9-6b 暴君と獅子
ただ殺意だけを原動力として、憂理は地下階に半村を捜した。
腹までの水位は移動を困難にし、一歩前進するだけで憂理の体力を大きく削ってくる。天井からしたたる水滴に全身は濡れ、首のガーゼからは彩りの薄れた血液がしたたる。額に張り付いた前髪とアザだらけの体、そして出血。自分は1分1秒ごとに深川に近づいているのではないかと思う。
センタールームなる場所に半村はいると聞いた。だがそのセンタールームが具体的にどこを指すのかわからない。
憂理は何度かトランシーバーに翔吾を呼んだが、猫科の少年はよほど深い眠りに落ちているらしく応答はなかった。
血液を失い過ぎたせいか、身体は重く意識もぼやけている。このまま死ぬとは思わないが、現状では事故車でそのまま高速道路を走行しているようなもの――ちょっとしたキッカケで身も心もバラバラになりそうだ。
見覚えがあるような、そうでないような通路を進み、やがて憂理は遠くに人の声を聞いた。
「急げッ! モタモタしてんなッ!」
「だだだ、だけど、しゃ、車輪が、まわらなくて」
――いた……。
すっかりと耳の奥に馴染んだ半村の怒声だ。
だが、もう一人は誰だ。少なくとも聞いたことのある声ではない。
「押してやるから、無理やり回せ!」
「ままま、回らない、すす進めない」
憂理は声のする方へと進み、やがて聴覚だけでなく視覚でも半村を捉えた。
半村は憂理と同じくズブ濡れで、水面から頭だけを出した男に怒鳴りつけていた。
そこでようやく記憶が想起される。あの首だけの男、車椅子か。そういえば半村の弟とか――。
そして、この場所もわかる。半村とその弟のすぐ向こうにある防火扉。あれを抜ければ大区画だ。どうやらようやく逃げ出すことにしたらしい。
「半村」
憂理が名を呼ぶと、半村はようやく見られていたことに気付き、威圧感のある視線を向けてくる。
「彼氏……か」
数メートル目の前にして、あらためて暴君と対峙すると、自分の魂が怯えるのがわかる。相変わらず半村の手には金属バットが握られ、シャツが水に濡れたせいで隆起した筋肉が透けて見えた。
「学長が死んだぞ。深川が死んだぞ。カガミもガクも他にも、たくさん死んだぞ。お前のせいで」
「ふん……知るか。なんだ、一人で俺を捕まえられると思ってんのか?」
憂理が一人きりである事に気づくと、半村は余裕ぶった態度で嗤った。
「なめてんのか。彼氏」
「捕まえない。殺すんだよ。みんなのため、俺のために」
「あのなぁ。全部悪いのは俺か? 違うだろ。おりゃあ善人じゃないがな、勝手に俺のせいにされんのは不愉快だわ」
「お前を殺してやる。殺されるってどんな気持ちか教えてやる」
「尚志ッ!」半村が弟に対し、怒鳴りつけた。「さっさと動けって言ってんだろ!」
「ひっかか、って、うう動かない」
弟は車輪を直そうと顔を水に沈めるが、どうも仕事は遅そうだ。
「さっさとしろ! ボケが!」
そして、半村が憂理へ向き直ると、それとほぼ同時に遠くから声がした。半村のあげた怒鳴り声が誰かの耳に届いたらしい。
「ふん……。篠田サンが死んだ? 深川サンが死んだ? それがどうした? 俺が泣いたら満足か? イイ人を亡くしたァァア、ってよ?」
半村が水を割りながら、少しずつ憂理に近づいてくる。
憂理は半村に気付かれないよう、折れたT.E.O.T槍の先端を水面下で強く握った。
チャンスは多くない。半村を殺す――それには一撃で仕留める必要がある。まさに『必殺』の一撃でなければ。
半村は警戒する素振りすら見せず、肩にバットを乗せてどんどん近づいてくる。
「彼氏。人間なんてな、利己的な生き物だろ? 篠田サンが死んで、深川ババアが死んで、俺は死ぬか? 死なないね。なんも感じねぇ」
「お前がクズだからだ」
「言うねぇ彼氏も。だが違うな。利がないからだ。あいつらが生きてても、俺には何の利益もない。人間なんてそんなモンだろ? 自分に利益があるから仲良くする」
「お前だけだ」
「考えてみろよ、彼氏。他人のために見返りを求めず行動する――そんな利他行為がどうして『美徳』とされるか。わかるか? 普通できねぇからだよ。もっと言えば、する必要がないからだ。だからそう言う利他行為を美化するんだよ。そうすることによって、馬鹿が褒めて欲しくてやり出すからな。これが生きモンの本質だ」
半村社会論が正しいかどうかなんて憂理にはわからない。ただ歪んでいる事ぐらいはわかる。
乗るべきではない――とわかっていながら憂理は問答に答えてしまう。
「違う!」強めに言葉を発したが、反論のために続く言葉が見あたらない。「……多分」
「違わねぇよ。親子の愛ってのも、遺伝子を守るためのプログラムだろ。そもそもな、誰かを好きになるってのも、突き詰めりゃ利己行為だ。てめぇに害のある相手を好きって奴は悲劇のヒロイン気取りの馬鹿しかいねぇよ。そうだろ?」
「学長に害はなかった」
「そうかもな。だが益もなかった。だからどうでもいい。『こうなる』前なら、まだ利益もあったろうがな」
ザバザバと歩み寄りながら、半村はいかにも半村らしき事を言う。憂理は『一撃』するポイントを定め、そこを凝視した。目だ。目を刺し、脳まで。あの深川でも脳だけは弱点だった。
なるべくこちらの意図を悟られないよう、憂理はふてぶてしく応じる。
「利益がない、ってんならアンタもだよ。利益がないどころか、不利益で有害だ。だから排除するよ。俺は悲劇のヒーローなんかじゃないんで」
「ははッ! そうだ、それでいい彼氏。みんなそうだ。心を砕く価値のある他人なんて、そんなにいやしない。宗教だって突き詰めれば自己愛の研鑽なんだからな」
半村は口では大きく笑いながらも、目では笑わず、微かな殺意を憂理に向けてきていた。笑わない目の下で、三日月の口が滑らかに動く。
「深川サンなんて、自己愛の塊だったろ? 自分が救われる、天国へ行く、そのためなら自分の子供すら道具にする。あいつが幾つの宗教を渡り歩いたか知ってるか?」
「興味ない」
「プロテスタント、カトリック、オーソドックス。なんでもありだ。そして自己愛を満たせないと、次々に変えて、次第にイロモノに傾倒した。ファミリア福音協会、マギーシープルシップ、そしてメサイアズ・フォーラム。どんな神を愛すにしても、浮気が過ぎんじゃねぇか? 汝、姦淫するなかれって教えてやるべきだったな。今ごろ天国にいんのか地獄にいんのかは知らんが」
半村のあげたキリスト教系新宗教は憂理の知るところではない。ただ、深川が普通ではない事ぐらいはわかる。だが半村とて普通とは言い難いだろう。
憂理が黙ったままでいると、半村はとうとうバットの届く距離までやってきた。
「なぁ、彼氏。俺の母親も同じだったわ。自分のためなら、どんな犠牲も厭わん。そしてその身勝手に涙ながらのストーリーまで作りやがる。まるで自分が被害者かのように」
半村のバットは、すでに憂理の頭部を射程距離圏内に収めている。一方の憂理は、まだ必殺の間合いには踏み込めていない。
――あと二歩、いや半歩でもいい。
「俺も、尚志も、そのクソみたいな母親の遺伝子を受け継いでる。神なんかがいるなら言ってやりたいね。頼むから親を選ばせろ――ってな」
半村は憂理に向かって歩みを進めながら、確信めいたことを言う。
「なぁ、彼氏。なんで子供の人生を左右する重要な役目に、試験も適性テストも免状も無い奴が就けるんだ? クズがセックスして、そのチンカスからガキが生まれる。俺や尚志や、深川羽美みたくな。そして、俺たちはなこんな所にいる。なにも報われず、救われず、クズどもの後始末をクズ扱いされながらやるワケだ」
半村が何を言わんとしているか、憂理にはわからなかった。
ただ独白めいた言葉のどこかに半村の感傷があるように思えた。
「俺はクズか? そうかもな。だがな、誰が俺たちの涙の跡を知ってる? これが商品なら、お前らは製造元を叩くだろ? なのに人間なら、不良品を叩くばかりで、不良品を作った工場はお咎めなしか?」
「お前は……」憂理は反論しようとして、口を開いたが、言葉に詰まった。
饒舌なはずの半村が何も言わず、ただ憂理をジッと見つめ言葉を待っていた。
憂理はようやく言葉を見つける。
「お前は、自分の人生を自分で選ぶことが出来た。商品とは違う。全部、自分で選んできたんだろ。……親以外は。俺だって親に関しては不満あるよ。でも……」
半村はフンと鼻を鳴らし、口角を上げた。『そんな程度のことしか言えんのか』そう言われた気がしてしまう。
「彼氏。いや杜倉憂理。もうな、チンカスはチンカスの道を行くしかないんだよ。徹底的に利己的に生きて、証明するしかない。あの女の遺伝子はクズを再生産する欠陥品だったってな。俺は俺の人生を憎んでる。生まれた場所も時代も社会も全て憎んでる。こうなる前は『利益』のためにそんなモノを隠して生きてたがな」
それは復讐か。
母親の存在意義や存在価値、名誉や尊厳を傷付けるための、復讐か。
それはあまりにも非建設的な生き方ではないか。
もし復讐のためであったとしても、憂理たちがその犠牲になるいわれはない。復讐したいなら、家庭内ですればよい。
憂理は、あと半歩の距離のまま言った。
「殺してやるよ。アンタを。それで全部決着だ。アンタをアンタのために殺してやる。遺伝子もここで絶える」
「ははッ! 死刑ってか? そりゃひでぇなぁ。死刑執行人になる前に、弁護士ぐらい呼んでくれてもいいんじゃないか? 俺は利己的なエゴイストなんで、自分の命は惜しい。食堂で死んだカガミとか言うガキにしても、殺らなきゃ俺が殺されてたんだぞ? そうだ、たとえば、今も」
言い終わった瞬間、半村が動いた。
肩に乗せていたバットがフワリと動き、横薙ぎに優美な弧を描きながら憂理の頭部を狙ってくる。
憂理は姿勢を低め、一歩踏み出した。
そしてバットがトップの髪をかすめた瞬間、水中に隠し持っていた刃物を半村の目へと直線で向かわせた。
ホームランのはずが空振りし、半村に隙が生まれた。顔面を守るものはない。
血液は足りなくとも、アドレナリンは分泌するらしく、憂理には全てがスローに見えた。血が足りないからこそ、アドレナリンの濃度が高いのか。
停滞した時間のなか、半村の目は見開かれ、その瞳に、刃物が映った。距離にして数センチにまで迫った刃物の切っ先が。
――殺す。
だが、あと数ミリが遠すぎた。
刃物の切っ先が半村の眼球まであと数ミリまで迫った瞬間、半村の膝が憂理の腹に突き刺さり、直線に進んでいた刃物の軌道がぶれた。
半村の左頬を切り裂き、その直後に腕ごと弾かれる。
刃物は回転しながら汚水に落ち、憂理は腹に膝を受けたまま止まった。出し切ったハズの苦い胃液が、逆流し食道を焼く。
「ははッ!」
半村が軽薄に笑い、倒れかかってくる憂理に重い拳の洗礼を浴びせた。
憂理はその威力に吹き飛ばされ、水飛沫を上げて壁際に着水する。顔面から沈み、気道に入り込んだ汚水にむせる。
咳き込みながら水面に顔を出した憂理に、半村が軽薄に笑う。
「おいおい、あぶねぇな。マジで殺す気か? 油断させといて刃物で襲いかかるとか、ひでぇ悪党だな彼氏」
半村が頬の傷に指先で触れ、血を確認すると、立ち上がろうとする憂理に歩み寄ってきた。
「すまんな。彼氏、お前嫌いじゃなかったぜ? お互い生まれ変わったら……つるもうや」
中腰のまま動けない憂理の前に半村が立ちバットを高く振り上げた。照明の影になって、その表情は見えない。
だが、目だけは見えた。
暗い顔のなかで、目だけが見えた。
その目が見開かれ、半村の胸郭が大きく空気を吸うのを見た。
――最後に見るのが半村だなんて、最低の終わり方だな。
半村を見上げたまま、憂理は心の中で悪態をついた。それが今できる唯一の抵抗だった。
だが、とろりと流れる時間のなか、見上げた半村の横顔に、何かが接近するのが視界の端に見えた。
その物体はコマ送りで半村の顔に近づき、やがて半村の頬骨あたりに直撃した。
物体の外装が弾け、半村の首はその物体の重さを伝えるかのように反対側へ曲がったのを見た。
大小に分かれた物体の破片が付近の水面に飛沫を上げて飛び込み、そのうちの一つ――オレンジ色のボタンが憂理の目の前に着水した。
顔面にトランシーバーを食らい、完全にバランスを崩した半村。その顎にジンロクの拳が叩き込まれた。
まさに迅雷のごとく半村へと駆け寄ったジンロクは、水飛沫を天井近くまで上げ、それが着水するより早く、拳を叩き込んでいた。
半村の首は折れたかと錯覚するぐらいに曲がり、迅雷の威力のまま水面に倒れた。
「ユーリ! 離れろ!」
ジンロクは憂理の胸倉を掴み、荷物を動かすかのようにして後方へと憂理を放り投げた。
憂理はまた顔面から汚水に潜り、むせながら顔を出す。
「ろ、ロク」
ジンロクの背中に憂理が呼びかけると、ジンロクは立ち上がろうとする半村へ向かったまま、怒鳴った。
「無茶するなって言っただろ! 世の中色々あるが、これが一番の無茶だ!」
「あ、ああ、ごめん」
顔面にトランシーバーの直撃を受けた半村は立ちくらみを起こしたのか醜く顔を歪めてフラついていた。あれだけの重量物を顔面に受けて、立っていられる事が超人的だと憂理はおもう。
だが超人的であれど、隙は生じており、機を見たジンロクがそのまま接近する。
だが、その気配を察したか、半村は闇雲にバットを振り回し、ジンロクの接近を阻んだ。
「ドゲザか、てめぇ」
数秒ののち、半村は直立したが、脳震盪でも起こしたらしく、明らかにまだ体の軸がブレている。
「ドゲザ。殺すぞ……チンカスが」
重量物の一撃により半村の片目は真っ赤に充血し、黒目と白眼の境が曖昧になっている。一方のジンロクは半村の脅しを完全に無視して、振り向かないまま背後の憂理に言葉をかける。
「ユーリ。立てるなら、逃げろ。そのうちT.E.O.T連中が来たら俺も逃げる」
「はぁぁあッ? 逃がすと思ってんのかカスが! お前らだけは殺しとくわ。邪魔ばっかりしやがってよ」
「ユーリ! はやくしろ!」
半村はバットを構えながら水面に手を入れ、ポケットを漁った。そして直ぐに何かを取り出すと、それを口元に寄せて――開いた。
折りたたみナイフだ。その刃は半村の小指よりも小さい――だが立派な刃物。
片手にバット、片手にナイフ。なんとも美しさに欠ける野蛮な組み合わせではあるが、半村の殺傷能力は格段に上がった。
全員が腰から下を水に浸けて機動力のない今、武器を持つ半村と、素手のジンロクでは、勝利オッズを出すまでもない。
ここで、ようやくジンロクが半村に言葉をかけた。
「そういや昔、敵対してたグループに同じような奴がいたな。鈍器を意識させて、ナイフで刺す。か。まぁそいつの鈍器は当たらず、ナイフも刺さらなかった」
「はッ! そうかもな。だが腹までの水は無かったんじゃないか? 試してみようや」
「……やりたくないが」
一対一の勝負ではどうあがいても勝ち目はない。だがジンロクと二人がかりなら勝てるんじゃないか――憂理は立ち上がった。
だが、頼みの綱のT.E.O.T槍も汚水のどこかに沈み、まるっきりの素手だ。
見れば、ジンロクもジリジリと後退していた。
なんとかジンロクが隙を作ってくれれば、その隙に乗じて――と憂理が拙い戦術を思い描いているうちに、半村が動いた。
半村の初撃はやはりバットだ、水滴を霧散させながら、凶器が大きな弧を描きジンロクの頭の高さで横薙ぎで空を切る。
――ダメだ。
あれは先ほどの再現だ、ワザと大振りの一撃を見せて、しゃがんでかわしたところに膝を――否、今度はナイフを。
だが、ジンロクは身をそらしてスッと後方にかわし、ナイフの刺さる距離には入らなかった。あれが経験か。
次々にバットは振られ、ジンロクはそれに合わせてジリジリと後退し、やがて憂理の至近まで下がってきた。
「オラッ! どうしたドゲザっ! 逃げてちゃ試せねぇだろ!?」
半村は狂ったような笑顔でバットを振り回し、水面を叩いたり、空を切ったりする。
ジンロクは憂理の位置まで下がった事に気付くと、表情を険しく、眉間のシワを深くする。言葉はなくとも、それが『ここまで下がったか。マズいな』だとわかる。
この場にジンロクが1人ならば、ジンロクの動きは違っていたかも知れない。だがこの場には手負いの憂理がおり、ジンロクはその憂理を先に逃がそうとしている。
――俺、足手まといかよ!
そして、次のバットが振られた瞬間、それに合わせてスッとジンロクが前に出た。半村がバットを持つ右手の側面へ回りこんだ。
これは半村自身が邪魔で瞬時にナイフが届かない位置だ。
そして、低い姿勢からアッパー気味に左拳をカチ挙げ、鋭く半村の横腹に打ち込んだ。秒の間すら置かず、ジンロクの右拳が水滴を撒き散らしながら半村の顔面をとらえた。
重い音がして、その衝撃が汚水を伝って憂理の下半身にまで到達する。
ジンロクの一撃は『殺人的な威力』があったはずだ。憂理は過去に数人が吹き飛ばされたのを知っている。
半村はそれらをそれぞれ脇腹と顔面に受けたが、倒れることなく、素早く身をよじってナイフを振るった。
後方に避けようとしたジンロクは、高い水位の汚水に後退を阻まれ、バランスを崩して尻餅をつく格好で背中から倒れた。
「ロクッ!」
派手な水飛沫が天井に向かって上がり、憂理が叫んだ瞬間には、半村が大上段から金属バットを振り下ろしていた。
一度、二度、三度、狂ったように倒れたジンロクにバットを振り下ろし、その一撃一撃がジンロクに直撃してるのがわかる。
「ガキが!」
これは、確実に死ぬ。
憂理は無我夢中で床を蹴り、半村の腹に向かってタックルを敢行した。油断した半村は憂理の勢いを跳ね返せず、憂理とともに雪崩れるようにして水面に倒れた。
水、水、水、だ。憂理の視界は汚水でゼロになる。だが抱きついた半村の体は放さない。このまま、水に沈めて殺す――。
だが、次の瞬間には憂理の左上腕に激しい痛みが走った。上腕のただ一点に落雷を食らったような真っ白な痛み。
研ぎ澄まされた金属が、筋肉の繊維を分断しながら、骨まで到達して止まる。
そして、もう一度、二度。
憂理がもがいて半村を放すと、暴君は素早く立ち上がる。タックルのダメージなどゼロに等しい。
だが、ジンロクも立ち上がっており、危機的状況は脱した。だが受けたであろうダメージは半村と比較するまでもない。
だが、目にジンロクらしからぬ殺気まみれの光があった。
「あぁ、ドゲザ。キレたんか? ああ。らしくねぇなぁ」
半村は嗤い、バットを高く振り上げた。
そして、間をおかずそれをジンロクに振り下ろす。
ジンロクはかわさなかった。前傾姿勢になり、そのバットを肩で受けると、素早く半村の左手首を掴み、ナイフを封じる。そして、そのまま半村の顔面に頭突きを見舞った。
汚水を伝って、その衝撃が水に浸かる憂理にまで伝わった。
これは、死んでもおかしくない。
だが半村は倒れない、カッと目を見開いて、至近のジンロクに膝を突き刺し応戦する。
そして、膝により前のめりになったジンロクの背中に、解放されたナイフを突き立てた。
ナイフが、ハンドルいっぱいまでジンロクの背中に差し込まれ、勢いよく抜かれると、血液が細く宙に舞う。
そして間をおかず、再度ナイフが突き立てられ、また宙に血液が飛散する。
三度めが振り下ろされる瞬間、ようやくジンロクが体を立てた。勢いよくジンロクが動いたため、ナイフを振り上げていた半村はバランスを崩した。
そして、のけぞった半村の顔面に、ジンロクの渾身の拳が衝突した。重い音、伝わる振動、これは間違いなくクリーンヒットだ。
さすがの半村もこの威力には抗えず、後方へと倒れた。
派手に飛沫を上げて水中へ沈む。
一方のジンロクは立っている。だが、追い打ちをかける余力はないらしく、直立のまま俯いて動かない。
憂理は半村より早く立ち上がった。刺された左腕が痺れ、そこから滴る水は全て薄められた紅。
「半村っ!」
憂理は水を押しのけて半村に近づくと、半村の沈んだ上半身に膝を落とし、そして両膝の圧力で水中で暴君の両腕の動きを封じた。
出血によりますます透明度を失った汚水の下で、半村がもがく。大小様々な泡がコボゴボと水面ではじけ、窒息へのカウントダウンが始まる。




