第1話:レンズが捉えた影
息を潜めながら、うごめく影を感じていた。
それはエリンやロック、アレスでもヒスイでも、ましてやミラでもない、邪な感情に飢えて這い寄る化け物たちの息遣いだった。
「雑魚だからって油断するなよ。数で来られると思わぬ隙ができちまうからな」
廃墟同然となった喫茶店のカウンター裏から、ロックが姿を現して忠告する。傷こそ負ってないが、その顔には疲労の色が見えていた。
そんな表情のロックではあったけれど、俺はその顔を見た途端に不覚にも安堵してしまった。
星都市アトリアへの、魔物の襲撃。
大聖晶石が設置され、魔物侵入を許さない不可侵の聖域。聖域を事も無げに踏み荒らした数多の影たち。
どうしてこんなことになってしまったのか。
普通ならあり得ないことが立て続けに起こって、精神は自覚している以上にすり減っているのかもしれない。
「闇の月。とんでもねぇことをしてくれるぜまったく」
気づかないふりをしていた小さな影は、けれどひたすらに忍び寄っていたのだ。
分かってはいた、認識してはいたけれど、だからと言って俺に何ができただろうか。
*****
初秋の月も終わりに差し掛かっているだけあって、連日続いた暑さも和らぎつつあった。
そうは言ってもこうして何時間も剣を振り、星心術の練習に集中していればじわりじわりと汗が出て体力も消耗する。
目の前には線のように細い目をさらに細めて、俺のアステルを測るリッキーさんがいた。
「……ふむ、少しずつではありますが、やはり実戦を経験したからか、ロイ君の中にあるアステルは確実に濃度を増している。つまりはアステルに対する身体の許容量は増えていると言えます。何か自覚できることはありますか?」
「自覚……強いて言えば術を使っても前よりは疲れにくくなったような気がしますけど、気がするくらいかなぁというか。そんなところですかね」
見た目は筋肉隆々、けれど口を開けばその低く優しい声と口調も相まって神父のようにも見える彼は、俺の星心術と武術の師。
彼の質問はそれこそ本物の神父のように、対話者の言葉を素直に引き出す……とかそんな特殊能力を持っているわけではないけれど、対面している俺はそんな気がしてしまうから、正直に答える。
許容量が増えたと言われても、新しい術を覚えたとか、劇的に動きが良くなったとか、そんな感じはあまりしない。
封魔師になって半年が経った。
これまで何度かロックのクエストに同行し、魔物と戦ってきたし、星心術もそれなりに行使した。
もちろん以前よりは戦えるようになっているとは思うけれど、未だに星心術に対する苦手意識は拭えない。
「意識に現れるのはまだ先なのかもしれませんね。でも、これからも術を使い続けて、根気強くアステルに身体を馴染ませていくことが大切ですよ」
「わかりました。ありがとうございましたリッキーさん」
垂れてきた額の汗をぬぐって、俺は帰り支度を始める。
思えばこうしてリッキーさんの道場に顔を出したのも久しぶりかもしれない。なんだかんだで依頼続きの毎日だったから、今日みたいな休日もどこかへ出ていたのだ。
「お、いたいた。ロイ、ロックのやつが呼んでいたぞ。また依頼だそうだ。お前も忙しいな」
道場の扉を開けたところで、白い猫――ミラが俺に声をかけてきた。
声と言っても、‘念話’という相手の脳内に直接言葉を届ける星心術だが。
「せっかく一息ついたのに、もう仕事なのか」
「封魔師というのは常に忙しく動き回るものだよ。人の心と同じだ。まぁ、実際に移動するのは明日からだそうだがな」
明日から、という言葉に張りかけていた緊張の糸がほぐれる。
ということは、今日はロックから依頼の内容を聞くだけ。少しの間休めるかもしれない。
「メンバーは?」
「もはやお馴染みとなった四人だよ。そろそろパーティ申請でも出したらどうだ?」
ある程度実力が付いた封魔師同士はパーティを組んでお互いをサポートし、より効率よく依頼をこなすようになる。個人の負担も減るが報酬も基本山分けだ。
‛お馴染みの四人'はそれこそパーティのようにだいたい行動を共にしているけれど、みんな封魔師としてはひよっこだ。
「パーティを組むにはまだ経験不足だよ。いつか一人前になったら、ありかもしれない」
一人前と呼ばれる日はいつ来るのだろうか。果てしなく遠い気がするけど、それでも自分で選んだ道だから、何とかなる気がしている。
確かな根拠は無い。でもそれが封魔師を半年続けた今の所感だった。
*****
「今回の依頼、どう転ぶか分からないんだよな」
一通り依頼内容の説明を終えて、ロックが言った。コーヒーを啜る音が閉店時間を過ぎたギルド・オレンジショットの室内に静かに響く。
テーブル席には俺とロックの他にエリン、アレス、ヒスイが座っていた。どの顔もイマイチ話の内容に納得がいっていないような、想像ができていないような、そんな表情をしていた。
かくいう俺も、ロックの言うように今回はどう転ぶか判断できない。判断できる知識も経験も少ないというのは置いておいてだ。
依頼は星都市アトリアで起きている異変の調査。
アトリアはカノン王国に二十一ある行政区の一つであり、その首都の名前でもある。比較的大きな街の中で、盗難や原因不明の器物破損といった小さなトラブルが立て続けに起きているという。
これだけ聞けばただのイタズラで、ストレスの溜まった誰かが連続的に起こしているとも考えられる。
けれど、それだけとは考えさせてくれない理由がテーブルの上に散らばったいくつかの写真だった。
「この黒フードは見覚えしかねぇよなぁ、ヒャハ。ロイ、あの時のリベンジは思ったより早くできそうだぜ」
建物と建物の間に隠れるように佇む黒いフードの人物を捉えた写真。他の写真も、一見風景や、壊れた窓ガラス――被害を受けた家のものだろう――を映していると同時に、どこかに黒いフードの姿が映りこんでいた。
思い出されるのは以前、ピクターで戦った黒フードの男。
桁外れの術――現在ではその強力さゆえに使用者も限られ、使えたとしても使用を禁止されている時空属性の星心術――をこともなげに放った男。
「同一人物かどうかは分からないけど、闇の月が絡んでいる可能性は高いってことだよな」
闇の月。
違法なアステリアルをばらまき、魔物や魔徒を生み出している犯罪組織。世界的に主流のステラ教と対を成すルナ教徒の過激派集団という説が有力だ。
ボーテスやピクターの事件に深く関わっていたということはほぼ間違いないと見て良い。
「アトリアは敬虔なステラ信者の街という印象があるんですが、このルナ教徒はよく入って来ようと思いましたね。ステラ的な思考を是とする住人たちが多ければそれだけ、星都市アトリアにある聖晶石の退魔の効力も強いはず。つまり、彼らが望むような結果は望みにくくなる」
彼らが望むような結果。ヒスイが言うように魔物の生成や魔徒の発生は、星都市にある安置されている聖晶石の退魔効力――負の感情とアステルを繋げにくくするという能力らしい――でほぼ不可能に近いはずだ。
「ルナ教徒を装った愉快犯とか、そもそも全く関係ない通りすがりのルナ教徒とかだったら可愛いもんだが、これがマジもんなら警戒するに越したことはない。ピクターでの件もあるしな」
ロックは言って、写真を何枚か手に取って眺める。その中には一連の事件が黒フードの男の犯行であることを最も裏付けられそうな写真もあった。
夜中の誰もいない、住宅の並ぶ街路。家の一つの窓は割れていて、そのすぐ隣で金槌を持った黒フードの男が去ろうとしている。写真の中身だけ見れば、まず疑うのはその男が窓を割ったということ。こんな夜中に金槌を持って歩くという状況自体が考えにくい。
「でも、これだけの情報が揃っているのになんで依頼主のお爺さんは私たちに依頼したんだろう? 騎士団に頼んで調査してもらって、魔物が関係しているようなら私たちに依頼が来るっていうのがいつもの流れなんじゃないの?」
エリンの疑問は最もだった。魔物の関連が確定していない状態での依頼は、特別な理由がない限り封魔師ギルドは引き受けない。後手になってしまう危険性も十分あるが、初動は警察機関である騎士団が行う。
魔物が絡んでいる確定情報がない以上、まずは騎士団が動くのが筋だ。
「信じてもらえなかったんだとさ」
「はーん、なるほど。騎士団様のショクムタイマンってやつか。ホントに仕事しねーやつらだな」
アレスの心底呆れたような口ぶりに、ロックは首を横に振る。
「騎士団どころか、街の誰にも信じてもらえなかったんだと。これだけ確からしい証拠があるってのに、こんな簡単な犯人当てゲームにすら、誰も乗っからないらしい」
誰にも信じてもらえない。
それは孤独な言葉で、魔が忍び込むには十分すぎるほどの隙間だった。
*****
「ここの連中は皆、頭が固いんだ。勝手な妄想で物事を判断する。写真という、動かない証拠があるというのに」
依頼主の老人――マチスさんは苦々しそうに言って、俺たちが持っていたものと同じ写真を眺めていた。
星都市アトリア。依頼主であり、写真家でもあるマチスさんの家にはいくつもの風景写真が飾られていた。星都市に住む人は富裕層、というのは聞いたことがあるが例に洩れず家は広く、俺たち五人と一匹が入っても窮屈さはまるでない。大きな額縁に飾られた写真もあって、さながら彼のアトリエのようだった。
曲がりなりにも昔、写真を趣味にしていた身からすると羨ましくもあり、尊敬の念も湧いてくる。
「やったのは黒フードの連中だ。儂がこの目で見たし、写真にも収めた」
「連中ってことは、複数いると見ている?」
「おそらくな。儂がこの写真を撮った場所からかなり離れた距離で、同じ時間帯に被害が出たと聞く。よほどの駿足か、空を飛べでもしない限り無理だろう」
窓や花瓶が割れる。皿や洗濯ものなどの日常生活のあらゆるものが少しずつ消失していく。飼い犬が行方不明になる。
自然現象や偶然と言うには重なりすぎていて、人為的であることには間違いない。
ただそれがよほどの駿足か、空を飛べる、人でない可能性も十分にあり得る。
「魔物の可能性を儂も考えた。大聖晶石があるこの街でというと、信じたくはないがな……」
「ま、俺たちはその線濃い目で調査してみますよっと。せっかく騎士団を飛び越えて俺たちに直接依頼してくれたわけだしな」
「ふん、騎士団も街の連中と同じで信じぬだろうからな。もっとも、奴らは信じぬのではなく、信じずに面倒ごとに巻き込まれないようにしているだけだろうが」
マチスさんの物言いから、騎士団もあまり当てにできなそうにない。ますます俺たちが封魔師として役目を全うしなければならなそうだ。
「あの、騎士団はともかく、街のみなさんまで信じてくれないというのはどういうことなんですか? こんなに証拠と言えるような写真がたくさんあるのに」
エリンの遠慮がちな質問に、マチスさんは顔にしわを寄せ渋い表情を作る。
「……皆、お互いがお互いを疑っておる。儂がこの写真を撮り始める前、具体的には一ヶ月以上前から少しずつ似たような事は起きていたようだ。小さい不安でも、偶然が続けば‘誰か’を犯人にして安心したくなる。皆、目に見える近い者――隣人や近くにうろつく浮浪者までも疑い始めた」
不確かな情報と不安の中で、写真に写る黒フードより先に、それらしい犯人像を街の人たちが個人で作り上げてしまったというところだろうか。
「今や儂の写真なんかより、隣人のせいだなんだと騒いでおる。儂がもっと早く写真を撮って皆に見せていれば、結果は違っていたのかもしれんが」
「そんなことも無かったんじゃないでしょうかねぇ。遅かれ早かれ、自分の目で見ないと考えを変えなさそうじゃないですか。古き良きを守るのがアトリアの皆さんの良いところとお聞きしていますが、貴方の言うように頭の固いところもあるのでしょうね」
「……かもな」
一度凝り固まった疑念はそう簡単には解きほぐせない。疑念が噂を呼び、噂が疑念を呼んでいる状況では、ヒスイの言う通り順番の問題ではなかったのかもしれない。ステラ原理主義的な考え方が関係しているかは分からないが、少なくともこの街の気質や風土が状況を良くない方向にしているという見方もできるかもしれない。
明確な犯人がいるにせよいないにせよ、街の疑心暗鬼な空気は何としても変えないといけないだろう。
「話は変わるが、ここの写真は全部あなたが? 世界中を飛び回っている感じですかい?」
唐突にロックは仕事の話を切り上げて、壁にかかった写真たちを見回して言う。
「ん、あぁそうだ。今はもうこの歳で、国内がせいぜいだがな。昔は船で海外、それこそノクターン帝国やキリエ大陸の和ノ国まで行って撮ってきたこともる」
知識だけでしか知らない海の外の国の名前を聞いて、俺はさらに写真たちを隅々まで見渡す。確かに教科書でしか見ないようなノクターン帝国の優美な城や、和ノ国一大きいという雪を被った山の写真もあった。
「国内ってだけでも十分すげーよ。カノン王国はめちゃくちゃ広いんだから。そのスタミナと脚力で、この街の被害状況はどれくらい調べられてる?」
「儂の聞き及んだ情報はすべて、写真と一緒に記録してある。が、写真に関しては依頼時に送ったものですべてだ」
「写真も大事だが、それ以外の情報も何かのヒントになるかもしれない。教えてくれないか?」
マチスさんは少し考える素振りをして、棚から一冊のノートをロックに手渡した。
*****
まずは現場を見て回ること。
これではまるで騎士団だが、本職が仕事をしないのであれば俺たちがやるしかない。二手に分かれてトラブルが起きた現場に向かうことにした。
俺とエリンとミラは昨晩、飼い犬が行方不明になったという家へ聞き込み、アレスとヒスイは黒フードによる犯行の線が最も濃い例の窓ガラスが割られた家へ向かった。
ロックはマチスさんの記録を見ると言って同行はしていない。
時刻はすでに夕方。夕食の準備に入る忙しい時間帯かと思うと気が引けたが、情報は早く仕入れた方が良いのは確かだ。
「あの、どうして封魔師の方が? 騎士団に届け出はしましたが、封魔師ギルドに特に依頼は……」
身分と名前を名乗った俺たちを訝しそうに出迎えたのは中年の女性。いきなり封魔師、しかも俺たちのような子どもとも言える歳の封魔師であれば怪しまれるのも納得だ。
「あはは、騎士団も忙しいみたいで、なんだかんだでワンちゃん探しを私たちが引き受けることになったんですよ。大丈夫です、報酬は騎士団からいただきますので! そのかわり、魔物絡みで何かありましたらギルド・オレンジショットまで依頼いただければなんでもやりますよ!」
嘘も方便。エリンはちゃっかり宣伝まで入れて話を進めていく。
「ワンちゃんを探し出すために、何か手がかりが欲しいんです。周りで何か大きな音がしただとか、不審な人物がいたとか」
「と言っても、特に言えるようなことは……」
腕を組み困ったような表情を浮かべる女性。俺たちに話すようなことはあらかた騎士団にも話しているだろうか。
推理小説をなぞったような俺のたどたどしい問いかけに答えたのは、目の前の女性ではなく、後ろから現れた小さな男の子だった。
「お兄ちゃんたち、ニコを探してくれるの? 昨日の夜中にすごい大きな声で吠えたっきり、どこかに行っちゃって心配してたんだ」
「大きな声で? ワンちゃん――ニコちゃんが夜中の何時くらいに、どこで吠えていたんだい?」
「えっと……ニコのおうちだと思う。夜中の一時くらいかな、なんか怒っているみたいで怖かったし、すぐに吠えるのをやめちゃったから見に行かなかったんだけど……」
俺の食い入るような訊き方で怖がらせてしまったのか、少し震えた声で男の子が答える。
「ニコちゃんのおうちは外に?」
「えぇ、裏の庭に小屋を建てて、そこで寝かせていたんです」
「いつも夜遅くに吠えることってあります?」
「いいえ、そんなことはないと思います。おとなしい子なので、ご近所にも迷惑かけたことはないんですよ」
エリンの質問に答えた女性も、このことは初めて知ったような口ぶりだった。
夜中に怒ったように吠えていた、というのはこの家や近所の人以外の誰かと遭遇して威嚇していたというところだろうか。
「犬畜生マニアによる単なる連れ去りという線も十分ありそうだが。まぁ、現場を見た方が早かろうて」
犬畜生だなんて絶対に目の前の飼い主たちには聞かせられない単語を口にして、ミラが退屈そうに欠伸をしながら提案する。
確かに、ここで話だけしていても分かることは増えそうにない。
「ニコちゃんのおうちを見せてもらうことはできますか?」
「えぇ、構いませんよ。騎士団の方たちも今朝見に来たばかりですけどね」
俺たちは女性と男の子に案内されて家の周りをぐるりと一周し、裏庭へ入る。
ここも例に洩れず裕福な家なのだろう。白い柵に囲まれた庭には様々な植物や花に飾られていて、それらを踏まないように石床で人が通る道が作られている。
ベンチやブランコも置いてあり、もしかしたら家そのものより庭の面積は広いかもしれない。
「これは、立派なお庭ですねぇ!」
目を輝かせながら言うエリンに、俺も頷く。公園とも言えるような庭は、封魔師として来ていなければカメラのシャッターを押しまくっていたところだ。
犬の小屋らしきものは、花に囲まれるようにぽつりと立っていた。
小屋の周りだけ荒らされているとか、見た限りの異変は無いように見えた。しいて言うのであれば、小屋の入り口付近の花が踏まれてしまっていることだが、犬が出入りするから不自然ではないとも言える。
「この柵をニコちゃんが越えたことは?」
「無いですね。大きさ的に届かないんです。唯一の出入り口が裏口ですけど、内側から、鍵を使わないと開けられないので。もちろん、昨日は戸締りもちゃんとしていましたよ」
話を聞きながら、俺は庭を囲む白い柵の周辺を眺める。人間ならギリギリよじ登れる高さだが、素人目で見てそういった形跡も無い。
「どうだミラ、何か分かったか?」
同じように柵や小屋を回っていたミラが足元まで帰ってきたので俺は訊く。臭いだけではない気配やアステル周波相に敏感だから、探し物のクエストの時のミラにはどうしても頼ってしまう。
「ニコとやらの周波相は小屋からなんとなく把握した。最新の気配はこの小屋の前で途切れている。それこそ、この場から昨晩、突然消えたみたいにな。だがおそらく生きてはいるだろう。うっすらとだが、この街の中にそれらしき気配があるし、血の痕跡も臭いも無かった」
生きているのなら探し出せる可能性も残っているということ。不安そうにあたりを見回す飼い主の女性にはいち早く伝えたいが、裏付ける手掛かりがあまりにも少ない。
「そうか、ありがとう。ちなみに星心術や魔物の気配は?」
「かすかにある。どんな術を使ったのかまでは分からないがな」
手掛かりはあるにしても、現段階でみんなと共有できるものは無い。常識の範囲内に答えは無いのだろう。
俺は実質無収穫のまま小屋へ戻ることにした。
「おやぁ、坊ちゃん。今日はノコちゃんは一緒じゃないのかい?」
「おばあちゃん、ノコじゃなくてニコだよ」
「ほほう、そうじゃったかの」
男の子と、もう一つ聞き慣れない声を耳にして立ち止まる。柵の向こう側から、誰かが男の子に話しかけているようだった。
「あの人は?」
「あぁ、隣の家に住んでいる方です。一人暮らしということもあってか、よくああやって息子の話し相手をしてくれるんです。私もたまに庭の手入れを手伝いに行ったりしているんですよ」
柵の間からは確かに、背の低いお婆さんが一人、嬉しそうに男の子に話しかけていた。
隣もこの家と同じくらい、一人で手入れするには大変なくらい庭も大きい。
「それにしても、昨日は夜遅くまでフルートの練習頑張っていたねぇ。おばあちゃん、昨日は眠れなかったからちょうど良かったんだよ」
「フルート? 昨日の夜は何もやってないよ?」
「ありゃ本当かい? ノコちゃんの楽しそうな歌声と笛の音が聞こえていたんだけど、坊ちゃんじゃなかったのかい?」
俺は二人の会話に違和感を覚えて耳を傍立てる。
ノコちゃんの歌声と、笛の音?
「お子さんは楽器を?」
「えぇ、バイオリンとフルートを。一日交替で私が教えているんです」
「へぇ~、すごいですね!」
「でも昨日はあの子の言う通り、お昼にバイオリンの練習をしただけなんですがね……」
エリンがタイミングよく引き出した情報も、お婆さんの言葉と食い違っていた。
単なる空耳ということも考えられるが、俺は思い切って男の子とお婆さんの会話に割り込むことにした。
「こんにちは、俺はロイと言います。突然すみませんけど、さっきワンちゃんが歌っていたと言っていたのは昨日の何時くらいでしたかね?」
まずは時間だ。
男の子は怒ったような鳴き声を聞いたと言うが、お婆さんの証言はまるで逆だった。
お婆さんは物珍しそうな表情で俺を見た後、男の子の顔を見て、また俺に向き直った。
「おやおや坊ちゃん新しいお友だちかい」
「そう、なのかな。お兄ちゃんにニコを探してもらっているんだよ」
「おや、ノコちゃんいなくなっちゃったのかい。それじゃおばあちゃんがノコちゃんの声を最後に聞いたのかもしれないってことだね! 昨日は確か、夜中の二時頃だったと思うよ」
夜中の二時。男の子が怒ったような鳴き声を聞いた一時間後くらいということか。
少なくともニコちゃんは一時間の間はこの庭にいて、その後に消えた。
「あのぅ、私もニコちゃん探しをお手伝いしているエリンっていいます。おばあちゃん、笛の音って言ってたけど、どんな感じでした? 知っている曲だったーとか、音色が変だったとか」
エリンも会話に参加してお婆さんを取り囲む。嫌がられるかとも思ったがさらに嬉しそうに話をしてくれた。
笛の音も重要な手がかりだ。少なくとも男の子は笛の音なんて聞いていないし、吹き手自身でもなかった。ということは夜中の二時ごろに誰かがここに居たということだ。
「そういやいつも坊ちゃんが吹いているようなやつじゃない気がしてきたよ。なんていうんだろう、とても楽し気で踊りたくなるような曲調だったねぇ」
楽し気な曲調の笛。消えたニコちゃん。
この二つを結びつける何かが、きっとあるはずだ。
例えば、その音色によって対象を瞬間移動させる笛型のアステリアルがあるとか。
「うーん、思い当たるモノが無いでもないな。とりあえずこれは有益な情報だぞロイ。ロックのところに持ち帰ろう」
「だな。ここに来たのも無駄じゃなかった。……エリン、そろそろ」
アステリアルも絡むとなると、どうしてもちらつくのは闇の月。
緊張感は尚更持っておいた方が良いし、場合によっては長居するのもこの家の人たちにとってリスクが高い。
俺はお婆さんと楽しげに話す――この様子だと話す内容は世間話に移行しそうだ――エリンの肩を叩く。
「ありゃ、もう良いの? ありがとうお婆ちゃん! 頑張ってニコちゃんを探してみますね!」
お婆さんに手を振って、俺たちは家主の女性の元へと戻る。
現場検証と言うにはお粗末な訪問を終えることと、お礼を告げた。
「ニコは見つかるんでしょうか。あの子も我が子と同じように大切な家族なんです……」
「俺たちができる方法で頑張って探してみます」
不安げな女性に、俺はありきたりな返答をする。不用意なことを言って不安を増長させてしまうかもしれないし、今はそれくらいしか返す言葉がない。
「お願いします。ニコは首輪だってしていなかったし、騎士団の方も煙のように消えたとしか考えられないと言っていて……でも、そんなことありえないじゃないですか。あの子は一度たりともこの家から逃げようなんてしたことはない。……もしかしたらあのお婆さんが独り身の不安を紛らわすために……」
いなくなって不安なのは人もペットも変わらない。
そして正体不明の、当てどころのない不安は疑心に変わる。
零れた、ほぼ無意識かもしれないその言葉は俺の耳に届いてしまった。
「大丈夫ですよ、私たちに任せてください!」
エリンには聞こえたのかそうでないのか。
いつものように明るく励ますように言って、どんと胸を張ったのだった。




