第3話:開かれた窯の蓋
その街は男にとって居心地が悪かった。
ステラを信じ、人々が静かに暮らしている街。
なぜここの連中はステラなんて紛い物の光を信じていられる。いや、それを言うならこの世界の大多数がそうだ。
心の本質が光か闇か。
その答えは魔物の存在が証明しているだろうに。
今や人間は、大聖晶石の加護なしに生きられない。石の浄化作用がなければ魔物は生まれ放題、人間は襲われ放題だ。
人の心が光であるというのなら、魔物と対になる存在――聖人やら天使やら神でも、何でも良い――が生まれていなければ嘘ではないか。
男は自分の人生を振り返った。
良いことなんて一つもなかった。周りの悪意が嫉妬が些細な怒りが、自分の人生の邪魔をした。
だからルナ教に入った。
心の本質は闇である。その現実を受け入れて、一つの光を信じ静かに生きる。
さらなる差別や偏見の目は承知の上だ。ルナ教徒はただでさえ肩身が狭い。
ただ、人間の心なんて所詮そんなものだ。そういった負の感情は心そのものなのだから、ステラだろうがなんだろうが抑えられない。
所詮そんなもの。
では、そんなものを生かし続ける必要がどこにあるのか。
表面だけの笑顔、打算的な優しさ。
ステラで塗り固めた嘘の世界など、存在して何の意味がある。
紛い物の光という窯の蓋を開ければ、ふつふつと、ドロドロと地獄が煮え立っている。
――それがキミの苦しみだね。
優しいテノールの声。手渡された黒く、アステルの渦巻く神秘的な石。
噂には聞いていた。ルナ教徒の格好をした男が、悪魔の囁きをするのだと。
渡された石を使えば、その窯の蓋を開けることができるのだと。
――一緒に渡すのは、どちらかというと窯の中の地獄を零す笛だな。きっと、キミの望むものが見えるよ。
男の声はどこまでも優しい。それが嘘だなんて分かり切っていた。
けれども自分には、その引力に逆らう術など持ち合わせてはいなかった。
*****
「本当にここで間違いないんでしょうな? そりゃ我々も真っ先に疑いましたよ。でも確たる証拠がない。マチスさん、貴方の持ってきた写真だっていくらでも言い逃れができてしまうんですよ」
ロックと、そして依頼主のマチスさんに向かって、白黒の騎士団の制服を着た男性が疑わしげに言う。
その物言いに腹が立ったが、ロックもマチスさんも何も言い返さないから俺も黙っていることにした。
アトリア行政区中央街。目の前の三角屋根の黒い建物はルナ教徒の集会場として知られている建物だった。
人の心の真は悪である。ルナ教の教義の中で最も知られているもので、ステラとは正反対に位置するが、アトリアは比較的ルナ教徒にも寛容的で、神殿のある中央街にも集会場の設置を許している。
「大丈夫っすよ。あんたらも一緒に来て、見れば分かる」
二十年前にルナ教の暴徒によって起きたとされる大規模な戦闘――エデーナ戦線後、ルナ教徒への風当たりも強くなり、犯罪への不当な疑いも横行した。
そういった背景から、確たる証拠がなければ騎士団も彼らを安易に取り締まることはできない。この騎士団の心配も当然のことと言える。
そしてその心配は俺たちも同じだ。結局、ロックは説明もなしに騎士団を呼びつけ、俺たちと、なぜかマチスさんまで連れてこの場所へと来たのだから。
「これは何事ですかな」
そうこうしているうちに、扉から黒フードを着た壮年の男性が現れた。
すでに騎士団の車両が数台と、周りには野次馬が徐々に集まりだしている。ルナ教徒には何の予告もないのだろう、驚いて当然だ。
「この集会場への通報がありましてな。少しお話を伺いたくて参った次第ですよ」
この場での騎士団の長らしき男は答えて、隣のロックに目配せする。
「どーも、封魔師ギルドオレンジ・ショットのロックというもんです。今中にいるルナ教徒の方々全員と顔を合わせたくて来たんすよ」
「オレンジショットのロックだと……」
ロックの気さくな挨拶に黒フードの男は眉を顰める。その内容か、それともある程度名の知れた封魔師であるロックがここに来ているということ自体に対してなのかは判断がつかない。
少しの間返答を考えていた様子だった男は続ける。
「通報と仰いましたが、どんな内容です? 内容次第ではこんな強制捜査じみた権限はあなた方にはないはずだ」
強制捜査なんてよほど容疑が確定しなければできない。ルナ教徒では冤罪も多いからなおさらだ。まさかここに違法なアステリアルがある可能性があるから一人ひとり調べさせろなんて言っても、こちらには明確な根拠を示せない。
疚しいことがあるにせよ無いせよ、彼らはなんだかんだ理由をつけて捜査をはねのけようとするだろう。
「権限、というか臭いを辿ったらここに来たんですよ。最近この辺で行方不明になっているワンちゃんネコちゃんたちの臭いをね。うちの猫はちょっと訓練したやつで、そこらの騎士団犬にも劣らない捜査能力を持っている。別に、あなたたちの中にワンちゃんたちを攫ったやつがいるなんて思ってませんが、どんな小さな手掛かりでも調べたくてね」
初耳だった。うちの猫というのはもちろんミラのことだろうが、俺たちの知らないうちにそんなことまで調べていてくれたのか。
そういえば昨日、俺たちが小鬼と遭遇している間、ロックとミラはニコちゃんを探していたとか言っていたっけ。
さすがミラ、最近の出番の少なさをこの活躍でカバーしたということか。
感謝の念を込めてミラを見ると、なぜか目を丸くしながらロックの方を凝視していた。
あれ、あの感じだと何も知らないのか?
「騎士団犬でも見つけられなかったという行方不明のペットたちの臭いを、その白猫がかぎ取ったというのですか?」
「えぇ、なんせうちのは血統書付きですので」
「別に血統書云々は関係なくないか? あと別に私は血統書などついてないが」
口元に笑みを浮かべてはいるが、ロックと黒フードはにらみ合っているに等しい。
呑気なミラのツッコミが俺の脳内に響いて、緊張感が宙に浮く。
「……良いでしょう。一人ずつ調べたいというのでしたら、手早く済ませてください。ちょうど集会の時間も近いですので、全員集まれるでしょう」
しばらくの沈黙の後、黒フードの男は観念したように言って入り口を開ける。
中では数人の、同じような黒フードが並べられた長椅子に座っているようだった。
「そいつはどうも」
ロックは憎たらしいほどの白い歯を見せて、ずかずかと歩みを進めていく。俺たちも騎士団もよく分からないまま後に続く。
ロックはたまにこういう時がある。他のメンバーにはっきりと計画を説明しないまま一人でどんどん進めてしまうのだ。それで大抵のことは上手くいっているから良いが、振り回されるこっちの身にもなってほしいものだ。
ずらりと並ぶ長椅子に座る誰もが、黒いローブを纏っていた。
今までの経験上、その格好に良いイメージがないから必要以上に緊張してしまう。
「なんで私がこんなことを……」
ミラは文句を言いながら黒フード一人ひとりの衣服を嗅ぐような素振りをして回っていた。
俺たちは部屋の最奥、教徒全員を見渡せる位置に立って様子を伺う。まさか本当にこの中にニコちゃん含むペットたちを攫った犯人がいるのだろうか。ミラは確かに、ニコちゃんの小屋の近くで魔物の気配がかすかにするとは言っていたが、それがルナ教徒に直結するというのは話が簡単すぎる気がする。
すべてを調べ終えたのか、ミラが心底面倒くさそうにこちらに戻ってきた。
「さて、それでは手掛かりがあったかどうかを猫に聞く前に、みなさん愕かないでこちらにご注目ください」
ロックが芝居がかった口調で言って、右手を上げる。そこには昨夜の小鬼が封じられているであろうカプセルが収まっていた。
視線がカプセルに集中したのを見計らって、ロックは勢いよく床にたたきつける。
ぽん、という気の抜ける音がして、白い煙が場内に充満する。どよめきが起こるが、煙が明けていくにつれてその声に恐怖が混ざっていく。
「魔物か……?」
現れたのは当然、黒い小鬼。昨日と同じようにゆらゆらと体を揺らして、笑っていた。
昨日の説明からこいつ自体に特に害はないということが分かっていたが、騎士団含めルナ教徒たちの表情は硬い。
ルナ教徒にとって、人の心の本質が具現化した魔物や魔徒は信仰対象そのもの。俺たちが抱いている恐怖とは別種のものかもしれない。
まぁ、正確にはこいつは魔物ではないのだが。
「なんだねこれは! 魔物、いや、純粋なアステルの塊か……?」
「ご名答。魔物との区別はさすがにしっかりしているようで。さてと、こいつが何か、騎士殿は分かりますか?」
今度は騎士の男に向いて、ロックは二又に分かれた棒状の物体を見せて言う。
「それは、追星音叉ですか」
追星音叉。主に警察機関である騎士団か許可を得た封魔師ギルドの構成員が使用を許可されるアステリアル。
対象のアステルと、比較対象であるもう一方のアステルが同一のものかどうかを比べる道具だ。
例えばある事件の容疑者がいたとする。その容疑者のアステル周波相と、事件の現場に残されたアステルの残滓――多くはモノに触れた時に残る指紋と一緒に残っていることがある――を比べ、それが同一かどうかを調べるのに使われる。
同一であれば、物体なら容疑者がそれに触れた証明になるし、空気中に漂うアステルでなら数時間以内にその場所にいた証明にもなる。
ロックは追星音叉を、ふらふらと落ち着かない小鬼の頭にそっと当てる。
キィン、という高い金属音が鳴り、音叉の周りには淡い紫色の光が円状に現われる。
それからいくつかの高低差のある金属音が重なって聞こえるようになった。少し気分が悪くなるが、最初に音叉を当てた対象と、次にかざした対象のアステル周波相が同一であるならば元の奇麗な金属音に戻るはずだ。
最初に小鬼に当てたのだとすると、もしかしてロックの狙いは――。
「なーるほどな。とんだ芝居を打たせてくれたものだ」
ミラも納得がいったように念話でつぶやく。
音叉を持ったままロックは、ミラがしたのと同じように黒フードの男たちの前を順に歩いていく。
「なんだ、ペット探しはどうしたんだ」
「あぁ、うーん。ペットはですね……」
苛立ったような騎士の男に、ロックは歯切れの悪い返答をする。
黒フードたちも不安そうな表情をしながら、ロックの次の言葉を待った。
「結局この中にはいませんでした」
「な、なんだって! それじゃこんな大所帯で踏み込んだ意味が」
「せっかくなんでもう一つ気になることを調べようと思いまして。みなさん、'疑心の笛'ってアステリアルは知ってますか」
こつりこつりと、靴音と音叉の金属音の中でもロックの声はよく通った。
「イタズラ好きの星心術師が作ったアステリアル。あのアステルの塊は'疑心の笛'から作られたやつでね。そのアステルの供給源は笛を吹いた本人なんだよ」
こつりこつり、こつ、こつ。
徐々にロックの足は速まって、一人の男の場所でぴたりと立ち止まる。
音叉の金属音はそこで、一つの音に重なった。
「ねぇ、あんたが吹いたんだろう? 追星音叉は公的な捜査にも使われる列記とした道具。これだけの目があるんだ、もう逃げられねぇぜ」
ロックの目の前にいるのは、眼鏡をかけた茶髪の俺より少し年上くらいの男。彼は唇を震わせ、見るからに動揺していた。
「'疑心の笛'はどこにある? そいつを渡して、おとなしく話してくれりゃそこまで罪は重くならないはずだぜ」
ロックは声を少し落として語りかけるように言う。眼鏡の男は深呼吸をしてから、懐、黒ローブの中に手を伸ばす。
「ロック!」
「……ッ!!」
念話が頭に響いたのと、眼鏡の男が動き出したのは同時だった。
男が懐から出したのは笛ではなく、手のひら大の黒い石――それには見覚えがあった。
ヒマリアでスミレさんが手にしていた'影石‛と呼ばれていた特殊な星石だったはずだ。
確か、持ち主の負の感情から強力な魔物を生み出す魔の石。
思い出されたのは黒い猫。
「分かってる」
対してロックは落ち着き払って、男の手首に目にも止まらぬ手刀を繰り出した。男は苦痛に顔を歪め、'影石‛を発動前にその手から滑り落とさせる。
「くそっ!」
「させるものかよ」
慌てて拾おうとした男の手をすり抜けて、ミラがはるか遠くの椅子の下まで石を蹴り飛ばした。
「良いんだぜ。別に俺たちと戦っても。でも、正直に話した方が痛い目を見ることはないと思うんだけどな」
ロックは跪く男の前に立って、いつの間にか愛刀の‛水無月’を構えていた。
男は圧に押されたのか、それきり抵抗の素振りを見せず口を開いた。
「……あ、ある男に言われたんだ。指示する場所に行って笛を吹き、小鬼と一緒に簡単なイタズラをしてこいって」
「誰に、何の目的で」
ロックは淡々と聞く。その声にごまかしをはさむ余地は無い。
「名前は知らない。ただ、同じルナ教徒のはずだ。黒フードを着て、証も持っていた」
証というのはおそらく、彼らが首からかけている紅い三日月形のペンダントだろう。黒いフードとそのペンダントが、自他共に認めるルナ教徒のシンボルなのだから。
「今のうちに名乗り出てくださいよ。この青年にこんなことを吹きかけたのはどなたですか」
ロックは周りを見渡して問いかける。動揺とざわめきが広がるばかりで、一向に名乗り出ようとする者はいなかった。
「ま、名乗り出るわけないよな。で、目的は? 目的を聞かされたからこそ、お前はこんなことに協力したんじゃないのか」
見透かしたように言うロックに、男は答えない。
いや、正確には答えられなかったと言うべきか。男は白目を剥きながら痙攣していた。同時に、その身体から邪気が黒い煙のように漂い始める。
「な、なんだ」
さすがのロックも予想外だったのか、たじろぎつつ‛水無月‛の切っ先を男から離さない。
「……その質問は僕からお答えしよう」
邪気の流出が収まって、男が口を開いた。
ただしその声は男のものではなく、少なくとも俺にとっては聞き覚えのある声だった。
「おいおい、この声ってよお」
聞き覚えのあるのはもう一人。アレスも反応して、自身の得物である二振りの紅い刃を構えていた。
ピクターで戦った、時空属性の星心術を操るルナ教徒。
「なに、彼は僕の目的など知らないんだよロック・ハインザード。ただこの街の終わりを見せると言っただけで協力してくれた」
男は依然白目を剥きながら言葉を続ける。かなりの絵面だが、おそらく意識を乗っ取る術でもかけられているのだろう。
「この街の終わりだと?」
「そう。かつて疑心によって滅んだ村の再現。心の闇を余すことなく発露させたあのおとぎ話は、若いルナ教徒には魅力的に映るんだろうね」
村の再現。
それは密かに恐れていた、‛疑心の笛'の村と同じ状況を作るということか。
「それはできないぜ黒幕さんよ。今は大聖晶石がある。石が邪気を浄化する限り、溜まり続けず浄化される。ここが星都市であればなおさらだ」
カノン王国に二十一ある行政区、その中心である星都市には大聖晶石が鎮座している。絶えず人が感じる負の感情、それに結びつけられた邪気を浄化する作用のある聖晶石がある限り、外から魔物が侵入することはないし、内部で魔物は自然発生しない。
と言っても最近は、さっき男が手にしていた‛影石‛が瞬間的に強力な邪気を発生させることで魔徒じみた魔物を発生させる事案もある。それに対しては俺たち封魔師が対処することで抑えているから、一般の人が'影石‛以外の経路で魔物の脅威にさらされることはない。
よって、‛疑心の笛'の話にあるような事態には陥らない。
ロックはそういう意味で「できない」と断言している……はずだ。
「確かに、完全な再現は無理さ。だから少し強引な方法で、僕らはこの街を終わらせる。……ところでロック、大聖晶石の浄化の範囲は行政区全体を覆うほど絶大な範囲だが、もしこれを縮めることができたら、どうなるかな?」
「……言うまでもねぇ、範囲から外れた場所からは魔物が生まれ放題。だが大聖晶石に手を加えるなんて不可能だ。強力な結界と世界最高峰の監視システムが目を光らせてるんだからな」
男の問いにロックは探るように答える。俺もそうだが、たぶんこの問いの意味をつかめていないのだろう。
そもそも大聖晶石が害されるという発想自体ないからよく知らなかったのだが、ロックの言い分が確かなら男の仮定は無意味だ。
「不可能は可能にしてこその人類だ。そして可能にする術式の名は‛タルタロス'! 大聖晶石の加護無き大地に魔物が溢れ、人々を見境なく襲う。それはまさしく、あのおとぎ話にも劣らぬ地獄が生まれるだろう。キミたちは歴史の目撃者になるのさ」
――タルタロス。
男はまくしたて、同時に身体からは再度大量の邪気が溢れ出る。
「ぐ……あぁッ、がああああああああっ!!!!??!!」
ぐしゃり。
耳を塞ぎたくなるような絶叫と、男の口から吐き出された大量の鮮血。
「これは、何だ……?!」
ロックの声に先ほどまでの余裕はなかった。
それもそのはずだ。男の絶叫が終わり、その身体が倒れた瞬間、押しつぶされるような重圧が場内全体を覆ったのだから。
「身体が、重い」
――星心術陣タルタロス。キミたちは笛を見つけ見事その奏者をも暴いた。でもそんなものに意味はないんだ。
男の声が部屋全体に響く。
声が頭を揺らし、重圧が身体を締め付ける。
――すべてのイタズラは成された。キミたち、荒らされたゴミは、ちゃんと元に戻しておいたかな?
身体の感覚がおかしくなったのか、声が遠くから聞こえるような気がする。
そんなことより、ゴミ? あの夜、小鬼たちがゴミ捨て場で荒らしていたゴミのことか? そういえば特に何もしていなかった気がするが。
「ちくしょう、それがどうしたってんだ!」
声の出せない俺の代わりにロックが叫ぶ。
――戻していないのなら、きっともう街の誰かに見られている。誰かの心に、疑心の種を植え付けている。
男の言葉に、なぜか全身に悪寒が走った。
いや、理由はちゃんとある。昨日の夜にアレスが描いた、トラブルの発生地点の図。
「儀式じみたトラブル発生地点は、やっぱり偶然じゃなかったんだな。その、タルタルなんちゃらを発生させるための意図的な配置だったわけだ。んで、この様子だとすでに術式は発動したと……」
なおも続く重圧。明らかに邪気が混ざったそれは、男の言う術式の影響なのだろうか。魔物の気配のようなものが、一つ二つと増えていくような感覚もする。
――負の感情なら何でも良い。でも疑心程度の感情でも成功するならこの先も楽しみだ。実際どうなっているかは、直接来てみれば良いさ。
その言葉を最後に、重圧は嘘のように消えて身体が軽くなる。
気を抜く間もなくロックは飛ぶように外に出ていた。
「ヒ、ヒャハ、元気な野郎だぜ」
「息を上げている暇はありませんよアレスさん。あのルナ教徒の言う通りなら、これは前代未聞の大変な術式なんですから」
「わーってる! オレたちも急ぐぞ!」
アレスとヒスイが、呆然とする黒い集団の中を走り抜けていく。
俺も正直、同じ気持ちだ。状況を整理する時間が欲しいが、そうはいかないのだろう。
大聖晶石の効果範囲を狭める。そんなことをしたら、この街の、いや国の対魔防衛システムを根本から覆してしまう。
どうすれば。何をすれば良い。
「もう、みんな勝手なんだから! えーと、とりあえず騎士団の皆さんも一緒に行きましょう! そこの人、救護を呼んでそこで倒れている人を病院へ! それからマチスさんは、えーと、ひとまずここにいた方が安全かも?」
エリンの声に、呼び戻されるような気分になる。
てきぱきと指示を出しているように見えてエリンも混乱しているようだが、仕方ないだろう。むしろここで即座に周りに指示を出せているのは感心してしまう。
「いや、儂もお前たちに同行したい。何かが起きるなら、このカメラですべて納めておきたいんじゃ」
「えええ?! でもでも危険ですって! ねえロイそうでしょ?」
当たり前だと言いかけて、マチスさんの首にかかったカメラを見て思いとどまる。
今度こそ、彼の撮った写真が証拠して街の人たちに信じられるのであれば、マチスさんを連れていくという選択は間違っていないのではないか。
いや、間違っているとか間違っていないの問題ではなかった。
ただ単純に俺が、そう信じられてほしいと願っている。
――できることが分からなくなったら、やりたいと思うことをやると良い。
先生にしてはふわっとした言葉だった。でも今はその言葉を頼りに行動しようと思った。
混乱していた思考が徐々に整っていく。
「行きましょうマチスさん」
「そうですよマチスさんここに残りえええ?!」
わざとやっているんだか、隣で行われた盛大なノリ突っ込みを無視してマチスさんに手を伸ばす。
「ありがとう、少年」
皴の刻まれた手が、強く握り返してくれた。
*****
外に出てみれば夜と見間違えるほどの暗さだった。
真っ黒な雲が頭上を覆い、街のあらゆる方角から黒いアステルが光線状に一点に伸びていた。
「あの位置は、神殿ですか」
ヒスイのつぶやきに納得する。
あれは街の中心部に向かって伸びていた。
その光は、一言で言っておぞましかった。見ているだけで頭を、胸の中をかき回されるような不快感が募っていった。
「高密度の邪気といったところか。あれを一斉に大聖晶石に食らわせているってことか……? そんなことをしていったい何の意味があるってんだ」
ロックは言って、辺りを見回す。邪気でできた光柱は数こそ増えないものの、その太さを徐々に増しているようにも見えた。
騎士団たちは街の状況を確認しに行ったらしく、その姿はすでに無かった。
「とにかく神殿へ急ぐっきゃないな。行くぞお前たち」
「あのロック、ごめん、俺はマチスさんの速度に合わせるから先に行っていてくれ」
今にも駆け出しそうなロックを止めるのは気が進まなかったが、一緒に連れていくといった以上、俺たちの速度に高齢なマチスさんを合わせるわけにはいかない。
ロックは一瞬顔をしかめたが、すぐに息を吐いて口元を上げた。
「依頼主は戦闘時は隠れているもんなんですがね。でも、あなたの行動は後に役に立つことでもある。ロイ、しっかり護衛しろ。あと念のためヒスイちゃん、サポートしてやってくれないか」
察してくれたのか、ロックは俺の別行動を認めてくれた。何かしら怒られるのかと思っていたから少しだけ拍子抜けだった。
「仕方ないでですねロイさんは。分かりましたよ。何かあっても骨は拾ってあげます」
ヒスイもいつもの調子で承諾してくれた。
マチスさんをどこか安全な場所へ避難させた方が正解なのは誰が見ても明らかだ。
けれどあの男の言う通りならば、これからこの場所には魔物が溢れ出るという可能性も十分考えられる。安全な場所などどこにもなくなるかもしれないのだ。
「気を付けてくれロック。俺の記憶に間違いがなければ、あの男は俺とアレスがピクターで遭遇したルナ教徒だ。時空属性なんて禁止技も使ってくる」
ロックが強いことは知っている。けれど忠告せずにはいられなかった。あのルナ教徒は今まで出会ったどんな敵よりも異質だったから。
「そいつは確かにやばいかもな。でも俺はロック・ハインザード。相手が誰であろうと負けやしねーよ」
そんな軽い言葉は何よりも安心感があった。ロックが負けたことなんて、一度も見たことがないのだから。
「マチスさんを守りながら慎重にな。術式が奴が言った通りのものなら、用心に越したことはない。よし、行くぞ」
最後の忠告をして、ロックは走り出す。その後ろにアレス、少し遅れてエリンが続いた。
遅れているとはいえ、エリンも普通の女の子に比べれば速い。すぐに三人の姿は暗い街の中へ消えていった。
「さ、行きましょうか。ボクたちものんびりしていられません」
ヒスイに頷いて、俺も歩き出す。
早歩きをして、少しでも神殿への距離を詰めていく。
ぱしゃり、ぱしゃりと時折背後から聞こえるシャッター音。
歩く速度は遅い。けれどその間もマチスさんは街の様子を、休むことなくカメラに収め続けていた。




