9-7 文明の残滓
「水は出ないんだねぇ」
エイミは諦めきれない様子で便器の横についていた蛇口をカリカリ回し、やがて唐突に菜瑠に向き直った。
唐突に浮かぶ悪戯っぽい笑顔。
「菜瑠、四季! 水の出ない水道とかけまして!」
「え?」
「かけまして、って言って! 四季も!」
菜瑠はエイミの笑顔に圧倒されながらも、コホンと咳払いをして、四季と目を合わせてから二人同時に指示に従った。
「水の出ない水道とかけまして……」
「はい! サボりまくりの受験生と解きます!」
「……そのこころは?」
エイミが立ち上がり、腰に手を当て、得意げに謎掛けを落とそうとした瞬間、ぼそりと四季が口を挟んだ。
「スイセンは無理」
「ちょっとッ! 四季ッ!! アンタ、いいとこ横取りしないでよ!」
はぁ、なるほどと菜瑠は少しだけ感心した。
しかし謎掛けの出来はともかく、水洗できないのは現実問題として厳しい。
せっかくのトイレも流れなければ使用不能で、これではいつぞやの『トイレバケツ』と何ら変わらない。
ホテルの外には夜が訪れており、開け放した部屋のドアから隣室の生活音が聞こえる。204号室からの遼のバカ笑いだ。きっとケンタの新ネタが披露されたのだと思う。男子とは脳天気な生き物だと思う。
トイレの問題は重大だった。
街中に滞在している以上、森や山のように物陰に穴を掘るというわけにもいかない。いまさらながら、四季が忌み嫌っていた『落下、汲み取り式』でも助かっていたのだと気付く。
ハリボテの街では、文化的な生活を送ることすら困難だった。生活インフラはそれを稼働させる誰かがいて初めて有益に運用される。
電気もガスも水道も使えなければ、都市というものは存外生きにくいのだなと菜瑠は思う。
「懐中電灯を借りるわ」
唐突に四季が言うので、菜瑠が所望の懐中電灯を手渡すと、四季はスタスタと部屋から出て闇の通路へ出て行った。
「四季、怖くないのかな。真っ暗なのに……」
菜瑠が心配を含めつつ呟くと、エイミは肩をすくめる。
「四季に怖いモノなんてないでしょ。四季を怖がるモノはいても」
「そうかも」
部屋は集落から借りてきたロウソクが複数灯され、暖色の柔らかい光に満ちている。
部屋が広いため、思いがけず多くのロウソクを灯してしまったが、ロウソクだって無限にあるわけではない。
菜瑠はテーブルの上に置かれた紙に、鉛筆で『ロウソク』と書き込んだ。
発電機、給湯器、カセットコンロ、シャンプー、リンス、ボディーソープ、スポンジ、柔らかいタオル、飲料水、食べ物ならなんでも、保湿クリーム、洗顔料、生理用品、綿棒、カミソリ、ティッシュ、臭わないタオル、洗剤、ココア、ノート型パソコン、最低限の化粧品、ガソリン……。
そして、最後の行にロウソクだ。
必要とおぼしきモノを皆が自由に書き込んで、明日にでも調達する。
菜瑠が見るだけでも、必須とは言えないものがいくつか混ざっているが、あえて何も言わない。
「これ、どこ行けば手に入るかなぁ」
菜瑠がリストを見ながら呟くと、早々とベッドで横臥したエイミが、そうだねと記憶を辿る。
「今日、食料集まんなかったけど、いろんな店は見つけたのね。んで、通りの外れにショッピングモールがあったのよ。封鎖されてて入れなかったけどさ。でも、そんなかにホームセンターがあったよ。そこ行けば全部あるんじゃない?」
「封鎖、か」
「うん。ベニヤとかで入れそうなトコ全部塞いであった。ケチよねぇ」
「なんとかして入れそう?」
「さぁね。時間なかったから詳しくは調べてないし」
「とりあえず、明日はそこに行ってみようか」
「そーね。リベンジだわ」
ちょうど、明日の方針が決まった時、ゆらりと四季が戻ってきた。その手にはバケツがぶら下がっている。
「ちょっ、四季、あんたね」
またバケツトイレの悪夢を再現する気か――と菜瑠とエイミが硬直すると、四季はバケツを持ったまま、トイレへと直行する。
素早く菜瑠とエイミが後を追うと、四季は便座の後ろにあるタンクを開け、おもむろにバケツから水を注いだ。
「えっ? 水?」
菜瑠が驚くと、四季は空になったバケツを床に置き、感慨なく言う。
「従業員用の休憩室にあった掃除用具バケツ。水はロビーの噴水から」
なるほど、目ざとい。
「これで……トイレ使える?」
四季はその回答を言葉でなく実地で見せた。
水洗レバーをおもむろに回すと、便器の内壁から水が溢れ、やがてそれは中央で渦を巻いて流れた。
「アァァァ……! 凄い!」
「流れタァァ!」
四季はタンクを褒めるかのようにポンポンと叩き、頷いた。
「これでウォシュレット以外は使える」
「さすが!」
「助かっタァァ!」
「たぶん、バケツ一杯で3回分程度。常にバケツに予備の水が入っている状態にしておくべきね」
これは従うべき提案だった。事を終えて、タンクの水が空だったら目も当てられない。
「じゃあ、そうしよう」
「でも問題があるわ」
どんな? と菜瑠が聞き返す前に四季が続ける。
「噴水プールの水自体、あとバケツ5杯分ほどしかない。しかも、底はヘドロで汚い」
「って事は、飲料水以外の水も必要だってことだね……」
「ええ。大量に」
菜瑠は軽いため息を吐きながら、問題解決の糸口を探った。水はどこへ行けば手に入るのか。その水をどう運ぶのか……。
「あと、5杯分かぁ……ケンタと遼くんの部屋のぶんをいれたら……」
「男子には必要ない」
四季が断言した瞬間、ドアから噂の男子2人がユキを伴って現れた。
「チョリッス、なに騒いでんの?」
そして、目ざとく水の張られたトイレに気付くと、ケンタが破顔した、
「やったじゃん、ようやく水洗トイレ復活?! うっひょい!」
遼もホッと一息ついた表情だ。
「こりゃあ助かるね」
しかし、四季は冷酷だ。いつもよりマシーン然とした冷徹さで言いのける。
「あなた達に水洗トイレを使用する権利は、ないわ」
「なんで!」
「説明する必要すら無い。排泄は窓からするべきよ」
この対応には遼もケンタも、悲壮きわまる表情に変わる。薄暗い部屋の中で、その悲壮感は劇的ですらあった。
「ちょっと、四季さん……」
「横暴だ! 僕らにもトイレ権がある!」
「ないわ」
「ナル子! なんとか言ってよ!」
突然に話を振られても困る。菜瑠は腕を組んで、妥協点を探した。
「ええっと。水に限りがあるの。そこを踏まえた上で聞いて。その、男子は……その……小さい方は窓からしなさい。あ、別に普通に外に出てからでもいいよ? そんで、その……大きい方? は……ここで」
これが妥協案だ。とても折衷案とは言い難いが、衛生観念上これがベターな選択だと菜瑠は思う。
そして、両陣営を見る。
ケンタと遼は何やら耳打ちしあい、納得できない表情ながらも一応合意の意向を示した。
一方の四季へ菜瑠は顔を向ける。
「四季も、それでいいね?」
「いやよ」
「もう……」
「譲歩はしない。大小いかんに関わらず、男子は外でするべきよ。水には限りがある」
まったく、意固地な事だ。どうも、風呂とトイレと布団のこととなると、四季は異常なこだわりを見せる。しかも、こうなったら言うことを聞かない。
「聞き分けなさい」
菜瑠は様々な言葉を弄して四季を説得する傍ら、ふとした思いつきから、皆に見えない角度で四季の体に触れた。
目で訴えかけながら、四季の体をまさぐり、性的な誘惑を仕掛ける。
譲歩を引き出すための色仕掛けだ。
「ね。四季。協力しないとダメだよ?」
「菜瑠に従うわ」
思ったより、色仕掛けが効果を表した。男子2人はホッとした表情に変わり、場は丸く収まった。
「じゃあ、『その時』だけ、部屋に来ていいから」
「ういーっす」
「四季ってナル子の言うことだけには素直に従うなぁ……」
連れ立って女子部屋を後にするケンタたちを見送りながら、菜瑠は自分も捨てたものじゃないな、と誇らしく思う。
きっと、自分以外の誰かではこの場を収められなかったのではないか。この場、というより四季を。
それは、きっと杜倉憂理であっても不可能な事で、道乃後菜瑠であるからこそ解決できた問題だと思う。それが菜瑠には嬉しい。
ダラダラと去りゆく男子を眺める菜瑠の体に、今度は四季が触れてきた。
今夜は――凄いことになりそうだ、と菜瑠は覚悟を決めた。もっとも、菜瑠自身もそれを望んでいる。
――救い難い、けどこれでいい。
その後、女子部屋である203号室にて真空パックの食事会が行われ、明日の方針について全員の合意を得た。
明日、ホームセンターへ行き、必需品を集める。その後、時間の許す限り食料の探索だ。菜瑠はここに来て、ようやく四季との散策で得られた『中年男性』の情報を皆に伝えた。
「正しいかどうかは分からないけど」
という前置きをしたが、仲間たちの脳裏には四季の描いた人物像がハッキリと刻まれたようだ。
エイミはロウソクの灯光を浴びながら、不安げな表情を見せる。
「ヤバそうだね。なんか、怖い」
中年男性のしている行為、つまり空き巣は、自分たちのしている事とさほど変わるものではない。菜瑠がそう説明しても、室内の不穏な空気は晴れなかった。
「だって、みんな避難してんのに、誰もいない街に残ってるんでしょ? ぜったいヤバい奴だって」
エイミの持った印象は菜瑠にも理解できる。少なくとも、『助けを求められる大人』というワケではなさそうだと思う。
遼はロウソクの光をメガネに反射させながら、自分の見解を披露する。
「まだこの街にいるなら、警戒するに越したことはないね」
遼は、次の街へ移動するのはもう少し情報を集めてからにするべきだと主張した。この名守市の住民たちが何処へ避難したのか、それを最優先で調べるべきだと。
「僕たちが次に向かう先も避難後だったら、移動する意味がない。憂理たちとの合流も早い段階でしておかないと、二度と会えない可能性もあるから……」
「やだ。二度と会えないとかやめてよ」
「だから慎重になるべきなんだよ。山から下ってきて、この名守市からはたぶん土地が開けてくる。単純に言えば少なくとも北と西と南に進むことが出来る。僕たちがあてもなく南に進んで、憂理たちが北に進めば、合流どころか離れる一方だしね」
菜瑠は揺れる灯火を見つめながら、言った。
「せめて、向かう先は同じじゃないと――なんだね。ここの人たちの避難先がわかれば憂理たちとも合流しやすい……」
「そう。だから最大限情報を集めて、憂理たちに伝わるであろう方法で伝える」
ケンタなどは呑気なもので、ベッドでユキと並んで横臥しながらアクビを見せる。
「てかさ。ここで待ってたら良くない? このホテル目立つしさ、街じゅうに『このホテルにいるよ!』って伝言残しまくれば楽に合流できる。移動もめんどいじゃん」
これにも一理あると思う。動き回るより、この街で待機しているほうが合流の可能性は格段に高まる。ここは山から下りてきて最初にたどり着く街なのだから。
それを理解した上で菜瑠は、言いたくない可能性をあえて言うしかない。
「憂理たちが、施設から出られなかったら?」
これには直ぐにエイミが反応する。
「ちょっと! 菜瑠!」
「大事なこと。目をそらしちゃ駄目なことだよ。憂理たちが半村に捕まったりして、脱走できない状況なら、早い段階で救助隊に向かってもらわなきゃ。私たちがのんびりしてるウチに手遅れになるかも」
「そりゃそうだけど……」
実際に、『すぐ戻る』と宣言した翔吾が、3日待っても戻らなかった。これは、翔吾にとっても想定外の出来事が起こったと考えるに十分な根拠と言えよう、
そして、その想定外は間違いなく不都合な出来事であったはず。
となれば救助を急がねば、最悪、命に関わる。
以上を踏まえた上で得られた方針は、『情報が集まり、それを伝達できる方法が確立するまで名守市街に待機』だった。
これにどれほどの時間を要するか、菜瑠には見当もつかない。明日かそれとも明後日か。
少なくとも、必需品の収集は火急の仕事といえる。菜瑠は全員を見回してから言った。
「中年男性の件もあるから、今後は単独行動は禁止ね。絶対に一人では行動しない。なるべく全員で行動して。少し離れる時も、声の聞こえる範囲を意識して離れて。身を守る武器も携帯する」
それぞれの口から、それぞれの返事がある。用心しすぎか、と思わなくもないが、用心してトラブルを未然に回避できるならそれが一番の安全管理だ。
「明日は日が昇り次第行動するから、みんな早めに眠るようにしてね。じゃ、解散」
ケンタと遼が気怠いアクビを見せ、女子部屋から出て行こうとすると、ユキがちょこちょことケンタの後について行く。
「ユキちゃん。女の子はここでいいんだよ」
菜瑠が声をかけると、ユキはフルフルと首を振り、言う。
「ケンタ兄ちゃんと一緒がいい」
「んー。万が一……。もないか。うん、ケンタと寝て。ケンタ、ちゃんとユキちゃん見ててね」
「僕がみられてるんだよ」
「どっちでもいいわ」
そうして、部屋から204号室組が去ると、エイミが早々とベッドに身を投げ出した。
「アタシ、窓際の端ね!」
領有権を先立って主張されたため、結局菜瑠が中央、四季が左端に寝ることとなった。幸いベッドは広く、3人が川の字になって寝ても狭くはない。
菜瑠は部屋中の灯火を一つずつ消して、枕元の操作パネルに最後の一つを置いた。
「トイレに行く時は、懐中電灯使ってね。ここのパネルのとこに置いとくから」
「ういー」
広い部屋にロウソクの明かりが一つ。それが微風に揺れるたび、天井に淡いオーロラが形成される。
菜瑠は布団の中で四季と手をつなぎ、その無限に変化するオーロラの影を見つめた。
「明日は……お風呂に入れるといいね」
「なにがあっても入るわ。私がなんとかする」
頼もしいことだ。四季の入浴への執念があれば、なんとかなりそうな気がする。きっと空中の水分を集め、無から有を生じさせるがごとく――。
「じゃあ温泉、掘ろっか?」
菜瑠の言葉に、フッと、薄暗闇のなか四季が笑った気がする。そして、しばらくの沈黙ののち、四季が言った。
「さっきは、ごめんなさい」
「ん?」
「子供のような強情を張ったわ」
「私こそ、『卑怯』な事してゴメンね」
「貴女には逆らえない。正直、悔しいけど貴女に嫌われるのは耐えられない」
随分と人間臭い事を言う。四季も施設にいた頃からすれば、変わりつつあるのか。それから、四季は菜瑠の身の上話をせがんだ。それはエイミの寝息が聞こえるまで続いた。
菜瑠自身、こうして自分の事を語るのには抵抗があった。
自分は貧しく、引け目すら感じていたからだ。『恥じる』というのは違うと思う。自分と母は貧しくとも清らかに生きてきた。ここで自分が過去に恥じ入れば、尊敬する母を汚すことになるような気もする。
ようやく施設へやってきた頃の話にさしかかった頃、四季の静かな寝息が菜瑠の横耳に届いた。
――今夜はしないのか。
肩すかしを食ったような、少し寂しいような、悶々とした感情を抱きながら菜瑠もやがて眠りに落ちていった。
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