9-2 響くは 我らのよろこびの歌
途切れ途切れであった半村の言葉であるが、その断片的な発言から幾つかの事実を憂理は感じ取っていた。
ひとつは、半村にとって、やはり水攻めは想定外の出来事であったろう事。
ふたつ、だが、それに対する備えが存在し、それを速やかに行ったこと。
みっつ、それは地下階が水没しても半村の身の安全を保障するものであること。
そして、それは間違いなく、この施設の核となる機械機関の命脈を保つものである。でなければ、半村が施設にこだわる意味がない。
演繹的に考えれば、これぐらいの事は憂理にだって読める。
「センタールームは別……か」
憂理が呟きに翔吾が反応する。
「地下が水没しても無事って、よっぽどだぞ。潜水艦かよって話だわ」
「そもそもセンタールームって、ドコだ?」
「あー。ユーリは知らねぇか。たぶん半村の弟が仕切ってる部屋だわ。機械だらけでよ、そっから施設を管理できるんだって四季の奴が喜んでた」
「そこ、潜水艦みたいな感じ? サイバーな?」
「いや、小汚ねぇ部屋。暗ぇし、機械ばっかりチカチカしててよ。四季の奴は喜んでたけどな」
なるほど、四季は喜んでいたらしい。なんとなく、その情景は憂理にも想像できた。しかし、そんな事よりもっと重大な事を翔吾は言ったじゃないか。
「半村の弟って、なんだよ?」
「はぁ、お前、無知のムチムチだな」
「弟いたん?」
「ああ。てか車椅子の男が半村弟なんだわ」
これは少なからぬ衝撃を憂理に与えた。憂理にとって思いもよらぬ事実で、いささか混乱もする。
「なんで翔吾がソレを知ってんだよ」
「本人に聞いたから。『ぼぼぼ、ぼくは、くくく、車椅子の男なんだ。し、しかも。お、おどろべき事に、は、は半村の弟なんだ』ってよ」
「なんだよ、その、ぼぼぼ、って」
「こんな風に喋んだよ、リアルによ」
「マジかよ」
そう言えば、と憂理は思い出す。ノボルが車椅子と仲良くなったと言っていた。
もしかしたら、吃音とダミ声で苦しむ者同士、なにか心通じるモノがあったのかも知れない。
「んで、その半村弟がセンタールームにいたってワケよ。四季さんによりゃ、アイツが施設機械関係を1人で動かしてたってよ」
「で、いま、半村たちはソコにいるってワケか……」
「たぶんな。でもよ、いくらセンタールームが潜水艦でも、あの部屋以外にも機械あるじゃん? 電算室とか、ボイラー室とかよ? 半村的に、ああいうのは水没していいのか?」
「さあな。何考えてんだかな」
まさに施設のコアとなる部分だけが生き残るようになっているのかも知れないが、憂理にはわからない。
そして、完全に水没した後、半村はいかにして『潜水中の潜水艦』から脱出するつもりなのだろうか。
ともかく、今はやれる事に全力であたるべき。考えるのは後回しでいい。
憂理と翔吾が生活棟の娯楽室周辺に辿り着いた時、そこにはT.E.O.Tの女子連中がいた。
大量のペットボトルをつなぎ合わせているところを見れば、指示通り救命ボートなり、胴衣なりを作っているらしい。
その作品は憂理が美術教師なら『不可』と評価する程度のモノであったが、命をつなぎ止めるためのボートなり胴衣なりを作る経験などこれまでの人生になかったろうし、仕方がないことだ。
そして腰下までの水位を保つ水に対し、苦戦を強いられている。
7人ほどの女子が四苦八苦しているが、2人その作業に参加していない女がいた。
サマンサ・タバタともう1人。
「納得できない……」
黒髪ロングウルフの少女は、うつむきがちの白面にいかにも反抗的な表情を貼り付けてタバタと対峙している。
どうやら仲良く『歓談』しているわけではなさそうだぞ、と憂理が気付くと、タバタはワガママな子供を諭すような口調で言った。
「決まりは知ってるでしょ、アヤカ? 確かに松岡くんは頼りないし、イツキは恋愛脳だけど、だからといってアナタが師長になれるわけじゃない」
「……でも、アタシならもっと上手くやれる。……今はぬるすぎる……と思いませんか」
「あのね。物事には順序があるの。教育経験もないアナタが――」
「そういう考え方自体が、常識に捕らわれた『古い』ものだと……思いませんか」
どうやら内輪モメでも起こっているらしい。
憂理は疲れを覚えてため息を吐いた。今はモメている場合じゃないというに、なにを馬鹿なことをやっているのか。バカに効く薬はいつになったら開発されるのか。
「おい! モメてんじゃねぇよ」
憂理がウンザリして言うと、ロングウルフの少女の眼が憂理に向く。
黒く分厚いアイライン。それと対照的に薄く白い唇には血豆のようなピアス。
――なんか、パンクなやつだな。
だが幼さが残っている。年の頃にして、タバタや憂理の世代より3歳ほど下か。
物騒なことに、その手にはいまだに『槍』が握られている。たしかにパンクだ。
憂理はその目力に気圧されそうになりながらも、強気で出た。
「おい、モメてる時間があったら、少しでも多く浮くモンを用意しろ」
「……うるさい」
パンク少女は一歩も引かず、ただ静かに反抗する。憂理などは彼女が手に持つ槍に一瞬目を向けてしまう。
「な……なんだよ?」
「……口を出すな」
「いや、お前な」
「お前って言うな。お前にお前って言われるスジアイない」
これは素晴らしい反逆精神だ、まさに見習うべきパンクだ。
辞書で『反抗的』という項を引けば、「この女のこと」と出るに違いない。だが憂理とて『反逆児』の項に名が上がる立場であり、ここで負けては名がすたる。
「じゃあ名前はよ」
「お前に名乗る名前なんて無い」
「あのさ、お前にお前って言われる筋合い、ないんだけどよ?」
一触即発の雰囲気が漂った瞬間、憂理サイドのセコンドとパンク少女サイドのセコンドが両者の間に割って入った。翔吾とタバタだ。
「やめとけって憂理、ガキ相手に大人げねぇなぁ」
「アヤカ。やめなさい。いいかげん、おこるわよ。作業にもどって、早く」
アヤカと呼ばれた少女は、タバタには逆らいがたいようで、目を背けながらも小さく頷いた。だが納得していない事を言葉にする。
「……タバタさん。本当に変えるなら、本気でやりましょうよ。……導師も言ってたじゃないですか。なのに……ぬるすぎます。松岡さんも、イツキさんも、堂島さんも結局、さっき『刺す』のビビって、なにも出来なかったんですよ?」
「『刺す』から師長なんじゃないわ」
「……でも、タバタさんは刺した。アタシも刺した。結局は覚悟の問題だと……思いませんか。タバタさんも内心、今の師長を入れ替えるべきって思ってるんでしょう」
「アヤカ。もういい。作業に戻って」
納得できない様子のままパンク少女がその場を離れると、タバタは小さくため息を吐いた。
なんだか、集団で居るというのは大変なことなんだな、と憂理などは他人事に思う。
「なんなんだ、アイツはよ?」
憂理が訊くと、タバタは額に手を当てて首を振る。
「ワタシ以上、とだけ言っとく」
これには翔吾がニヤリと笑った。
「お前以上に、『T.E.O.Tバカ一代』ってワケかよ? ナメられてんの?」
「やめてよ。急ぎすぎてるってだけ。理想は同じ」
なんだか他人事ながら大変だなと憂理は思う。アヤカ――タカユキ並のクレイジーを持ち合わせた女だという印象――なるべく近づかないようにしようと思う。
「で、イカダはどうなんだ? いけそうか?」
憂理は訊ねながら『造船風景』を見た。畳1枚ほどのイカダが2隻ある。そしてパンク少女と目が合ったところで、タバタへ視線を戻した。
「2隻できたけど、1つのイカダに乗れて2人」
「なんか、頼りねぇよなぁ……。一応、泳げないヤツを調べといてくれ」
もっとも泳げたところで――ではあるが。水位は凄まじい勢いで上がっている。
安全装置の作動まで、あとどれくらいの時間があるのか――。
憂理が胃にプレッシャーを感じていると、唐突に天井から放送が流れた。
単音の童謡、牧歌的なメロディー。憂理、翔吾、タバタ、テオットたち、その全員の顔が天井へと向く。
半村放送か、と憂理が唇を噛んだ瞬間、予想とは違う声が聞こえた。
女、それも作り物のような美しい発声だ。
「セクター……3Bに……て、異常事態が……。施錠を解除……やかに……安全を確保」
「きたぞッ! 安全装置が作動した!」
「よっしゃあ!」
憂理と翔吾の声の裏では、女性のアナウンスが途切れ途切れに流れ、同じ文節を繰り返した後、また牧歌的なメロディーが流れた。
――始まった!
憂理は腹の辺りまで上がって来ていた水を割りながら、最寄りのドアまで歩み寄り、取手に手をかけた。
だが、開かない。
「翔吾ッ、そっち! そっちのドアは開いたか!」
「開いてねぇ!」
テオットの女子たちも最寄りのドアへ歩み寄り、引いたり押したりしているが、どのドアも閉ざされたままだ。
――なんで! 話が違う!
焦りとともに憂理が取手をガタガタ鳴らしていると、また声が聞こえた。
今度こそ、半村だった。
「なめたサル……もが。全館解放され……思ってんのか。ここから……全部操作できんだよ……。ああ……全部解除したよ、たしかにな……安全装置の動作をよ」
憂理は体温が一気に下がった感覚を覚えた。全身から染み出した冷や汗で、腹下の水が凍ってしまうのではないか――。
「待ってくれよ」
呆然と、憂理は呟いた。
「待ってくれよ、なんだよ、それ」
まるで、その呟きが聞こえたかのように、半村が言った。
「死ね」
* * *
絶望できる者は幸福であると言う者がいる。
少なくとも、失うだけの希望を持っていたのだから。
最初から希望を持ち合わせない者よりは幸せなのだという。
たしかに、そうかも知れない。
だが、落差はどうか。大きな希望を失い、地に落ちれば、その衝撃で命を落とすこともあろう。
高く自由に飛ぶ鳥も、『高度』というリスクを背負っているではないか。
そして憂理の心は、その『転落』の最中にあった。
目を見開いて、受け入れがたい現実を直視し、ただ言葉にならない呟きを肺のあたりに溜め込む。
やめろよ。
ズルいじゃないか。
なんてことするんだ。
トランシーバーが何かをガナリ立てている。だが耳には入らない。
翔吾も目の前まで来て、怒鳴っている。
無数の声を知覚せず、憂理はただ呆然としていた。
予想外の展開が立て続けに起こり、自分の計画が完全に崩壊した。
敗北を実感する。
半村は、この施設をどうとでもできる部屋にいる。そして、それを十分すぎるほど把握していた。
甘かった。
もう、自分たちに出来ることはない。
少なくとも、部屋に閉じ込められた者たちは死ぬ。
目に見えるモノを見ず、耳に聞こえるモノを聞かず、憂理がただ棒立ちしていると、両頬に激しい痛みが走った。
翔吾が両手で挟み込むようにして憂理の頬を叩き、そのまま頭を掴んで怒鳴ってくる。
目の前にある翔吾の目には、果てぬ気力があった。声には不屈の気力があった。
憂理は頭を揺らされながら、ようやくその声を知覚する。
「ユーリ! オラっ! なにボケっとしてんだよ! こっからだろが! まだ、死んでねぇよ! 勝手に負けんなッ!」
――でも、無理だ。
憂理は目の前の翔吾を見つめながら、ネガティブな感情を心中に生んでいた。
――もう、やれることも……。
「ボケ! お前が諦めたら、全員が諦める事になんだぞ! 絶望すんな、迷惑だボケ!」
「あ、ああ……そだな。すまん」
「なんとかしろ!」
無責任極まりない言葉ではあるが、憂理は責任を取ると約束した。最後まで諦めない責任もある。
半村の放送を聞いたテオットたちは、憂理ほど露骨でなくとも、いささかに動揺していた。
「杜倉くん、大丈夫なの! 安全装置が解除されなかったら……」
懐疑や不安ぶくみのタバタの視線が痛い。
だがコレには翔吾が応じた。
「大丈夫にきまってんだろが! ロスタイムで逆転勝ちすんだよ! 100点差なら、こっちは150点入れんだよ!」
その口調は優秀なスポークスマンとは言い難いモノであったが、少なくともテオットたちの暴徒化を抑制する力はあった。
憂理は完全にショック状態から抜けきれないまま、ゆっくりとトランシーバーを口元に当て、オレンジのボタンを押した。
「いま、通信したの誰だ」
ボタンから指を離し、しばらく待つと返事があった。
「僕です、佐々木ツカサです!」
「すまん。いま、聞いてなかった。もう一度、言ってくれないか」
「えっと、杜倉さん、画面の杜倉さんをクリックしまくったら、杜倉さんがクイズを出して来るんです!」
「えっ?」
「ほら、腕をパタパタやってる杜倉さんのキャラクターです。アレをねクリック何度もしてたら、杜倉さんから吹き出しが出て……」
「なんて言ってる?」
「今読みます。えっと『全てが凍る氷の世界、仏の顔は3℃まで。3℃を過ぎればお粥も凍る。熱いお粥も、冷たいお粥も、適温お粥も、全部が凍る。食べ終わるのに、いつまでかかる?』ですって。どういう意味ですか?」
「俺に聞くなよ。そもそもクイズなのかそれ。まったく意味がわからない。仏って、ケンタか? ちょっと考えてみる……」
――なんなんだ。
「なんか、眠そうな目の、冷たい感じの女の子キャラクターが出てきて……。吹き出しが出るんです。ここにクイズの答えを入れるんだと思うんですけど」
「四季か……」
憂理とツカサがやりとりしている間、翔吾は周囲に檄を飛ばしながら『造船』の手伝いに回っていた。
翔吾の見解は聞けそうにない。
全てが凍る氷の世界?
仏の顔も3℃まで?
カユ?
なんだそれは。
捉えどころのないクイズに直面し憂理が考え込んでいると、水をザバザバ割ってテオット堂島がやってきた。
そして、血相を変えて憂理の胸元を掴んだ。
「おい! 杜倉ッ! お前、ぜんぜん大丈夫じゃないじゃないかッ! さっきの放送聞いたろッ!」
憂理は胸ぐらを掴まれたまま、血走った堂島の目を見つめる。
「大丈夫だ」
「なにがッ! 大丈夫なんだッ! テキトーなことばっか抜かしやがって!」
「堂島くん! やめなさいよ!」
「うるさい! 俺たちはコイツのせいで無駄死に――」
堂島が言えたのは、そこまでだった。
がなり立てていた彼の喉元に、金属が当てられたからだ。
その研ぎ澄まされた刃の冷たさが、堂島の声を凍らせた。
パンク女子――アヤカが堂島の喉元に槍を向けていた。
堂島は憂理の胸ぐらを掴んだまま、ピクリとも動けず、ただ小さく言う。
「お、お前、サトリ・アヤカ……。なにを……」
「タバタ師長が『やめろ』とおっしゃった。だから、やめてください。杜倉さんを離して下さい」
言葉遣いは丁寧であったが、視線はそうではない。躊躇いなく刺す、そんな冷徹な意思がありありと見て取れた。たしかに、タカユキのような静かな狂気があった。
「やめろ……命令だぞ、サトリ。……お前、俺も……師長だぞ」
「だから、へりくだってお願いしています。やめてください、って。そしてアタシはタバタさんの直轄グループだから、堂島さんに命令されるイワレはありませんから」
その眼。大きめの黒目が、宇宙の深淵のように黒い。憂理がタカユキに見たのと同じ、底知れない闇だ。
唇のピアスがますます赤い。
「アヤカ! やめなさい!」
タバタが声を張ると同時に、堂島は「わかった……」と声を漏らし憂理の胸ぐらから手を離した。
「協力感謝します。刺さなくて済みました。ありがとうございます」
堂島は半ば放心状態になりながら後ずさり、憂理やアヤカと大きく距離を取る。
――やべぇ女。
あれは、間違いなく刺す目だ。
憂理はアヤカに脅威を覚えながらも、平静を装って言った。
「助かったよ。ありがとな」
だが、アヤカは憂理を一瞥するだけで、『どういたしまして』の一言もない。
かすかに威嚇なり軽蔑なりの色が滲む視線を憂理、そして堂島に投げかけ、背を見せる。
憂理はざわめく胸に薄い空気を吸い込み、小さな深呼吸をしてから、再びトランシーバーを口元に寄せた。
「ツカサ。クイズ……わかったか」
「まったく、わかりません。そもそもクイズなんですか? コレ」
「クイズって言ったのお前だろ」
「でも、クイズにしてもなぞなぞにしても、話が曖昧すぎますよ! お粥ってなんなんですか」
「そだよな……わけわかんねぇよな」憂理は野暮ったく頭をかき、不活性な脳細胞を恨む。
だいたい、おかしな話だ。
お粥が3℃で凍るのか。氷点下以上の温度で、しかも不純物を含んだモノが。
「おい、翔吾!」
憂理は離れた場所にいた翔吾を呼んだ。
呼ばれた翔吾は、工作用ペットボトルを握ったまま怪訝な表情を向けてくる。
「なぁ、お粥って何度で凍るんだ?」
「はぁ? お前、お粥で脱出するっての? とうとう本格的なアホに――」
「違う。そういうのじゃなくて」
「お粥とか、あったかい方が良いに決まってんじゃん」
――ダメだ。こいつ。
憂理はすぐさまタバタへ視線を向けた。
「タバタ。何度で凍る?」
「えっと、水が0℃でしょ? それで、お粥はお米が溶けて不純物になってるから……」
「ああ、不純物込みだ」
「だから、0℃よりもっと低い……かな。マイナス何℃とか」
「よな。たしか」
となれば、これは――。
『全てが凍る氷の世界、仏の顔は3℃まで。3℃を過ぎればお粥も凍る。熱いお粥も、冷たいお粥も、適温お粥も、全部が凍る。食べ終わるのに、いつまでかかる?』
凍るは違う――。
憂理の脳細胞はここでようやくストライキをやめ、活発に勤務を再開した。
凍る、凍る、お粥、凍る、3℃で凍る。
「クソ……何の意味だよ、四季! ロボ女! 冷血! 電卓!」
憂理は機械少女の不在をよいことに、さんざん悪態をつき、やがて天井を仰いだ。
「俺、バカだからわかんねぇよ。3℃って……」
そこで唐突な閃きが憂理の脳を焼いた。
――仏の顔ってなんだ?
仏の顔も三度まで……。
凍る。3℃。いつまで。凍結。三度。時間。
瞬間、閃光とともに訪れたフラッシュバックが憂理の時間を止めた。
蔵書室、PCの前に座る四季が憂理を見ている。
憂理は自分の言葉を覚えている。
――『パソコンなんだから、すぐだろ?』
すると四季は冷徹な眼差しでこんなことを言った。
――『すぐ? あなたは『すぐ』に破れるようなものに何か意味があると思ってるの? 『すぐ』にクラックされるパスワードなら、最初から意味がないんじゃないの? それでも総当たりで調べればいつかは割れるかも知れない。でもワタシがシステムの設計者なら、1日3回以上入力ミスがあれば、十数時間の入力凍結を組み込むけど? それでもやるなら想像して。どれぐらい時間がかかるか』
――『さぁ……1ヶ月ぐらい?』
――『宇宙が終わるまで、よ』
憂理はすぐさまトランシーバーを口元に当て、叫んだ。
「ツカサ! わかったぞ!」
「えっ、は、はい!」
「答えは、『宇宙が終わるまで』だッ! キーボードに叩き込め!」
「えっと、はい!!」
短い応答のあと、電波の向こうでツカサがキーボードを叩くのを第六感で感じた。エンターキーを打つ乾いた音まで聞こえた気がする。
四季になじられた印象的な言葉。――宇宙が終わるまで。憂理はこれこそが正解だと半ば確信していた。間違いないと。
これが『残念でした!』で応じられたら、もう何も思いつける気がしない。
一秒か二秒、もっと長いか、もっと短いか。時間の感覚は消え去り、間延びした時だけがあった。
そして――やがて、天井から聞き覚えのある効果音が全館に響き渡った。
『カッコー』
どこか軽快で、どこか間抜け、そしてコミカルな鳥の鳴き声。それは憂理には懐かしい響きだった。夕刻の母校に流れる下校のメロディより憂理の心を揺さぶるモノだった。
それが、施設の全スピーカーから放たれ、隅々まで響き渡った。
その残響に余韻を感じたまま、ただ憂理は立ち尽くした。
――割れ……た。
憂理自身、自分が信じられない。パスワードを『割った』のではなく、これは『割れた』だ。
そのニュアンスの区別は、多分に奇跡的な要素によって支えられる。
「とッ、杜倉さんッ! わ、 割れましたッ! 正解ですッ! 画面が、変化してッ!」
トランシーバーから、発狂寸前とも思えるツカサの声が上がり、それと同時に全館に音楽が鳴り響いた。
全てのスピーカーが共鳴し、圧倒的音圧をもって、少年少女たちの全身に音の洪水を浴びせる。
それは先ほどの『鳥の鳴き声』とは違い、少しもコミカルでない、厳粛とした音だ。そして、憂理は耳に飛び込んできたそれが、『音』だけでなく『音楽』と呼ばれるモノだと気がついた。
「オ……オーケストラ? なんだ、これ」
それは荘厳なる合唱で、堂々たる合奏だった。
無数の声や楽器が重なり合って、各個人、各楽器の個性を完全に消失せしめる合唱。
それが今、天井から降り注ぎ、憂理を含む施設にいるもの全て鼓膜を震わせる。
――晴れたる青空 ただよう雲よ
――小鳥は歌えり 林に森に
――心はほがらか よろこびみちて
――見交わす 我らの明るき笑顔
「これ……」
天井を見上げたまま、そして圧倒されたまま憂理が呟くと、途切れたその呟きの続きをタバタが付け加えた。
「第九……?」
――そうだ、第九だ。
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン。
交響曲第9番ニ短調 作品番号125 第4楽章。
歓喜の歌。
――花咲く丘べに いこえる友よ
――吹く風さわやか みなぎる日ざし
――心は楽しく 幸せあふれ
――響くは 我らのよろこびの歌
毛細血管を伝って指先まで痺れが走るような神秘的な感覚。魂を浄化昇天させられるような、神々しき合唱。
「歓喜の歌……」
四季らしいのか、四季らしくないのか、まるでわからない。とにかく派手な演出だった。だが、その不可解さが四季らしいとも思う。
施設のこの惨状にあって、歓喜の歌などとは皮肉が効きすぎているのではないか。だが観念的なモノだけでなく、歓喜は実際に訪れた。
周囲の通路、見渡す限りのフロートドアが一斉に開いたのだ。
「憂理っ!」
翔吾の顔にも歓喜があった。
タバタは全身に合唱を浴びながら、呆然とし、呟くようにして自らも歓喜の歌に唇の動きを合わせていた、
さすがのパンク少女も唖然としている。
「勝った……」
勝利とはもっと甘美なるモノかと憂理は思っていた。だがいまその身に訪れたそれは、あまりにも唐突で、あまりにも何気なく、あまりにもあっけないものであった。
感情に感覚が追いつかないのか、ただ杜倉憂理の身に残るのは放心と脱力だけ。
翔吾が水飛沫をザバザバあげながら憂理に駆け寄り、まるで決勝点をあげた選手を祝福するかのように、憂理の髪をくしゃくしゃにする。
「やったな! おいッ! 最高じゃん! コレはよ! やればできんじゃん!」
「あ……ああ。なんか、凄いな……これ」
トランシーバーも大騒ぎだ。
状況がつかめないジンロクが、報告を求めてがなり立て、ツカサは次々に解除されるロックを興奮気味に報告する。
T.E.O.T女子たちも、何が起こったのかわからないまま、天井を見上げて抱き合ったり、共に歌い出したりしている。
それらの全てをほとんど雑音のように感じながら、憂理は天井を仰いで目を瞑り、第九に身を晒す。
何十、何百とも思える人々のコーラスが、全身の細胞に活力を与え、身にまとわりついた罪悪の全てが浄化されるかのような感覚。義務感なき勇気が、腹の底から奮い起こされる。
神の祝福など、感じない。これは自分たち人間の――虐げられた弱い人間たちの起こした奇跡なのだから。
――晴れたる青空、ただよう雲よ。
――響くは――我らが喜びの歌。
そして半ば放心状態のまま憂理は呟いた。
「お粥って……なんなんだよ四季」
あの機械少女が粥を持ち出した意味。
それは杜倉憂理にはわからない。
きっと、ずっと、永遠に。
* * *