第1話:いつもどおりの日常に
終わった。
初っ端から何を不吉なことをと言われそうだが、この‘終わり’は俺にとって大方良い意味だと言っていいはずである。というか、なっていて欲しい。
希望的観測。
将来への希望。
昨日、俺はその希望を得るための大きな壁、つまり‘封魔師認定試験’を乗り越えてきたのだった。
俺たちの住むカノン王国中、いや今や世界中に蔓延る、誰の心から生まれたかも分からない‘魔物’や、自分の心の闇に飲まれて人間離れした存在になってしまった‘魔徒’を退治する封魔師として、国に正式に認められるために、昨日は一日中死ぬ思いだったのだ。筆記、実技、口頭試験……。二十歳を超えた大人が多い試験場の中で、若干十七歳の俺―ロイ・シュトラールはちょっとした孤立感とも戦いつつ、それらをこなした。どれも厳しい戦いだったが、ようやく乗り越えた。試験を終えられた達成感のおかげか、いつどうやって帰って寝床についたのか全く覚えていない。
昨日のことを徐々に思い出しながら、被っていた布団からもぞもぞと顔を覗かせる。この部屋は俺の寝室として封魔師ギルド‘オレンジショット’の一室を使わせてもらっているものなのだが、これがなかなか居心地が良い。木の机とベッド、そしてクローゼット。広すぎず狭すぎず、温かみのあるこの部屋に、見なくても外は快晴であろうことが分かるくらい、窓から朝日が差し込んでいた。そんな気持ちよさそうな太陽の光に当たるように大きく伸びをしてから、俺が寝ているベッドのすぐそばの机の上にある時計に視線を移す。
朝の十時。いつもならこの三時間前には綺麗さっぱり目が覚めているのに、だいぶ寝てしまったようだ。まぁ、でも今日は休日だし、このくらいの時間に起きても問題は無い……はずだ。
「合格……できてると良いんだけどな……」
正直なところ、自信はあった。剣技は封魔師になろうとする前から積み重ねていた―これは自衛のためだと親代わりに育ててくれたロックから半ば無理やり教えられた―し、封魔師になるために最低限必要な星心術を使える体質でもあった。それになにより、周りにはロックを始めとしていろいろな大人―主に専門家が指導をしてくれた。環境は整いすぎるほど整っていたし、俺自身もそれに応えたいという一心で四年前から必死にやって来たし、試験に臨んだ。学校のテストではほぼやらない見直しを何回もしたし、実技では自分の精一杯の実力を試験管に見せつけた。口頭試験だって、俺の正直な気持ちを、嘘偽りなく話したつもりだ。
だからこそ、不安なため息がひとりでに漏れる。もし不合格だったら、なんて過ぎてしまったことを考えても仕方の無いことは分かっているのだ。それでも、絶対なんてありえないから不安は消えない。
「ふう、考えてもしょうがないか。腹も減ったし」
消えない不安を消そうと、とにかく動くことにした。クローゼットから取り出した愛用の白いジャンパーを羽織って、ジーンズを履く。クローゼットの扉越しの鏡にはボサボサの金髪男―つまり俺が映っている。
―封魔師になる。
鏡に向かって自分に問いただせば、前に進めそうな気がする。同じギルドで、付き合いの長いお気楽少女エリンが教えてくれたことだ。あいつもたまには良いことを言う。落ちたらその時考えればいい。とにかく今はできることをやれば良い。あのポジティブシンキングならきっとそう言うだろう。
―封魔師になる。
―封魔師になって、二度と四年前のような思いをしない、させないために。誰も、苦しみ続けることがないように。
笑顔が、取り戻せるように。
この気持ちがあれば、何度だって立ち上がれる気がした。
「っと、あれ……?」
気持ちを切り替えて、いざ下に降りようと思った矢先、なんだかいつもと違う朝を迎えたことに今さらながら気が付く。そういえば、毎朝決まった時間に起こしに来てくれる‘あいつ’が、今日は来なかった。朝六時ごろに容赦なく起こされるのは、試験当日の昨日の朝ですら例外ではなかったのに。
「もしかして今日はサービスしてくれたのかな?あいつらしくないけど」
そんなことを思いつつ今度こそ、下にいるであろう人たちに、少し遅い‘おはよう’を言うために部屋を出た。
「おそよう、ロイ君。朝食はそこに置いてあるパンと、鍋の中にスープが残っているからそれでお願いね。お皿は流しに置いておいてくれれば良いから。あー、あとできれば早めに食べ終えて手伝って欲しいかなーなんてね!」
階段を下りて最初に耳にしたのは、がやがやと騒がしい部屋の中でも通るはっきりした、そしてどこか和やかな女性の声であり、忙しそうな朝の挨拶だった。同時に、寝起きの俺の鼻孔と空きっ腹を刺激するのは甘い香りと香ばしい匂い。声と匂いの元には、右手で野菜炒めに火が入るようにしっかりとフライパンを操り、左手ではデザートだろうか、生クリームをとぐろ状に盛り付けるギルド・オレンジショットのギルドマスター、ビアンカ・オレンジショットその人がいた。 金と茶色の間のような色の髪を、今日は後ろで馬の尻尾のように結んでいて、いつも通り眼鏡をかけたビアンカさんは、今まさしく両手のふさがった忙しい状況だった。しかも両方とも手元が狂うことなく正確にこなしているあたり、さすがビアンカさんと感心せざるを得なかった。
このギルドの一階は飲食店になっている。本来、主なギルドの仕事は、封魔師がやるべき、「魔物の討伐」、「アステリアルの保護」などに関する仕事を封魔師に紹介し、依頼人と封魔師の仲介役をするものだ。ギルドを営業しているのがビアンカさんやロックなどの封魔師ということもあって、このギルドでは彼ら自身に対する依頼も受けているというのが例外ではあるのだが、基本的にそういう仕事が本業なのだ。居候の身である俺自身、そういった仕事に少なからず関わってきたから間違いないのである。
あるはずなのだが、古い宿泊施設をそのまま譲り受けたこの建物を有効利用しようというビアンカさんの提案で始めたこのレストランの方で得る収益の方が、本業のギルド得るものより大きいという逆転現象が起きている。俺が借りている部屋も宿泊施設だった時の名残だ。
そんなこんなで今日は朝っぱらから大盛況だった。いや、それにしても数が多すぎる気がする。客層を見る限り、帯びている雰囲気とか、目つきが‘普通の人’のそれではなかったけれど。
「もー!遅い!九時くらいまでは我慢してあげようかなと思ったけど十時って!遅い遅い、おそようだよ!!」
そんなことを思っていると、ビアンカさんの隣でぎゃーぎゃーと喚きながら超スピードで洗い物をしている女の子―エリンと目が合った。長い髪が邪魔にならないように巻いてあるのだろう赤いバンダナと、そこから見える栗色の髪の毛には、うっすらと汗が滲んでいる。エリンもまた、ある事情から、このギルドで手伝いという形で働いているのだ。
「お、おはようございます。エリン、おはよう。えーっと……なんでこんなに混んでんだ?」
ビアンカさんはさっきまで盛り付けていたデザートが完成したのか、それを両手に持って、風のように俺の横を通り過ぎてお客さんに営業スマイル全開で出していた。仕方ないのでこの混み具合の理由をエリンに訊いてみる。
「んー、なんかね、昨日ロイが試験を受けているとき、街の外でけっこう大きめな魔物が現れたらしいの。それをみんなで退治しようってなって。ここで仕事をもらってる封魔師がほぼ全員集まってね。夜通し頑張ってたみたいで、みんな夜ご飯も食べずに寝ちゃったんだって。で、みんなが起きてごはんを食べ始めたのが今さっきって感じ!ふふ、オジさんも眠そうな顔しながらガツガツ食べてまたどこかに出かけて行ったよ」
「ふぅん、そういうことか……」
エリンは洗い物の手を止めずに、なぜだか楽しそうに説明をしてくれた。きっとこれは今の明るい雰囲気を楽しんでいるからだろうと予想をつける。エリンはこういう、宴会だったりとかみんなで楽しく食事をしたりだとか、とにかく楽しくて明るい場所にいるだけで自分もご機嫌になれるという、なんというかお気楽な性格なのだ。
良く言ってポジティブ。悪く言って単純。
バカにしているようだが、そんなエリンを少しうらやましく思うこともあったりなかったり。
それにしても、大きな魔物か。俺が昨日頑張っている間、みんなも頑張っていたということか。俺ももう少し早く資格を取っていたらその場に行くことになっていたんだろうか。と、そんなことを考えかけて、ロック―エリンの言うところの‘オジさん’なら、「実地訓練だ!」とか言って俺を駆り出していそうだとも思った。実際の所、何度かそういうことはあったし、そういうことがあったからこそ、今の俺の実力があることは確かなのだ。それに、資格がないからといって魔物と戦ってはいけないという法律は無い。じゃあなぜ認定試験を受けに行ったのかと問われれば、それは―。
約束というか
契約というか。
まぁ、そんなところだ。
「……誰か亡くなったりは、してないよな?」
あまり聞きたくはなかったが、まぁこのエリンの様子から大丈夫だろうと判断して聞いてみた。人間以上の力を持った、異形の存在と戦う職業だから、犠牲はどうしたって出てしまう。ギルドに出入りする封魔師で、知り合い程度の認識の間柄でも、魔物と戦って死んでしまって、もう次の日から一生その人の顔を見ることはなくなる。そんな経験を少なからずしてきた俺には、いやエリンもそうだが、どうしたって悩みの一つにはなる。
「うん、大丈夫。けが人はでたけどね。みんなそれなりに元気だよ。……っと、早くご飯食べて手伝ってよ!ほら、早く早く!」
そしてエリンは逆に言えば、暗い話題とか、暗い雰囲気は嫌いなのだ。リアルな話になりかけた話題を無理やり逸らして、俺に手伝うように急かす。
「分かった分かった!すぐ手伝うって!」
確かに、こんな忙しい時にする話ではなかったのかもしれないと後悔しながら、俺はパンの乗った皿が置いてある空きテーブルに向かった。とにかく腹ごしらえをしなくては。
「ロイ!」
「ん?」
パンに手を伸ばして、口に頬張ろうとしたところでエリンに後ろから声をかけられる。
「試験、お疲れさま!受かっていると良いね。」
皿洗いを終えて、盛り付け作業に入っていたエリンが、一度手を止めて、笑顔でそんなことを言った。
なんだか、去年の今頃もこんな感じの場面を見たような気がする。あの時は立場が逆だったか。俺と同じように、エリンも’療心師’として公認してもらうために勉強して、試験を受けて、合格したのだった。
封魔師には三つの種類があって、国の下で主に‘国防’のために魔と戦う国家封魔師、ギルドなどのより民間に近い形で職業として魔を退治する封魔師第二種(これが一般的に封魔師と呼ばれている)、そして星心術や言葉などによって心を闇に堕としてしまった人たちの心を癒す封魔師第三種、一般的に療心師と呼ばれるものが存在する。
エリンは俺が封魔師を目指し始めたのと時を同じくして、中等学校、高等学校に通う傍ら、療心師の資格を得るために勉強を始めたのだ。なぜそんな大変なことを、と理由を何度か聞いてみたけれど、その度にはぐらかされてしまった。それだけ聞いても教えてくれないなら言いにくいことなのかもしれないと、それ以上は聞かなかった。
それは、まぁ、お互い様だから。
なんだかんだで俺とエリンは、ロックの昔の知り合いが開いている‘訓練所’で星心術や武術、魔に関する知識や技術などを一緒に学んだ長い付き合いの、兄弟みたいな存在だった。
療心師は国家封魔師や一般の封魔師より認定の条件が少なく(主に戦闘方面に関して)、エリンの知識や技術の吸収が速かったこともあって、俺より一年早く、つまり去年のこの時期に認定試験を受けたのだ。合格した後、同じく療心師の資格を持っているビアンカさんのサポートを受けて仕事をさせてもらったこともあるらしい。
一年早く受けられて羨ましいと思いながら、今のエリンのように労いの言葉をかけていたのが懐かしい。逆に今は俺がそんな言葉をかけられていることに気が付いて、自分も認定試験を受け終えたんだという実感がようやく追いついてきた。
「あぁ、そうだな……!」
これで不合格だったら顔を合わせられないなと思いつつ、早く仕事を手伝うためにエリンに短く答えてから、もはや朝食なんだか昼食なんだか分からないパンに噛り付いた。
忙しくお店を手伝っていたらいつの間にか時間は昼の十二時を回っていた。客も減り始めて、ビアンカさんから俺とエリンに向けて休憩の許可が出たから、一息つこうと思った矢先のことだった。
「よし、ロイ、急いで支度していかなくちゃね!待たせるのも悪いし!」
程よく疲労した身体を休めていた俺に、エリンは急かすように声をかける。見ると、濃い緑色のシャツに、サスペンダー付きの茶色いボーダー柄スカート、おまけに肩に鞄までかけて、完全にお出かけモードだった。
「ん?あれ?今日何か予定あったっけ?」
これからもうひと眠りでもしてやろうかと思った俺は、言いながら思いだそうとする。そもそも今日は何も予定がないという前提であんなに惰眠を貪っていたのだから、無いような気がするのだが……。
「むー、忘れてるなぁ?」
不機嫌そうなエリンの顔を見る限り、俺が一方的に忘れているだけなのかもしれない。
「すまん、なんか約束してたっけ?」
俺は素直に謝ってエリンに聞いた。言っていくうちにエリンと何か約束したような、もしかしたらしたかもしれないという気になってくる。
「もう、返事があやふやだったからまさかとは思ったけど…。昨日ロイが試験に行く前に約束したでしょ!今日は私とロイとトニーとリズでお昼ご飯食べに行こうって!お疲れさん会だよ!去年私にしてくれたみたいにさ!」
「……あっ、そういえばそうだったっけ」
言われて、ようやく思い出す。昨日、認定試験のためにギルドを出る前にエリンとそんな約束をしたのだった。その約束のおかげで、のしかかるプレッシャーがさらに重くなったような気がした感覚も合わせて思い出した。すっかり忘れていたのも、試験が終わったと同時に、そんなプレッシャーと一緒に約束のことも綺麗さっぱり流されてしまったからかもしれない。
「昨日のことなんだからそんな簡単に忘れないでよね~。んじゃ、さっそく行こう!先に外出てるからね!」
俺が思い出したのを確認するや否や、エリンはスキップしながら出口の方に向かって行ってしまった。行動が速いなーと思いつつ、自分の記憶力の無さにため息が漏れた。昨日は試験で、濃い一日を過ごしていたから、というのもあるが、それにしたって友だちとの約束を忘れてしまうだなんて……。
忘れなければいけないことは、忘れないくせに。
と、自責の念に駆られる前に、俺も出かける準備をすることにした。そうは言っても、場所はすぐ近くのファストフードの店だろうから、特に何か必要なものもないだろう。俺は二階から財布を取り出すために、座っていた椅子から腰を上げた。
休日だからだろうか、このヒマリアの街の中心である役所を縦断する大通りには色とりどりの車が行きかっていた。その大通りと一つ隣の道にあるギルドから出発した俺たちは、その車の多さにおっかなびっくりしながらも、大通り沿いにある一つの店にたどり着いた。俺が小さな頃は車なんて本当にお金を持っている人しか持てないというイメージが強かったのに、今ではこんなに多くの人が持っているのかと時の流れの速さを驚く老人のような感想を持ちながら店に入った。
店に入って少し中を見渡すと、窓際の席に二人、俺とエリンを待っているであろう男女の姿が目に入った。
「トニー、リズ、お待たせ!」
エリンの声に、茶色の髪を短く刈りそろえた男の方、トニーがストローを咥えながらこちらを振り返る。エリンと同じような栗色の髪をショートにまとめた女の子の方、リズも気付いて、薄く微笑みながら手を振った。
「よっ、エリン、ロイ。なんだ、ちょっと遅かったな。店の手伝いでもしてたのか?」
トニーがカップに入ったジュースをストローで吸ってから言った。だいぶ中身を飲み干した後らしく、ズズッという音が鳴った。
「そんなとこ。ついでにあんたらが少しでも長くイチャイチャできるようにしてあげたのよ」
「ちょ、ちょっとエリン!」
エリンが意地悪く笑って、リズがそれに顔を真っ赤にしながら両手をぶんぶん振って反論する。トニーはトニーで少し気まずそうな顔をしながら目を反らした。そんな二人の様子を見て、エリンは豪快に笑い声をあげる。毎回やって飽きないなーと思いつつ自分の口元も微妙に上がっていることに気が付く。
トニーとリズ。二人は一年、いやほぼ二年前から所謂カップルという関係だ。中等学校から俺とエリン、トニーは友だち同士。高等学校に上がってから何の縁か同じクラスになった俺たち三人は、そこでリズと出会った。物静かに、いつも窓際で難しそうな本を読んでいそうな生徒というのが、俺の彼女の第一印象。トニーもそんな印象なのだろうなと思ったが、実際はまったく違っていた。高等学校に入学してから二日目の朝、トニーはクラスの目も気にせずいきなり、まったく面識のなかったリズに告白をしたのだった。「お前、可愛いな。俺と付き合ってくれないか」だったか。一目惚れだったらしい。よく覚えていないのだけれど、そんな電撃的な告白をしていたような気がする。ただ、教室中が騒然とし たのと、エリンが真っ先に口笛を吹いて冷やかしたことだけははっきりと覚えている。
リズはそれに何と答えたかといえば、今現在の状況を見れば分かると思う。トニーの告白に押し負けたのか、それともリズもトニーに一目惚れだったのか分からないが、とにかくリズは告白を引き受けてカップルが成立したわけだった。トニーと友だちだったということもあり、俺とエリン、リズはすぐに仲良くなった。同じボードゲームが好きだったりとか、四人のテンションの差のバランスが良かったり(エリンやトニーがふざけたら俺やリズがツッコむなど)というのもその要因だろう。
そんなこんなで俺たち四人は高等学校二年の終わりの今まで、所謂‘仲良しグループ’として行動を共にしてきたのだった。
エリンが二人をからかうのもそんな日常の風景の一つだった。二人が毎回のように照れるのも見慣れているにも関わらず、自然と笑みがこぼれてしまう。
「ま、まぁとにかく座れよ。去年はエリンだったけど、今日の主役はロイだろ!ほら、トニー様が何でも奢ってやるからなんか食えよ!」
トニーは照れ隠しのようにそう言って、俺を自分の隣に座らせる。
言われた通り、今回の主役はどうやらこの三人の中では僭越ながら俺のようだった。ギルドを出る前にエリンが言ったように、封魔師認定試験を終えた俺を労うための会らしい。と言っても場所はどこにでもある普通のファストフード店。学校帰りに寄る店と変わらない……などと贅沢を言うつもりもなかった。
実際、試験が近くなるにつれて、緊張のせいかどうしても俺の精神は不安定になったし、エリンたちとの会話も少なくなっていった。昨日ようやくその緊張の糸も切れ、こうやって四人で集まって食事を囲む雰囲気は本当に懐かしく、嬉しく感じられたから。
「ありがとう。受かるかどうかは分からないけどな。なんとかやりきって来たよ」
無意識に感謝の言葉を口に出した後、三人の顔を見回すと、エリンが満足そうに頷きながら俺の顔を見返していた。他の二人もそんな感じだったので、俺は少し恥ずかしくなりながら、メニューに目を通す。
「むふふー、ようやく終わったねぇ!もう今日はここで一日中おしゃべりを満喫するしかない!!」
「そうだな!これ、持ってきたし、久々に四人でやろうぜ!」
トニーは鞄から長方形の物体を取り出す。久しぶりに目にしたから何なのか判別するのに少し時間がかかったけれど、それは四人でいつもやっていたカードゲームだった。
「もう、二人とも、そんなことしたらお店の迷惑になっちゃうでしょ」
「注文し続ければ迷惑にならねーよ!夕飯も一緒に食っちまおうぜ」
「ぎゃー、破産しちゃう~!」
四人の笑い声が重なる。去年の秋ごろから筆記試験やら口頭試験やらの準備に追われていた俺にとって、本当に懐かしく思えるような、そんな声だった。
「でもよ、ロイ。お前何で封魔師になろうと思ったんだよ。危ねぇ仕事だし、他のでも良かっただろ。ほら、お前写真撮るの好きじゃん。写真家とかでも良かったんじゃないか?」
注文したハンバーガーやポテトを一通り食べ終えてから、トニーがそんなことを切り出した。
「んー、それは、約束みたいなものかな」
「約束?」
特に迷いなく答えた俺に、トニーの代わりにリズが訊き返す。
「そう、約束。主にロックとの、かな」
「おぉ、ロックさんとの!なんだよ気になるなぁ!男と男の約束みたいな?!」
ロックの名前を出すと、トニーがさっきの倍以上に食いついてきた。たまにギルドのレストランに食事をしに来るトニーは、いつの間にかロックとも知り合いになっていたらしく、いろいろと話していくうちにその人間性に惹かれたとか惹かれていないとか。あのテキトーなオヤジのどこがと悪態を心の中でついておくがそれはともかくとして。
ロックとの約束。男と男の約束というのは、半分正解で半分不正解だ。
確かにトニーの言う通り、俺は写真を撮るのが好きで、暇なときはふらりと出かけて風景だったり街や人の様子だったりをカメラで撮っていたくらいだ。写真家になるという選択肢もなかったわけではない。むしろそれに熱中していた時期も多かったわけだから、将来なりたい職業は何かと聞かれた時、真っ先に写真家だと答えただろう。
あんなことが起きるまでは。
あの笑顔を見るまでは。あの泣き顔を見るまでは。
俺が封魔師を本格的に目指すようになった‘あの事件’が、俺をここまで導いたと言っても良い。
思考がそこまでたどり着いて、俺はあの事件のことを思い出しそうになって軽く眩暈のような感覚に襲われる。あの経験が、俺の夢を具体的に示してくれたと言えば聞こえはいいけれど、それで傷つかなかったわけではないのだ。
「約束ってのは、交わした本人以外に言っちゃったら、守れないってよく言うでしょ、トニー。ロイとオジさんの秘密なんだよね~!」
「なんだよ、それ。聞いた事ねーぜ」
「今私が作ったの!」
エリンがわざとらしく、しばらく黙りこくってしまったらしい俺とトニーの間で言葉を投げかける。かなり無理のある助け船だったが、それでも不自然にならないくらいの間で話を繋げてくれたのはありがたかった。確かエリンは去年も、トニーから自分に向けられたこの質問から、同じような屁理屈で逃げ切ったのを思い出す。同じ手に引っかかったトニーは気を遣ったのかそれともただ単純に忘れていただけなのか……。とにかく、リズが心配そうに俺の方を見ていたような気がしたので、俺は話を逸らすためにも今度はトニーにも聞いてみることにした。
「まぁ、そういうことだよ。トニーはどうなんだ?将来の夢とか、決まったのか?」
時期は春休み直前。それが終わればこの四人は晴れて高等学校三年生。国からの義務教育からは既に外れているけれど、ロックとの約束で、俺が封魔師の資格を取ることができてもできなくても、またエリンが療心師として認められているからとはいえ、三年生になって卒業しなくてはならないのだ。ある程度将来の方向性が決まっている俺たちのような例外を除いて、トニー、それにリズも、将来就く仕事とか、夢とかを真剣に考えなければならない時期に差し掛かっていた。
「んー、俺はロイみたいに真剣に考えたことなんてねぇなー。やりたいことも、なりたいものも、今のところないしな」
「あんた……普段から何も考えてなさそうだなとは思ってたけど、まさかここまでとは思ってなかったわよ……。まーったく、ロイやリズを見習いなさいよ!」
「おうおう?それは俺をバカだと言いたいのか?」
「あれ、あっれあれ。私の心の声が聞こえちゃったかなぁ~?」
「え、いや、私は別にそんな……というか、やめなって二人とも……」
何気ない感じで言ったトニーに、エリンはげんなりした表情を浮かべて俺やリズを引き合いに出す。軽い挑発に乗ってしまったトニーとエリンのケンカが勃発してしまいそうだったが、いつも通りのいじり合いみたいなものなので、ツッコミはリズに任せることにした。
「まぁ確かに俺はバカかもしれねーけど?はっきりとした目標とか、将来の夢とか決まらないままただやみくもに学校に言われた通りに勉強勉強の毎日を送りたくないからな!だから俺は、そういうのが決まらない限りこれっぽっちも勉強はしないぜっていうかしたくないぜ」
「ん……ま、まぁ、確かにそうね?あれ、今日はやけに真面目なこと言うじゃない?」
どうやら俺と同じく、いつものノリでトニーをバカにする準備を始めていたらしいエリンが、肩透かしを食らったように言った。実際、俺もトニーがらしくなくまともなことを言うので少し驚いた。
「なんだよー、俺が真面目なこと言っちゃダメか?」
「悪くないけどつまんない!あんたが面白いこと言わなくなったらただのバカになっちゃうじゃない!」
「はー!キレそー!さっきからバカバカ言いやがって!」
「お前ら……」
今度こそ罵倒合戦が始まってしまい、俺はため息をついてリズの方を向く。一回フェイントを食らったせいか、俺はツッコむ気にもなれず、リズに助けを求めようとしたのだ。
「……」
俺の目に映ったリズの顔は、なんというか、とても悲しそうだった。さすがに自分の恋人をあれだけ罵倒されて気分を悪くしたのかもしれない。
リズはこの四人の中でずば抜けて勉強ができて、確か将来は、 王下十三局のどこかに入って、そこの局員になると言っていたのを覚えている。恋人のトニーとは正反対で、はっきりとした将来像を持っていて、頭が良くて、気づかいのできる優等生なのだけれど、けっこう繊細なところがある。エリンもその辺は分かっているはずだから気遣って、加減をして欲しいものだった。あとで注意しておこう。
そんな能天気なことを思いながら、俺はまだいがみ合っている二人をやんわりと静めて話題を変えた。そこから先は、とりとめもない、世間話を延々と続けていた。その間にも、リズの顔にはさっきの表情が消えずに張り付いていた。俺の見間違いかもしれないけれど、それが少しだけ気掛かりだった。
ヒマリアの街をオレンジ色に染める夕暮れ時。
昼間はあんなに車通りが多くて、彼と「危ないね」と言いながら歩いていた道も、今は人っ子一人歩いていない。一人になりたくて、わざと人やモノが少ない道を選んだのだから、その少女にとっては当然だった。
少女は一人、小さな歩幅でとぼとぼと歩いていた。
彼女自身に、‘自分の足で立って歩いていた’という自覚は、この時にはなかった。
いや、今までも、そんな自覚を持てたことなんて、記憶には無かった。
いつだって、誰かの言いなりになって歩いていた。そこに彼女の意志が入る隙はほんの少しでも無く、歩かされていただけだった。
いつからだろうか。父親が亡くなった頃からだろうか。それとももっと前からだろうか。
自分の道を失くしてしまったのは、いつからだろうか。
母親の期待が重くなった。
先生の賞賛が鬱陶しかった。
友だちの夢が妬ましかった。
あの子の強さが憎らしかった。
彼の能天気さが―許せなかった。
やり直そうかとも考えた。自分の力なら、それができるだろうと、彼女は確信していた。
でも、もうそんな力は残っていなかった。
正確には、その余力すら、彼女の中から淀みなく溢れる感情が、飲み込んでしまっていた。
誰かの敷いたレールの上ですら、もう進むことはできない。
もう、進みたくない。
もう、頑張る理由が見当たらない。
もう、疲れてしまった。
もう、どうしようもなく気づいてしまったから。
これ以上進んだところで彼女の求めるものは何一つとして手に入らない。
そもそも、自分の望むものすら何なのか分からない彼女にとって、それは堂々巡りの円環地獄。
いっそのこと、このまま飲まれたい。
どうにでもなってくれれば、良い。
「やァ、お嬢さん。元気がないね。何か辛いことでもあったのかな?」
いつの間にか下を向いていた彼女は、目の前に立っていた長身の男に気がつかずにぶつかってしまう。謝って、そのまま通り過ぎようとした彼女の耳に、心地よいテノールの声色が響く。
顔を上げると、全身真っ黒な衣服を身に纏った男が、突然そこから現れた風に立っていた。真っ黒な靴、真っ黒なズボン、真っ黒なフード付きの丈の長い外套。目元の見えないフードから、真っ白な歯を見せながら笑みを浮かべている。
ぼんやりと、怪しい人に声をかけられてしまったと思い、彼女は足早に男から逃げるように離れようとする。
「―!」
離れることができなかった。男の首からかかっている‘紅い月型のペンダント’を目にしてしまって、動けなくなってしまった。それが喚起する感情は、恐怖。
紅い月のペンダント。ルナ教徒の信仰の証。二十年前。エデーナ戦線。禁教。恐れられている魔の教え。根源的悪心論。狂信者。魔。魔徒。
様々な知識が、学校で教えられて、何が何でも覚えさせられた‘それ’に関する知識が頭の中を回る。頭で回った知識が、恐怖になって心を締め付ける。
ルナ教徒に近づいてはいけない。子どもの頃から散々教えられてきている、法律みたいな警告の言葉。
「お嬢さん。僕は悲しいな。宗教で人を差別してはいけないって、学校で習わなかったのかい。ルナ教は例外だって?良いよね、多数派のステラ教はそうやって、自分たちが言ったことに平然と嘘を吐けるのだから。まぁ、良いさ。今はキミの話さ、お嬢さん。孤独で我慢強いお嬢さん」
少女の耳に男の言葉は半分も届いていなかった。無条件に沸き起こる恐怖が、彼女を支配していた。心臓の音が、聞いた事のないくらい早くなって、とてもうるさかった。
「怖がらせてしまったかな。世間は僕らを怖く思わせすぎだよね。僕らのあり方こそ、人間の本当の姿なのに。良いんだよお嬢さん。存分に怖がりなさい。そして存分に、家族を友だちを恋人を世界を恨んで鬱陶しがって憎んで怒って憎しんで良いんだ。それで良いんだ」
男の平坦な言葉の数々が、少女の耳に、心に沁み渡っていく。恐怖の代わりに安心感が、安心感から色とりどりの黒い感情が、彼女を弄って、変えていく。
「私は―」
彼女の口から掠れ声が漏れる。
「キミは―」
男の口からは変わらずテノールの音。彼女にとって、それはとても、とても甘いものだった。どこでも聞いた事が無くて、確かにどこかで聞いた事のある、そんな声。
それは今まで経験したことのないくらいに心地よくて軽やかな感覚で―
「解放される」
その右手に握った石は、すべてを失うことができて、何でも手に入れることができる。そんな確信みたいな錯覚を、錯覚みたいな確信を彼女に抱かせたのだった。
彼女の背後では、まだ太陽が出ている時間にもかかわらず、一足先に現れた月が、静かに嗤っていた。