第6話:迷える羊雲
―聞こえるかい兄さん。
―バレたみたいだから、切ってしまって構わないと思うよ。
―じきにそっちに来るだろうから、跡形も無くやってくれると助かる。
「……」
冷たい声が響いていた連絡機を耳から離して、男はもう何時間も目の前にある銀色の杯だけを見つめていた。
電灯の仄かに暖かい光が、その杯と、床や棚に無数に置かれているヒール・オーナメントを照らして、男の光の無い目に映る。
すでに子どもたちは寝ているから、この部屋には今、彼一人しかいない。
連絡機が鳴った時には、封魔師のあの子たちが頼んでおいた買い物を終えたのだと思っていたが、どうやらそうではなかったようだ。
―なんとか上手くいっていると、そう思っていたのに。
いや、最初から上手くなどいっていなかったのかもしれない。
二か月前、あの赤髪の青年が訪ねてきたときから、この歯車は狂いだしていたのだろう。まさか‘哀欲の杯’を騎士団に売った張本人が、執念深くその後の行方を追って奪い返しに来るだなんて、誰が予想できただろう。
これにはさすがのあの男も予想外だったらしく、普段の偉そうな顔が狼狽えたのを思い出すと、彼は今でも吹き出してしまいそうになる。
「……僕は、何をやっているんだろうな」
銀色の杯には、そう情けなく呟く自分の姿。
この杯に満たされているのは、憎しみと後悔と悲しみと……そんな感情が綯交ぜにされた邪気。
今は安らかに眠る子どもたちから、無理やり絞り出した心の闇。
世界が生んだ闇だとすら、男は思う。
そんな闇の奥底からは、黄金色に輝く欲望の塊が溢れ出る。
生み出した輝きも、闇を生む。
暗闇の底は暗闇だ。
何色を加えても変わることも、満たされることはない、ただただ真っ黒な暗闇
彼や彼の弟の乾ききった欲望には際限がなく。
欲望によって輝きを増す仄暗い光は、やがて幾千人もの歯車と、幾万人もの何も知らない人々の笑顔を照らす。
影に立つのは、いつだってあの子たち。
―ブラックシードにだって存在する価値はあるさ。
そんな言葉に縋って、彼は救っていた気になっていた。
状況は何一つ変わっていないのに、子どもたちの浮かべる笑顔に安心して。
彼らの苦しむ顔には、いつの間にか心を殺していた。
空虚な、もう意味を成さなくなった言葉を恥ずかしげもなく口にしていた自分は、あの封魔師の少年にはどう映ったのだろうか。
「……ッ!!」
もう迷うことすら止めていたのに、今さらになって、深まる夜の静寂が彼を責め立てる。
―どうしてわたしたちを苦しめ続けるの。なぜぼくたちはこの生き苦しさから抜け出せないの。どうして、どうしてどうしてどうして?
男は声を払うように、棚の上にあるヒール・オーナメントを、形だけでも子どもたちの心を守ってきた療心器を払い落としていく。陶器でできた脆いものはすぐに粉々に割れ、それ以外のものも一部が破損し、用を成さなくなってしまう。
子どもたちが寝ているというのを忘れて、一心不乱に。
その片手に、金色の硬貨を延々と吐き出す銀色の杯を放すことなく。
破壊音が聴覚を支配していたからだろうか、男は背後の扉がゆっくりと開くのに気がつかなかった。
「……」
「ヒャハ、ずいぶん元気が良いじゃねーかよ」
気配に気が付いて振り向いた時には、赤髪の青年と封魔師の少年少女が扉を塞ぐように立っていた。
「元気の良いまま、ちょっとだけこっち向いてろよ?」
そんな青年の言葉を理解するより前に、パシャリという音とともに、男の視界は強烈な光に照らされた。それすらも自分を責めるように思えて、彼の喉からはうめき声が上がる。
光の残滓がちりちりと視界を焼く中、彼が視界に捉えたのは、黒いレンズに映る自分の姿。
長めの茶髪を乱し、空ろな目をした―ミストル・ブルメリアだった。
*****
「一か月ぶりにしちゃ老けたかァ? ミストルさんよ。前にお邪魔した時はもうちょっとフレッシュだったぜ、ヒャハ」
ボロボロと形容して良いくらいの、昼間とは見違えるような容姿のミストルさんに俺は言葉を失う。アレスの軽口にも、向けられたレンズにも、表情を変えずに立ち尽くすその姿に、もう俺の知っているミストルさんはいないようだった。
「なんだよ、なんか返事してくれねェと寂しいなァ? せっかく結界を掻い潜って来てやったっていうのによォ。それともオレたちがここに来れたのがそんなに信じられねェか? こっちも封魔師やってんだぜ、そんなに舐めてくれるなよ」
アレスは調子づいたように、その口を止めない。
「この赤髪……今じゃなかったら噛みついて指の二、三本持って行ったところだったぞ」
まぁ、あの結界を抜けられたのは間違いなく俺の足元で物騒なことをつぶやくミラのおかげなのだけど。
あの後、俺は指示通り、ミラにこの家までの道を案内させたのだった。こいつの能力を知っているエリン以外には怪訝な目で見られたものだけど、着いてしまえばこっちのもの。かなりの時間がかかって、日にちを跨いでしまったようだけど、文句はなんて一つもなかった。
「あぁ、誤解を解く意味でも言っとくか。ロイ、こいつとはちょうど一か月前くらいに会ってるんだぜ。しかもこのオレ様が、客人として直々にこの‘羊雲の家’に訪ねてきてる。それなのにこいつは、オレを‘ドロボーさん’呼ばわりして、お前らみたいな封魔師まで呼んで追っ払おうとしたんだぜ? そうまでして隠したい何かがあったってことだよな?」
カフェの中では聞くことのなかった情報をアレスは言って、俺とミストルさんを交互に見る。どうしてその時期にこの家を訪れたのかという疑問がすぐに頭に上ったが、そんなことを聞いていられる精神状態でも、雰囲気ではなかった。
ミストルさんはもちろん、エリンも俺も、部屋に流れる張り詰めたような空気に、声も出すことができない。
黙っていないと何か取り返しのつかないことが起きてしまうようなこの感覚に、エリンは口をきつく閉じて、ミラもいつも以上に澄まして、何かに備えているように見える。
ただ陽気なのはアレスだけ。
その視線はだんだんとミストルさんの右手の中にあるモノに集中していく。
「あれあれ、その手に持っているのは何だァ? ヒャハハ、いつだったかに悪名高い蒐集家から盗み取った‘哀欲の杯’じゃねーか? オレ様、義賊らしくちゃんと騎士団のおにーさんに売り飛ばしたはずなんだがなァ、何でこんなところにあるんだかなァ!」
アレスの声から、だんだんとからかうような軽さが抜けていく。それは容赦なく罪人を責めるような、そんな声色。それを押しするように、パシャパシャとシャッターを切る音―このために俺がアレスに貸しておいたものだ―が響く。
「……渡せよ。こんなくだらねェことに使うなら、オレが何度でも盗み返してやるって言ってンだよ」
カメラを降ろしたアレスは冷たい目をさらに下、ミストルさんの足元に散らばるヒール・オーナメントの破片と、無数の金色に向けた。
この目で実際に見るまでは半信半疑、どころかほぼ疑っていたけど、杯から漏れ出て、床を輝かせているのは間違いなく金。カノンでは一枚一万マニーの価値のある金の硬貨だった。
そしてその杯を手にしているのがミストルさんだということを俺は見てしまったから、もう嫌でも認めるしかない。
俺の中で確かに、何かが音も無く崩れていくような感覚がした。
「逃げられねェよ。会社の資料、証人、そして今撮った写真……証拠は十分すぎるほどあンだ。さっき騎士団を呼んだから、おとなしくお縄につくんだな。……その前にオレは逃げるけど、ヒャハ」
最後にそう付け加えて、アレスは口元を上げる。
対してミストルさんは、抜け殻のようにさっきと同じ姿勢を保ったまま動かない。
「……」
「アァ? なんだよ、聞こえねーぞ?」
乾いた唇が微かに動いて何かを言ったようだが、誰の耳にも届かず、空気の掠れる音だけが虚しく響く。
「僕が……」
絞り出されたその声は、たった半日会っていないだけだったのに、かなり久しぶりに聞くようで、まるで初めて聞くような感覚でもあった。
「僕が、何か悪いことをしたのか。説明してみてくれよ……」
縋るような、胸を締め付けられるような、それは小さな叫びで。
―僕は、何も悪いことなんてしていない。
どうしようもなく虚しい、自分の罪を認めたとも取れる断言だった。
「……ヒャハ。何を言うかと思えば。ふざけてんなよ。お前がやったことはご立派な‘悪’なんだよ。ガキを、ブラックシードを救いたいだなんて‘嘘’をついて、やったことといえば金稼ぎか! なんだ、弟に脅されでもしたか、こんなことをしねェと資金援助をしてもらえなかったってか! 金ならいくらでも稼ぎようがあるだろーが……! 気持ち悪ィんだよ、そうやって偽善者ぶるヤツが、オレはこの世で一番嫌いなんだ。聞こえの良いことを建前に汚ェことするやつらを……オレは絶対に許さねェ」
アレスが、止まらなかった。
さっきまでの重たい沈黙なんてなかったかのように、アレスが言葉を発するたびに空気が震えて、滾るような錯覚に陥る。
確かにアレスの言っていることは正しいし、俺も全面的に同じ気持ちだ。
ただ、温度差があまりにもある。
落胆や失望なんていう言葉で表すのが良い俺のこの気持ち―正直、今自分がどんな気持ちなのかはっきりと説明できない―とは真逆に、アレスの心は今怒りで占められているのだろう。
その気持ちは十分に分かるし正しいと思うけれど、正しすぎて、火傷しそうだ。
「嘘なんかじゃない! 嘘だったら僕は、こんなに迷って、苦しんだりしない……! あの子たちに価値を与えたかった……それだけなのに……」
その証拠に、呪文のように言葉を紡ぐミストルさんの表情は苦悶に歪む。
あの時のココちゃんの顔と同じ、演技なんかでは絶対表現できない苦しみの表情だ。
「アレス、きっとミストルさんにも何か理由があったんだ。そのくらいに……」
「どんな理由があれ、ガキどもの心を踏みにじったこいつに、‘悪’以外の言葉はねェんだ。言い訳なんざ聞く気はねェ」
耐えられず止めようとした俺だったけれど、アレスは耳を貸す気はない様で、また何かを言おうとしているようだった。
「やめてアレス。もう、何も言わないで」
もう見ていられない。そう思って耳を塞ぐ前に、エリンが口を開いていた。
短い、けれどはっきりとした口調で、アレスにその先を言わせない。
「これ以上責めるのは私たちのやることじゃないよ。騎士団が来るまで……待とう」
「……ちッ。わーったよ」
アレスの言葉が正論なら、エリンの言葉もまた正論。そこはアレスも分かってくれたようで、そう一言言ったきり、頭を掻いてミストルさんから顔を背ける。
「……」
もう、誰も何も喋らなくなって、空気は徐々に熱を失う。
いろいろな感情が胸に綯交ぜになっていて、どんな顔をして良いか分からなかった。アレスのようにミストルさんを責める強さも、かと言ってこんなことをした理由を訊く勇気も俺は持ち合わせていなかった。
ここで子どもたちの誰かが起きてきたら作り笑いの一つも浮かべられなかっただろうが、あの子たちに関してはラモスさんと、あの三人組にバンまで運んで、先に街まで送ってもらうように指示したので、この家にはいない。
結界は逆方向には作用しないから、この家からバンまでの道のりなら迷わずに済むだろうし、例え魔物に出くわしてしまってもあの三人組に魔物退治の心得があるようだから問題は無いはず。
後は騎士団の到着を待つだけ。
「……」
……いや、待てよ。俺たちがここまでの道のりを迷ったように、騎士団だって結界に惑わされてしまうんじゃないか? だとしたらいつまで待っても騎士団が来ることはないのではないだろうか。
長い沈黙の後、すっかり安心しきっていた俺は、そんな単純なミスに気が付く。
「おい、アレス……」
俺の名誉を守るために言っておくと、ここまでの計画を立てたのはアレスであって俺じゃない。粗暴だが熱く、芯の通ったところがあるなんて見直しかけていたアレスの、そんな間抜けな計画の穴を指摘しようとした時だった。
「誰も、僕を裁いてはくれないんだね」
ミストルさんが静かに言って、手に持っていた杯を口元に持っていったのが見えた。
「おい!」
アレスの叫び声だっただろうか、止めようとするには遅すぎた。
気づいた時には、まるでその中身を飲み干すかのように、ミストルさんは一気に杯を呷っていた。
「あ、あ……ああああああああァァァぁぁぁぁァァ!!!!」
もはや何を飲んだのかもわからないその口から、人間とは思えないような雄叫びが漏れ出る。
身をよじらせるミストルさんからは、目に見えるレベルの黒色のアステル―邪気が渦巻いていた。
「嘘だろ……」
力の奔流が轟々と唸って、この狭い部屋を舐めるように駆けずり回る。ミシミシ上がる木造の‘羊雲の家’の悲鳴に、俺の呟きはかき消される。
「や、やばいってこの音! 出た方が良いよ!」
「分かってらァ! あの野郎、何てことしてくれてんだ!」
エリンとアレスの叫びに、俺は弾かれたように扉を蹴破って入口へと向かう。
「あの男、死ぬ気か! 今の精神状態で、あんな大量の邪気を身体に取り込んだら人間ではいられなくなる!」
ミラが駆けながら叫ぶ言葉に、俺はゾッとする。
それは三週間前を、四年前を思い出させるものだったから。
「くそっ……!」
俺は振り返って、遅れて付いて来たエリンとアレスの、さらに背後に目を凝らす。
つい数時間前まで、子どもたちに居場所を与えていた‘羊雲の家’が、その形を崩していく。
子どもたちとくだらないことで笑い合った大部屋も、みんなで作った料理を頬張った食卓も、将来子どもたちが大きくなった時に使うはずだった小部屋も、みんな押し潰されていく。
「くそ……くそ……!」
ここに来て、俺はようやく自分の感情を認識することができた。
落胆でも失望でも、アレスが感じていたような怒りでもない、悔しさが、崩れていく‘羊雲の家’を目にしてようやく声になって出てくる。
子どもたちと笑い合った数日間が、ココちゃんの苦しむ姿に胸を痛めたあの夜が、ミストルさんの言葉に共感して力になりたいと思った自分の感情が、全部嘘だったんだと否定されたような感覚に、俺は猛烈に襲われていた。
「どうなってンだ……ありゃ」
バキバキと異様な音を立てながら、家だった破片は何かに吸い込まれるように、その面積を縮小させていく。家を両側から照らすように立っていた電灯だけが、モクモクと白い煙を立てて見えなくなる家の末路を見せつける。
「……!」
煙が晴れると、そこには家の残骸なんて欠片も残っていなかった。
エリンの息をのむ音に、俺はその光景を目に映す。
そこには筋肉隆々の男が立っているように見えた。上半身には何も衣服をつけておらず、盛り上がった肉体を惜しみなく見せるように、胸を張って立っていた。
ただ、下半身は人間ですらなかった。
言うなら、蜘蛛の下半身をそのまま人間に取って付けたような、異様な形。腰から下の丸みを帯びた灰色の器官から生えているのは六本の細長い脚で、その巨体をしっかり支えている。
そのうちの一本が、音も無く一歩分だけ前に出る。
アンバランスな体形に、軽く眩暈すら覚えながら、もはや人間と言って良いのか分からないその顔を見る。
色素が抜けたように真っ白だが、そのカールした髪の形に見覚えがあって、俺の一縷の望みは途絶えた。
頭部から突き出している、湾曲した漆黒の角。
真っ赤に充血した、震えるような瞳。
そんな怪物じみた容姿でも、俺はこの怪物を、ミストルさんだとはっきりと認識できてしまった。
「魔物……じゃなくて魔徒の方だよな、ありゃ」
「そうみたいだな。かなり異形ではあるけど……」
俺とアレスはそれぞれの得物を構えながら、目の前の存在が何なのかを認識する。
半人半蜘蛛、と呼ぶべき怪物の姿をしているから、ミストルさんが生み出した魔物と取ることもできるのだけど。
杯にあった大量の邪気を体内に取り込んだことや、上半身だけでも人間の面影が残っているということから考えて、魔徒―人間が膨大な邪気によって魔物的な存在に変化したものと見た方が良さそうだ。
「嫌な予感はちょっとあったんだけどね、止められなかった……ごめん」
「おめーが謝ることじゃねーよエリン。誰が邪気を自分から飲み込もうなんて予想がつくンだよ」
目を伏せながら、腰に巻いた小さいバッグから‘フォーマルハウト’を取り出すエリンに、アレスはすかさずフォローを入れる。
ミストルさんの精神状態は確かに危険だったかもしれないが、それでも陥魔するほどではなかったはずだ。陥魔はその人の感情以外に、大量の邪気を必要とする。それはすぐ手元―‘哀欲の杯’に満たされてはいたけど、まさか自分から取り込むだなんて思いもよらなかった。
「ア……イヤ……ダ……ゴメ……ン……ネ……アアア……ガァ!」
それは今、一歩ずつ苦しそうに近づいてくるミストルさんだって考えていなかったかもしれない。
突発的で、説明のできない感情の暴走。
それが陥魔する人たちの心の状態。
知識では分かっているつもりでも、実際に目の前にすると、俺もエリンも何もできないのだと思い知らされる。
「来るぞ!」
ミラの念話と、肩にのしかかるような暗い重圧に、俺は‘雷鳴’を構える。ほぼ同時に両隣の二人も戦闘態勢に入った。
反省は後だ。今はとにかく目の前にいる魔物を、封魔師として倒すことに集中しなくては。
「……っつ?!」
けれど、音も無く迫ってきた拳に、そんな決意も瞬時に吹き飛んでしまう。
次に目にしたのは、俺が数秒前まで立っていた地面が深く抉られている光景。そして、苦しみに歪むミストルさんの紅い瞳。
どうやら俺は、真上から振ってきたミストルさんの両拳が空気を斬り裂く鈍い音に、地面を蹴って後ろに跳ぶことでしか反応できなかったようだ。
「ヒャハ! やるねェ、速さも力も洗練されてらァ! さすが魔徒だぜ」
「感心してる場合じゃないでしょ! 死ぬかと思った! ぜんぜん気が付かなかった……!」
同じように真横に跳んで躱した二人も、間一髪のようだった。アレスはなぜか楽しそうに、エリンは怯えているようだけど怪我は無いようだ。
「不用意に近づくな! 手のうちが見えるまでなんとか防御に専念しろ!」
ミラは早くも茂みに隠れながら念話で俺に指示を飛ばす。
頭を軽く振って、前を見据えて意識を集中させる。俺の戦闘スタイルは超接近戦。‘雷衣’があるものの、相手を知らずに突っ込んで無効化されるような力でも使われたらおしまいだ。
あまり得意ではないが、言われた通り、今は離れた場所から刺激して反応を見た方が良いだろう。俺は数少ない遠距離型の星心術を使うために、‘雷鳴’にアステルを籠めていく。
「ヒャッハー! 派手に行くぜェ! 紅輪斬ッ!」
俺とは真逆に、アレスは何の恐れも無いようにミストルさんに飛び掛かっていく。埒外の跳躍力で上がったアレスの身体は、そのまま遠心力によって徐々に回転を始め、同時に両手に持ったナイフからは炎が噴き出す。炎は回転に合わせてアレスを包んで、次第に夜空に浮かぶ真っ赤な渦を作り上げていった。
「あいつ、命知らずかただのバカか!」
ミラはどっちもあてはまるような悪態をついて、轟々と燃え盛りながらミストルさんに突っ込んでいく炎の渦を見上げる。
同じくそれを見上げるミストルさんは、怯む様子もなく片手を上げる。
そこからあふれ出るのは濁った灰色のアステルの奔流。
気体とも液体とも取れるそれは、だんだんとモコモコとした綿のようなものに形を変えていく。
「―!」
無言でその太い腕を振り抜くと、その綿は次の瞬間には、羊が寒さを凌ぐために蓄えている体毛のように、巨体を包むほど肥大化していた。
衝突した高熱の質量にも燃えることなく、見た目以上に頑丈な灰色の綿は渦の衝撃を吸収しているようだった。回転速度は次第に衰えて、炎が霞んでいく。
「くそっ! なんだよあれ、やわらけーのにかてーぞ!」
アレスは吐き捨てるように言って、身体を捻って俺の真横まで飛び降りてきた。
俺はアレスが着地したのを見計らって、雷を充分に溜め込んだ‘雷鳴’の切っ先をミストルさんに向ける。
「無駄かもしれないが、ぶつけてみる価値はある……雷火飛散!」
相手を休ませる隙を与えず、バチバチとショートする剣身が、黄色い火花の矢を放つ。
それを防ぐためにゆっくりと不気味に蠢く灰色の綿が、まばらに刺さった火花を受けて、眩い光とともに連鎖的な爆発を起こしていった。
「どうなった……?」
再び真っ白な煙が上がってミストルさんの姿が見えなくなる。これであの綿を破壊で来ていれば良いけど、果たして……。
「……」
「ロイ、アレス、避けて!」
―ひゅん、ひゅん。
耳に入ったのはエリンの叫び声と、空気を斬りつけるような甲高い音。
俺はもう一度、本能が命じるままにミストルさんから離れようと全速力で走る。
数秒後に背後から聞こえたのは、めりめりと何か大きなものが地面からはがされるような異様な音。
目を向けると、無数に生えていた木が雑草のように引き抜かれている最中だった。
木に繋がれていたのは、さっきの綿と同じ色の、細い光の糸。細さに見合わず、大木に巻き付き、きつく締めあげていく。その圧力は、ほんの数秒で木を粉々に粉砕するレベルだった。
メキメキ、バキバキという粉砕音が、嫌でも恐怖心を煽る。
「……」
「ヒャハ、あんなのに捕まったらオシマイだな」
その力の容赦の無さに、俺は言葉を失う。
同じ方向に逃げてきていたアレスも、ようやくこの圧倒的な実力の差を実感したらしく、ぽつりとこぼす。
そんな俺たちのことなど知る様子もなく、ひゅん、とさっきも耳にした特徴的な音を上げながら、糸はミストルさんの指先へと戻って消えていった。
「近づいても遠ざかっても、何かしらの攻撃で防がれるな……」
「ヒャハ、そりゃそうだろうよ」
「……何か、連携攻撃ができれば、少しはダメージを与えられるのだろうけど」
あんなのを一人で相手にしていたら、命と時間がいくらあっても足りない。綿で攻撃を無効化されて、体力が尽きた頃に糸で縛り上げられて終わりだろう。
「何か……何かないのか」
訓練時代にロックやエリンと必死に練習した技の中から、何か使えそうなものが無いかと考える。考えていくうち、かなり久しぶりの実戦だからか、自分の頭が十分に回っていないことに気づく。
「二人とも、ぼーっとしてないで、上見て!!」
エリンの声に、焦るだけの思考を止めて俺は反射的に空を見上げる。
あっちも休む間を与えてはくれないらしく、今度は灰色の光弾がユラユラと振ってくるのが目に入った。
「くっ……雷衣!」
自然の雨のように無慈悲に落ちる光弾は、地面を陥没させ、木々を真っ二つに裂いていく。‘雷衣’で防げる威力とは到底思えなかったが、それでも保険でかけておいてから、降ってくる光を避けるために走り回る。
俺とは逆側に走り込んだアレスは、軽い身のこなしで光弾の降ってこないところに上手く足を運びながら、徐々にミストルさんとの距離を詰めていく。
「ロイ、頭上だ避けろ!」
「バッシャーバレット!」
「……?!」
―キィン。
アレスの動きに気を取られていた耳と頭に、一気に二つ以上の声が響いて、俺の身体は硬直する。
「雨……いや……」
混乱する中、にわか雨のように降られたような感覚がして、俺は上を見る。考えるまでもなく、エリンのバッシャーバレットに守られたようだった。
「エリン、助かった!」
「良いってこと……よっと!」
エリンは降ってくる光弾の雨から視線を外さず、その手に握った‘フォーマルハウト’で撃ち抜いていく。
撃ち抜かれた灰色の光は水弾と対消滅し、本当の雨となって降ってくる。
「ヒャハ、オレの炎は雨でも消えないってなァ!」
空からの脅威がなくなった地上で、アレスは炎を纏ったナイフで、鞭のように空気を斬る灰色の糸を払っていく。言葉通り、ナイフの火力は勢いを衰えさせることなく、逆に破壊的な糸の勢いを弱めているようにも見えた。
「虫けらはでっかくなっても虫けらなんだよォ! 爆刃炎波ッ!」
剣のように振り下ろされた糸を焼き切って、アレスは両腕を交差させ、それから一気に振り払う。
刃の軌跡をなぞるように現れた紅く光る斬撃が、一直線にミストルさんへと放たれる。
「……グゥッ!!」
さすがにあの綿を発動する時間はなかったのだろう、わずかに身体をずらしたものの、脇腹にその斬撃を受けて、ミストルさんは低い呻き声を上げて跪いた。
抉られた傷口からは当然血なんて出ることもなく、その身体を満たす黒いアステルが粒子になってこぼれ出てくるだけだった。
「攻撃が……当たった!」
「ヒャハ、喜ぶにははえーよ。次からが考え時だぜェ……!」
ガッツポーズを取るエリンに、アレスは以外にも冷静に言ってから、なぜか素早く俺の隣に戻って来た。
「な……なんだ?」
それから俺の顔を、そして少し離れた場所に立つエリンの方を交互に見てから、にやりと笑う。
「連携攻撃、ね……ヒャハ、思い付いちゃったぜェ」
戸惑う俺をよそに、視界からアレスの姿がブレる。
隣にそよ風を感じたのもつかの間、アレスは縦横無尽に方向を変えて、苦しそうに呻くミストルさんの方へと駆けていく。
「エリン! いつでも撃てるようにそっからその銃構えとけ! ロイもさっきやってた火花を準備しとけ!」
―キョウゲキだ!
再びミストルさんの指から生成された、矢のように襲い掛かる糸を器用に躱し、ナイフで斬りつけながら、アレスは叫ぶ。
‘コウゲキ’を言い間違えたのかとか、そんなくだらないことを一瞬思ってしまう。けれど、ミストルさんの背後にいたエリンが、その声にすぐに反応して‘フォーマルハウト’を構えたから、そんな思考を瞬時に捨て去って走り出すことができた。
「ま、やってみる価値はあるだろうな」
ミラの念話を耳に入れて、俺はミストルさんの巨体の背後に回り込んで足を止める。
ここまでの短距離走で、アステルのチャージは十分だった。
「紅蓮爪牙ッ!」
蛇のようにのたうち回る糸をすり抜けて、アレスは両手のナイフに炎を纏わせる。
対するミストルさんは、俺たちのやろうとしていることに気が付いていないのか、向かってくるアレスのみに視線を向けて、膨大な灰色の綿を出現させようとする。
「いけェッ!!」
「バッシャーバレット……ガトリングぅ!」
「雷火飛散!」
綿に突っ込んでいくアレスの合図に、俺とエリンの叫び声が重なる。
キィンという甲高い発動音とともに、エリンの目の前に現れた水色の星心術陣からは、無数の水弾が絶え間なく放出されていく。
‘雷鳴’からもバチバチと火花が迸り、水弾と同じ標的に一斉に射出される。
がら空きの背後を、水弾と火花の水色と橙色の光が混ざり合って、夜空とともに眩く照らした。
水が迸り、雷が爆ぜて、炎が唸る。
いろいろな音に、俺の耳と脳は処理に追いついていない。
ここからアレスの様子を伺うことはできないけど、ミストルさんの代わりにあの炎の斬撃を受けている綿が虫食いのように燃えて徐々に小さくなっているから、優勢なのは確かなはず。
「オオオ、オオオオオォォォォォオオオ!!!!」
ミストルさんの背中に水弾と火花が絶え間なく着弾し、傷ついていく。
真っ黒な空に響く雄叫びは、ただ痛みに耐えているだけではないように聞こえて、俺の心は揺れる。
「ッダラアアァァァァァアアアアアッ!!!!」
それを上塗りするように、アレスの咆哮が耳を劈かんばかりに響いた。
同時に、あれだけ壁のように立ちはだかっていた綿が、音を立てて真っ赤に燃え上がっていく。
「アレス……!」
力がもう長く続かないのか、エリンが呻く。
それに応えるかのように、ぼうっと発炎した綿を、真っ赤な壁を潜り抜けて、アレスが姿を現したのが一瞬だけ見えた。
所々煤けた頬に、もう見慣れてしまった不敵な笑み。
両手には離さずにナイフを逆手に持って、狙いを定めている。
「爆……炎刃ッ!」
高々と上げられた二振りの真っ赤な刃が、一気に振り下ろされた。
次にやってきたのは、感じ覚えのある熱波。
水分を含んだそれは、身を焼くような熱気と轟音とともに、反応する間もなく俺たちを吹き飛ばしたらしかった。
*****
四方八方、どこを見ても真っ白な空間だった。
ただすぐ後ろにぽっかりと開いた大きな穴があるから、それが唯一、入り口であり出口だということが分かるだけ。
主に魔徒を倒した時に訪れるこの空間を、封魔師の間では‘心界’、もしくは‘真域’と呼んでいる。
ステラが言った、曇天の向こう側にある輝く星々。
心の闇を消化した宿主の、本当の心の世界。
それがこの空間だと言われているけど、星心術学的にも、科学的にも説明のつけにくい場所らしい。
ここに来られたということは、俺たちの連携攻撃で見事にあの魔徒を倒すことができたということだろう。
「……」
今いるのは、俺の視界の先でうずくまっているミストルさんの‘心界’。両隣にいるエリンもアレスも一言も喋らないので、全くと言って良いほど無音の世界だった。
「……おめーら二人で迎えに行ってやれ。オレが行くと、どーしてもボコボコにしねェと気が済まなくなっちまうからよ」
「……分かった」
アレスが怠そうに言うので、俺とエリンは顔を見合わせて一歩一歩、この空間の宿主に近づいていく。
封魔師はこの空間から宿主を黒い穴の外へと導くことで初めて、陥魔した人間を闇から救い、封魔したことになる。
「……ミストルさん」
「……」
膝を抱えて下を向くミストルさんのすぐ傍まで来て、俺は声をかける。
返事は無いし、次にかける言葉なんて一言も決まっていないし、分からなかったから、またお互いに沈黙になってしまう。
隣では口を開けたり閉じたりしながら、俺以上に言葉を探しているようなエリンの顔。戦闘前から、ミストルさんに対して療心師として、何か責任のようなものを感じている節があったし、それがまだ続いているのだろう。
「キミたちは……あの子たちといて楽しかったかい? あの子たちの笑顔は、本物だと思えたかい?」
俺たちが何も喋らないでいると、透き通った声がどこからか聞こえた。それがミストルさんの口からだと気づいて、そういえばこの人はこんな声だったっけと思い出す。
しばらく、悲痛なこの人の声しか聞いていなかったから。
「も、もちろん楽しかったですし、本物でしたよ! あの子たちの笑顔は!」
エリンが食いつくようにミストルさんの言葉を肯定する。
この空間ではとにかく、宿主を連れ戻すことが最優先事項。それが善だろうと悪だろうと、肯定することでようやく心を開いてくれるはずなのだ。
俺としては、やっぱりこの人を、どうしても‘悪’として認識して責めることはできないから、なおさらのこと。
「最初は、本当に‘本当’だったんだ。あの子たちの笑顔を守るために、僕は活動を始めたし、弟だって、渋々だったけど協力してくれた。みんなで、あの子たちを育てていこうと、そう思っていた」
ミストルさんの独白が、ぽつりぽつりと続く。
「でも、彼が、テイラーが、‘哀欲の杯’と一緒にこの家にやってきてから、すべて変わってしまった。ここにいる子どもたちの邪気で金を作って、会社に送れって、これは弟とも相談して決めたことだから、反抗するようなら縁を切ると……子どもたちももちろん大切だったけど、僕にとって、家族の繋がりは同じくらい大切で、どうしても断ることはできなかった……一人には、なりたくなかった」
「……」
目の前にいるミストルさんは、その悔しさの滲む声とは対照的に無表情で、冷たい。ある一線を越えてしまったかのような顔に危機感を覚えて言葉を継げない。けれど、どうしても訊かなくてはいけないことがあった。
「その、テイラーというのは……誰なんですか?」
今まで全く聞き覚えのないその名前に、何かヒントがあるような気がしたから。
この人は悪くない。アレスが聞いたら散々なことを言われそうな、そんな甘い幻想のヒントが見つかるような気がしたのだ。
「ルティの……弟の秘書だと言っていたが、詳しいことは分からない。ただ、僕は彼を―人間だとは思えなかった」
―もっと別の何かだ。
ミストルさんは言って、さらに顔を埋めてしまう。
「……」
「……戻りましょう、ミストルさん。それでもあなたのやったことは、簡単に許されて良いことじゃないと思います。……罪を、償ってください」
エリンの厳しい声が、俺の沈黙を埋める。
その言葉は正しくて、ミストルさんは悪くないわけではないのだ。
胸の奥に何か引っかかったような気持ちの悪さを感じながら、俺はしゃがんで、手を差し伸べる。
「……幸せは、奪って奪われるものなんだ」
「え?」
俺の手を取って立ち上がったミストルさんの口から、ぽつりとそんな言葉が零れる。
「世界に、普通の幸せを奪われた子どもたち。子どもたちに幸せを与えたつもりになっていた僕が、今度はキミたちに奪われる。最後に幸せになるのは誰なんだ……? きっとキミたちだって奪われる―」
―誰も、誰も幸せになんかなれないんだ。
「……」
ミストルさんの幸せが誰の、どんな幸せを指しているのかは分からない。
その呪いじみた言葉が何を意味しているのかも、分からない。
「……あ」
ただ、目の前に迫ってきた真っ暗闇に、俺は短い悲鳴のような声を上げただけ。
真っ白な空間を飲み込むように、ボロボロと黒が、闇が侵食して、視界を暗転させていく。
「走れッ! 逃げろッ!!」
アレスの声に、俺は無意識のうちにミストルさんの手を離してしまう。
―もう、ダメだ。
代わりに、まだ呆然と立ち尽くすエリンの左手を掴んで、全速力で駆けだしていた。
アレスがその緑色の瞳を見開いて、俺たちに手を伸ばす。
外に通じる大穴。
アレスの手に思いっきり引っ張られた痛みを感じながら、俺は一瞬だけ振り返る。
そこには何もなかった。
真っ白な‘心界’でもなければ、宿主も存在しない。
純黒が、ただただ広がっているだけだった。




