気で、‛雷鳴'にありったけのアステルを込める。
「‛一閃'ッ!!」
バチバチと今までにも類を見ないほどの雷のアステルの荒ぶり。そして確かな手ごたえを、‛雷鳴'を通じて得られた。
背後からは一瞬、灼熱のアステルが迸った。同時に熱い爆風で背中をさらに押される。その中で、急速に弱くなっていく邪気を確かに感じた。
*****
白と赤、二つの流星が大黒鬼の前を横切って大爆発を起こしたのをその目で確かめて、ロックは勝利を確信した。
「やった! オジさん、ヒスイちゃん、やったよあの二人!」
「やりましたね。案外あっさりで助かりました」
後ろでエリンとヒスイが歓喜の声を上げる。
でかい図体と破壊力の割りに、その存在を維持するコアは野ざらしかつ何の防御術も施されていなかった。
罠かもしれない。警戒して、雑魚処理を終えたエリンとヒスイに、ロイとアレスにいつでも防御術をかけられるよう準備してもらっていたが杞憂に終わったらしい。ロックは短く息を吐いた。
「はっ、たまに褒めてやってもいいかもしれんな」
笑って言うロックだったが、今回ばかりは身体にも精神にも堪えていた。特に今回使った大技‛水無月大滝割り'は普段、あそこまで巨大な技ではない。大黒鬼に合わせて、ほぼすべてのアステルを結集させて放った文字通り‛全力'の技。
手ごたえとしては大鉈を破壊することもできそうだった。しかしそれは隙の消滅に繋がるので、今度は破壊しないよう調整する労力も冷や汗ものだった。
「あとは大聖晶石の効果が戻るのを確認して――」
住人の安全確認と街の復興準備を考えなければ。
言いかけて、ロックは異変に気付く。爆発を起こした前方、黒煙に包まれた場所から一瞬、強い邪気を感じた。
休みかけた気を再び張り巡らせる。
だがそれよりも早く、自分たちに向かってくる物体が何なのかを視認して叫んでいた。
「逃げろ!!」
大鉈だった。
最後の悪あがきか、豪速で向かってくる大鉈の向こうでは、消滅しながらも確実な殺意を持って大黒鬼が投擲をしたのが分かった。
叫んで、それから少し離れた位置にいたエリンとヒスイにバブルドームをかけるくらいしかできなかった。大鉈は目測以上に近づいてきていて、おそらく避けられる距離ではない。
詰めを誤ったか。二人の斬撃は確かにコアを直撃した。ロックの読みでは、その損傷と大聖晶石の浄化作用で消えていくだけだったはずだ。
後悔しても遅い。結果がすべてだ。大鉈の狙いはどうやらロックのようだった。バブルドームの強度には自信があるし、エリンとヒスイはせいぜい衝撃で吹き飛ばされるくらいで済むはずだ。
若い命は、失われずに済む。
――お前があきらめてどうする、この大バカ者!!
大鉈に埋め尽くされた視界に、ふわっと現れた白い毛玉。念話が頭の中に、いや周囲に響いたような気がした。
「今の声って……?」
エリンが戸惑う声が聞こえた。
視界は白から、眩しい虹色の光に変わっていった。
*****
手近な建物の屋根に着地した途端にがつんと、ミラの声が耳に飛び込んで俺は驚いた。諦めてなどいないし、むしろやり切ったと自負していた。
振り返って状況を確認するまでは。
「な、なんだよ。これ」
身体の下半分はすでに消滅しているというのに、その右手は確かに得物を投げた後だった。
行先は間違いなくロックたちがいる場所。けれどそこには見たこともない虹色の光の球が浮かんでいた。
それは確かにアステルで構成されていた。けれどその光はただ純粋にそこに輝いていて、善意も悪意も感じられない太陽のような眩さを放っていた。
大鉈はそれに突き刺さるように動きを止め、さらには浸食されるようにその形を崩していく。
何だ、何が起きている。俺の知らないロックの技か、それとも別の封魔師の技なのか。だとしても計り知れないアステルだし、属性も読めない。
国家封魔師がいよいよ到着したのか。そう思って辺りを見回すが、さして状況に変化があるようには見えなかった。
「ロイ、危ねぇぞ!!」
アレスの叫び声がどこかからか届いて、俺は反射的に地面を蹴って近くの家屋の屋根へ着地する。
ぐしゃりというあっけない音ともに、さっきまでいた家屋は大黒鬼の手によって無残にも抉り取られてしまっていた。
「いい加減にしろ、しつこいぞ!」
次から次へと起きている事態の把握もする時間もないのか。悪態を吐くが、すでに大黒鬼は左半身も存在が薄く透けて、向こう側の景色が見えていた。どうやってその巨体を維持しているのか構造がまったくもって不明だった。
大きく黒い手は容赦なく迫っては足場を壊滅させていく。コアへの一撃にほぼすべての力を使い切ったから、移動だけですでに息も絶え絶えだった。
完全消滅まで秒読みのはずなのに、それまでが異様に長い。
「いい加減にして欲しいのはこっちだ。いつまで経っても討伐できず、苛立ちばかりが増えていく」
雷を刃に込めたところで、頭上から声がかかる。アレスの声でないのは確かだったが、なぜかノイズがかかったように聞き取りづらかった。
その声は左手に見える三角屋根の建物の上からだった。屋根の上に器用に立っていたそれは、夕焼け空に映える黒い鎧に全身を包んでいた。
全体的に丸みを帯びた甲冑と兜は、目の部分にあたる赤い十字型の模様以外は真っ黒で、無駄な装飾もないシンプルなもの。
手には刃幅の広い、これもまた無駄な装飾が一切ない黒槍。
三百年くらい前の騎士のような格好だったが、決定的に違っていたのはその身にかぶさる邪気だった。
「ギルド・オレンジショット。少しは期待していたんだがな」
黒騎士の表情見えず、声も性別が判断できないくらいのくぐもりようだったが、失望していることだけは十分に分かった。
俺が反論する前に黒騎士は跳躍して、あろうことか大黒鬼の頭上に着地した。
アステルの気配はなかった。ということは自力であの高さを跳んだということだろうか。
「その目に焼き付けておけ少年。これが封魔師の責務というやつだ」
黒騎士は槍をひと回しし、大黒鬼の頭上に穂先を向ける。瞬時に穂先に集まったのは風属性のアステル。
幾重にも空気を切り裂くか細く高い音が共鳴して、一つの音を鳴らす。
大黒鬼も自身の頭上で起きた異変に気付いたようだが、その手をのそりと振り上げるだけで終わった。
「――自由に舞う風の神よ。久遠の空に散らばる刃を、約束の地へ収束させよ」
それは詠唱だった。
音としての言葉は時としてアステルの力を驚異的に変質させ、ある特定の術を生み出す。
ストラスがピクターで行ったものも、ロックだっておそらくさっきの技は詠唱したはずだ。普通はロックのようにアステルの集束のための時間が必要だ。
「――アルティゲイル・オブ・アシズ」
だがこの黒騎士は、そんな大技を事も無げに使い始めた。
無数の風の刃が黒槍を囲み、それから一気に真下――大黒鬼を飲み込んで巨大な竜巻を形成していく。
「グオオオオオオオオオオオォォォォッッ!!!!」
竜巻が風を重く切り裂く音なのか大黒鬼の断末魔なのか。分かるのは確実に風の刃が大黒鬼の残った身体を削り、風圧とともに消し去っていっていることだった。
俺は突風に飛ばされそうになりながらその光景を目に焼き付けようとする。
圧倒的な暴力の塊。そう表現しても過言ではなかった。今まで苦戦してきたことのすべてが文字通り風に飛ばされ流されていくような無力感が全身を覆った。
一瞬だったのか、長い時間が過ぎていたのか。それすらも分からなかった。
すでに大黒鬼の存在は欠片も残っておらず、重圧としてのしかかっていた邪気も、目の前の騎士のものを残して奇麗に消えていた。まるで夢だったかのような気分だが、目の前の黒い騎士がそうではないと槍を振るう。
「‛黒き雫'によく伝えておけ。のんきに魔物を狩る封魔師の時代は終わった。紅い三日月は半月を超え、すでに満月へと変貌しようとしている。時間は無い、とな」
言葉は横殴りの風の中でもやけに耳にはっきりと届いた。
その意味を必死に理解しようとする間に風は吹き止み、後はひゅうひゅうと空しい音を立てて俺の髪をなびかせるだけ。
かろうじて理解できたのは、ロックの国家封魔師時代の二つ名。
瞬きの間に、黒騎士も姿を消していた。ルナ教会での出来事からずっと方に鈍く重くのしかかっていた邪気も、騎士が纏った鋭い邪気も消えて軽くなっていた。
胸に残ったのは安堵か虚無感か。自分の中にある感情を、俺はしばらく飲み込むことができなかった。




