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13月の解放区  作者: まつかく
9章 1120億の孤独
96/125

9-6a ガクであった何か

目を覚ました時、憂理は全身の痛みに動けなかった。


深川に噛まれた首の傷はもちろん、腕も両足も鈍く痛み、肩や指先にまで疼痛を感じる。もちろん頭痛や筋肉痛もあり、さながら痛みの博物館と化していた。

血が足りないためか、それとも蓄積していた痛みをようやく知覚できるほどの余裕が戻ったのか。自分ではわからない。


どうして自分がベッドで眠っていたのかすらわからず、ただ天井を見上げていた。

見覚えのある風景から、ここが医務室であることはわかる。ここまでの経緯をおぼろげに思い出して、憂理は更に痛みを自身に追加した。心痛だ。


学長が、死んだ。

現実感は薄く、まるで全ての出来事が夢の中で起こったことのように感じる。

だが首に残された痛み、心に残された傷。それら好ましくない痛みが、全てが現実だったのだと憂理に告げる。


できれば、このままベッドの中で永遠の眠りにつきたい。そうすれば夢も現実も受け入れる必要がないのだから。

憂理が頭を預ける枕の横に、トランシーバーがあった。ユキエから借りた当時より薄汚れ、傷も増えている。その相棒はなんの音も立てず、ただ沈黙していた。


仲間たちはどうなった?

半村はどうなった?

ユキエはどうなった?

T.E.O.Tたちは?


自分はどれほどの時間眠っていたのだろうか。施設が水没していないと言うことは、タカユキなり翔吾なりがうまくやった――ということだろうか。

息苦しさに首筋に手を当ててみれば、分厚いガーゼが傷に当てられているのがわかる。


だが指先で検分してみれば、その手当ては乱雑きわまるシロモノで、思わずため息が出てしまう。傷口にガーゼを当て、首ごとテープでグルグル巻きだ。こんな無作法な処置を見たら、ナイチンゲールなどは卒倒してしまうに違いない。


憂理は動きたくなかった。全身は痛むし、心も半ば折れている。血液は足りていないだろうし、腹も減っていない。動く必要が感じられない。

だが、ここに来て、タカユキに盛られたという薬の影響がかなり薄れているように思えた。薬を盛られて以後、かなり情緒不安定だったように思えるが、今は心が芯まで醒めて、安らかだ。良くない成分が出血と共に体外へ流れ出たのだろうか。


動きたくない。許されるなら、このまま眠っていたい。だが許されない。

耳をふさいでも、目を瞑っても、時間は流れている。

憂理は枕元のトランシーバーを手に取ると、オレンジのボタンを押した。そして天井を見上げながら呼びかけた。


「杜倉だけど」声がかれて、我ながら死人のような声だと思う。「わるい。寝てた。状況は?」


憂理の聴覚に、自分の無様な声がダブって聞こえる。一瞬、耳までやられているのかとウンザリするが、訝るがどうも聴覚は正常のようだ。重複した声はカーテンに仕切られた隣のベッドから聞こえてきていた。


トランシーバーを口元にあてながら、気怠く右手側のカーテンを引いてみると、そこに――隣のベッドにトランシーバーがあった。

トランシーバーのおまけではあるが、七井翔吾と佐々木ツカサもいた。


2人ともベッドの上でだらしなく眠っていた。ベッドに対して縦に眠れば良いモノを、2人とも憂理の方へ頭を向けて寝息を立てている。


「なんだよ……」


となると、あとはジンロクとタバタ。

だが、憂理はふと思い立って、トランシーバーを持ち直して左手側のカーテンを引いてみた。すると、やはりそこにジンロクとナオがいた。こちらはベッドを正しく使用している。


「ロクもかよ……」


そうしてふと記憶を遡ってみれば、タバタも瀕死の傷を負わされていたことを憂理は思い出す。死んでいなければ、おそらく上階であるT.E.O.T棟で手当を受けているだろう。

通信は無意味だと気付き、重いため息を天井に吹きかける。


状況はまるでわからないが、少なくとも仲間たちが無事であったのは喜ぶべきだろう。

そしてこうして眠っているのも仕方がないかも知れない。時計を確認していないためにどれほどの時間活動していたのかわからないが、全員疲労困憊の極致にあったはず。

ただ『眠い』や『疲れた』という感覚を見失うほどの状況に置かれていただけなのだ。みんな向かい風に全力で立ち向かったのだから、少しぐらい休息があっても良い。


憂理はベッドに肘を立て、なるべく首に負担を掛けないようにして半身を起こした。それでも首は痛むし、首以外も痛む。いっそのこと殺してくれとさえ思う。


仲間たちを起こすのも気が引けて、憂理はなるべく音を立てないようにベッドから降りた。

床にはいまだ水位にして数センチの水が残っていたが、命の危険は感じない。この水もそのうち何処かへ流れて消えてしまうだろう。


憂理は水に流された自身の靴を見つけると、だらしなく踵を踏んで履いた。

水浸しで気持ちの良いモノではないが、汚水で床が見えない状況では履かざるを得ない。ガラスなどを気付かず踏んで、痛みを増やすほどマゾ趣味はない。


そうしてヨタヨタと鏡の前に来てみれば、酷い有様だった。

色素が抜け落ちたかのように顔が白く、目の周りはパンダのように黒い。

これは本気でゾンビになる前兆かも知れないと、笑えてくる。


――外に。


そうして、憂理は医務室の机に投げ出されていたT.E.O.T槍の先端を手に取ると、その刃物をトランシーバーと一緒に持ち、深く眠る仲間たちを置いて、通路へと出た。

通路の水もやはり数センチほどの水位となっており、水流に流されてきたであろうゴミや建材クズが散乱していた。


――学長。

憂理は死した恩師の影を探して通路の遠くまで目を配る。だが目に付く範囲に学長の遺体は見あたらなかった。


葬りたい。荼毘に付す――火葬だの土葬なり、丁重な弔い方はできないが、出来る範囲で弔ってやりたい。

そうして学長の遺体を探して徘徊するウチに、深川が死んだ場所に辿り着いた。あの猛女の遺体はない。だが尋常ではない量の血液が流れきらずに漂っていた。


憂理がどんよりと水を汚す血液を見下ろしていると、そこにT.E.O.Tの腕章をした女子がやってきた。

このT.E.O.T女子には見覚えがある。

ナル子やエイミと仲の良かった――カナ。


一度、半村の食料を食堂から運び出す際に喋ったか、喋らなかったか、その程度の絡みしか覚えていない。

そのカナは憂理を見て、恐怖だか驚愕だかの表情を浮かべたが、ギリギリで逃げなかった。ただ槍を幾分か強く握ったのは憂理の死んだ目にも観察できた。


「よお。俺さ、杜倉ってモンだけど……。ここらへんで学長の死体見なかったか……?」


「……それがどうしたの」


「弔ってやりたいんだ。俺、学長には世話になったし。あのまま放置するのは忍びなくて」


「死体は全部、焼かれるわ。まとめて……」


「どこで……?」


「地下の焼却炉で焼くってマツオカ師長から聞いたけど……。死体ってほっとくと酷い臭いがするからって……。でもまだ地下は水浸しって聞くし……わからないわ」


「そっか……。半村はどうなった?」


「まだいるよ……。水を止めるのに手間取って、さっきイツキ班とマツオカ班、タバタ班が地下階に下りていったから、もう終わってるかも知れないけど」


「タバタ? アイツ無事なのか? 深川に頭割られてたケド……」


「気を失ってるけど、上階に運ばれて手当を受けてる」


死んでなくて良かったと思う。意見や立場は違えど、これ以上、人の死というモノに触れたくはない。なにより、あれほどの美人が死ぬのはもったいない。頭の中身はどうであれ。


「そっか。助かったよ」


憂理がおぼつかない足取りで地下階へ続く中央階段へと向かうと、その背中にカナの声がかかった。


「あの、杜倉くん。ありがとう。杜倉くんが居なかったら今ごろ……。なんか、色々こじれてるみたいだけど、私は感謝してる」


憂理は振り返る体力も惜しく思え、歩みを進めながら返した。


「返すよ、預けられた命。大事にしろよな」



 * * *



地下階は惨禍の見本のようになっていた。


中央階段を下りきる前に水によって行く手を阻まれる。

それも当然だ。上階と生活棟で放出された水がすべてこの階に集まったのだから。この程度で済んでいるというのが奇跡的にすら思える。


この水の中をT.E.O.Tたちは進んでいったのか。


「やだな……」


憂理は独り言を言いながらも、階段を一段、また一段と下りて行った。

足を滑らせないよう、慎重に歩みを進める。やがて階段を下りきった時には腹まで水に浸かっていた。

学長を弔う――それが前提であったが、ガクを救出してやろうという気持ち、そして半村の最後に立ち会いたいという気持ちもあった。そして聞きたいことも。


それらの感情を燃料として、憂理は腹までの水を割りながら前へと進む。

そこで唐突にトランシーバーが電波を受信した。


「おい、ユーリ。俺だジンロクだ。聞こえてるか。お前どこにいったんだ」


憂理は少しずつ水に足を沈めながら、片手間で応答する。


「地下に向かってる。学長を捜してるんだ」


「ん。学長ってお前、あの人、死んだって聞いたが」


「ああ。だけど探してる」


「あー。……そうか。わかった。俺も手伝おう。すぐ行くから無茶するなよ」


「助かるよ」


階段を下りきったときには憂理は腹まで水に浸かっていた。

汚水に透明度を求めても仕方ないが、緑だか黄土色に阻まれ床などは全く見えない。透明度数ミリといったとこか。これではタニシやヒルでさえ、転居を考えるに違いない。

ただ臭わないだけマシだとは思う。


――ここ……。昔、翔吾とケンタとノボルとで、冒険したんだよな。


遠くもない昔の出来事ではあるが、施設の情景からその楽しかった頃の面影は薄れている。ただの汚水プールとなっている。それが悲しい。

時間は逆行せずとも、せめて施設があの日のままの姿であったなら、少しの感傷にも浸れたろうが。


――あの日に戻れたら。


そんな無意味な事を考えてしまう。あの日に戻れたなら、もう一度やり直せるなら、何か変わるだろうか。


もちろん、現在の記憶を持って戻れたなら変える事ができると思う。だが同時に、変えられないかも知れないと弱気にも思う。

ここまで全てが人の業によって運ばれた出来事だった。きっと経路は変わっても、同じゴールを目指して流れてゆくのではないか。


半村を半村たらしめるもの。ユキエをユキエたらしめた出来事。

タカユキという虚像が生み出された経緯。学長が歩んできた人生。

菜瑠や憂理がそれぞれの個性を獲得した過去。


それら全てが変わらない以上、同じ結末が待っているのかも知れない。

きっと、経験が人を作る。


トラウマもコンプレックスも、喜びも悲しみも、怒りも愛情も、すべて個人の経験に由来する。そうやって人は経験に作られてゆく。憂理はそう思う。

そしてこの施設で起こった出来事も、自分や仲間たち、そしてT.E.O.Tたちに影響を与え、変わってゆく。作られてゆく。良くも、悪くも。


自分も変わったと思う。様々なモノを聞いて、見て、人の死を見て、人を殺して――。

全ての経験を飲み込んで、消化して、人は化学変化を起こして行く。


深川を殺したという事実も。

とりとめのない事を考えながら、あてもなく憂理が彷徨っていると、やがて既視感のある通路構造に気がついた。


――ここは痩せ女の……。

目的の一つを見つけ、憂理は痩せ女――深川羽美の部屋の前に立った。


そして、強めに無骨なドアをノックする。


「ガク。俺だ杜倉だ。助けに……来たぞ」


閉じ込めておきながら、恩着せがましい言い方をしてしまう。心の何処かにいまだガクに対してのわだかまりが残っており、素直になれない。


「……おい、開けるぞ」


憂理は痩せ女部屋特有の、『外からの鍵』を開けようとした。だが、その必要はなかった。

――開いてる。


閂が取り外され、ドア自体は閉まっているものの開放状態だ。

憂理はドアノブを握り、重く水圧の抵抗を受けながらゆるり、ゆるりとドアを開けた。


「……ガク?」


返事はない。ドアから覗き込んでみれば、痩せ女部屋の通路には、真空パックの袋や紙切れなど様々なゴミが所狭しと汚水に浮いており、さながら地獄の台所といった様相だった。


「……おい、ガク、いるなら返事しろ」


通路を右から左へと見回して、ようやくガクが返事をしたくとも返事ができない事に憂理は気付いた。

ガクも浮いていた。


遺体の周りをどす黒く染めながら。

もっとも、それをガクだと憂理は判断したが、ガクでないかも知れない。彼の首から上が無かったからだ。


不吉な色はガクの首から滲み出て、周囲の水を汚していた。

これでは、返事しようにもできまい。仮にゾンビとなっていたとしても、頭部がなければ呻き声すら上げられない。


憂理の胃が急激に縮み上がり、胃液が食道を経由して逆流する。思わず、壁に両手を預け、憂理は嘔吐した。

空っぽの胃は、ありったけの胃液を放出してくる。


苦いやら、辛いやら、胃液の味は最低だ。何度も吐いて、ようやく胃液すら出なくなると、憂理は何度も深呼吸して、ようやくドアを閉めた。


惨殺だ。これまで見た遺体の中で、もっとも猟奇的な壊され方だった。

――頭は、頭はどこに。


もしかしたら自分の足元、透明度の低い汚水のどこかにガクの頭が転がっているのではないか。


右から左に水流が生まれるたびに、ガクの頭も右から左に転がり漂うのではないか。そんな想像に、また吐き気を催し、分泌されたての胃液が口内を満たす。


憂理は胃液を吐き捨てると、すり足気味に痩せ女部屋から離れた。床に転がるガクを踏みたくはない。


――なんで、殺されてんだ!


殺人者が悪いのはわかる。だが、ガクをここに押し込めた自分にも責任の一端があるような気がした。

こんな場所にいなければ、まだ生きていたのではないか、と。


自分は地下階――ライオンの檻の中に、それとは気付かずガクを押し込んだのではないか。悔しくて、腹立たしくて、憂理はコンクリート壁を全力で殴った。


拳が砕けるほどの痛み、だが足りない。歯を食いしばりながら、何度も拳を叩きつけた。やがて皮膚が破れて血が壁に痕跡を残す。


「ふざけんな!」


想定外だった、と自分を慰めるのはたやすい。まさか殺されるとは思わなかった、と。だが、施設の状況が悪くなりつつある時、自分はガクを半ば忘れたまま過ごしていた。

いずれかの段階で救い出すこともできた。なのに。


――なにがヒーローか。なにが救世主か。自己陶酔のマヌケじゃないか。俺は。


杜倉憂理はまだ幼かった。

自分への怒りを上手く消化できず、苛立ちばかりが肺を焼く。そして、自分自身では冷静であると錯覚したまま、無理矢理に怒りの矛先を見つける。


「……半村の野郎、ぶっ殺してやる」


全身の痛みを忘れ、ガーゼを朱色に染めながら杜倉憂理は腹で水を分けながら先へ進んだ。

溜め込んだ悲しみや苦しみ、ネガティブな感情の全てを半村のせいにしたかった。


何人死んだ?

半村のせいで、何人死んだ?


ガクの殺害は半村の仕業ではない――ギリギリで働く論理思考がそう訴えかけてくる。ガクのことに関して、半村は冤罪だと。だが、それはもう重大なことではないと憂理は断じていた。


――もう、終わりにしてやる。最後にお前が死んで、それが最後だ。


全てが終わると思っていた。半村さえ死ねば、全ては終わると。

元通りになどならない、そんな事はわかっている。死んだものは蘇らないし、壊れたものは直らない。失われたものを数えることはできず、覆水は盆に返らない。


だけど、殺してやる。

半村だけは死ななきゃいけない。絶対に。これ以上、取り返しがつかなくなる前に。


――深川は殺した。一人殺すのも二人殺すのも同じこと。


憂理の思考、それはまさしく重犯罪者のそれであった。だが、明確な理念がそれを正義だと錯覚させる。


悪を滅ぼすものが必ずしも正義であるわけではない。多くの場合、悪はさらなる悪に取って代わられるだけだ。悪を根絶する事は正義の法衣を着たものには不可能である。そして、正義の法衣を着用できるのは必ずしも善たる存在だけではない。


地上に存在するあらゆる正義が、いかに無力であったろう。

黒い絵の具を白で塗りつぶす、闇を光で覆い尽くす、そんな事は不可能だ。黒絵具は白に混ざり、光は新たな闇を生む。

憂理は自身を正義と信じた。殺人が――殺すことが正しいことであると。


深川や半村。その二人のように、死ななければ救われない存在もいるのだと。

殺すことが、殺されることが、なにより彼らのためなのだと。それが憂理の法衣だった。


杜倉憂理はゆく。

冷静を欠き、激情に支配されたまま。




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