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13月の解放区  作者: まつかく
9章 1120億の孤独
98/125

9-6a 不満


――殺してやる。


明確な殺意が闘志となって、底知れぬ怒りが鎮痛剤となって、憂理を動かしていた。

憂理の下で半村は激しく抵抗し、暴れる。それでもバットを放さないのが恐ろしく思える。


浮かび上がる気泡が、一瞬大きく勢いを増し、やがて散発的になってゆく。汚水で命を落とす。それが半村には分相応に思えた。


――クズというならクズらしく死ね。


気泡が途絶えがちになり、やがて抵抗も収まった。


――死んだ……か。殺した……か。


憂理が脱力し、体をそらした瞬間、半村が動いた。

半村の両足が垂直に立てられ憂理の首に巻き付いた。そしてカニバサミの要領でマウントポジションの憂理を跳ね除けた。


一瞬のうちに優位は崩れ、憂理が水面から顔を出した時には、すでに半村は立ち上がっていた。ヨダレだか胃液だか、粘性の高い液体が糸を引いて顎から垂れていた。

その目は病的に充血し、窒息一歩手前まで追い込んだことだけはわかる。


半村は鬼のような形相で咳き込んだ後、叫んだ。


「尚志ッ!! まだタラタラしてんのかテメェ!! さっさと逃げろオラ!!」


憂理が見れば、半村尚志はこの死闘を震えて見ていた。車椅子を動かそうともしていない。


「ににに、兄ちゃん、ちち、血が」


「さっさとしろォッ!! 殺すぞ!!」


だが半村尚志はワナワナ震えるばかりで動かない。

ジンロクが、露骨にダメージを感じさせながらも怒鳴る半村に向かって、一歩、また一歩とゆっくり歩み寄ってゆく。

その周囲の汚水は、憂理のそれよりもはるかに赤い。


「半村だッ!」


「いたッ!!」


「こっちです!」


唐突に彩り豊かな声が通路に反響し、T.E.O.Tたちが血の運河となった通路をやってきた。

一気に複数人やってくるものだから、わだかまっていた水が彼らに押され、小規模な津波のようなものまで発生している。


「ユーリくん!!」


――イツキ。


10名はいる。イツキにアツシにノボルにアヤカも……。そしてタカユキ。

この時ほど、タカユキに救いを感じた事はない。タカユキなら、半村を仕留めてくれる――。


動員された人数に気圧され、半村が大区画の方へと少し後退すると、すぐさまイツキとタカユキが憂理のもとへやってきた。


水中の床にへたり込んで、水面から首から上だけを出す憂理に、イツキが寄る。顔が近く、吐息が甘い。


「ユーリくん! 大丈夫?! すごい血が!」


「……イツキ、顔近いよ」


「でも!」


「……タカユキ」


憂理が名を呼ぶと、タカユキは小さく頷いて応じた。


「わかってる。憂理とロクは下がっててくれ。あとは僕たちが始末をつける。」


ジンロクにはアツシと女子の介助がつき、数メートル後方へと連れられてゆく。

憂理もイツキの肩を借りて起き上がると、後方へと退避した。

これほどまでにT.E.O.Tがありがたいと思ったことはない。


一方の半村は大区画への扉まで5メートルの位置まで後ずさり、扉付近で震える弟に怒鳴りつけた。


「尚志! 早くしろ! チンタラしてっからガキどもが集まってきただろがッ!!」


「でででも、車輪になななにか」


「それを取れって言っただろッ!! グズが!」


たしかに、『ガキども』が集まりつつあった。タカユキたちに遅れて、新たなT.E.O.Tがやってくる。そして、翔吾とツカサも。

翔吾とツカサは壁にもたれかかる憂理とジンロクを見て、二人揃って血相を変えた。


「ロク! だから俺も行くって言ったろが! なに刺されてんだよ、アホ!!」


「杜倉さん! 腕が!! 血が!」


憂理もジンロクも、上手く反応できない。ただ、がなり立てられ尚更傷が痛む。ジンロクは浅い呼吸を繰り返しながらも、「ナオは?」と翔吾に聞く。


「上だよ! 修羅場なんわかってんのに連れてくっかよ!」


「ああ、そうか。そうだな。助かる」


翔吾とツカサは、傷病兵二人をさっさと連れ戻ろうとするが、これには憂理が反抗した。


「最後まで、居させてくれ」


「アホか! どんだけ血ぃ出てっかわかってんのか!? お前はともかく、ロクは死ぬぞ!!」


すると、ジンロクは小さなため息を聞かせ、首を振る。


「……戻る時は、全員一緒だ」


「でも、お前ら、傷口ふさがねぇと!」


すると、ツカサが「待ってて下さい!」と大声を上げ、跳ねるように運河を戻っていった。

半村は数メートル後方に弟、数メートル前方にT.E.O.Tという立ち位置にいた。


前後から包囲できないのが憂理には惜しく思える。T.E.O.Tも人数がいるとはいえ、通路の横幅は限られており、同時に前列に居られるのは5人程度だ。

最前列でタカユキが言う。珍しく、その声には怒気が含んでいるように聞こえた。


「無駄な抵抗だよ。やるだけ無意味だ。こちらもなるべくなら怪我人は出したくない。諦めろ」


対する半村は、余裕を失いながらもあくまでも暴君だった。


「はぁ? 怪我人だと? 死人だろ。ドゲザなり彼氏なり、根性あるやつがワラワラいんならともかく、ヒョロい雑魚どもが集まって、なにができる」


半村に褒められたところで憂理は嬉しくもないが、その言葉は決して強がりともいえない。


集まった10数名のうち、実に8割が女子だ。細腕にT.E.O.T槍を握ってはいるが、格闘経験が豊富には見えない。

前列にいるタカユキ、アツシ、ノボル、アヤカ、イツキ。

おそらく実質的な戦力はその5人。他の女子は後列にいる。


しかし、タカユキは余裕のある雰囲気を漂わせ、手でキツネを作って半村を見る。


「今なら、裁判を受ける権利を与えるよ。死刑は免れないと思うけどね。弁護士ですら死刑を求刑する。やりすぎたんだ、あんたは」


「ははッ。残念ながら俺は、死刑制度に反対でな。冤罪の恐れがあるからな。国に殺させるんじゃなく……自分で殺す!」


瞬間、半村が動いた。

バットで向けられた槍の数本をなぎ払い、ノボルの腹を刺した。薙ぎ払われた槍の数本は折れ、水中に沈む。

半村は鼻で笑い、言う。


「助かったわ。雑魚でよ」


「武器を!」


槍を折られたイツキが叫ぶと、後列の女子が自らの槍を手渡した。


「ノボルを下げろ!」


アツシは指示を出した瞬間に、半村バットの直撃を受けた。鈍い音と共に、アツシの槍を奪い、構える。


「おい、雑魚ども。殺す気で来いよ? じゃなきゃ、俺だって罪悪感を感じちまう」


この挑発に、アヤカが動いた。

素早く踏み込み、半村の腹に突きを繰り出した。だが半村はそれを奪った槍でそらし、アヤカにバットを振り下ろした。


タカユキはそれに乗じて、攻撃に転じ、その突きは半村の肩を貫いた。

半村はよろめいたが、刺さった槍を迷いなくバットで叩き折り、距離を取る。


そして、食いしばった歯を見せながら肩から折れた槍を引き抜くと、忌々しげにT.E.O.Tに投げつけた。まさに『返す刀』で、その刃物は後列女子に刺さった。

悲鳴とともに、人員が減ってゆく。


「ははッ、こりゃあマジいけるな!! 虚勢のつもりだったけどな、マジでお前ら全滅できるわ! 根性見せろオラ!」


半村は鬼気迫る表情ながらも、危機的状況にも光明を見出したらしく、口元には笑みがあった。

そして、ここまで後退を続けていた半村が、一転、一歩前へ前進すると、T.E.O.Tはそれに合わせて一歩引く。

タカユキも後列から槍を受け取りながら、表情から余裕を失っている。


「なぁ、ロン毛。殺す気なら、首狙え、首をよ。肩とか刺しても痛えだけだからよ」


数的優位をまるで生かせず、T.E.O.Tは半村1人に押されていた。前列にはタカユキとイツキのみ。後列の者は飛び出そうともしない。


タカユキは果敢に半村に突きを繰り出すが、その度に槍を叩き折られ、カウンターを警戒して数歩さがる。

後方からタカユキに供給される槍だって無限に湧き出すものではない。


「おい、ユーリ。やばくね? 半村のヤツ圧倒的すぎんだろ……。戦闘力いくらあんだよアイツ。そのうち、ここまで下がってくるぞ」


翔吾は半ば引きつった顔でそんなことを言う。しかし、そんなことは言われなくとも知っている。つい先ほどまでその『戦闘力』の前にジンロクとともに晒されてきたのだから。


T.E.O.Tたちはじりじりと後退を続け、憂理たちのいる位置にはすでにノボルやアツシが下がって来ていた。


こういう時こそ、パンク少女のパンク精神に期待してしまう。あの女なら、と。あの女なら、何とかするんじゃないか、と。

憂理はそんな身勝手な期待を込めて、T.E.O.T陣営を見つめるが、そこにサトリ・アヤカの姿が無いことに気付いた。


――あれ……。


先ほどまで最前線に身を置いていたアヤカの姿が見えない。失血のせいで、目がおかしくなったのか。あるいは頭が。T.E.O.Tを一人一人確認してみるも、やはりパンク少女の姿はない。


「翔吾。サトリはどこいった?」


「サトリ? あの怖い女? いたっけ?」


「さっきまでいたろ。最前列に」


「んなん、しらねぇよ。半村から目がはなせねえ」


最初からいなかったのだろうか。自分は幻覚を見ていたのだろうか。すると、憂理の隣で壁に背を預けていたジンロクがかすれた声で言った。


「いるぞ」


「いるか?」


憂理はもう一度その場にいる面々に視線を配った。だがいない。ジンロクも失血の影響で幻覚でも見たのではないか。


「いないぞ」


「いる」


「どこに」


「水の中」


そう言われて憂理は一面の汚水に目を配った。

黄土色の水面には様々なゴミが浮き、T.E.O.T連中が後退するたびに大小の波が生まれている。ジンロクはほとんど動かないまま、呟いた。


「誰かが倒れた水飛沫にまぎれて……潜った。狙いは……」


ジンロクが最後まで言い切る前に、半村の怒号が通路を満たした。


「オラッ! ガキども! 数集めりゃ何とかなると思ってんじゃねぇぞ! 殺す気で来い! お互い、中途半端は痛ぇだろ!」


その恫喝だけで水面に波が生まれるのではないか。憂理がそう感じるほど凄まじい音圧を持った声だった。少なくとも、鼓膜には実際の圧力を感じた。


半村は自分の怒号に自ら興奮したかのように手にしたバットを大振りでT.E.O.Tの前線に浴びせかけた。

最初の一撃はイツキを襲う。


イツキは反射的な動きで、その一撃を槍の柄で受けたが、それは膂力を充分に乗せたバットの威力の前には小枝同然だった。

柄は木片をパッと散らし、バットがイツキの横顔に直撃した。


――イツキ!


悲鳴も上げるヒマもなく、半村のバットが次の標的を襲う。

数秒――。倒れるイツキが巻き上げた水飛沫が宙に浮いたまま――次のT.E.O.T女子が倒れた。


半村の隙を見たタカユキが素早く突きを繰り出すが、半村は身をよじってそれをかわすと、手品のような鮮やかさでその槍を奪う。そして、流れるような動きでその槍を持ち代えると、次のT.E.O.T女子を刺した。


圧倒的だった。


次々に倒れた女子たちが巻き上げた水飛沫。それがようやく水面に戻ってきたとき、半村はただ立っていた。

右手に金属バットを、左手にテオット槍をもって。ただ独り立ち尽くす半村。


それはどこか神々しくもあった。戦の神がどのような姿だったのか憂理には判らない。ただ今の半村には本人の能力を超越したかのような『神懸かり』を感じた。鬼神というのはこういう存在だったのかも知れない。


圧倒的すぎる。これが覚悟か。


憂理やT.E.O.Tたちには、半村と対峙して『殺す』という動機があった。

だが半村は違う。『生きる』ただそのためだけに暴力を行使している。


殺す気なら、殺してやるというワケだ。殺さなければ、殺される――それが憂理たちと半村を分かつものだった。そしてそれは憂理たちよりも、根源的な強さを持っていた。


「おい、やべぇぞ憂理。半村、一騎当千だぞあれ。半村無双じゃねぇかよ。これ、T.E.O.Tじゃ無理だろ」


軽口を叩きながらも、翔吾の表情は青ざめている。半村から目を離せず、前に出るには弱すぎて、後に下がるには強すぎた。

ちょうど、どこかへ行っていたツカサが戻ってきた。両手で何かを大事そうに抱えてはいるが、総崩れ寸前の『味方陣営』を見て、露骨すぎる恐怖の色を顔に浮かべる。


「おい! 槍貸せ!」


翔吾は近くにいたT.E.O.T女子から槍を無理やり奪うと、孤立する半村へと水を割って進み始めた。


「やめとけ……翔吾」


「七井さん!」


ジンロクがかすれ声で、ツカサが怯え声で言うが、翔吾は振り向きもしない。だめだ。憂理は思う。今だけはダメだ。今の半村だけは。


「翔吾……! だめだ!」


ようやく翔吾は足を止め、冷や汗を額に浮かべながら、青い顔で言う。


「ここで引いたら、七井翔吾を名乗れねぇよ。マジ」


「いまはダメだ、いまは」


「見とけって、ユーリ。翔吾さんが『切り札』持たずに行くわけねぇだろ。こういう時のためにワザワザ用意したんだからよ」


何のことを言っているのか、憂理にはわからない。ただ翔吾がその『切り札』とやらに賭けようとしているのはわかる。

そして、止めても仕方がない。このままではいずれ全滅させられるだけなのだから。


「七井翔吾の生き様見とけよ。死に様かもだけどな」


翔吾が半村へ向かうのに奮起したのか、数人のT.E.O.Tもその後に続く。


「半村コラ! ザコの相手ばっかしてんじゃねぇよ!」


半村は充血で赤くなった眼を翔吾へ向ける。きっと、今の半村が吐く息は、常人が触れたら火傷するに違いない。

鬼神は言う。


「チビか」


「まだ伸びてんだよ、ボケ!」


会話はそれだけだった。

半村がゆっくりと――どこか威厳を感じさせる動きで肩の高さまでバットを上げた。薄い紅色に着色された水が小さな粒になって水面へ戻ってゆく。


『さあ、どこからでもこいよ』言葉はなくとも、言外の言があった。

憂理はもう一度翔吾を止めたくなる。だめだ、今の半村はやばすぎる、と。全身を毛羽立たせたハリネズミ、いやそんな可愛いモノではない。噴火直前の火山火口、臨界寸前の原子炉、どの比喩も陳腐でしかない。


あれは、神だ。

暴君は独りになって神となった。

半村は動かない。ただ自分の前に立つ翔吾たちに赤黒い視線だけを下ろしている。


そして翔吾が動いた。

狙いは明らかだ。最も面積の広い半村の上半身。秒にも満たぬ時間の中で、翔吾の従者たちも同じく突きを放った。


だが、これはいかにも工夫のない攻撃だった。

自らの胴体を終点として向かってくる直線。その軌道は数学者や設計士でなくとも想像できる。もちろん半村には通じなかった。


半村は自分に向かってきた3本の槍を苦もなくかわし、大上段に構えていたバットを振り下ろす。1本は折れて、残り2本は水面に落ちた。

そして返す刀で1人に槍を刺し、1人に『ヒット』を見舞った。これは威力だけで言えば『ホームラン』だろう。


バットが水滴を霧散させながら美しい弧を宙に描き、ブン、と鳴った。そして残った翔吾にも『ヒット』が見舞われる。

翔吾はのけぞってそのスイングをかわしたが、やはりバランスを崩した。尻餅をつく形で後方に倒れる。


濃密な時間が――ほとんど止まった時間が、全てをスローモーションで見せた。

水飛沫を上げ、水面近くから半村を見上げる翔吾。

倒れた翔吾に対し、予備動作として大上段にバットを構える半村。手にしていた槍を水面に落とし、両手でバットを持った。


これは、『スイカ割り』だ。それも、目隠しなしの。

数秒先の未来が憂理には見えた。スイカが砕け散り、血肉の花火が周囲を染める、そんな未来が。

だが停滞した時間の中で、翔吾が動いた。

尻餅をついた姿勢のまま、半村へと右手を伸ばしたのだ。


ゆっくりと、コマ送り再生された映像。水面からスッと伸びた翔吾の腕が、半村に向かって固定される。


翔吾の頬が、熟練の狙撃手がやるように右上腕にピタリとつけられるのを見た。翔吾が左手で右長袖をスッと引くのを見た。筋張った右前腕に縛り付けられた木製の何かを見た。そして握られていた拳がパッと開かれる。


瞬間、翔吾の右上腕の袖がたゆんで、何かが袖の下から射出されるのを見た。


遅緩した時の中、宙に浮いたままの大小の水滴、その一滴一滴よりも硬質で、確かな形を持ったモノ。それが、浮遊する水滴の間を直進して半村へと向かってゆくのを憂理は見た。


そして、それは半村の胸部にめり込んだ。

小指大の穴が半村の胸に生まれた。


それはボウガンか。ないしスリングショットか。憂理には判らなかった。

ただそれが翔吾の言っていた『切り札』なのだということだけはわかる。だがいつの間にそんなモノを。


複数のパーツからなる木製の射出機。稚拙な作りではあるが、少なくとも、翔吾がそんな武器を作成していたことを憂理は知らない。

敵を欺くには、まず味方から――なるほど『切り札』というのはそういうモノを言うのだろう。


大上段にバットを構え、ガラ空きになっていた半村の胸。それが切り札の『着弾』とともに少しだけ後方に動いた。


だが、それだけだ。成果はそれだけだった。


半村は一瞬、一瞬だけ顔面に苦しげなシワを見せ、自分の胸に視線を落としたが、すぐに視線を翔吾へと戻した。

憂理にはわかる。頭がどうかしているのだ。


痛みはある、通常ならのたうち回るほどの痛みが。だが不思議とそれが緩和されているに違いない。憂理だってそうなのだから。

人体というヤツは普段、『繊細すぎる』のかも知れない。大したことのない痛みを大げさに騒ぎ立てる、いわゆる『構ってちゃん』というヤツかも知れない。


翔吾の『切り札』は、半村の大胸筋を貫くに、威力が低すぎた。

そして、切り札を切ったプレイヤーは、ただ呆然と眼前に立ちふさがる半村を見上げていた。


『うそだろ』か『まじかよ』か、きっと翔吾の脳内はその言葉で満たされていたに違いない。もう切ることのできる札は、ない。翔吾にも、憂理にも。


そして、憂理はゲームの終了を半村の眼で悟る。殺気だか、殺意だか、それがそこにあった。もちろんこの『神』の眼に慈悲の心はひとかけらもない。

中断されていた『外れないスイカ割り』が再度試みられる――。


「半村ッ!」


時が淀んでいた地下階に、スッと甲高い声が通っていった。コンクリートに反響しながら、幾重かのこだままで聞かせる。


危険を感じ取った野生動物のように、一瞬ピクリとしてから半村の動きが止まった。当然だ。半村にも予想外であろう方向から声がしたからだ。


声はサトリ・アヤカのものだった。

アヤカは半村の遙か背後にいた。ずぶ濡れの姿で、ロングウルフの髪を首筋にはり付け、半村の背後にいた。


柄の折れたT.E.O.T槍を短く持ち、その刃物の切っ先を車椅子の男に向けていた。

水面から頭だけが出ている半村尚志。彼は薄くなった髪を乱暴に鷲掴みされ、無理矢理あらわにされた首筋に槍の切っ先が突き立てられている。


アヤカは真っ黒な瞳で半村を睨み、わざとらしいほど抑揚のない声で言った。


「半村、抵抗するな。コイツ殺すよ」


興奮を抑えている。憂理にはソレがわかる。

そして抑制されたアヤカの言葉に続き、半村尚志が泣いているのだか、笑っているのだか、その判別が難しいほどしわくちゃの顔で、奇声を上げた。


「にに、にいちゃん、こここ、これ。は、刃物! いいいい、いたい、いたい」


半村は翔吾からアヤカへ視線を移し、バットを少し下げ、状況が掴めない様子で立ち尽くしていた。


ドタバタ騒ぎの水飛沫にまぎれてアヤカが水に潜ったことに、全く気がついていなかったに違いない。

だが状況把握に時間はかからない。目の前で起こっている出来事は単純だからだ。弟が人質にとられている、それだけだ。


「尚志」


半村はようやくで一言つぶやいた。怒鳴り声でもなく、叫び声でもなく、ただの呼びかけのような声だ。まるで『どうしたんだ』と質問混じりの挨拶のような。


一方の半村尚志は完全にパニックに陥っており、言葉が上手く出てきていない。


「にに、にい、にいちゃん。ここ、コレ、いたい、いた、いたい!」


そしてそのパニックを引き起こさせているサトリ・アヤカは、やはり抑制のきいた声で半村に命令する。


「バットを捨てろ。首を切りおとすぞ。コイツの頭で『ノック』してみるか?」


半村は動かない。ただじっと弟とアヤカを見つめるだけだ。

そんな反応の薄い半村に苛立ったのか、アヤカは少しだけ抑制していたであろう興奮を開放した。


「早く捨てろ! ホントに殺すぞ!」


これではどちらが『悪者』かわかったものではない。憂理などは一瞬そんな事を考えてしまう。

だが半村が止まったのは事実。通路に密集する者たち全員の視線を集めて、半村はただボンヤリと泣き叫ぶ弟を見つめている。


「早く捨てろッ!」


アヤカの心中の焦りが彼女の手で発露し、力に変わる。


半村尚志の首に突き立てられた刃先が皮膚に沈み始めた。

尚志はなおさら大騒ぎで悲鳴を上げるが、兄は動かない。街頭で流されるテレビニュースに足を止めた人のように、ただボンヤリとその様子を見つめるだけだ。


そして憂理も、ジンロクも、倒れたままの翔吾も。総崩れになったテオットたちも。全員がただコトの成りゆきを見守っていた。

ツカサだけは、どこから持ち出してきたかも判らない『針』に糸を通そうと指先に集中していた。


半村が動かない。

アヤカによる脅迫は意味を成すのか。憂理は少し混乱してしまう。

このまま半村が動かなければ、サトリ・アヤカは――あのパンク少女は、本当に刺すのではないか。


刺して、1人ぶん余計な血が流れる、1人ぶん余計に命が失われる。そしてそのまま誰も望まない結末に向かうのではないか。


「従う気ないんだね」アヤカはまた抑制を取り戻した声になり、続けた。「ころす」


そして――決断を実行に移すため、アヤカの華奢な体が空気を一気に取り込んだ。

あの槍が、あのまま、一気に首を貫く。


憂理が『やめろ!』と叫びたい気分だ。だが止めてどうなる? 何が変わる、何が収拾する?

無力な者は成りゆきに身を任せるしかない。憂理や翔吾、T.E.O.Tの無力は半村にさんざん証明されたではないか。


だが、きっと路乃後菜瑠なら止める。憂理はそう思う。

半村はともかく、あの弟は殺されるいわれのない人間だ。

その無辜の人間を踏みにじってまで行使される正義を、彼女が見過ごすはずはないと思う。自分自身がその後どうなろうとも。


――格好つけるって、マジきついよな。お前、すげえよナル子さん。


「ににいに、兄ちゃん、いいいいいいい、い痛い、ここここ」


「やめろ!」


憂理はなるべく大きな声で叫んだ。

反感を買うだろう、馬鹿だと言われるだろう、自分の全存在が非難されるだろう。だが言った。


「やめろ。そいつは関係ないだろ」


これは脅迫される側が言う定型の台詞ではある。その言葉を憂理は半村を差し置いて言った。

その言葉を受けて、アヤカが『非難含み』の冷たい視線を返し、冷たい言葉も返す。


「関係ないとか、関係ない」


そして、アヤカがその視線を半村尚志の頭に戻し、一気に貫こうとした瞬間、ようやく半村が動いた。


ダラリと下げられていた両腕から、まず槍が落ちた。


全員の視線を集める半村は、そこで天井を見上げる。首筋の全てをあらわにして、天を仰ぐようにして暴君は低い天井を見上げた。


「バットも捨てろ!」


続くアヤカの指示が届いているのか、そうでないのか、半村は反応しない。ただ血まみれの体全体をダラリと弛緩させ、天を見上げる。


「早く!」


そこでようやく半村が言葉を漏らした。


「……俺は、いつも、不満だった」


シンとした通路に、半村の呟きが染みこんでゆく。


「なんでいつもこうなんだ? いつも、俺は身内に、全部をダメにされてきた。ガキのころも仕事を始めても、いつも全部をダメにされてきた」


半村がなにを言い始めたのか、その場にいた全員がその意図をその言葉から探ろうとしていた。

とうの半村自身は誰に言うでもなく、まるで神と対話を始めたかのように独白を続ける。


「なんで、こうなんだ? 俺は努力もした。勉強もした。人に認められようと、無茶も無理もした。でも、いつもダメになった。ダメになって、クソみたいな人生が残った。欲しかったモノは、期待してた未来は一つも手に入らなかった。全部がダメだった」


アヤカは依然として尚志の首に刃物を突きつけ、尚志は奇声をあげている。


「全部、身内のせいでダメになった。ダメになって、結局残ったのは身内だ」


天を仰ぐ半村の頬に、血でも汗でもない液体が流れていた。

――半村が泣いている。


「その身内が、また俺をダメにする」


半村の独白の間も、緊張は解けていない。

半村にせよ、深川にせよ、1秒後には何をしでかすか判らない――そんな警戒心を誰もが持ち合わせていたからだ。


「でもな、そいつ、可哀想な奴なんだよ。兄貴だから言うんじゃねぇ。本当に、可哀想な奴なんだよ。外では母親の自己愛の道具にされ、家の中ではオヤジにもお袋にもほとんど無視されてた。……お袋はそいつのこと、外では『天使ちゃん』とか言ってたっけ。家では悪魔より疎まれてたけどな。……俺らの家系のクズみたいな遺伝子の究極形態なんだよ。クズに見下されるクズなんだ」


半村の声は弱々しく、そこに『暴君の威厳』や『鬼神の威光』はなかった。ただ涙声で、天井に語りかけている。尚志の奇声は相変わらず続いている。


「気持ち悪いだろ、そいつ? 到底天使ちゃんなんてタマじゃねぇよな。でもな、天使なんかじゃねぇけど、可哀想な奴なんだよ。本当に。俺が見捨てたら、もう誰も見向きもしてくれない。一生『普通の幸せ』を得ることはない。努力する能力すら与えられてない。全部ダメになった俺は不幸だ。でもそいつは最初からダメなんだ。ダメにされてたんだ。自分がダメだって事すらわかってねぇ。誰を憎めばいいかすら……」


憂理は半村の降伏を確信した。

この男は、もう抜け殻だ、と。


「どんだけコキ下ろしても、そいつ俺を頼ってくる。昔っからだ。尚志が付いてくるからって、中学に上がる前には遊び仲間が俺を誘わなくなった。アイツらも『コイツは違う』って気付いたんだろな。そうして俺たちに最後に残ったモンは、お互いだけだ。なんでだろうな。なんでこうなったんだろうな。なぁ、尚志。昔はよかったよなぁ。何も考えず、下らない事して、よく笑ったよなぁ……。なんであんなに楽しかったんだろなぁ……。いつか、昔みたいに……」


半村の手からバットが落ちた。

その瞬間、T.E.O.Tたちが前進し、半村を槍で囲む。全包囲され、全ての槍が半村に肉薄する。


「半村、壁に向け!」


事態を収拾したサトリ・アヤカが、依然として半村尚志に刃物を突き立てながら指示を出した。

半村はゾンビのようにふらふらと壁へと歩み寄り、やがてタカユキたちによって手首を後ろ手に縛られた。その緊縛の凄まじさが半村への恐怖を如実に表していた。


「ににににい、兄ちゃん!」


「よし!」タカユキは勝利を宣言した。「この施設は制圧した! 男は後ほど裁判にかける! 今は怪我人の手当を優先させる、そして手の空いた者から大量の汚水をなんとかするんだ! 半村奴隷の残党は見つけ次第捕縛し、倉庫に閉じ込めておけ! 野中雪枝には特に注意しろ」


――終わった。


槍に囲まれながら半村が連行されてゆく。あの暴君は死刑とされるのだろうか。


「ちょっと! 杜倉さん動いちゃダメですよ! いま縫いますから! 血が!」


縫う、などと言うが、きっと無理だろう。この少年は、いまだに針に糸を通せていない。


仲間たちに、言葉はほとんど無かった。

立ち上がった翔吾、壁に背を預けているジンロク。そして憂理も。

ただ連行されてゆく半村の姿を眺めていた。


終わった。


暴君による支配は倒れた。この後、この施設がどうなってゆくのか、そんな事はもう考えたくもない。新世界、旧世界、秩序、混沌、死者に生者。もう、そんな事はたくさんだ。終わった。いまはそれだけを感謝していたい。


半村は、自身を、そして全ての人間を『利己的な生き物だ』と評した。だが、弟のために武器を捨てる行為は果たして利己的行為だったのだろうか。

本人はここまで、自分を利己的だとさげすむことで、様々な罪悪感を紛らわせてきたのではないか。


もっとも、この降伏も『利己的な行為』なのだと半村は笑うのかも知れない。

心理も真理も真相も、何一つ憂理には判らない。


ただ、半村の体力があれば、1人で逃げる事は可能だったはず。人質にとられた弟を見捨てることも出来たはず。

だが半村はそうしなかった。自身をクズ呼ばわりしながらも。自分にまつわる全てを憎悪しながらも。


憎しみは何も生み出さないと人は言う。だが、何かを憎むことすら許されない世界は、きっと地獄より残酷な場所なのではないか。


幸福の意味を考えない程度には、自分はこれまで幸せであったのかも知れない。憂理はそう思う。

そして、ひとしきりの感慨に耽った後、憂理は呟いた。


「……ナル子、追わなきゃ」




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