第2話:二人の星
「それで、その後どうなったんですか?!」
「その時の私は自分のことで精一杯だったから、衣装が上下で違うなんて気が付かなかったの。もう舞台に立ってしまったから、今さら流れを止めることはできない。そのことを裏方さんから聞いたアメリアが―」
「『あぁ、王子。私はあなたのその大胆奇抜なセンスに一瞬で心を奪われてしまいました! どうか、私めとこの牢獄のような国から逃げ出しましょう!』と……完全にアドリブでしたけど、もうやってしまえと、先のことは考えていませんでした……今考えると、劇場舞台の威厳を落としかねない軽率な行動でした」
「でもそのおかげでアメリアさんとカレンさんの、伝説のクラテル公演が生まれたんですよね! あれはファンの間で知らない人はいませんよー!」
「ふふ、エリンちゃんは本当に演劇が好きなのね。演じている身としてこんなに嬉しいことはないわ」
本当に嬉しそうに、俺の左斜め向かいに座る女性―カレンさんは言って、ワイングラスを上品に傾ける。それを上回るくらいに嬉しそうに、そしてなんだか羨ましそうにそれを見上げるエリンの顔はほのかに赤らんでいた。
「あなたたちも食べて。アメリアを助けてくれたお礼だから、遠慮なんか良いのよ」
それからカレンさんは話の輪に入れない俺たち男子組の方を向いて、ちょっとお高そうな白身魚の料理が乗った大皿を勧めてくれる。魚が浸っているのはワインだろう、ちょっと独特な香りと、熱された身からあふれる油が混ざって胃袋を刺激する。上には口を開けた貝と、トマトの赤とバジルの緑がシンプルな彩を与えていて目に良かった。
「ヒャハ、どーも。ま、オレはなんもしてねーけど、ありがたくいただくぜ」
アレスは少し複雑そうな顔をしてフォークを伸ばす。俺もそれを真似するように、せっかくなのでいただくことにする。
「うん……美味しいです」
ほろっと崩れた身から溢れる味と香りに、文句なしの感想が漏れる。
こんな今の状況を見てもらえれば分かるように、意図せずアメリアさんを助けてしまった俺は、エリンとアレス諸とも夕食をご馳走になっているところだった。
あのちょっとした混乱の中で、アメリアさんの‘連れ’にして、その界隈では若手の実力者として名を知られているカレン・ハイドラシアさんに、引っこ抜かれた野菜のように連れ出されて連れてきてもらったのがこの店だった。
落ち着いた黒色の長テーブルには素朴で上品な味のクルミパン、とろけるくらいに柔らかい肉がゴロッと入ったトマトスープ、お酒のお供のためかコクがあるチーズビスケット……。シンプルだけれど値段で言えばかなり上の方に見える料理がずらりと並ぶ。
いつぞやのカフェを思い出して店内を見てみればまぁ、隠し立てすることなく高級料理店ということだけは分かる内装だ。
「舞台ではあんなに頼もしいアメリアも、一歩外に出ると私がいないと何もできないから。ふふ、ちょっと目を離すとああいうことがあってね」
「カレン、そういう話は良いじゃないですか……。ロイさん、本当にありがとうございます。重ねてお礼を言わせてください」
からかうカレンさんに恥ずかしそうにしながら頭を下げるアメリアさん。声から俺の方向を把握しているのだろうか、しっかり俺の方を向いてくれた。
「いや俺たちの方こそ、こんなご馳走をありがとうございます……なんか、すみません」
そんなアメリアさんに答えつつ、少しせわしない気分になる。もちろんこんな形で感謝のお返しをされるなんて期待も予想もしていなかったから、どんな対応をすればいいのか正直困っているところだ。
「でもでも、お二人と同じホテルに泊まることができるなんてそれだけでラッキーですよ! 夢みたいです!」
その様子をニコニコと見ていたエリンはまだ話し足りないようで、椅子から立ち上がらんばかりに言う。
二日後に迫った公演で主役を張る本人に偶然であれ出会ってしまったのだから、エリンがここまではしゃぐ気持ちは分かる。実際俺もいまだに何かの夢なんじゃないかと感じているくらいではあるし。
それにエリンが本当に楽しそうに、生き生きしているから悪い気がしないのは確かだ。
「ここは劇場から一番近いですしね。私が個人的に、このホテルを気に入っているというのもありますけど」
「あなたの初めての舞台を支えてくれた場所だものね。こういうハプニングも……こういうラッキーなファンの女の子に出会えるのも、ここに泊まるからこそできるというのは、あなたに上手く乗せられたという気がするけれどね」
アメリアさんの言葉を補うように話すカレンさんの口ぶりは、とても穏やかで、ともすれば姉のようにも見えた。
実際、髪型こそアメリアさんと対照的なショートヘアだけど同じ黒色をしているし、年齢も二歳差、背丈も若干カレンさんの方が高い。何より目を引くのは、二人とも眩しいほど綺麗な瞳を持っていることだった。
アメリアさんは、触れれば割れてしまいそうな儚げな碧色。
カレンさんは、見つめているうちにどこかに迷い込んでしまいそうな妖しい黄金色。
色はまったく違うけれど、姉妹と言えば知らない人はそう思ってしまうくらいの、似たような輝きがこの二人にはあった。
「私たちもビアンカさんが、せっかくだからっていうことでこんな良いホテルを取ってくれてー! あ、ビアンカさんっていうのは、うちのギルドのマスターで、とても優しい人で……」
「あー、俺たち、封魔師ギルドで仕事をもらっていて、今日は休暇でお二人の舞台を観にこの街に来たんですよ」
興奮気味で支離滅裂のエリンの代わりに俺は説明を始めた。
そういえばこの二人に全然自分たちの話をしないままご馳走になっていたことに気がついて、今さら焦ってしまう。
「……封魔師。物語の中でしか聞いた事がありませんが、本職でやっている方に出会えるなんて、光栄です。まだお若いのに、すごいのですね」
大方説明を聞き終えたアメリアさんは、とても楽しそうにそんなことを言ってくれた。聞いているときも適当なタイミングで、適度な相槌を打ってくれるのでだんだんと落ち着いて、自分でも驚くほど言葉が出てくるのが分かった。
「そういう人たちにも、私たちの演技が知られるようになってきているというのは、嬉しいことよね。来てくれてありがとう」
カレンさんの方も俺たち三人の顔を順々に見て、そうお礼を言う。証明の明かりのせいもあるのかもしれないけれど、やっぱりその金色の瞳にはぞくりとする輝きがあった。
「ヒャハ、封魔師なんてそんなすげーもんじゃねーよ。出てきた怪物どもをぶっ飛ばすだけのつまらねェ仕事だっつーの」
「そう、なのですか? 実際にやっている方のお話はとても興味があります」
水の入ったコップをまるで酒のように煽りながら、今まで黙ってテーブルの上の料理をかき込んでいたアレスが、なぜか上機嫌な声を上げる。少し乱暴な物言いで突然話しかけられたせいか、驚いた様子のアメリアさんだったけれど、すぐにその上品な笑みを浮かべて受け応えた。
「ヒャハハ、聞きたいなら後でじーっくり聞かせてやんよ」
チーズビスケットをチビチビと齧って、コップを傾けるアレスの顔は、やっぱり少し赤い気がする。押し黙っていた数分前とはずいぶん違うけれど……まさか中身は酒じゃないよな?
そんな心配を残しつつ、俺もこの話題に参加しようとする。‘つまらねェ仕事’だなんて言われて黙っているわけにはいかない。人の心の闇から生まれる魔物を討滅していく封魔師。確かに‘楽しい’というのとはまた違うけれど、‘つまらない’で切り捨てられるほど簡単なものではないはずだから。
「怪物といえば、アメリア。あなた最近変な夢を見るとか言っていなかった? 確か怪物が出るかとかどうとかって」
口の中の物を咀嚼して、そんな弁明をしようとした時だった。茶化すように言うカレンさんのその言葉に俺の、そして残りの二人の封魔師の表情は曇った。
夢。さらに言えば怪物や魔物が出るような悪夢というのは、心と記憶の奥底に隠された‘邪気’であり、魔物を生み出す要因には十分なりうるのだから。
「あぁ、あの夢ですか。そんな、大したものではないですよ。目の見えない私が見る夢なんてきっと……ふふふっ」
「笑っていいのかよく分からない冗談はやめなさいって言っているでしょう……」
「うふふ、ごめんなさい」
お酒が回ってきたのか、二人が笑みを見せる回数が増えてきた気がする。それ自体はすごく微笑ましくて良いことなのだけれど、少しの不安が頭を過った。
「その夢っていうのは、どんなものなんですか? ちょっと気になります!」
「俺も、少し……」
そう言ってさりげなく引き出そうとしてくれたのはエリンだった。杞憂で終わればそれで良いし、その夢というのにも単純に興味がないと言えば嘘になるから、俺も右手を挙げてアピールする。
「えぇと……真っ暗な中に、紅い目と大きな口が空いていて、ただ私のことを見つめているんです。見た目は恐ろしいように聞こえるかもしれないのですけど、こちらから見つめていると案外可愛く見えたりもして……。現実では何も見えなくなってしまいましたから、この夢は私が何かを見る唯一のチャンスで、けっこう楽しみではあるのですよ」
話し終えて、またアメリアさんはグラスを傾ける。瞼が重そうに閉じかけているから、いつの間にやら結構量を飲んでいるらしかった。
肝心の夢の方は、俺が聞く限りではそこまで危険な臭いはしない。化け物に追いかけられていたり、恨み言を延々と聞かされ続けたりといった典型的な悪夢ではないし、なによりアメリアさん自身がそこまで思い詰めていないことが、俺の不安を薄れさせた。
「うーん……」
こういう話では一番知識量があるはずのエリンは、考え込むように口を尖らせている。認定試験の勉強をしていた時はしょっちゅう見たこいつの癖だけど、結構久しぶりに見る気がした。
「この夢だけで、何か分かることがあるのですか?」
「いや、悪い夢であればもうちょっと詳しいことを聞いて、必要な処置もできるんですけど……でもアメリアさん、特に困っている様子はないみたいですもんね?」
「えぇ、特には。むしろ少し楽しいくらいですよ」
くすくすと口元に手を当てて笑うアメリアさん。その様子は、お酒が入っていることは抜きにしても、何かを隠していたり嘘を吐いたりしているようには見えない。
「じゃあきっと大丈夫です! 本当にそういう良くないものの前兆だったら、心の状態も少し問題が出てきますし、なんだかお節介でしたよね……えへへ」
エリンも同じことを感じたのか、案外あっさりと断言する。この辺に関しては、本当に俺やアレスの対象外だし、エリンがそう言うなら、俺からは何も言えることがない。
「いえ、あの夢が悪いものではないという確信が持てて良かったです。もし悪くなってしまっても……ふふ、エリンさんに頼めば助けてくれるのでしょうし」
「はい、もちろん! アメリアさんに頼まれればどこからだって駆けつけますよ!」
アメリアさんのそんな大人な対応に、少しばつの悪そうにしていたエリンの顔は、ぱっと明るくなった。
「さて、いい雰囲気になったところで、そろそろお開きにしましょうか。楽しい時間は早く過ぎるの……寂しいものよね」
しばらく二人の会話を和やかな表情で見つめていたカレンさんの言葉に、俺は壁にかかった、これまた高価そうな木時計を見る。針は、あのアクシデントから早くも二時間以上も後の時間を指示していた。
「あら、本当……。明日は最終リハーサルがあるので、今日はこれで失礼しますね」
「大丈夫ですか、アメリアさん……」
そう言って少しふらつきながら立ち上がるアメリアさん。そういえば二日後にはこの二は公演で、明日はその準備のための最後の時間のはずだけど、こんなに飲んで大丈夫だったのだろうか。当然、お酒を飲んだことがないから、次の日にどのくらい響くかなんて想像できないけど、この様子を見ているとちょっと心配だった。
「私もアメリアも、お酒には強いから、明日にはけろっとして舞台に立っているわよ。……あ、そうだ」
俺の心を読み取ったように言ってから、カレンさんは何やら思いついたようで、その金眼を細ませる。それからその唇を、隣のアメリアさんの耳元に近づけた。
「……」
それを隠すように添えられた左手が、耳も唇も、そこで話されているであろう言葉すべてを隠してしまう。もう少しで触れてしまいそうな二人の距離に、なんだか俺は無性に魅入られてしまっていた。
……いやいや、何をしているんだ俺は。さっきからぼーっとしているし、いろいろと考えることがおかしい。
「……良いですね。私は賛成です」
俺が頭の中のモヤモヤを振り払おうとする間に、聞き終えたアメリアさんがにっこりと微笑んで頷く。
「三人とも、明日のリハーサルを見に来ませんか? もちろん、タダでというわけにはいかなくて、少し‘お手伝い’をしていただきますが……また一緒にお食事もしたいですし、どうでしょう?」
その小さな口から飛び出たのは、そんな目が覚めるような言葉の爆弾。
国民的大スターから一介の封魔師への、二度目のお誘いだった。
日が昇るとともにゆっくりと動き出す休日のピクター。
昨日と同じように、誰かの口笛とギターの音色が聞こえる。
「あー、夢かな。これは夢じゃないかな! ちょっとアレス、私のほっぺたつねってみてよー!」
「あーいいぜ」
「ちょっと待って。その握りしめた拳を下げて。そんなの喰らったらもう二度と目覚めなくなっちゃうから!」
「ヒャハハ、目が覚めるぜェ。夢じゃねーってのは嫌でも分かるくらいにはなァ」
「やーめーてー! ロイ助けてよ~この暴力男がイジメる~!」
それを上書きするように、まるで昨夜のテンションをそのまま引き連れてきたかのようなアレスとエリンの声が陽気に響いた。
「あー、エリン。俺、寝起きでテンション低いんだ。おとなしくアレスにぶたれて、ここが現実だという嬉しい真実を噛みしめてくれ」
「ちょっとー?!」
ガンガンと耳に来る大きな声はいつも通り……なのだけれど、やっぱり通常の二割り増しくらいには元気がいい気がする。
それはこの街に漂う雰囲気がそうさせているんだと、昨日の食事会の後、フカフカなベッドの中で考えたことだった。
耳に飛び込むのは様々な音色。
目に映るのは歴史や芸術が凝縮された塊。
触れるもの、嗅ぐもの、味わうものすべて、俺たちにとっては初めてのものばかりで、新鮮すぎると言っても良いくらいだ。
宝石の山に囲まれた盗賊はきっとこれくらい浮ついた気分なのだろう。
目が眩むほどの輝きの中で、自分たちも輝かなければいけないような、そんな奇妙な気分。
「わぁ、やっぱり近くで見ると全然違うなぁ……! 今からこの中に入るんだよ……すごいよ……」
嬉しいため息と一緒に洩れたエリンの言葉に、俺は顔を上げる。
目前に映った長い階段の向こうには、昨日遠目で見たドーム状の建物―ピクター大演劇場が変わらず、どっしりとそびえ立っていた。
階段を上りきった広場のようなところには噴水があるのか、吹き上がる水しぶきが太陽の光に照らされて、自然のライトアップがなされていた。
「よーし、競走。競走だよロイ、アレス!」
「おい、時間はまだけっこう……って、おい!」
止めようとする俺に構わず、エリンは階段を一つ飛ばしに駆けていく。その後ろを三つ飛ばしであっという間に追いつくアレスに笑いのツボを押されながら、俺はもう一度この古い建物を見上げる。
昨日の食事会の後、俺たちはあの二人からこの場所へ誘われたのだった。
最後のリハーサルの様子を特別に見せてくれるということで、特にエリンなんか有頂天で、鎮めるのにだいぶ苦労したものだった。
けれど、彼女たちからすれば、その後につけてきた条件だったのだと、今になってふと思う。
つまり、舞台設置の手伝いを代わりにしてほしいというもの。
二人が所属するダフニー劇団は、少数精鋭で高度な演劇をすることで知られている。舞台設置などの大掛かりな仕事をカバーできるほどの人数もいないから、こういう大きな劇場でやる時には、数日前からボランティアスタッフを募集するのだとか。
この募集もすぐに満員になって、ほんの数時間で準備が終えられるらしく、そんな影響力の大きさもダフニー劇団のブランド力があってこそなのだと、なぜかエリンが自慢げに言っていたのを思い出す。
「まぁ、でも、こんな経験そうそう無いだろうしな」
俺は階段に一歩足を踏み出して呟く。
つい二日前はアメリアさんの声ですら、ラジオから流れるものだけを聞いていただけだったのに、直接会って、食事を共にして、ボランティアとはいえ一緒に舞台を作り上げることができるなんて想像がつくはずもなかった。
「……ふふ」
特に予定のなかった休日が、こんな想定外が連続する吉日になったことに大声で笑いだしそうになるのをこらえながら、一歩ずつ、少し速足に段差を踏みしめていった。
入り口の扉をくぐり、会場になる大ホールに入るとそこは、ただただ息をのむ大舞台。
数千ある客席がたった一つの、横に長い色あせた木製の舞台を囲んでいた。試しに舞台に立ってぐるりと眺めてみたけれど、空席なのに飲み込まれそうな感覚があった。これが明日には満席になると思うと想像もできないし、アメリアさんたちのプレッシャーも相当なものだろうと改めて感じる。
「……説明は以上よ。時間はたっぷりあるから、焦らず、正確にやってくれると嬉しいわ。私たちの舞台は、あなたたちにかかっているから……ね」
ボランティアスタッフへの一通りの説明を終えたカレンさんは、そんな表情は微塵も見せずに、魅惑的なウインクで士気―特に男性陣の―を底上げする余裕すらあった。
「小道具の搬入と、大道具の組み立て……それに音響と機械の調整……私は音響の方だって。ロイは?」
「俺はアレスと大道具。男はほとんどそうみたいだな。アレスなんか身体を動かしてないと落ち着かないって、もう行っちゃったみたいだけど……」
説明が終わって騒がしくなってきた場内で、初対面の人にずかずかと陽気に話しかけるアレスの声が耳に入って、俺は半笑いで答えた。
「あははー、なにやってんだかアレスは」
「遠目からだとチンピラに絡まれているようにしか見えないよな……んじゃ、エリン。また昼の休憩時間にでも」
「はいよー! 頑張っていきましょ!」
作業は大まかに午前と午後の部に分かれていた。
まず午前は主に道具類の準備。外部から運んできた道具を場内に運んで、大きいものは設計図通りに組み立てたり、いろいろな飾りつけをしたりする。
演者の声や楽器が響きやすいように特殊な機械を調整するのも、専門家が先陣を切ってボランティアがやる仕事に含まれているから、なかなか大変だ。
午後は準備したものが実際に上手く動くかどうかをチェックする時間。つまり、アメリアさんが見せてくれると言っていた最終リハーサルだ。滅多に見られない準備段階も含めて、舞台を先取りする形で観られることになるからか、場内の雰囲気は祭りでも始まるんじゃないかと言うくらい浮足立っているように感じる。
「……にしても、ここどこだよって感じだよなぁ」
ボランティアに駆け付けたのは当然俺たちだけではなく、ざっと五十人程度、それも国内外から来ているようで、カノン人のほかに、がっしりとした体格の、おそらくノクターン人の男性や、肌の黒いキャロル人の女性、細身な和人の青年、その他見た目からでは国籍が判断できない人々が、この劇場に勢ぞろいしていた。
元々ピクターに住んでいた移民か、この日のためにやってきた熱狂的なファンなのかはわからないけれど、アメリアさんや、彼女たちのやる作品の人気の高さがこれだけでも分かるというものだ。
「初めまして、こんにちは」
そんなことを思いながら大道具班の集団に混ざろうとした俺の背後に、やけに大人びた子どものような声が届いた。
「えっ? はぁ……どうも」
振り向いて咄嗟に返事をしたから丁寧口調になってしまう。これで相手が子どもだったらだいぶ恥ずかしかったけど、俺はその判断にすらだいぶ時間を要することになった。
そこにいたのは背の低い……性別もどっちなのか正直判断しづらい子どもだった。顔立ちはとても整っていて、どっちだったとしても美形であることには変わりない。
深緑色の、女の子で言うならショートヘア、男の子で言うなら少し長めの髪の毛に、それと比べて少し色の薄いヨモギ色のローブ。
赤い縁の眼鏡の奥に潜むのは、髪と同じ色をした瞳。その瞳が、目の前にいる彼か彼女を人間だという判断すら怪しくさせる光を持っているような気がした。
「では、頑張りましょうね」
彼もしくは彼女は、いろいろな判断に戸惑う俺に、たった一言にっこりと笑って言った切り、背を向けて小道具班の集団の中に溶けていったのだった。
それから準備は滞りなく進んで、午前の作業は終了した。
劇団メンバーの無駄のない指示や、程よく上がったボランティアスタッフの士気が渦のようなものを作りだして、みんなでその中に吸い込まれていったような、あっという間の時間だった。
その勢いの中でも俺の視線は何度か、あの緑色の髪と赤色の眼鏡を追っていたのだった。
「面白いなぁ、人間って」
お昼ご飯を食べ終え、観客席に座る俺の耳に小声でそんな言葉が聞こえた。
目の前の舞台ではすでにリハーサルが始まっていて、アメリアさんと、隣には魔法使いの弟子であるクリスタ役の女の子が表情を硬くして立っていた。エリンもアレスも別の席で見ているのか、代わりに隣にいるのはあの緑色だけだった。
「過去の人物たちを演じて、それが見世物として成り立つ。観客からしたら彼女たちの演技力も、そして物語としても見る価値はあるのでしょうけど……。彼女たちにとって、他の誰かを演じるって、いったいどんな意味を持つんでしょうね。ボクにはそれが分からなくて」
少年―と便宜上しておこう―は、憂いた顔で、たぶん俺に向かってそんなことを言う。なぜか俺が座っている席の列には、俺と少年の二人しか座っていないので十中八九そうなのだろうけど。
「なんだか、ずいぶん哲学的な話だな」
謎の雰囲気を纏った少年の謎の問いに、俺は無難な受け答えをすることしかできない。
というか、彼の言い方自体、一言一言が軽いというか、あまり本気で気になっている風にも聞こえない。
こっちもまともに答えて良いものなのかどうか分からないというか。
話している本人と声が分離して、ふわふわと浮かんでいるような奇妙な感覚だった。
「分からなくなったりしないんですかね。自分自身ってやつを」
ぽつりと呟くその横顔から、言葉の真意はつかめない。
そもそも照明が薄暗くなって、はっきりとその顔を見られているわけでもない。
でもほんのわずか、声に‘この子自身’が宿った気がした。
「……つまり、演じている役としての自分と、普段の自分がごちゃ混ぜになって分からなくなるんじゃないかって意味か?」
役になりきった自分と、本来の自分自身との境界があいまいになる。小説なんかを読んでいてもたまに見かけるテーマだったりするし、小さい頃は俺も思ったものだった。
どうしてこの人は、自分が悲しくもないのに泣けるのだろう。
役を演じきった役者さんは、さっきまで舞台に立っていた人とは全くの別人になっていて、なんとなく変な気分がしたのだった。
「そうですね。役としての自分に居場所を奪われるというか……。もしそうだとしたら、この仕事って、すごく悲しいものだと思いません? ここまで大掛かりな準備をしてやることと言えば、偽りの自分に場所を明け渡して、それが輝く姿を観客に見せて喜ばせる。そこに彼女たち自身はいないんです」
「……だいぶ悲観的だけど、言っていることは何となくわかったよ。でも……」
俺は言いかけて、少年の目が遠くに行っているのに気が付く。
その行先は舞台の上にあるようで、もっと別の場所。終盤に向かっていくにつれて加熱していくアメリさんの演技に心を動かされている様子は一切無い。
「無光の魔法使いサファイアは、暗闇でたった一人だったから、迷う必要も、偽る必要もなかったのでしょうね」
目の見えないサファイアは、街の人たちに頼まれて悪い魔術師アメジストを退治しに行く。でも、本当にアメジストが‘悪者’だったかは、サファイアの視点でしか物語が展開されないから分からない。
千年の眠りから目覚め、世界に禍をもたらそうとした金眼の魔術師アメジスト。
彼女がどんなことを思って、どんなことに苦しんだのかも、サファイアには見えない。
自分の信じる道と光へ、弟子と手を携えながら、文字通り盲目的に進んでいった。
ただそれだけなのだ。
「……」
「……さてと」
少年は表情を一転させて、口元をあげてこっちにその深緑色の瞳だけを向ける。
「お堅い話はこれくらいにして。あなた、作業中にずっとボクのことを変な目で見ていたでしょう?」
「いや何で俺が……ん?」
少年(?)のあからさまにからかうような言い方に、いろいろな前提が音を立てて崩れていく。小難しい話に浸っていた俺の頭は、飛び込んできたその事実になかなか追いつけないでいた。
「この辺りの殿方は皆さん、いささか消極的なようでして。そういう視線だけ送ってきてとても暑苦しくてですね……。ためしにこちらから話を振ってみたんですけど、どうなんですか?」
ニヤニヤと笑みを浮かべる少年―いや、少女を、俺はまじまじと見つめる。
証明に照らされた長いまつ毛。ぷっくりとした頬。
よくよく見てみれば、ちょっと髪色は珍しいけれど、普通に普通の女の子だった。
「全然、‘少年’じゃないじゃないか……」
「ん、なんですか?」
「なんでもない……。いやほら、ここにはいろいろな人が来ているけど、君みたいな髪色の人って珍しかったからさ。ちょっと気になったんだ」
致命的な誤解をしていたことを舌の裏に隠しながら、俺は適当に話を繋ぐ。
「ずいぶん雑な誤魔化し方ですねぇ。もうちょっとこう、駆け引きを楽しみましょうよ」
「……」
無邪気、と言えば聞こえは良いが、完全に楽しんでいる顔だった。
「それより、貴重なリハーサルだぞ。見なくていいのか?」
そんな彼女に内心戸惑いつつ、俺は少し口調を強めて前を向く。
舞台上では役者さんたちの声が壁を、天井を貫くように響いている。物語の展開はこの少女との会話でだいぶ見逃してしまったけど、本当にラストシーンに差し掛かっているようだった。
アメリアさんの歌声は、会話の時のような吐息のような控えめさとは全く対照的な、圧倒されるような声量で、それなのに少し怖いほど透き通っていた。
一方のカレンさんは、地の底から湧き上がって、吸い込まれるような言い得ない響きのある中音域の音がいつまでも耳と胸に残るような、そんな歌声。
「良いんですよ。どうせ明日には本番が観られるんですから」
「そりゃ、元も子もないけど……」
そう言いつつ彼女の視線も、今度はしっかり舞台の上に向けられていた。
カレンさんが演じるアメジストの根城である茨の森に入り、ついに対面するサファイア。二人の言葉の応酬が繰り広げられていくのを、会場にいる全員が観客になって見つめているのが、わざわざ確認しなくてもこの張り詰めた空気で分かる。
さすがのこの子も、この空気の中で軽口を叩く度胸はないのかもしれない。
ピアノの速いテンポが、ヴァイオリンの甲高く走るようなリズムが緊張感を加速させる。
そこにアメリアさんとカレンさんの二つの声が交わって、強烈な引力で物語の世界へと引き込んでいた。
アメリアさんが叫ぶように詞を紡いで、カレンさんがそれを継ぐように口を開きかける。
演奏が徐々に静まり、カレンさんの―アメジストの言葉が会場に―。
「ダメだ!! いったん中止だ! 中止しろ!」
響くことはなかった。代わりに低い男の声が、まるで稲妻のように降ってきて、すっかり聞き入っていた俺の肩は反射的に震えた。
声の聞こえた方―席の最後列を見てみると、そこには背の高い男性が大きく足を広げて、腕組みをしながら立っていた。
「父上……? どうされたのですか?」
確かあの人は、このダフニー劇団の主であり、アメリアさんの父であるダフニー・アムリータさん。最終確認の通しのリハーサルということもあって、今まで俺たちと同じように黙って観ていたのだけど、叫んだ彼の目は鋭く細められていた。
「問題はアメリアではない……カレン、お前だ。なぜいつもそうなってしまうんだ?! 私は何度も言ったはずだぞ! そこはもっと、お前自身をアメジストに乗せろ! 重要なシーンを台無しにするつもりなのかお前はッ!」
アメリアさんと同じ黒に少し白が混ざった髪、彫りの深い顔に嵌る青い瞳が射抜くようにただ一点、カレンさんを睨む。
ホール全体を震わせるような怒鳴り声に、ビリビリと痺れたように誰も何も言うことができない。当のカレンさんも呆然とした様子で口を開けたまま、目を見開いたまま時が止まってしまったかのように動かなかった。
「んー? 何がいけなかったんでしょう。素人目から見た印象ですが、今までの演技はかなり完成度の高いものだったように思いますけど。監督さん、何が気に入らなかったのでしょうね」
唯一口を動かせるのは隣に座る緑色の少女だけ。さすがに小声で、かろうじて俺に聞こえるくらいのボリュームではあったけど、なかなか肝の据わった子だった。
相変わらずの軽薄な口調だったから、もし聞こえていたらもう一発雷が落ちていたかと思うとヒヤヒヤする。
「お前にならできるはずだろ! アメリアはできているんだぞ。目の見えない娘にできて、お前にできないはずはないだろうがッ!!」
「……ッ!」
俺の胸の内とは全く裏腹に、次の雷は容赦なく落ちた。
それはあまりにも一方的で、絶対的で。
「やり直しだ。すまない諸君、最初からセッティングを整えてくれ!」
ツカツカと上の方から大きな音を立てながら、俺たちを順々に見まわして指示を飛ばす。時が止まってしまった空間で、ダフニーさん一人だけが異様なほど動きのある存在だった。
「嫌……」
迫るダフニーさんに、一歩足を引くカレンさん。
「カレン、何が、どうなっているんです……?」
慌てた様子のアメリアさんは、今の状況を把握できていないようだった。
おろおろと泳ぐその青い視線が、光を通さないはずの青い瞳が一瞬だけ、カレンさんの金色と確かに合わさったように見えた。
「……ッ!!」
「おい、カレン!」
その視線からも逃げるように、カレンさんはホールの出口まで一直線に走っていく。小さな宝石が砂のように散りばめられた紺色のドレスが、流れ星のように過ぎ去っていく。
「待て、どこへ行くんだカレン!」
ダフニーさんの怒声にも止まることはなく、ガタンという音ともに、その姿は扉の向こうに見えなくなってしまっていた。
「カレン、どうしたのですか……カレン?」
すっかり静かになってしまったホールには、親とはぐれてしまった子どものようなアメリアさんの声が虚しく響くだけ。
ダフニーさんでさえ、眉間にしわを寄せ、固く閉ざされてしまった扉を見つめるだけ。
「明日には本番が観られるとは言いましたけど……どうなるか分からなくなってきましたねぇ」
重くなってしまった雰囲気の中、少女の言葉だけがふわふわと浮かんで、俺の耳に入ってくる。その顔はきっと、俺をからかった時と変わらずニヤニヤと笑みを張り付けているのかもしれない。
けれど、俺はそれを実際に確認することができなかった。
「あれ……?」
なぜなら隣にいたはずの、あの少し生意気な少女は姿を消してしまっていたから。照明が点き始めた中で周りを見渡しても、あの目立つ緑色を見つけることはできない。
「……」
彼女が座っていた座席だけが、あの小さな身体を乗せていた形跡だけを残して、ホール内は徐々にざわつきと光を取り戻していったのだった。




