第3話:共闘
「カレンさん、泣いていました」
ホテルの一室。丸テーブルを囲んで、俺のちょうど真ん前に座る少女は、むくれた表情でそう切り出した。
「リーフェちゃん、ダフニーさんっていつもあんな感じなの? 厳しいっていうのはよく聞くんだけど……」
「監督さんは厳しく叱ることはよくあります。今日みたいに傷つけるような言い方も、その……」
リーフェちゃん―舞台の上ではサファイアの弟子、クリスタを演じていた女の子は言いかけて、遠慮がちに隣に座るアメリアさんの方を見る。
「良いんですよリーフェちゃん。父は多少傷つけても、役者の良さを引き出そうとする……何と言いますか、強引な人なんです」
それをくみ取ったように、アメリアさんははっきりとした口調で言い切った。
出て行ってしまったカレンさんだけでなく、あの言葉でアメリアさんだって傷ついたはずだろうに、言い切られてしまうと誰もダフニーさんを責めることはできなかった。
あの場にいた人たちは役者も含めて全員、ダフニーさんの『解散』の一言で帰ることになった。会場の準備は終わり、ほとんどのシーンは監督によって確認を受けたから、本番までの準備は万端というわけだった。
主役の片翼、カレンさんの失踪というただ一点を除いては。
「カレンさん、戻ってこないですね」
エリンは窓の外を見つめて、小さく呟く。
混乱気味だったアメリアさんに真っ先に駆け寄って事情を説明したのがエリンだったから、そのまま流れで、彼女の部屋でカレンさんの帰りを一緒に待っているわけだけれど。
そろそろ日が暮れる時間だから、もうあれから三時間近くは経った。それにもかかわらず、カレンさんは一向に帰ってくる様子はない。
「……」
窓から差し込む淡い光が、エリンの横顔を照らす。一言言った切り、口を堅く結んで、じっと外を見つめている。数時間前のあの笑顔が嘘のように消えてしまっていて、見ているこっちが切なくなってくる。
「騎士団には通報しなくても良いと父は言っていましたが……さすがに心配です。そもそも、カレンがこんなことをするなんて今までなかったことですから、父もどう対処していいか分からないのだと思います」
すぐに帰ってくるから余計なことはしなくていいというのがダフニーさんの見立てで、あの場所で彼に異論を唱えられる人はいなかった。一人にした方が良いという意見も多かったから、誰も後を追わなかった。
いくらお酒を飲んでも、本番直前の練習の時ですら、余裕のある表情を崩さなかったカレンさん。
ダフニーさんが指摘したミスは本当に些細なことだったのだと思う。アメリアさんの話だと、役になりきるための感情面のどこかが欠落して、それが歌声に微妙に影響してズレを生んだから、ダフニーさんには気に食わなかったのだろうということだった。
熱心なファンなら分かる細かいミスなのかもしれない。少なくとも俺には分からなかったし、エリンでさえ、言われるまで気にならなかったと言っていたくらいだ。
そこを指摘されて、逃げ出してしまったカレンさん。
ただカレンさんが打たれ弱かったと言うこともできるかもしれないけれど、そんな生易しい話ではないと思う。
プロの役者として、逃げ出してしまいたくなるような悔しさとか、そういう何かがカレンさんの中で弾けてしまったと、そういうことなのだと思う。
まぁ、こんなことは本人のみ知ることだから、ここで推測しても何の意味もないことだろう。
「……俺たちで探しに行こう」
俺の中で導き出された答えは、それしかなかった。ここであれこれ考えて、ただ待っているだけじゃ何も変わらない。
万が一の可能性で、何かのトラブルに巻き込まれていることだってあり得るのだから。
「ヒャハ、今オレも全く同じことを言おうとしてたんだ。暇すぎるしなァ」
俺のその言葉に、本当に暇そうに、大胆にもアメリアさんのベッドに寝転がっていたアレスが勢いよく体を起こす。
「そんなに心配だっていうなら、騎士団連中にも連絡して探し出せばいいじゃねーか。あのクソオヤジがなんだってンだよ。それに、あいつらが動けばあのおねーさんだって意地張ってられなくなるだろーし? どっかでいじけてるだけならすぐ帰ってくるだろーよ」
臆面もなく、誰も言わなかったことをきっぱりと言い切るアレス。騎士団に頼ろうと思えばもっと早くそうできたのだけれど、ダフニーさんの言葉は、特にアメリアさんには鎖のように重くまとわりついていたようだった。そのせいもあって、俺たちも何となくここで待っていた方が良いという雰囲気になってしまっていたのだ。
劇団として、大事にしたくないという思いがダフニーさんにはあったのだろうし。
「……そう、ですね。ですが……」
それはアメリアさんの反応を見れば明らかで、判断に困っているようだった。
「アメリアさん、私は、この人たちの言う通りにした方が良いと思います。監督さんに何か言われたら、言い返してやりましょう。カレンさんに何かあったらどうするんだー! って。きっと分かってくれますよ」
背中を押すのはリーフェちゃん。小さな身体で一生懸命に説得する姿は、可愛らしくも真剣そのものだった。
「……わかりました。捜索願を出しましょう。大切な友人に何かあったら困りますから」
長い沈黙の後、アメリアさんが頷いた。途端にぱっと明るくなったリーフェちゃんの表情は見えていないのだろうけど、熱意はしっかりと伝わったようだった。
「じゃ、じゃあ私、ホテルの連絡機借りて騎士団に連絡するね!」
同じように表情を取り戻したエリンの行動は早くて、言うや否や立ち上がって、扉の方まで駆けていく。
ようやく止まりかけていた時計が正常に動き始めた気がした。
「ヒャハハ、人探しとか呆けたばーさんを探して歩いて以来だぜ! オレ様ってばホントいいヤツ!」
「自分で言わなければ最高だったんだけどな。……アメリアさん、カレンさんが良く行きそうな場所ってご存知ですか?」
アレスと軽口を言い合って、俺はアメリアさんに訊く。本当に何事も無ければ騎士団に任せておけばすべて安心なのだけれど、ここまで関わったのだ、少しでも手助けがしたかった。
何気ない休日を、偶然の連続にしてくれたお礼。
……というのももちろんあるけれど、俺の中になんとなく、漠然とした不安があった。
思い出されるのは、ダフニーさんの言葉を受けて呆然と立ち尽くすカレンさんの顔。
そして―。
―明日には本番が観られるとは言いましたけど……どうなるか分からなくなってきましたねぇ―。
夢だったのか現実だったのか、それすら曖昧になってきた、あの緑色の少女の言葉だった。
*****
「私とカレンは、古くからの友人……幼馴染と呼べる関係なんです。いつも一緒にいて、考えていることは言葉にしなくてもなんとなく分かると言いますか……」
「あー、分かります。私もロイといる時なんて、すぐ頭の中で考えていることがバレちゃって。あいつ、私の事を『単純だから分かりやすいんだ』なんて言うんですよ、ヒドいと思いません?」
「あぁ、エリンちゃんとロイくんもなのですか。私はてっきり……」
「え、てっきり?」
「いえ、何でもありません」
空になったティーカップに紅茶を注ぎながら、エリンはアメリアとリーフェの二人と雑談をしていた。
つい数分前までロイが座っていた椅子は、今ではぽっかりと空席になっている。本当ならエリンも一緒にカレンを探すつもりだったのだが、騎士団に連絡を入れている間に出ていってしまったのだった。
最初こそむくれていたものの、今はこうして二人と話してすっかりご機嫌なのだから、案外ロイが言っていることは当たっているのかもしれないと少しだけ心の中で思って、悔しくなっているところだった。
「幼い頃から付き合いのある人は何人もいますが、カレンはいつでも私のそばにいてくれたんです。有名な舞台監督の娘だからという理由を抜きにして、それこそ、目を悪くしたときも離れずに、身の回りの世話をしてくれたり、演技の指導をしてくれたり……。親友であり、家族である……そんな人なんです」
「わ、私だって、アメリアさんのお側にいますよ! どんな理由があったって離れませんから!」
カレンの事を嬉しそうに語るアメリアに妬いたのだろうか、リーフェは少しムキになって言う。
「ふふっ、ありがとうございます、リーフェちゃん」
そんな彼女を穏やかに、手元を少し迷わせながら撫でるアメリア。そんな光景は、エリンにとってはずっと眺めていたいくらいに幸せなものだった。
同時に、不治の病でもう二度と光を見ることはないと言われている彼女が、まったく自分の眼の事を気に病んでいる様子がない理由が、エリンには分かった気がした。
「愛されてますね~、アメリアさん!」
「えぇ、とても幸せな事です。……だからこそ、カレンがどうしてあそこまでショックを受けたのかわからない自分に、今無性に腹が立っているんです」
「あー……そういうことだったんですね」
何となく和やかに続くかと思われた会話は、そんなアメリアの声に引き締まった。
エリンも薄々感じていたことではあったが、部屋に帰ってきてからのアメリアはどこか.思いつめたような顔をしていた。
監督であり父であるダフニーに逆らえないもどかしさとも思っていたのだが、問題はもっと深いところにあったことに気が付く。
まずは何より話を聞くことが第一。
師であるビアンカからもらった言葉が身に染みた。
別に魔物が関わっていなくたって、沈んだ人の心を癒すのが療心師の仕事だ。覚えた技術はどんな場面だって応用できる。エリンが療心師として活動するうちに何度も思ったことだった。
「さっきも言いましたが、確かに父は厳しいです。時には人格を否定して、役者をとことんまで追い込んで、その輝きを見出させようとします。ある意味で、父は心からステラの言葉を信じている人と言えるのかもしれません」
暗い雲の向こうには必ず輝く星がある。
ステラ教徒なら誰でも知っている文言で、エリン自身も心に強く留めてあるものだったから、すぐに思い当たった。
けれど―。
「もちろん、その真意を読み取れずにただショックを受けてしまって、劇団を去っていく人は多かった。それでも、少なくとも私とカレンは父の想いを理解しています。だからこそ、多少の言葉では自分を責めないようにしているし、それはカレンだって同じだったと思います。どうしても辛かった時は慰め合って、乗り越えてきました。それなのに、今回は……」
アメリアはそこで言葉を切る。彼女の思考は未知の領域へと入ったようで、その青い視線を宙に巡らせている。
「きっと、カレンさんも我慢の限界だったんです。監督さんが注意したことは確かに大切なことですけど、あそこまで怖い怒り方しなくたって良いじゃないですか。それに……その、アメリアさんのことを悪く言うような言い方もしていましたし……そうですよ、きっとそれにカレンさんは怒っていたんですよ。お友だちのアメリアさんを悪く言われたから!」
「私を? リーフェちゃんにはそう聞こえていたのですか?」
「え、だって……違うんですか?」
「私の目が見えないのは、事実ですよ?」
「……」
勢いづいたリーフェの説明を、アメリアの素朴な質問が止めた。困ったように視線を送るリーフェに苦笑いしつつも、エリンは一つ、はっきりとした思いが胸の中で言葉になっていくのが分かった。
「……アメリアさん、すごくタフな人ですよね」
「私が……ですか?」
想定外の言葉だったのだろう、アメリアは首を傾げて、口に近づけていたティーカップを止める。
「私だったら、リーフェちゃんの言った通り、まず自分があのお説教に震え上がっちゃいます。それから、『目の見えない娘に』なんて言葉も、正直聞いていてすごく嫌でした。もし私の目が見えなくなったときにそんなことを言われたら、ひどく貶められているような気持ちになるし、もし大切な友だちがそんな風に言われたら……私だったら手が出ていたかもしれないです」
大切な友だち―金髪の幼馴染のそんな場面を想像してしまって、エリンの胸はチクリと痛む。頭の中で再現するだけで現実に痛みがくるのだから、実際に起こったらこの比ではないのだろう。
「でも、アメリアさんはとても強い人です。ダフニーさんのあの言葉をわざわざ気に留めるような人じゃないと、カレンさんも分かっていたから、余計に自分の感情の置き場に困ってしまって、どうしたらいいか分からなくなっちゃったんじゃないかって……今までの話も聞いてみて、思ったことなんですけど」
エリン自身、ぼんやりと見えてきたものを少しずつ言語化しているから、だんだんと言葉もぶつ切りになって行く。
言葉選びは、とても重要なのだ。
一言の違いが、大きなすれ違いになることがある。
それは三か月前の経験から、痛いほどに実感した。
「私のことをよく理解してくれるカレンなら、そんなことを思っていても不思議ではないのかもしれませんね」
「私の推測だから、はっきりとは言えないんですけどね……」
エリンは言って、少し弱気になる。
今まで言ったことは、あくまで聞いた話や、その人たちの取った行動から推測されるもの以外の何物でもない。
ロイはよく、本人の心のことは本人にしか分からないから深く推測することはあまりしない方が良いと言っているけれど、その点に関してはエリンの意見は真逆だった。
推測しなければ始まらないのだ。
推測して、『もしかしたら』という意識を手放さずに言葉を探して、選ばなければいけない。
そうして選ばれた言葉をかけてあげなければ、正しいとか間違っているとかに関わらず、何の手掛かりも返ってこない。
それこそ、何も分からないのだから。
「では、私はカレンにどんな言葉をかけてあげればいいのでしょう? 私は別に気にしていないと説明すれば、彼女は納得してくれるのでしょうか」
「そうですね……それは言ってあげた方が良いと思います。何より明日は本番ですし、直接アメリアさんが言えば戻ってきてくれるはずです!」
エリンは笑顔を見せて、まだ不安そうなアメリアに言う。
ただの深読みかもしれない。単にリーフェの言った通り、酷い説教をされ続けたストレスが限界だったのかもしれない。
目を見開いて、呆然と立ち尽くすカレン。ダフニーから、アメリアの視線から逃げ出したカレン。
それでも思い出して、考えるたび、もっと複雑な何かがあるのではないかという予感が、エリンの中には残っていた。
「少しだけ、気持ちが晴れた気がします。エリンちゃん、ありがとうございました」
「いやいやそんな! これでカレンさんが戻ってきて、明日の舞台が観られればそれ以上に嬉しいことはないですって!」
そんな不安を払うように、両手を振ってアメリアに応える。言葉通り、憧れていた舞台を、その役者を間近で見られるという以上に、エリンの望むものは無かった。
二人の星が輝く姿を、皆と一緒に観ることができれば、それで。
「あ、ポットの中身、空になっちゃってますね」
急に恥ずかしくなったエリンは、紛らわすようにテーブルの上にあるティーポットに手を伸ばす。
「あぁ、話していると喉が渇きますからね」
「さっきから飲みまくっているの、実は私です……」
「あはは、リーフェちゃん、そんなに美味しかったの~? じゃ、ちょっとおかわりのお茶をロビーでもらってきます~」
笑いながら、エリンはポットを持って立ち上がる。それからふと窓の外を見た。
夕日が沈みかけて、空は昼と夜の間―紫の色に染まって、幻想的だった。
「んー……?」
視界にふと、黒い影のようなものが映って、エリンは目を凝らす。最初は雲の影が映っているのだろうと思っていたのだが、それはだんだんとこちらに近づいて来ているようにも見えた。
「エリンさん、どうしたんです……ひっ?!」
視線を追ってそれを確認したらしいリーフェは、喉の奥から短い悲鳴を上げた。
「リーフェちゃん、エリンちゃん?」
唯一それを確認できないアメリアは、数秒間言葉が失われた部屋に違和感を覚えたのだろう、二人の名前を呼ぶ。
「―二人とも、すぐにこの部屋から出てくださいっ!!」
エリンが叫んだのと、窓がけたたましい音を立てて割れたのは同時だった。
「……?!」
咄嗟に動けない彼女たちの視界が捉えたのは、ゴロゴロと転がる黒い物体。それはすぐに、五つの突起を生やして、そのうちの二つで地面に足をついた。
飛び込んできたのは人形だった。真っ黒なドレスに、真っ白な顔をした小さな人形。
その表情は、顔に描かれた線ではっきりと分かれていた。
半分は穏やかに笑っていて、もう半分は目を閉じて、その感情は読み取れない。
美しく作られているはずのその顔は、表情のアンバランスさにつられて奇妙に歪んでいるようにも見えた。
「早く、逃げてください」
ポーチに入った自分の得物―フォーマルハウトを取り出しながら、エリンは言う。この人形が魔物だということは、自分でも驚くほど冷静に判断できた。
「アメリアさん、こ、こっちです……早く!」
声を震わすリーフェに手を引かれながら、アメリアの青い瞳が真っ直ぐに人形を見つめていることを、エリンは視界の隅で捉えた。
「カレン……?」
同時に人形から上がったらしい奇妙な鳴き声の間に、同時に漏れ出たその言葉も、エリンは聞き逃すことはなかった。
*****
空が紫色になるにつれて、熱く乾いた空気がそよ風に流されて、涼しくなってきていた。
これで四件目になる、カレンさんがよく顔を出す雑貨店から出て、俺とアレスはピクターの街路を歩く。
中央街から少し外れたこのエリアは、比較的新しい建物が多いらしく、白いコンクリート製の建物がずらりと並んで、敷き詰められた石畳と壁に飾られた植物が、上品な街並みを作り出している。
「どこほっつき歩いてンだかなァ。いい加減へそ曲げてないで帰って来いって話だぜ」
「騎士団には連絡したからな。見つかったらホテルから連絡もらえるように連絡機ももらっているし、普通なら探さないところを探した方が良いかも」
俺は提案しながら、ロビーで受け取った連絡機をポケットの中で確認する。ついでに‘雷鳴’が腰にかかっていることを確認してから、街の隅々にまで目を向ける。
「例えばどこだよ?」
「うーん……アレスだったら落ち込んだ時にどこへ行く?」
「ヒャハハ、あいにくオレ様落ち込んだことないから、そんなこと聞かれてもわかんなーい!」
「うん、なんとなく予想できた答えではあったな」
「よーくわかってんじゃん」
訊いた俺がバカだったと思いつつ、今度は自分で思い返してみる。
落ち込んだ時に行く場所……俺の場合だったら、高いところへ行って、こういう街の景色を眺めるのも良いのかもしれない。
何も考えず、ただ沈んでいく夕陽と、それに照らされる街並みを見つめる。
考えて、身近な高い場所を探すために、ぐるりと周りを見渡す。すぐに見えるのは、あの‘平和の金鐘’だった。
「ん、なんだ、あの鐘の塔かよ。ヒャハ、身投げでもしようってか?」
「悪い冗談はやめてくれ」
こんな時にミラがいればと思う。今頃あいつはロックと一緒に魔物退治にでも出かけているのだろうけど、分身なりなんなりしてこっちに来て一緒に探してほしかった。あいつの嗅覚(?)ならきっとものの数分で見つけられるはずだから。
「確かあの塔の展望室は市民にも一般公開されているっていうから……まぁ、行ってみる価値はあると思う」
言って、俺は踵を返す。塔は中央街に建っているから来た道をまた戻らないと行けないけれど、カレンさんが行きそうな残りの候補場所も同じ方面なのでちょうどいい。
「ヒャハハ、そんなに急がなくても、のんびり行こうぜ」
「変なこと言うからだろ」
‘身投げ’なんて物騒な言葉を聞くと、嫌でも俺の足は早まる。そこまで深刻な事態になるなんて思ってはいないけれど、カレンさん含めて芸術に関わりのある人は、俺たちには到底分からない部分で感情を爆発させるというのをすでにあの劇場で経験済みだ。
「……ん?」
さっきより少しだけ早く過ぎる景色の中で、俺の視界の隅に何かが映った。スピードを落として、違和感を覚えた方を見る。
そこは白い住宅群に紛れるようにはめ込まれた、同じ色の小さな喫茶店だった。窓から中が見えるようになっていて、それなりに客が入って、通常通り営業している様子。
真っ白な外装と、それに合わせるような明るめの内装だったからだろう、窓際の席に向かい合って座る、真っ黒な二つの人影がやけに目立って見えた。
「カレンさん」
「あん? マジかよ」
一人はカレンさんだった。紺色のドレスに、所々に施された散りばめられた星のような衣装は見間違えるはずがない。カレンさんらしき女性は今、眠っているようにテーブルに突っ伏していた。
分からないのは、向かいに座る人影だった。真っ黒なフードを被り、その表情を見ることはできないから男か女かもわからない。ただ張りぼてのように、じっと顔を上げないカレンさんを見つめるだけ。
その様子は、ここから見ているだけでも十分すぎるほど不気味だった。
「……とにかく中に入ろう」
数秒間をおいてから俺は言って、また早足に店に向かってその扉を開ける。
笑顔で向かい入れてくれたウェイトレスに、連れが先に来ているとだけ言って、足を止めずに問題の席に向かった。
「やァ、ロイくん、アレスくん、待ちくたびれたよ。ずいぶんと時間がかかったね。僕はずっとここにいたんだけど……あぁ、そうか、今日はあの子猫ちゃんがいないから自力で探さなきゃいけなかったんだね」
俺が声をかける前に、黒フードは男の声でそう言って、笑んだようだった。
「何を……っ?!」
その陽気な声より、発せられた内容より俺が衝撃を受けたのは、その黒フードの中身だった。
顔に当たる部分が黒で埋め尽くされていた。
比喩ではなく、完全に真っ黒。
首から口元にかけて、かろうじて肌の色が見えるくらいで、そこから上は真っ暗闇。
どんな光の当たり方をしたって見えるはずの顔の全体像が、全く見えなかった。
「ルナ教徒……」
アレスの呟きに、代わりにはっきりと目に焼き付いたのは、その首からかかった装飾品。
シンプルな、紅い月のネックレスだった。
「あはは、そんなに身構えないでよ。宗教で人を差別してはいけないって学校で習わなかったのかい? まぁ、僕が今やっていることは、キミたちから見れば差別……いや、侮蔑に値することなのだろうけど」
くつくつと喉で音を立てて笑って、男は言う。
向かいに座るカレンさんに目を向けると、身体の周りに微かに、黒いアステル―邪気が蠢いているのが分かった。
「カレンさんに、何をした」
「ちょっとばかし、心を自由にしてあげているだけさ」
男は言って、その真っ黒の顔をカレンさんに向ける。一見眠って、静かに寝息を立てているだけのようだ。
けれど、俺はこの静かすぎる寝息に、何度か聞き覚えがあった。
闇に飲まれ、心を堕として遠のいていく人間の吐息。
「‘闇の月’って奴らか。ばっちり犯行現場抑えちまっているわけだが、良いのかよ? すぐに騎士団に通報できるんだぜ? ヒャハハ」
―いるんだよ、そういう奴らが。あーいう違反のアステリアルを売りさばいて、魔物や魔徒を生み出してる、犯罪組織ってのがな―。
いつだったかに告げられたロックの声が脳内に響いて、俺はポケットの中身を確認する。いざとなればこの連絡機で直接騎士団を呼び出すことができる。
犯罪者なら―しかも今密かに世間を騒がせている組織犯罪者なら、騎士団に任せた方がいろいろと後に役立つはずだ。
‘闇の月’。その名前は、アレスが義賊をやっている時代に何度か関わりがあったということを聞いたことがあるから、その時の記憶がよみがえっているのだろう、笑ってはいるがその表情は苦虫を噛み潰したようだった。
「それは少し困るかなぁ。その場合は、キミたちをここで殺して逃げようかな。いつぞやの兄弟のように……ね?」
「兄弟……だと」
その言葉で浮かんだのは、穏やかな兄と、冷たい弟の顔。
闇からも救い出せず、何者かに殺されてしまったミストルさんの顔。
「死兵が絡んでいると思ったら、裏にいたのはやっぱりてめーらだったわけだな」
「もちろん。あれは僕らにしかできない裏の星心術だからね」
言って、男は片方の手のひらを俺たちに向ける。
とても健康的な、大きめの手のひら。
「ぐあッ!!」
その意味を理解する前に、俺とアレスは同時に後ろにあったテーブル席に激突していた。背中の痛みと、周りの客のどよめき全身を回る。
「最近、僕が直接手を下す仕事が増えてきたなぁ。嫌だな、あまり荒っぽいことは好きじゃないんだけど」
男はゆらりと立ち上がると、さっき衝撃波を発したらしい右手を、空気を斬り裂かんばかりに振るう。
あったはずの手は、薄青色の光の刃に変わっていた。
アステルが生み出した、実体のない凶器。
同時に感じたのは、ぞくりと迫る殺気と、どす黒い邪気の波。
「魔徒だ!! みんな逃げやがれェ!!」
立ち上がりながら叫ぶアレス。その言葉に反応しない人は一人としていなかった。談笑していた男女も、ウェイトレスも店員も、‘魔徒’というたった一言に弾かれたように席を立つ。
言葉に埋め込まれた恐怖に、ある人は悲鳴を上げながら、出口へ吸い込まれるように出ていく。
「魔物や生まれたての魔徒と違って、僕らみたいなのは知性的だから、関係の無い人は襲わないよ、少なくとも僕はね。中には存在を維持するためにむやみに苦痛を与えて、彼らの負の感情を摂取する者もいるけれど―まぁでも、障害物がいなくなった方がやりやすいよね!」
誰もいなくなった店内で、男はその刃を振るう。
軌跡が、光の衝撃波を生んで、テーブルを、カウンターを凄まじい音を立てながら粉々に破壊していく。
見ると、刃の通ったところは最初からそこに何もなかったかのように、まっさらな道になっていた。
「こんな騒ぎを起こして、どのみち逃げられないぞ」
「大丈夫だよ。来た人みんな殺すからさ」
物騒な返事を返す男を睨みつつ、俺は‘雷鳴’を抜く。
持ってこなくても良いと思っていたけれど、まさかこんなことになるなんて。
「今日のノルマも達成できたことだし、キミたちで暇をつぶすことにしよう。ロイ・シュトラール、アレス・ルージュ」
「ヒャハ、潰されンのはてめーだっつーの!」
アレスは叫んで、腰からナイフを二振り抜く。
それから俺の視線は、この騒ぎでも一向に起きようとしないカレンさんに映る。
今日のノルマ。
彼がカレンさんに施していた何らかの術が、魔物を生み出すものだったとしたら、今その魔物はどこにいるんだ?
「今頃キミのガールフレンド、一人で頑張っているんだろうなぁ。戦闘専門じゃないからね、彼女。下手したら死んじゃうかも?」
「エリン……!」
嫌な予感は、男の言葉で裏打ちされた。
無意識のうちに口から出た名前に、あいつの能天気な笑顔が浮かんだ。
「まぁ、あれだよ。一緒にステラの元へと送ってあげるから、安心してよ」
「あいにく、あいつとは明日行かなきゃいけない場所があるんだよ……‘雷衣’!」
この街に来てからずっと口元を緩めていた顔と、夕日に照らされた寂しそうな顔が次々に脳裏に浮かぶ。
同時に、面白がるような男の口調に、一瞬だけ聞き覚えがあるような気がしたけれど、バチバチと弾ける雷が身体を包む音が、その思考を飲み込んでいった。
*****
「はぁ……はぁ……!」
紫色のカーペットが上からつりさげられた暖色の照明に照らされて、やけに明るく見える客室エリアの廊下には、少女―エリンの荒い吐息だけが響いていた。
リーフェがホテルスタッフに頼んでくれたのだろうか、少なくともこの階にいる人は全員避難したらしく、ずらりと並ぶ客室のドアからは物音一つ聞こえない。
「はぁ……ロイ、アレス、早く帰ってきて……一大事なんだよぉ……痛っ!」
早鳴る動悸と腕にできた切り傷を押さえて、エリンは曲がり角の影から顔を少しだけ出して、先の様子を伺おうとする。
「……?!」
長い廊下の先をトボトボと歩くのは、真っ黒な衣装に身を包んだ、ピエロのような人形。見間違えでなければ、窓を突き破って入ってきた時の、ティーポットくらいの大きさだった身長は今、小さな子どもくらいの大きさにまで変化しているようだった。
真っ白なその手には、おもちゃみたいな両刃の剣―ただし切れ味は本物だ―が握られている。
「やだやだ、人形が歩いているって考えるだけでも十分怖いのに、なんで大きくなってんのよ~……」
半泣きになりながら、エリンは身体をひっこめる。それから、自分を落ち着かせようとフォーマルハウトの持ち手を強く握る。ここまで逃げるのに乱射してしまったからか、必要以上に体力が減っていて、あれを倒すまで弾が持つか不安なところだった。
「はー、窓以外にもいろいろ壊しちゃったしやっぱり弁償かな……ここ高いからなぁ、いくら請求されるんだろう……ビアンカさんごめんなさい……」
―――。
刹那、いろいろな恐怖に押しつぶされそうになっているエリンのすぐ横を、何かが勢いよく通り過ぎた。
「ひ、ひぇ~……」
ドスリ、という嫌な音ともに壁に刺さったものがあのおもちゃ剣だと認識したエリンは、情けない声を出しながら、反対側の廊下へ駆け出すことしかできない。
「私一人じゃ無理だってぇぇえ!」
足を動かすたび、床を蹴る足音のペースに心臓の鼓動が追いついて、追い抜いていくのが分かった。
「わ!」
「ひゃあ?!」
広い客室エリアの角を二回ほど曲がろうとしたところで、エリンは誰かの叫び声と気配を感じて立ち止まる。
「待った。まず銃を降ろしましょう」
落ち着いた、男か女か判断の難しい中性的な声に、悲鳴ついでに自分がフォーマルハウトを真っ直ぐに構えていたのに気が付く。
銃口の先を見ると、そこには自分より一つか二つ年下くらいの―少し判断に迷ったが―少女が立っていた。
あまり見ることのない、緑色の髪の毛にまず目が行った。
「ま、まだ逃げてない人がいたんだ……ここは危ないから非常口から逃げて。魔物が……」
「共闘しましょう」
「え?」
エリンの震える声を遮って、少女は言う。
「ボクの名前はヒスイ。よろしくお願いします」
「え……は、うん、よろしく?」
混乱するエリンに、少女―ヒスイは赤い眼鏡の奥から目を細めて笑いながら、握手を求める。
「まずは何も言わず。ちょっとばかり、ボクの憂さ晴らしに付き合っていただけませんか」
握り返された手を軽く振りながら、さらさらとした目立つ緑色の髪の毛を揺らして、ヒスイはそんなことを言ったのだった。




