答え合わせ
歴史書によれば今からおよそ三百年前、星暦1564年の出来事だ。
とりあえず、今回のテストはこの国の歴史において重要なところだからね。みんなよく出来てはいたけど、先生はここから、歴史書に沿って詳しい解説をしようと思う。もしかしたらチャイムが鳴ってしまうかもしれないなあ。そうなったら聞きたい人だけ残ってくれればいい。学ぶも学ばないも、それは君たちの自由だ。
星暦1564年。当時の大星心術師レグルス=レオンハートが、膨大なアステルを使って‘大陥魔’を引き起こした。
アステルとか星心術師とか、今のみんなには聞き慣れない言葉かもしれない。簡単に説明しておくと、アステルはこの世界に流れている、目に見えない不思議な力。気体、とは少し違うのだけれど、力の波みたいなもので、僕らの身体の中にも入ったり出たり、溜め込まれたりしている。
星心術師というのは、そのアステルを自在に操って不可思議な力を発現させることのできる人たちだよ。何もないところから炎や雷を出したり、すごい人たちは大雨を降らせたり、幻を見せたり、―心を操ってしまうこともできるんだ。お隣の大陸では‘魔法’とか’魔法使い’、’魔導士’っていう、ちょっと物騒な名前で呼ばれていたりもする。
その一方で、この国では神様であるステラの星と、僕ら人間の心の力が合わさった聖なる力という認識をされているね。星暦1860年を生きる僕ら、そしてきみたちには、一部を除いて、別世界のお話に聞こえるかもしれないけれど、大昔はもっと大勢の人が星心術を使えたらしいんだ。
それが徐々に、使える人が少なくなって、今は本当に才能のある人や、今の車や機械技術の原動力となっているアステル鉱石の助けを借りないと使えない状況になってしまっている。これの原因はいまだに分かっていない。学者の中には、大気中にあるアステルの濃度が時代とともに下がっているからという人もいるし、ステラ教の偉い神官さんなんかは、神であるステラが、人間は神の力である星心術なしに生きられるように、自立できるようにするために試練をお与えになったのだと言っていた。ルナ教の教徒は、元来醜い心を持った人間が、徐々にその真の姿を表すようになったから、清い力である星心術を使えなくなったのだと言っていた。
さて、だいぶ話が逸れてしまったね。とにかく、300年前、星心術師レグルスが、世にも恐ろしい星心術‘大陥魔’を発動させたんだよ。それは人の強烈な負の感情が、大気中のアステルと結びついて心の宿主を暴走させて、姿かたちをも変えたり、異形の魔物を生み出したりしてしまうという自然現象‘陥魔’を、人工的に、しかも広範囲に発生させる術だった。
もともと陥魔なんていう現象は、各地にあるアステル聖石でその発症を抑えられていて、滅多に起こるものではなかった。そう、この中にもステラ教徒の子がいるから分かるかもしれないけれど、カノン王国二十一箇所にある神殿に眠っている、神様の化身と言われた特殊なアステル鉱石。あれは人の心の闇を抑えて浄化する働きがあると言われている。これのおかげで滅多に起こらなかったのだけれど、レグルスが強制的に、星心術で起こしてしまった。多くの人が心を闇に飲まれて、陥魔して、醜い魔物に姿を変えてしまったという。レグルス自身も陥魔して多くの勇敢な王国兵や魔物退治の専門家である封魔師を屠った。他の文献では、最初にレグルスが陥魔して、事件が引き起こされたとも書かれている。まぁ、彼がこの件の元凶であることは間違いないのだろうけれど。
そこでテストにも出たあの人の登場さ。そう、大星心術師ミルザム・ルトワール。今でもある王下十三局の一つ、星心局の当時の局長さ。彼は人々が星心術を使えなくなって久しいあの時代において桁違いな力を持っていた星心術師でね。まぁそれを言うならレグルスもそうなんだけど―とにかく彼はすごかった。国中の星心術師を集めて、彼らの力と、王国各地にあるアステル聖石の力を使って、当時事件の中心だった都市グランベルク―今は禁止地区だね―を丸ごと浄化・封印した。この星心術は、‘大陥魔’に対して‘大封魔’と呼ばれるようになった。これも問題に出したけど、確か全員できたはずだよ。よくできました。
大封魔によって戦いは終わった。レグルスや、彼と一緒に暴動を企てた元人間の魔徒も消滅した。多くの兵士と星心術師を犠牲にして。それだけなら、大きな犠牲を出しつつも反逆者を倒したという、歴史の中では何度か起こる事実だね。だけど、この出来事の意味は、これだけじゃ終わらない。この出来事以降、星心術を使える人はさらに減っていったし、なにより、滅多に起こらなかったはずの陥魔現象が起こる確率が上がったんだ。
良いかい、陥魔はもともと自然現象だ。そして、その原因は人間の悪感情。怒りや憎しみや嫉妬とか、そういう暗い感情が人の姿を変えて、あるいはその心の闇が魔物を生み出だす。
昔から伝承されている悪魔とか妖怪の正体は、陥魔のメカニズムが解明されてから、こういった人間の悪感情が生み出した怪物だということが分かった。でもそれ以前、そういった怪物は、伝承とかおとぎ話で語られるだけの、いわば架空の存在だったわけだ。本当に存在していたとしても、みんなが認識していたわけじゃなかった。
だけど、大陥魔が起こってからの三百年間で、この国、いや世界中の人々が認識できるほど、陥魔の事例が増加した。生み出された魔物は人を襲う。そこに理由は無くて、ただ本能的に、暗い感情を広めるように、連鎖させるように、襲うらしい。
けっこう前にもこの街で魔物による悲しい事件があったよね。そう、僕らの身近に出没するくらいに、魔物は増加しているし、心の闇に飲み込まれて‘魔徒’という存在になってしまう人もいる。
大陥魔と現在の陥魔現象増加との因果関係は非常に高い。だから三百年前のこの出来事は、このカノン王国の歴史上重要な意味を持つ。
そして、もう一つ重要な点は、この大陥魔によって国際的な戦争のほとんどが和平路線に走ったということだ。
人の心を闇に落としてしまう外部要因としてまず挙げられて、かつ深刻なものは―そう、戦争だ。戦争によって心に傷を負うのは、誰だってそうさ。家族や友人や、愛する人を失ったり、人を殺したりすることそれ自体が傷になる。魔物によって人間の社会がめちゃくちゃにされたら国益がどうとか言っていられないからね。
各国は慎重に、慎重に和平交渉を進めた。だから今では国家間戦争の話なんてほとんど聞かないだろう?……ん?あぁ、ロンド王国とのガルドー自治区の問題か。よく知っているね。あれは確かに国同士の戦争、紛争に入るのかもしれない。
でも、世界的に見たら、そういう戦争は無くなっている。代わりに戦争の形が、魔物との戦争に代わっていることは否めないけれどね。国と国との大規模な戦争がなくなった代わりに、人々の心が魔に陥りやすくなった。皮肉な話だよね。そう、20年近く前のエデーナ戦線のように。
おっと、また話が逸れるところだった。といっても、もう話は終わりかな。今回は大陥魔の始まりと経緯、その歴史的な意味をみんなに分かってもらうテストだったからね。だいぶ話が逸れてしまった感はあるけど。さて、何か質問のある子はいるかい?あと5分でチャイムが鳴ってしまうから、あるなら今の内だぞー。
歴史の授業を担当して、神学にも精通しているというレン・ブラック先生の話は、俺たちのような高等学校に通う学生にとっては、概要だけさらりと説明されただけではあったが、分かりやすかった。俺自身、先生の話に出てきた封魔師になることを志望している身だから、もう少し詳しいことを専門家の人たちから聞いていたのだけれど、やっぱりこの話を聞くたびに、気になることがあるのだ。
それはこれから封魔師―世に蔓延る魔物を退治する専門家になろうとする身としては、そこまで気にすることではなかったのかもしれない。科目の一つである歴史を勉強して、このカノン王国の将来を担おうという一学生としても、それは必要ではなかったのかもしれない。
けれど、俺はどうしても気になった。俺の心の中で、何かが、誰かが知りたいと叫んでいた。
だから俺は手を挙げた。周りのみんなは眠そうにぼーっと黒板の方を眺めていたり、あるいはもう夢の中だったりしたから、静かに手を挙げた俺に気づいた人はほとんどいなかった。
―はい、ロイ君。質問かな。
先生はにこやかに俺を指名した。俺が席を立つと、その音に教室中の視線が一斉に集まる。
―先生はご存知ですか。
俺は少し息を整えてから、訊いた。
―なぜ、星心術師レグルス・レオンハートは陥魔したのかを。
陥魔するとすれば、それはその人間自身の心に何らかの傷が、闇が潜んでいたからだ。それはテロリストらしく、国家を転覆させてやろうといった邪な心が原因かもしれない。いや、だがそれよりもっと根本的に、何かしらの原因となるようなものがあったのではないだろうか。
先生の返答を待つ。彼は、少し意外そうな顔をしながら、少しぎこちない笑みを浮かべてその答えを口にした。何かを言いたいような、それでも何かを言いよどんでいるような口調で。
「それは―ロイ君の質問への明確な答えは、歴史書には記されていない。だから、分からないんだ。一説によれば、彼はルナ教の信者だった。‘人の心の本質は闇である’を信条にしているあの宗教に入っていたから、心を病んでしまったのだと、そういう説だ。だけど、本当のところは分からない。記録に―残されていないからね。僕たちは、彼が国家を壊滅させようとしたテロリストであるということしか、読み取ることはできないんだ。」
俺の質問の意図を読み取ったかのように、先生は答えてくれた。俺は礼を言って椅子に座り直した。
予想通り、というべき返答だった。今まで何人かに同じ質問をしたが、同じ答えしか返ってこなかった。
俺の他に質問する生徒はいなかったようで、先生は授業の終わりを告げ、みんなに帰るように促す。みんなは、先生も含めて、俺の質問が無かったかのように、いつものように帰り支度を始める。窓の外を見れば空がオレンジ色に霞んでいて、俺たちに早く家に帰るように言っているようだった。
こうやって。
闇に堕ち、魔に陥った者のことなど、何一つ言及されない。
そういう人は「悪者」として決めつけられ、それからずっと変わらない。
悪者として、その一面しか、俺たちに見せないまま。
時に流されて。闇に消えていく。
もしかしたら別の顔があるのかもしれない。あったかもしれないのに。
それが真実で、もしくは、それが嘘かもしれないのに。
闇の中に、かすかな光があったかもしれないのに。
答えが二つ以上あったら、俺たちは何を信じて良いのか分からなくなって。
だから答えを一つに定めるのだろう。
神にすがるように。人の心にすがるのだろう。