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わたしのこえ

作者: ロダン

初めてこのサイトで小説を投稿します。認知症の夫を介護する妻の作品を書きました。少しでも、読まれた方が何かしら思うものがあったらいいな、と期待と妄想を膨らませております。

私には認知症を患った夫がいる。仕事を還暦で終えた夫はつき物が落ちたかのように急激に衰えていった。ものを忘れ、人を忘れ、ついには私の声すら届かなくなってきている。


それでも私は夫を施設に入れようとは思わなかった。施設に入れるということは、私の生きてきた日々を価値のないものにしてしまうことだったからだ。


しかし、そうはいっても一人で介護をすることは思ったよりもつらいものだった。幸い、夫は歩けたので身体を持ち上げたりするなどの介護はしないで済むものの、いつの間にか私は精神的にも追い詰められていた。


いっそのこと、この人と死んでしまおうかしら。


毎日寝る時になるとそのようなことを考えていた。


ご近所の寺田さんからは


「いまのままじゃいけないわ。気分転換にどこかへ出かけた方がいい」


と言われる。


しかし、他に介護してくれる人もいない夫を置いて、私だけ出かけるわけにもいかない。それでもこのままじゃいけないとも思う自分も確かにいた。


そこで私は思い切って夫と、どこか出かけてみようと思い立ったのだ。


「あなた、今日はいい天気ですし、どこかへ出かけましょうか」


 夫は何も返事をしない。近頃は言葉を発することも少なくなり、うつろな表情をたびたびするようになった。夫のこのような変わり果てた姿を見るたびに、悲しみと、悔しさにも似た気持ちがこみあげてくる。


 私たちはタクシーに乗って、三〇分ほどにあるガーデンパークへ行くことにした。夫は認知症がひどくなる前まで、庭の花たちの手入れをよくしていた。私は淡い期待も持って夫に話しかけた。


 「綺麗な花ですね。ねえ、あなた」


 返事は何も返って来ない。夫はどこか遠くを見ているようにも、近くを見ているようにも思える。もしかしたら花のゆく先を自分と重ねて見ているのかもしれない。


 近頃は私も歳がわからなくなってきた。


二、三時間かけて、ガーデンパークを一周し終えた私たちは家へ帰ることにした。お金の節約のため、普段は行かない駅前のタクシー乗り場で降りた。その時、私は急にトイレに行きたくなって駅構内のトイレへと向かった。


「あなた。すみませんが少しだけここで待っていてくださいね」


 トイレの前で夫にそう言うと、いつも通り夫は何も話さず、答えず、うなずきもせず、黙っていた。


私は急いでトイレを済ませ、ハンカチを手に持ちながら出てみると、そこに夫の姿はなかった。


 身体じゅうに悪寒のようなものが走り、足に力が入らなくなった。せわしなく人波が押し寄せる、騒がしいはずの駅構内の音ですら耳に入らなかった。冷や汗が額から頬につたう感じが実に気持ち悪い。


 私はあたりを必死になって見渡した。すると、奥の改札のところで素行の悪そうな青年と、もみ合っている老人がいた。目を凝らして見てみると、それはまぎれもなく夫の姿であった。


 あの人だ。


 名前を呼ぼうとした時に、初めて今の夫の姿を見た気がした。不思議なほど冷静に夫を傍観してしまった。


「あなた!」


 大声で呼び、せわしなく駅構内を動く人たちが私を見てきた。私はすぐに夫のもとへと駆け寄り、青年に頭を下げて謝罪した。


 近くで青年を見ると、まるで外国人のように背が高く、体が大きかった。


 私は恐ろしさのあまり、足が震えた。この青年は何と言ってくるだろうか、何をしてくるのだろうか、と考えると身がすくむ。


おそるおそる、私は顔を上げて、青年の顔を見た。素行の悪そうな青年はその外見に似つかわしくない笑みを浮かべていた。しかも彼は夫の両わきをしっかりとかかえている。


しかし、私はこの青年のギャップには驚かなかった。それよりも衝撃的なことが起きていたからだ。


夫は青年にとりすがり、激しいぎょうそうで、何度も同じ言葉を繰り返していた。


「和彦、いくんでねぇ。いくんでねぇ」


私は耳になつかない夫の声を聞いて、すぐさま夫を引き離しにかかった。


「あなた、この方を知っているの」


 私は夫の腕をつかんで引き離そうとしたが、夫の手からは堅固な意思を感じた。夫は手を決して離そうとはしなかった。


「いくんでねぇ。いくんでねぇ」


 鬼気せまるような声で青年に訴えている。夫は私の声が聞こえないのだ。


私は、夫を見ていられず、青年に話しかけた。


「失礼ですが、夫とは知り合いなのでしょうか」


 そう聞くと青年は、私とは対照的に、実に落ち着いた声で答えた。


「いいえ、知りません」


 待っていたその言葉を頼りに、私は夫の手を引き離しにかかった。


「あなた、この方はご存じないって。ねえ。離してください」


すると青年は夫の腕を優しく握って、


「いきませんよ。どこにもいきませんよ」


と夫に語りかけた。


 しっかりと青年を掴んでいた夫は手をあっけなく離した。


 私の声だけ夫に届かないのだろうか。


私たちと青年は駅構内の休憩所のところへ場所をうつして腰かけた。夫は疲れたのかすっかり寝込んでしまっていた。


私は青年に重ね重ね謝罪した。


「いえいえ。実は僕のおじいちゃんも同じような感じだったので」


 聞くとその青年は認知症を患ったおじいさんを家族で看ていたそうだ。その介護話を聞くと、他人事とは思えぬ話で、青年の母親にひどく同情してしまった。


「大変でした。おじいちゃん自身も大変そうでした。でも、おじいちゃん。最期は幸せそうでした」


 青年は笑顔でそう言った。私はその青年の笑顔がとてもまぶしく見えた。


 私は寝ている夫の顔を見た。すっかり老いてしまって、おじいさんの顔になっていた。


「この人も……幸せだったらいいねぇ」


そう呟いた私に、青年は、


「きっと幸せですよ」


ほがらかな笑顔で言ってくれた。若い青年の言葉でこんなにも気持ちが温かくなるようになった私も、夫に引けを取らずやはり年をとったようだ。


 青年は帰っていった。色が抜けた茶色のリュックは、もしかしたら和彦さんの後ろ姿に似ていたのかもしれない。和彦さんは歳の離れた弟さんで、戦争でお亡くなりになったそうだ。私は遺影でしか見たことがない。


 目が覚めた夫はいつも通りの夫に戻っていた。うつろな表情でどこを見ているかも分からない。改札を抜ける青年が、戦地へと向かう和彦さんに見えたのだろうか。だとしたら夫はそれを必死に止めようとしたのだろう。この人はそういう人だ。


 家に帰ると夫はイスに座って、かつては自分が熱心に手入れをしていた庭を見ていた。


私もとなりのイスに腰かけることにした。


「あなた。今日は和彦さんに会えてよかったですね」


そう言ってから夫を見ると、夫は笑っていた。


たしかに笑った。


私の声で、夫は笑った。

最後まで読んでいただきありがとうございました。いかがでしたでしょうか。私としてはまだまだ甘いと痛感しておりますが、少しでも読者の方が良いと思っていただけたら幸いです。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 最後には救いがあり感動できた。 [気になる点] 文学というジャンル 良くも悪くも飛び出たものが無い気がする。 難しい課題ですね。 [一言] ガーデンパークと言う単語に文学を感じた。
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