第4話:置き去りピエロ
「雷鳴一閃!」
「紅蓮爪牙ッ」
足をついた振動でテーブルの上に乗っていた食べかけの料理が無残に床に落ちていくのを申し訳なく思いつつも、アステルの刃を構える男に白く力が迸る切っ先を向ける。
アレスはテーブルもカウンターもお構いなしに駆けあがって、俺とは反対方向から赤の斬撃で、黒い影を挟むように迫る。
「魔物だったらそれで倒せていたかもねぇ」
斬りかかる刹那、そんな呑気な声とともに空気が揺れる感覚がした。
次に来たのは腕にかかった、磁石に反発されるような重力と、眩い青白い光。その背後には燃えるナイフを両手に持ちつつ、つい一瞬前までとは逆方向に吹き飛ばされているアレスの姿があった。
「こんのやろォ!」
木材と陶器が割れる激しい音に、アレスの悪態が飲まれる。向けられているのは男の大きな、まだアステルの奔流を仄かに残す左手。
どうやら俺たちの挟撃は左右の手で同時にやり過ごされてしまったようだった。
「小賢しいことはしない方が良い」
合わせた鉄とアステルの刃の向こう側で、男は笑みを含めたように言う。
‘雷鳴’に伝わる青白い光の刃の低い振動音が耳についた。
「くっ!」
それを払うように俺は無理やり剣身を押し返そうとする。
ふわっと身体が浮いたような感覚の次に襲ったのは、首元にナイフを突きつけられたような鋭い殺気。
俺は身体が反応するままに、次々に襲い掛かる光刃を‘雷鳴’で受け切っていた。
「反応速度は、なかなかの、ものだね!」
ガンガンと振るわれる、腕が痺れるほどの斬撃を受けつつ、男の背後でアレスがその両手に炎を掲げているのが見えた。
「閃火弾!」
何度目かになる斬撃は来なかった。ぼうっという発火音が、振り上がった男の右手を止めていた。
「……!」
背後から火弾を直撃させられたらしいその身体は、まるで後ろから真っ赤な獣の手に捕まれたかのように、あっという間に炎に包まれていく。
「雷鳴―」
声も挙げずに炎を振り払おうともがく男に、俺は再び雷を帯びた白い刃を構える。
「― 一閃……!」
横真一文字に振るって、肉を断った確かな手ごたえ。
目の前にいるのは確かに人の形をしているけれど魔徒なのだという事実を、喉の奥からせり上がってくる嫌なものと一緒に飲み込んで、一気に振り払う。
炎に焼かれ、電流に痙攣する身体を両手で抱くようにしながら、男は乗っていたテーブルから静かに落ちていく。何の抵抗もなく床に倒れ伏した男の身体は、バチバチと音を立てながら、よく分からない黒い塊になっていった。
「……」
「ヒャハ、楽勝だったな」
駆け寄るアレスはまだ両手に火の粉を残しながら、黒い粒子になって消えていく、男だったものを見下ろす。
「怪我してないか、その脇腹」
そのアレスの横顔から少し下に視線をずらすと、黒いシャツのちょうど脇腹の部分に赤黒いものがべっとりと付いているのが目に留まった。
「こりゃミートソースだよ。あのテーブルにぶん投げられたときについちまったんだ、もったいねェな、ヒャハ」
「あぁ……なら良かった」
軽く笑ってそう返すアレスに、胸の中に一気に上ってきた不安は短いため息になって出ていく。よく見ると他にもコーヒーか何かのシミのようなものが身体中についていた。
こんなものと傷を見間違えるなんて、思っているより今の一瞬の戦闘が俺の何かに思い負荷を与えているようだった。
心臓の音がやけに速く鳴って、収まらない。
「よし、早いとこあそこで寝てるやつを騎士団に放り投げて、ホテルに向かわねーとな。あっちでエリンが手こずってるだろうしよ」
「あ、あぁ……」
アレスの言葉に、俺は変わらずテーブルに突っ伏して眠っているカレンさんの方に向き直る。
そうだ、男の言っていることが正しければ、今頃エリンは魔物―おそらくカレンさんに生み出させたものだろう―と戦闘を始めているかもしれないのだから。
戦闘専門ではないあいつに、あまり長く前線に立って欲しくはない。
ボロボロになった店内の中でドアを確認して、俺はカレンさんのテーブルに一歩踏み出そうとした。
―‘揺らぎ揺蕩う亜空の神よ。還元の輪の中にその手を投じ、異と偽の蓋然率を顕現させよ’―
不意に聞こえた、聞いたことのない詠唱は、のんびりとしていて優雅なものだった。それが最後まで言い切られるまで、俺とアレスの思考は、足をもう一歩踏み出すことすらできないくらいに止められていたらしく、バカみたいに立ち止まっていた。
「―レ・ヴァイセ・シーク・レイ」
「……!」
術名を発したその声以外、何一つの音もなく現れた黒い男の姿を視界に捉えた瞬間、俺は本能が命じるままに真横に身体を飛ばしていた。
一秒も経たないうちに身体中に覆いかぶさったのは、大量の何かが空気を鋭く斬り裂く音と、食器が、テーブルが、壁が砕かれ削られ尽くされていくような轟音だった。
「な、何が起きてやがるッ?!」
アレスの絶叫に俺は振り返る。どうやら無事のようだと安心したのもつかの間、さっきまでもすでにボロボロだった店内が、さらに廃墟のように変貌していることに言葉が継げずにいた。
客が座るべき椅子やテーブルが並べられていたホールと、料理を作るためのキッチンとの間にあったはずの壁はすでに跡形も無くなっていて、それを突き破った一番奥のコンクリート製の壁には、なぜか木製の矢が束のように突き刺さっていた。
「この椅子やテーブルの元になった木材は、違う未来では矢の原料になっていたかもしれない。そんなあり得る未来も、この術は見せてくれるんだ」
受け止めきれないような現実から俺の意識を引き戻したのは、黒いフードを被った男の声。全くの無傷で、その手に軽々と椅子を持ちながら、カレンさんの眠るテーブルの前に悠然と立っていた。
あれだけの傷を負わせて、消滅した瞬間を確かにこの目で確認したのに何事もなかったかのように立っていることもそうだけれど、それ以上に信じられなかったのはこの男が発動させたらしい星心術だった。
感じたのは、今までにないアステルの気配。
明らかに間違ったことが、さも当然のごとくまかり通ってしまったかのような不快感。
「時空属性……禁忌属性の星心術じゃねーかよ」
アレスの呻き声にも似た言葉に、俺は確信する。
大量に串刺しにされたこの矢は、男が持っている椅子が変質したもの。
完全に理解したわけではないけれど、そんな芸当ができるのは星心術の属性の中でも禁忌と言われる、闇系上位星心術―その中の時空属性と呼ばれる種類のものしかなかった。
そんな自然の摂理に反する術の存在は今や知られていないし、知っていても使える技量を持ち合わせている術者はまずいない。
できるとしたら‘英雄’と呼ばれた強力な星心術師が名を轟かせていた四百年前に生きていた人間か、それこそもっと前の人類だろう。
そんな桁違いなことを目の前の男がやったということなのか。
「……ロイ。おめーは先にホテルに向かってろ」
「どういうことだよ」
「そのままだっつーの。さすがにこのレベルの魔徒はハズレだ。オレらじゃどーにもならねーだろ。すぐに騎士団のやつらが来るだろーから、オレはそいつらを壁にでも何でもしてやり過ごす。あの女を連れて後から追いつくから、お前はエリンのところに行ってやれ」
アレスの声はいつになく真剣で、揺れているようにも聞こえた。
幸い俺には軽い切り傷以外の損傷は無いし、余力は残っている。
損傷と言えば、この圧倒的な力の差にショックを受けているくらいで、だからこそアレスのその言葉に迷う必要はなかった。
迷う時間すら惜しいくらいに、今はあいつの顔が頭の中にちらつく。
「分かった……必ず来てくれ」
「あったりまえだろォ? オレ様を誰だと思ってやがる。天下のアレス様だ……ぜッ!!」
アレスは調子良く言って、倒れていた身体を勢いよく飛び起こさせる。
手にはすでに赤い火を纏わせたナイフが二振り。
「さっきの大技。もう一回見せてあげたかったけど……さすがに僕の負担も大きい」
動きを見せたアレスに反応するように、男は持っていた椅子を放り投げてから両手を振るう。
出てきたのは再び青白い光刃。
「雷火飛散!!」
アレスに飛び掛かろうとする男に、俺は走りながら白く暴発しそうな剣身を向ける。
俺の視線は伏せているカレンさんのさらに奥、今までの衝撃にも割れないでいる窓だった。外からは明滅する赤い光と、何人かのざわめき声がわずかに聞こえた。
「……!」
雷衣を纏いながら、切っ先を男に向けたまま、テーブルの淵に足をかける。同時に、‘雷鳴’に溜め込まれた雷撃を一気に放出した。
空気を震わす破裂音で耳を劈き、明滅して消えかかっている照明に強烈な明かりを追加する、花火のような光が背後で炸裂したのを感じて、俺は一気に窓に飛び込む。
―――。
一瞬だけ、俺は横目で通り過ぎていくカレンさんを視界に入れる。
身体に纏っていた黒い煙のような邪気は、さっきより色を濃くしたようにも見えた。
劇場を出て行ってしまったことと、陥魔しかかっている今のこの状況は、やはり何か関係があるのだろう。
経緯はどうであれ、カレンさん―宿主が目覚めないということは、つまり彼女の意識はかなりの割合で魔物の方に同化しかかっているということ。
「急げ……!」
バリバリと砕け散るガラスの音を振り払って、俺の身体は暗い地面に着地する。
二転三転する身体をなんとか止めて、俺は勢いを殺さずに起き上がる。
全身にのしかかってきた衝撃に視界がぐらぐらと揺れる。
「対処に当たっている封魔師と言うのはキミか?! 状況は?!」
「中にいる赤い髪の男が仲間の封魔師です! 今俺が出てきた窓際の席に一般人の女性が一人、彼女はすぐに保護を!」
間髪入れずに駆け寄ってきた黒い服の男たちに問い詰められるけれど、俺の口は反射的に対応していた。簡潔に必要な情報だけ伝えて、銃身を向けられていることなんてお構いなしに、俺はすぐに駆け出す。
魔徒が出たという話は瞬く間に広がったのだろう、店の周りを取り囲む黒い服の男たち―騎士団の従士たちと、頭の上で赤い光を点滅させる、彼らの乗る黒い車両以外に一人の人影も見えない。
「エリン……!」
辺りを見回して状況を確認してから、すっかり暗くなったピクターの街路を、俺は息を切らせながら走りだす。
そのうち後ろから怒号や銃声が聞こえたけれど、絶対に振り返ることはしなかった。
*****
粉々に砕け散った照明のガラス片と鉄の欠片が、そこら中に散らばっていた。チカチカと消えかかっている照明が、豪華な彩を与えていた紫色のカーペットが破け、煤けてしまっていることを辛そうに伝えている。
「ふぅ……思った以上にやりますね。と言うより、だんだんと強くなって……大きくなっている」
若干疲れの色が見える少女―ヒスイの声に、エリンは対峙している魔物を見る。
ピエロのような見た目をしたそれは、今や大人の男性ほどの高さにまで身長を伸ばしていた。その手には砕けた両刃剣―もうおもちゃとも言えない代物だ―、黒いドレスは所々焦げ破けて、中の白い陶器のようなものが見えている。
一方のヒスイは無傷ではあるけれど、星心術を連続して使用していたせいか、その表情にエリンと出会ったばかりの時のような余裕の笑みは引きつっているようにも見えた。
「それにしてもあの子、いったい何者……?」
緑色のうろこ状の光―ヒスイが発動させた防御用の星心術らしい―に包まれる少女の後姿を眺めながら、エリンの口からはそんな声が漏れる。
あれから時間を置き去りにしたまま続けられたような、この緑色の少女と魔物との戦闘は‘接戦’と言って良いものだと、エリンは感じた。
彼女の戦闘方面の師であるロックの‘制圧’とも呼べるようなものでも、自分やロイたちがやるような、辛うじて勝利をもぎ取るような‘苦戦’と呼ぶようなものでもない。
お互いがお互いを探り合って隙を喰らい付いていくような巧い戦い方のように、エリンの目には映ったのだった。
長年経験を積んだ、魔物と戦い慣れている封魔師でなければできないような戦闘。
けれど目の前にいるのは自分よりも明らかに年下の少女。
ちぐはぐとした違和感がエリンの胸をざわつかせた。
「―ラグナ・ファング」
ぽつりと落とされたヒスイの声に、エリンの目は自然とその背中を追う。右手に握られているのは、黒い持ち手に、先端には獣が大口を開けて、その牙で中心に据えられた緑の宝石を噛み砕こうとしているような意匠を施された金色の杖。
何度か聞いたその技名に、宝石が光を帯びて、槍の穂先ほどの長さにまで変形する。
「そろそろ、宿主の心に帰ってもらっても良いんですよ!」
ブゥンと空気を斬って、緑色の軌跡が、身をひるがえした人形のドレスを焦がす。
足をついた人形は、いつの間にか持ち替えていた両手の剣を、舞うように振るってヒスイとの距離を詰める。
金属とアステルのぶつかり合う、壊れた弦楽器のような音が、明滅する長い廊下に再び響き始めた。
「と、とりあえず見てるしかないかな……私が入っても邪魔しそうだし」
エリンはいつでも引き金を引けるように構えて、力を込めておく。これが一緒に戦い慣れているロイやロックであれば自分も戦闘に加われるものの、今回の場合は誤射する可能性も十分あり得る。
さっきからタイミングを伺ってはいるものの、全く隙を掴めずにいた。
「ラグナ・スピット!」
再び人形から離れたヒスイの叫びに、杖にあった槍の穂先が消え、代わりに宝石と同じ色の星心術陣が現れる。次の瞬間、火花のように不定形な光が人形に向かって飛んでいった。
対する人形は、ある物を避け、あるものを身体に掠らせながら、じりじりと詰めていた距離を離していく。
「……!」
劣勢に見える状況下でも、人形は右手に持つ刃を素早く投擲し、空いた手に紫色の炎を纏わせる。
緑の粒子たちが術主に向かう剣に集中砲火を浴びせている最中、ボールのように放たれた火の玉がその上を通り抜けていく。
「ヒスイちゃん!」
見ているだけに専念しようかと判断した矢先、叫び声とともに放たれたフォーマルハウトの水弾が、ヒスイの目前にまで迫っていた火球を打ち消していた。
もぬけの殻になっている客室のドアをガタガタと揺らす衝撃と、生ぬるい蒸気があたりに広がる。
「ちゃんと防御壁を張っていたので、あなたの行動は無駄とも言えますけど……まぁ、一応お礼を言わせてください。ありがとうございます」
「ちょっと生意気! だけど無事で良かった!」
ほぼ反射的に行った自分の行動に声を震わせながら、エリンは言葉を返す。同時に、人形の半分にされた笑顔が自分の方に向いた気がして、背中に寒気が走る。
ニコニコと笑みを見せる右半分。
目を瞑り、口を真一文字に閉じた左半分。
不釣り合いで何か象徴的なその顔を、エリンには自然発生的に生まれた魔物のものだとは思えなかった。
その見た目に加えて、普通の魔物には滅多にない、‘炎’という属性を持っている特徴があるということも引っかかった。属性を持つということは、この人形が負の感情の中でも、何か特定の単一の感情―例えば怒りとか―が集まって生まれたということの証拠。
ある程度のダメージを受けているはずだけれど、倒れることもなければ、何かの目的のためにこの場所から離脱することもなく、ただ淡々と自分たちと刃を合わせているように見える。
つまり今目の前にいるのは、理由も正体もわからない悪意の塊で、封魔師にとっては一番対処に困る恐怖の対象だった。
「何にせよ、早く倒さないとヤバいよね」
エリンは胸のざわつきを紛らわすように呟いて、今度はしっかりとフォーマルハウトの銃身をユラユラと揺れる人形に向ける。
何をしでかすか分からないからこそ、街には出さずに少なくともこのホテル内で処理しなければならない。そんな実感がじわじわと確かなものになっていって、エリンの手には自然と力が入る。
「ラグナ・スピット!」
「バッシャーバレット!」
二人の少女の叫びに、青と緑の光弾が雨のように、一斉に人形に降りかかっていった。
*****
「ロイさん、その怪我、大丈夫なんですか?」
「……あ、あぁ、うん。大丈夫、擦り傷だからどうってことないよ」
その可愛らしい声が自分を見上げている少女からかけられたのだということに、俺はかなり遅れて気がついてから返事をする。
その声は上がったままなかなか落ち着かない自分の息に飲まれそうなほど、小さなものだったかもしれない。
「そう、ですか。顔色はあまり良くないようですけど……」
自分なりに笑顔を浮かべて返したつもりだけど、あまり上手くいっていないことは少女―リーフェちゃんの反応でよく分かった。
正直なところ、今の俺に笑顔を作れるほどの心の余裕は残っていなかった。
見上げる視界の先、真っ暗な空にそびえるこの灰色のホテルの最上階に魔物が発生していて、そこに親友のエリンが残って戦っているというのだから。
最上階である六階の一つ下の階まで潜入した騎士団の従士の報告によると、エリンの他に、もう一人が魔物の対処に当たっているらしく、その戦闘はだんだんと激しさを増しているらしかった。
緑色の髪の毛を持つ、赤色の眼鏡をかけた少女。
こんな特徴を言われたら、思い浮かぶのは一人しかいなかった。
「何であの子が……というかやっぱり夢じゃなかったんだな……」
いろいろな疑問が浮かぶけれど、エリン一人だけが魔物を相手にしているわけではないということが分かっただけでも、少しだけ胸の重しが軽くなったような気がした。
「ロイ・シュトラール君。いきなりで悪いけれど、キミにこの中にいる魔物の退治―キミたちの言い方で言えば‘封魔’をやってもらいたい。ことは一刻を争う。被害を街に広げないためにも……お願いするよ」
「分かりました」
黒地に白く大きなボタンのついた制服に身を包んだ騎士団の従士に、俺は短く答える。
騎士団の方ではすでに諸々の事情を把握しているようだった。
このホテルと、さっきまで俺がいた喫茶店で同じような騒ぎが起こったから混乱して動けていないということも考えたのだけど、むしろ手際が良すぎるくらいに上手く動いてくれていた。
すでにホテルの客の避難は終えているようだし、近隣の住人にも逃げるように呼び掛けている最中らしい。
あとは一番の脅威である魔物を、封魔師が倒すだけ。
目の前の従士と必要最低限の情報を交換して、今からようやくホテルに突入するところだった。
「封魔師だってよ!」
「街の中で魔物だなんてな。俺も中に入って魔物退治見てみてぇ!」
「バカ言ってんじゃないよ!」
「あの子、ホテルで見かけたわよ。腰に剣引っ掛けてたから何者かと思ってたけど、封魔師だったなんて……」
「あんな子が魔物を? ちゃんと倒せんのか?」
一歩踏み出したところで、いろいろな声が背中と耳に降り注いできた。
避難を終えたと言っても、従士たちの指示を聞かずに残るやじ馬たちは何人かいるらしく、その人たちの声のようだった。
「……」
いつもはギルドの依頼として正式に仕事を受けて、一般の人の目のつかないところで魔物を倒しているから、こういう声を聞くのは珍しかった。ロックに付いて回っていた時は何度か似たような場面はあったけど、一人で仕事をするようになってからはまず無い経験だった。
ひしひしと感じるのは期待と不安。若干不安の声の方が大きく聞こえるのは、たぶん気のせいではない。
それでもやらなくちゃいけない。
封魔師として魔物を倒して、心を闇に堕としかけている宿主を助け出すため。
人間として、親友を助けるため。
「あ、あの……ロイさん」
決意を固めかけた俺の横から、小さな女性の声が届いた。
背後の喧騒の中でもはっきり聞こえるその透き通った声がアメリアさんのものだということに気づくのに、そこまで時間はかからなかった。
「どうしたんですか、アメリアさん」
「少しだけ、お時間よろしいでしょうか。急いでいらっしゃることは十分承知の上なのですが、お話したいことが……」
リーフェちゃんに手を引かれながら、アメリアさんは伏し目がちに言う。それから少しためらったように間を置いてから、今度は真っ直ぐに俺の方にその青い瞳を向ける。
やっぱり吸い込まれそうなほど綺麗な瞳だと、そんな場違いなことを一瞬思う。それからすぐにでも建物の方へと駆け出したい気持ちを抑えて、その瞳を捉え返して、俺は話を聞くことにした。
「実は、カレンのことで……」
中にいる魔物があの男によって、カレンさんの心から生み出されたものだとすれば、アメリアさんという存在は決して無関係のはずがない。特にはっきりとした根拠は無いけれど、この短い間で二人の様子を見ている俺には、そんな確信めいたものがあった。
だから俺は小さな唇から発せられるであろうその次の言葉に、周りの音を遮断して、全神経を集中することにしたのだった。
*****
―いつまでも私の人形でいてくれると思っていたのに。
私は深い闇の中でそんなことを思った。
目を開けても瞑っても、ただただ真っ暗で、炎に囲まれているように熱いこの場所で、私はひたすらあの子のことを考えていた。
なんだってあの子は、私の奥底から滾るこの熱い炎を消すような、綺麗な碧色をしているのだろう。
どうしてあの子は、私の汚れきった声を洗い流すような、透き通った声が出せるのだろう。
目が見える私より、どうして世界のすべてを、存在しえない英雄や人々の心を知っているかのように、完璧な演技ができるのだろう。
欠陥品の癖に、どうして私より何もかもが優れているのだろう。
それでいて、どうしてそんなに優しくなることができるのだろう。
最初は可愛い人形だった。
私がそばにいなければ何もできない、ただの人形。
街の歩き方も、食事の仕方も、演劇の知識も、細かいテクニックも他人との触れ合い方もその優しさも……全部私が教えてあげたのに。
すべてにおいて私を上回って、あなたは輝いた。
あなたが私の輝きのすべてを吸い込んでいくかのように、あなたは強く輝きすぎた。
その無垢な輝きで、私を焼き殺そうというの?
あなたは優しすぎるから、私の中に渦巻くこんなどす黒い渦を知らないのでしょうね。
どんな叱咤や責めよりも、あなたの優しさと強さと憐みが一番恐ろしい。
私はあなたをこんなにも憎んでいるのに。
たとえこの手で、この口でぶつけたとしても、笑って許してしまうあなたの顔が、私には見える。それくらいは想像できる。
もう何年あなたの横にいると思っているの?
どれくらい小さい時から、何も見えないあなたの手を引いていると思っているの?
いつか私の心が張り裂けて、全てをぶちまけてしまっても、あなたは笑って、今度は私の手を引いて、あの輝く舞台へと導くのだと思う。
あなたの強くて優しい光に、きっと私はボロボロになっている。
そんな状態であの輝きを身に受けたら、きっと私は全身を嫉妬の炎で焼いて死ぬ。
だからその前に。
あなたに死んでほしい。
―ねぇ、アメリア。
―これ以上私を苦しめないで。
半分くらい、私の意識は現実に戻ってきたようだった。
何かが頬に伝う感覚に、私は自分が涙を流していることに気が付く。
―‘それがキミを苦しめる心のすべてだね’―
優しく響くテノールの声に、無言でうなずく。
同時に意識が遠のいていって、身体の内と外に纏わりついていた嫌な熱さが、すうっと抜けていくのを感じる。
あぁ、私、死ぬのかな。
薄れていく意識の中でそう思った。
バラバラに、霧のように分散して小さくなっていく意識を眺めるのは、怖くもあったし心地よくもあった。
消えて、堕ちていく。
真っ暗な闇の中。
―置いて行かないで。
完全に私がいなくなるほんの一瞬前、そんな声が聞こえた気がした。
それが誰の声なのか、もう私には分からなかった。
「早く、逃げてください」
気がついた時には、目の前に茶色い髪の女の子が、見慣れない形の銃の先を自分に向けていた。
レストランで見た天真爛漫な可愛らしい表情とは真逆な、ひょっとしたら殺意すら感じるような鋭い目つきをしていた。
怖い。
そこから逸らすように視線を動かして目に入ったのは、怯えるように翳る碧い瞳。
「ア、アアアア……アアァァァァァァアアァァァ!!!!」
それがスイッチだったのかもしれない。
私の身体は再び熱くなった。
さっきまで苦しんでいた熱さが嘘のような焼け爛れるほどの灼熱。
そんな地獄のような感覚の中わずかに残ったのは、目の前に映るものすべてを憎みたくなるような猛烈な衝動と、燃え滾る紫色の焔。
透き通った碧色が、その中で消えそうになりながらも朧げに佇む光景だった。




