第5話:大黒鬼と黒い衝撃
今度こそ順調だった。街を覆う邪気に慣れたのか、不快感も和らいで歩く速度もいくらか上げての進行だったからだ。
異常が現れてからかなり時間が経って、陽は傾き始めていた。
前方には現在の暦である星歴以前に建てられたというアトリア神殿が、口を開けて待っていた。騎士たちに護衛されながら並んで歩く人たち、家族との再会に笑顔を見せる人たちもいて、こっちも釣られて安堵する。
「不快な感じが無くなったのはちょうどこの辺りが、あの術が大聖晶石の範囲を狭める限界だったと見るべきなのでしょうね」
実際、ヒスイの言ったことは当たっていた。
マチスさんの身柄を騎士団に預け、状況を聞いたところによると浄化範囲は大聖晶石から半径三キロにまで狭められてしまったという。
ルナ協会からこの神殿までおよそ五キロ。かなり歩いて足が棒のようだったが、それでも行政区全体を覆っていたはずの浄化の範囲に比べればお粗末なものだった。
アトリアの住人がすべて神殿へ避難できたわけではないが、封魔師や騎士団の誘導で各地区にある聖堂にはたどり着けているらしい。聖堂にある聖石が微弱ながら魔を退けているらしく、今のところ被害の報告は上がっていない。
急がなくてはいけない。狙いが分からないからこそ、焦りが募る。取り急ぎの目的地には着いたが、次への手掛かりがいまいち掴めない。
「おーい、ロイ! 良かった、とりあえずここまで無事に着いたんだね」
騎士団との情報交換を終えて一息ついたところで背後から元気な声が届く。そんな元気がどこに余っているんだと思いながら振り返ると、エリンが手を振っていた。
「無事切り抜けたようで良かったよ」
「ヒャハ、それはこっちのセリフだっつーの。爺さんは?」
「騎士団に任せた。あれ、そっちはロックがいないみたいだけど」
エリンとアレスの二人だけでロックの姿が見えなかった。どこで油を売っているのか、すぐにでも次の行動を決めないといけないのに。
「オジさんなら他の封魔師と情報交換中だって。この街にも結構たくさんいるみたいだよ。臨時の対策本部みたいなものも作るって、ちょっと聞こえたりして」
なるほど。確かにこの街にいる他の封魔師にも協力を仰ぐというのは頭から抜け落ちていた。俺たちが対処したルナ協会からここまでの道のり以外は、彼らが対処してくれたのだ。
これはもうマチスさんから俺たちに向けた依頼ではなくなっている。こんな大ごと、本来なら第一種の国家封魔師が相手取る案件で、下手すれば俺たち第二種封魔師だって‛王国令'で封魔師傭兵団として動くことになるかもしれないものだ。
「ヒャハ、やっぱりオレの読みは当たってたよ」
「なんのことだ?」
「このギルドに入れば退屈はしねーって話」
これを面白がれるアレスの精神が少し羨ましい。でも面白がるくらいでないとこの異常事態は乗り切れないのかもしれない。
「死者は今のところ出てないし、国にはすぐに援軍要請したらしいから、もうじき国家封魔師何人かが到着するって。魔物への対処は問題ないだろうとは言ってたよ」
「さすがは星都市。緊急事態への対応に抜かりはないですね。街の封魔師総出で建造物の損壊程度の被害で済んでいるなら良い方だと思います」
エリンの報告にヒスイが付け足す。大聖晶石を擁する街はこういった非常時への対応が完璧だという話は聞いていたが、封魔師と騎士団の協力体制がここまで整っているとは思わなかった。
「ヒャハ、たまには騎士団も仕事するじゃねーか。他の街もこれくらい機敏に動いて呉れりゃ文句ねぇのにな」
「そうしたら今頃アレスさんはここにはいませんね。狭い牢屋でひもじいご飯でも食べていることでしょう」
「はっ、どんなに騎士団が腕を上げようがオレを捕まえるのは無理だっつーの!」
いつも通りの掛け合いに、俺は少しホッとする。こっちから魔物を倒しに行くことはあっても、あちらから攻めてくるなんてことは本来あり得ないことだ。例外を除いて、町の中で魔徒ならまだしも、魔物によって命の危険にさらされることはなかったから、俺は正直なところかなり身に堪えていた。
少しでも気を晴らそうと辺りを見回す。ほとんどは神殿内部に避難したのか、この神殿前広場は人気は少ない。いるのは好奇心に勝てなかった一部の市民か、目つきや装備から同業の封魔師と騎士団が数人だ。
「浄化作用があるとはいえ、このあたりも邪気は濃い気がするな」
ミラが鼻をヒクヒクとさせながら呟く。不快感が無くなったとはいえ、意識をすれば纏わりつくような邪気は通常よりも多い。普段の街の中でこの邪気を感じたなら魔物の発生を疑うレベルだ。
「おかげで魔物の感知もいつもよりしにくくなっている。私もいつも以上に注意するが、お前も気をつけろよ」
「分かった。ミラも離れるんじゃないぞ。お前は身を守る手段がないんだから」
「は、一端の口を利くようになったな。まぁ確かにその通りだから、しっかり私を守るんだぞ」
頼もしいのだか頼もしくないのだか。ミラはどんな激しい戦闘の中でも必ず安全な場所から適切な危険伝達をしてくれるし、探索の手腕――というか鼻も確かだ。多少のイレギュラーもきっと大丈夫だろう。
「……あの黒フードだが、おそらくはこの街からまだ出てはいない」
「そうなのか?」
真面目な口調に切り替わって、ミラが言う。
「ルナ協会を一時的に硬直させ、教徒の一人を操ったあのアステルの気配はまだ街の中、しかも浄化範囲内に残っている。でもおかしい話だ。あの声の主がロイとアレスがピクターで出会った男ならそいつは魔徒だろう? 浄化作用が弱まっているとはいえ、今の今まで街の中に居続けるのは相当の苦痛で、消滅の危機だってあるはずだ」
魔物も魔徒も構成されている量や質の違いこそあれ邪気の塊だ。長時間浄化範囲の中にいれば消滅してしまう。
であるにもかかわらず、あの男はまだこの中に、もしかしたらすぐ近くにいるかもしれない。そういえばピクターの時もレストランに普通に居て、苦しそうな素振り一つしていなかった気がする。
「これだけの大ごとをやってのける時点で相当だが、今回の敵はまずい。直接対決するのは避けて、これから派遣されるであろう国家封魔師に任せるべきだ。お前たちはこれからも街に出てくるであろう魔物たちの対処にあたったほうが良い。きっとロックも同じ判断を下すだろう」
「そう、かもな」
今回ばかりは威勢を張るのも少し厳しい。ピクターでも、そしてこのアトリアでも、力の差は比べるのも馬鹿々々しくなるくらいだった。
穏やかだが、情のかけらも通っていないような冷酷な声。そして禁止級星心術を使うその力量。ピクターで出会ったとき、アレスと共闘して純粋に恐怖を覚えて、死を覚悟した。
でもだからと言って、あの黒フードを野放しにして良い理由にはならない。あいつへの対処をどうするべきか、実力不足で俺がどうにもできないとしても、少しでも早くロックとは話しておくべきなはずだ。
「おい、何の騒ぎだ?!」
ミラとの会話が終わらぬうちに、誰かの叫び声が聞こえて顔を上げる。
同時に耳に飛び込んできたのはけたたましい騎士団車両のサイレンの音と、猛スピードで広場前に停車するブレーキ音。
「緊急伝令!! 魔物が現浄化範囲である三キロの境界線を超えて進行を開始! 現場の従士と封魔師で応戦中! ここまで迫る可能性あり! 至急避難の準備を!」
拡声器で伝えられた内容に、あたりからどよめきが上がる。
不安、恐怖。心臓の早鳴りとともに、周りのそんな感情が直接胸の中に注ぎ込まれていくような錯覚に襲われる。
ここからさらに浄化の範囲が狭まるというのか?
伝令の内容を半分も呑み込めないうちに、今度はロックがどこからともなくすっ飛んできた。
「ちょうど封魔師たちの配置の方向性が決まったってのにこれかよ! 行くぞお前ら! ここは石に守られているから安全だって言って逃げなかった頭の固いやつらが向こうにいるって話だからな!」
あの黒フードはどうするんだ。
事前に準備していた言葉は、ロックの声ではるか遠くへ吹っ飛んでしまった。他の三人も異論はないようで、前方、騎士団車両から情報を取ろうと走るロックへと続いていた。
助けられる命を見過ごすことは絶対にしたくない。
でも、あの黒フードをここで少しでも自由にさせることで、取り返しのつかないことになりはしないか。
きっとロックは分からないのかもしれない。あの黒フードと直接対面していないから、そもそも優先順位が違うんだ。
「ロイ、急ぐぞ何している」
前を歩き始めたミラに促されるが、俺は足を動かさなかった。
「ミラ、黒フードの正確な位置、分かるか」
「な、何を言っている。さっき危険だと結論を出したばかりだろうが」
「直接戦うなんてことはしない。それは無理だって俺にも分かってる。様子を見て、何をしようとしているのかを探るだけだ。俺だけじゃわからないかもしれないけど、ミラなら何かわかるかもしれないだろ?」
「……」
ミラは黙って俺を見て、それから走っていったロックたちの背中を見る。みんなには俺が立ち止まったことは気づかれていない。
「……だめだ。お前ひとりには行かせられない。何をそんなに焦っている。規模は違えど、この地獄は魔物が人を襲うのと同じで、奴にとっての食事だ。この地獄を収めることで、奴の食事も終わるんだ」
言われれば確かにそうなのかもしれない。過去にも、さすがに大聖晶石に干渉するなんてことはなかったが、魔徒が街に侵入して人を襲ったことはある。それは人の負の感情を摂取し、自身の消滅を防ぐための食事のようなもの。
だけど俺はあの黒フードがそんな単純な理由のためにわざわざこんな大掛かりな術を仕込んだとは思えなかった。
「こんな派手な食事をして、それからあいつは何をするつもりなんだ? 腹ごしらえするってことは、それだけのエネルギーが必要ってことだろう」
根拠はない。ただ一度会っただけの印象に過ぎない。けど妙な確信が俺にはあった。
ミラは眉間を寄せて考え込む。
「直接対面したお前だからこその直感なのか。まぁアレスでは戦闘時以外の勘はなさそうだしな……。ちょっと待ってろ、私がロックを説得してくるからそこを動くんじゃないぞ」
納得したのかしていないのか苦々しい表情をしながら言って、ロックの方へ振り返って走り出した。
あいつが俺のことを心配して、危ない橋を渡らせないようにしてくれているのは十分すぎるほど分かっている。でも、もうそろそろ甘えてばかりもいられないのだ。
*****
「ねぇオジさん、ほんとにミラちゃんに付いて行けばさっきの黒フードの男にたどり着けるの?」
「ったりめーだ! 言ったろ、こいつは血統書付きだって」
「だから血統書云々は関係ないだろ。血統書付き=すごいみたいな勘違いしていないかロックは!」
神殿大通り二丁目。
他の封魔師たちが向かった方角とは別の道を、俺たちはミラに導かれて走っていた。
念話を俺とロックにしか聞かせていない関係上、ミラが突然走り出して俺たちを誘導している、という筋書きになっているらしい。ミラがどう説明してくれたのかは知らないが、ロックは納得してくれたようだ。
大聖晶石の浄化範囲が再び狭まったらしいが、今のところ特に変化は感じられない。ということは今走っているこのエリアは範囲内ということだろうか。
と言ってもまだ数百メートルを走っただけ。ここまで範囲が狭められたら住人たちの避難場所が無くなる。
「まだこの辺は浄化範囲内みたいですが、確かにこの先に何か異質な気配を感じます」
感覚が鋭いヒスイも何かを感じ取っているようだった。ミラも一直線に走るのをやめ、辺りをきょろきょろとし始めた。
「この辺のはずだが」
ミラが完全に止まった。俺もつられてあたりを見回す。
住宅が両端に立ち並ぶ大通り。さっきまで歩いてきた道と同じく、人の気配は皆無だった。
「ちょうどここが、浄化の境界線だ。ざっと一キロにまで縮められたようだな」
ロックが足元の地面を蹴りながら言った。前に一歩進むと、生暖かい嫌な感覚が身体を覆う。まだもう少しは大丈夫だろうと思っていたが、予想以上に狭まっていた。
錯覚か、一歩先がすでに邪気に充満している空間だと認識した途端に、目の前の景色に黒いもやがかかったような気がした。
視界が狭くなって、景色が歪む。
「ロイ、目の前だ!!」
ミラの念話と、何かに引っ張られたような感覚がしたのは同時だった。景色が急激にぶれて身体の平衡感覚を失う。
「ボケっとすんなロイ!」
アレスの怒鳴り声が耳元でして、俺はアレスに腕を引かれたのだと分かった。俺がつい今までいた数歩前の地点、そこには黒いアステルが色濃く渦巻いていた。
「ありがとう、アレス」
「ヒャハ、大したことじゃねぇよ」
そう、本当は大したことではなかったはずなのだ。これだけ強力な邪気は出現する前に気付けないはずはない。
「この街の邪気は本当に凄いよ。どれほどステラという光の元で抑圧されていたのかな。必要分の余りでこんな魔物も作れる」
ふっと、何の前触れもなく表れた姿と声。こつりと靴音を立て、渦巻くアステルを背に黒い外套を揺らす。
そのフード姿だけでは他のルナ教徒と判別はつかないが、発せられる邪気は間違いない。ピクターで出会った男だ。
ただ前回と違うのは、その黒いフードからわずかに顔らしきものが見えていたことだった。目元は暗くよく見えないが、口元当たりの白い肌は見えていた。
「ちっ、誘われていたのか。わざと気配を拡散させていたな」
「キミならここに来ると思ってね、ロイ君」
ミラの悪態が聞こえたかのように、男は答える。俺のことを覚えているのか、妙に馴れ馴れしい態度だった。
「そう警戒することはない。キミたちをここで殺してしまったら、もう何も感じてもらえなくなってしまうからさ」
今度は俺たち全員に向かって男は言う。
どういうことなんだ。何が狙いなんだ。
言うべき言葉が、心臓の高鳴りに邪魔されて出てこない。
「そいつは嬉しいね。でも俺たちはお前を倒さなきゃならん。こういう時は大本を叩くのが一番手っ取り早いからな」
そんな俺の代わりにロックが前に立って言った。すでにその手には‛水無月'が握られ、切っ先が男に向けられていた。
「僕を倒したってこのタルタロスは止まらない。僕のアステルで動いているわけじゃない、すでに独立している装置だからね」
「どうやったら止まる」
「それは役目を終えた時。大聖晶石を‛陥魔'させる膨大な邪気を送り切ったら、今回のタルタロスの役目としては十分さ」
聞き間違えでなければ、こいつは今大聖晶石を陥魔させると言ったか。
大聖晶石は‛陥魔'なんていう単語とは対極に位置する。大聖晶石が邪気を消し去るというのならまだしも、その逆はあり得ない。
「ヒャハハ! 笑わせんなよ。大聖晶石は長い間、人間を邪気から守ってきた聖石だぜ。それを‛陥魔'だと?」
隣にいたアレスは臆せず、半ば怒りながら俺の気持ちを代弁する。男はその反応を面白がるようにくつくつと声を上げて笑い始めた。
「‛闇の月'ならできるのさ坊や。そしてロック・ハインザード、キミなら僕たちの執念深さは知っているはずだよ。そしてそれを可能にする夜よりも昏い絶望、灼熱の怒り、海よりも深い悲しみ――僕らの盟主レグルス・レオンハートの闇のこともね」
レグルス・レオンハート。
三百年前の‛大戦'の引き金にして、‛大陥魔'を引き起こした星暦最悪の魔徒と呼ばれた男。
だが彼は三百年前に討滅された。それを盟主だと言ったのか?
「……そうかよ。俺はてっきり、お前らは二十年前に懲りたものとばかり思ってたぜっ!」
もう言葉は不要なのか。ロックは唐突に踏み込んで刀身を男に叩きつける。男はひらりと躱して鼻で笑った。
「懲りないさ。僕らはずっと機会を伺って、計画を立ててきた。キミの動きが鈍かったのも、教会での言動も大方、住人やそこの坊やたちを不安にさせないようにするための配慮だったのかもしれないけれどね。少し動きが遅かった」
「うるせえ!」
‛水無月'が水のアステルを纏って男を切り裂こうと迫る。目にも止まらないそのひと振りを男は見切って、上空へ飛ぶ。
三階建ての家屋の屋根に飛び乗って、男は俺の方に顔を向けた。
「そういえば半年前くらいに僕に質問したね、ロイ君。‛なぜレグルス・レオンハートは陥魔したのか'と」
男は頭のフードに手をかけながら続ける。その声に奇妙な温かさが乗ったと同時に、背中に冷水を浴びせられたような感覚に襲われる。
その顔に見覚えがあった。数時間前に会ってすらいた。声だって聞き覚えはあったはずなのだ。ピクターで出会ったときから、妙な引っ掛かりは感じていた。でも考えないようにしていた。
「……ブラック、先生」
レン・ブラック先生。黒衣にその銀の髪は光っているように見えた。優しく細いその目はまったく変わっていないはずなのに、射抜かれて、足元に穴が開いたかのような浮遊感に襲われる。
「キミがこの街で感じた邪気による閉塞感。そして僕の顔を見たその衝撃。もう一つ決定的なものがあるが、だいたい似たようなものだよ。信じていた光を失えば、人は簡単に闇に落ちる」
言葉が冷たい冬風のように、ただただ耳を通り過ぎていく。
どうして、いつから。そんな言葉は出てこなかった。その前にブラック先生の隣で強力な邪気が渦巻いていくのを感じたから。
「僕の名前はストラス。レン・ブラックはこの世を忍ぶ仮の姿ってね。教師生活もなかなか楽しかった。キミのような生徒に会えたことも良い思い出だ」
ブラック先生――いや、魔徒ストラスは片手を上げる。彼が現れる直前徒は別の、暗く強い邪気に囲まれるような感覚が襲う。
アステルが暴走しているのか、今にも爆発するかのようにバチバチと音を立てていた。
「これから計画の最終段階だ。勝負をしよう。今から僕はタルタロスを核に魔物を生み出す。これを倒せれば大聖晶石の陥魔は止まる。倒せなかったらキミたちは死に、ここは魔物の巣窟となる。キミたちの恐怖と絶望が、大聖晶石陥魔の一助にならんことを」
空気が質量を持ち重くのしかかり、ストラスの声が遠ざかっていく。その代わりに、渦巻く邪気が徐々に一つの形を成そうとしていた。
「動けロイ! 死にたいか!!」
ミラの喝で、ようやく意識が切り替わる。今は目の前の異常に対処しなければならない。度重なる衝撃に麻痺した体に鞭を打って、俺は前を見据える。
ヒスイと戦った大鬼。それとは比べ物にならない巨大な鬼――大黒鬼が、俺たちを見下ろしていた。
「いったん退却だ、逃げろ!」
ロックが振り返って、俺たちに叫んだ。
直感で分かった。あれは真正面から戦って勝てる相手ではない。今度こそ俺は逃げるために雷のアステルを足に込める。
「邪気が急激に上がった……? 周りに十、二十、それ以上だ!」
後ろを振り返って走り出したと同時に、ミラが叫んだ。言葉通り大黒鬼の周りから、そしてその逆、俺の進行方向からも次々に魔物が湧いて出てきた。
ここも浄化範囲ではなくなったということか。熊や狼、鳥のような飛行型の魔物まで、和ノ国に百鬼夜行という言葉があるが、まさにこのことだった。
「‛雷衣'!」
こうなることも予想の一つではあった。けれど実際に起こると頭の中で考えていたことがほとんど吹き飛ぶ。‛雷衣'を纏って全力で駆け出した。群がってきた魔物は幸い雑魚だったから、一撃で斬り伏せながらとにかく前へ足を動かした。
「固まらずに散らばって、他の封魔師がいるエリアまで走れ! 浄化範囲も狭まっている、そう遠くはないはずだ!」
ロックの声に背中を押され、がむしゃらに走る。ペースも何も考えなかったから、もうすでに息は上がっていた。勝手に目から流れた水は雨だと思い込むことにして、ただひたすらにアステルを微かに感じる場所へと足を動かすことしかできなかった。
*****
息を潜めながら、うごめく影を感じていた。
それはエリンやロック、アレスでもヒスイでも、ましてやミラでもない、邪な感情に飢えて這い寄る化け物たちの息遣いだった。
「雑魚だからって油断するなよ。数で来られると思わぬ隙ができちまうからな」
廃墟同然となった喫茶店のカウンター裏から、ロックが姿を現して忠告する。傷こそ負ってないが、その顔には疲労の色が見えていた。
そんな表情のロックではあったけれど、俺はその顔を見た途端に不覚にも安堵してしまった。
星都市アトリアへの、魔物の襲撃。
大聖晶石が設置され、魔物侵入を許さない不可侵の聖域。聖域を事も無げに踏み荒らした数多の影たち。
どうしてこんなことになってしまったのか。
普通ならあり得ないことが立て続けに起こって、精神は自覚している以上にすり減っているのかもしれない。
「闇の月。とんでもねぇことをしてくれるぜまったく」
気づかないふりをしていた小さな影は、けれどひたすらに忍び寄っていたのだ。
分かってはいた、認識してはいたけれど、だからと言って俺に何ができただろうか。
外からはアステルの揺らぎと爆発音が断続的に聞こえる。走り疲れて飛び込むように入った空っぽの喫茶店で、ロックとの合流は偶然だった。
他の三人の姿は見えない。バラバラの方向に走ったからすぐに見失ってしまった。
「ロック、あの魔物は……」
「周辺を荒らしまわってるみたいだな。何人かが立ち向かってたが返り討ちだ」
それはとうとう死者が出たという意味だろうか。
なんだかんだこの街の対応力の高さで乗り切れるだろうという期待が心のどこかにあっただけに、その事実は重くのしかかった。
「ロックは先生が魔徒だって知ってたのか」
沈黙の後、俺はロックに訊く。少しの会話からロックとストラスの間に因縁めいたものがあるように聞こえたからだった。
ロックは首を横に振った。
「直接の面識はないはずだ。教師としてのあいつはヒマリアでも見かけたことあるし、知っていたらその時点で気づいてる。たぶん、エデーナ戦線に関わってた魔徒だろうな。あの時も‛闇の月'が暗躍してた」
エデーナ戦線。二十年前、正確には二十一年前の星暦1839年。かつての星都市エデーナを魔徒と魔物の軍勢が襲った。あの時魔物が街に入ってこれたのは、不定期かつ極秘に行われる大聖晶石の効力を調整する儀式のため。ほんの数分だけ浄化作用が弱まったタイミングで攻め入られたらしい。
極秘だったはずの儀式のタイミングがなぜ魔徒側に知られたのかは分かっていない。混乱の中で神殿が乗っ取られ、その後三年間浄化作用が弱まったまま、神殿が奪還されるまで戦線は続いた。
この戦いにロックやビアンカさんが参戦し、そして俺の父親も戦って、死んだ。
「街に魔物が溢れた時、確かにエデーナのことは頭をよぎった。けど、あの時だって大聖晶石の効力が戻るまで戦い続けるしかなかった。大聖晶石自体に細工を施した元凶があるなんて、あいつのハッタリだと思って疑ってなかったんだが……」
ロックの顔に後悔が滲んでいた。めったに見られる表情ではなかったが、できれば今後も見たくはないものだった。
「悔やんでいる時間などないぞ。あのでかい魔物を倒せば、大聖晶石の効果も戻る。確かにあの魔物のコアらしき部分と大聖晶石は、邪気の線とでもいうべきもので繋がっていた」
足元からミラの声が聞こえて視線を下げる。白い毛並みは度重なる行軍で汚れだらけになってしまっていた。
「そうか、お前が言うなら間違いないな。しかしどうやって大聖晶石に干渉してるんだか。別に今回は儀式なんてやってなかったはずだ」
「私も気になって大聖晶石も含めて調べてみた。どうやら浄化の範囲自体は狭くなっているが、効力自体が弱くなっているわけではなく、むしろ一点に集中しているようだ」
「一点に? どういうことだ?」
俺の問いかけにミラは爪を器用に使って地面に図形を描いていく。大きな四角形の中に小さな三角形を、そしてそれをまとめて大きな円で囲んだ。
「普通、大聖晶石は街を囲むように浄化の作用を及ぼしていると考えて良い。少なくとも私にはアステルの流れがそう見えている。だが今の状態はこうだ」
言いながら隣に同じような絵を描く。今度の円は三角形を囲むくらいの大きさしかなく、隣には星マークがあった。円から伸びるように、その星マークに太い線を描き足していく。
「星はあの大鬼だ。本来広範囲をカバーするはずの浄化に必要なリソースとでも言うべきものがごっそり、あの鬼に向かっている」
「つまり、町の浄化を放棄してまで大聖晶石自らが浄化しなきゃいけないほど高密度な邪気ってことか……」
ロックの言葉を言い換えれば街の九割分の邪気と言って良い。数字は見えても、そう簡単に理解できる話ではなかった。
「とは言っても、大聖晶石の力も伊達ではない。あの大鬼の身体は浄化の力で削られ続けている。つまり時間が経てば経つほど奴は弱体化する。案外放っておいても消滅するかもしれんぞ」
ミラは言って笑うが、ここでじゃあおとなしくしていますと言えるほど腐った封魔師ではない。それはロックも同じようだった。
「あっちがおとなしくなる前に、街がまるごとおとなしくなっちまう確率の方が高ぇよ。だったらギルド・オレンジショットの出番だ」
ロックの言葉に気を引き締める。衝撃的なことが起きすぎて後手後手も良いところだったが、そろそろ反撃しなければならない。
ずしり、ずしりと、重い足音が確実に近づいてきている。こうしている間にも街は壊され続けているのだ。
「ロイ、なんならお前は神殿で休んでいても良い。いろいろあったしな。ぶっちゃけ、今のお前じゃあいつの相手は……」
「いや、俺も行く。足手まといには絶対にならないから、やらせてくれ」
敵が強大すぎるのは分かっている。それでも動かずにはいられない。
あの時危険を承知でカメラを取ったマチスさんのように。俺はこういう時に戦って、人々の心を助けるために封魔師になったのだから。
「分かった。行くぞロイ。ただ、俺の指示には絶対に従え。場合によっちゃ今回、お前を守り切れないかもしれないからな」




