9-1a 本当の自分
「憂理。聞いてるのか?」
ジンロクに名を呼ばれて、ようやく憂理は思索の世界から戻った。
「あ、ああ。ごめん」
「ブロックが二重までなら何とかなるかも知れんが、それ以上に重ねられてたらお手上げだ。人が通る穴まで広げる時間が足らん」
耳にはジンロクの説明を、目には砕かれるコンクリートをそれぞれ知覚しながらも、憂理の意識は先ほどのイツキに向いていた。嫌悪感ではなく罪悪感とも違う、どこか後ろ髪を引かれるような感覚がある。
「だからあまり期待しないでくれ。全力ではやってるが」
「あ、ああ。わかった」
「どうかしたのか?」
「なんか……こういう事いうと、アレだけどさ。……ロクは『死ぬ前にやっときたい事』とかないのか」
憂理の唐突な質問にジンロクは片眉を吊り上げ、頬を掻いた。
「やっときたい事?」
「ああ。やっとかないと、死ぬに死に切れねぇ……みたいな」
「んー。そもそも死ねんからなぁ」
ジンロクは『考えたこともない』――それでも何か探すような様子で続けた。
「まぁ、ユキが外だ。迎えにいってやらんと不安がってるだろう。逆を言えばソレが死に切れん事かもだな。うん」
「なるほど」
「だから、全力でやる」
意図した質問の答えとは少し違う気もするが、いまさら『回避できぬ死を迎えるにあたって』という前提で聞き直す気にもなれない。
「なんかおかしいぞ。憂理。まだ体調悪いのか? やっぱ薬が……」
「いや大丈夫、ちょっと気になっただけ」
憂理は誤魔化すようにトランシーバーを口元に当てて、オレンジのボタンを押した。
「翔吾、そっちはどうだ」
間をおかず応答が返ってくる。
「ツカサが半村に怒鳴られてるわ。ギリギリ聞き取れたのは『止めろ!』と『殺せ!』って指示だな。まぁ、両方無理」
予定通り、ツカサは半村に精神的な揺さぶりをかけているらしい。
「いけそうか?」
「さぁな。でもあの調子だと、すぐさま降参ってのもなさそうだぞ? ツカサのやつ、パソコンの前で縮み上がってる」
なにも半村がすぐに折れるとは憂理も考えていない。
半村に不都合な事実を全て告げ、それらが半村の中で恐怖という化合物に変化するまで待たねばならない。
「水はどうだ?」
「そりゃあもう、絶好調よ。もう膝下まで水位が上がってっから。すげぇぜ。天井からも水が染みて、雨漏りみたくシタたってる」
「地下階の状況が気になるな……」
「ダストシュートが怖いぐらいの勢いで汚水ドバドバ飲み込んでっから、それなりに溜まってんじゃねぇかな」
刹那、全館に轟くような高音がキンと響き、天井のスピーカーから声が降ってくる。
「ガキども! お前ら、自分が何やってんのかわかってんのか! あァッ?!」
憂理は天井を見上げ、半村へと届かない返事をつぶやく。
「わかってるさ。ぜんぶ」
「少しはッ! 足りねぇ頭でも後先考えてやれッ! 殺すぞサルがッ!」
憂理は半村の怒号をシャワーのように浴びながら、オレンジのボタンを押す。
「翔吾、聞いたか? 半村のやつかなり動揺してる。やっぱ先が見えるぐらいには脳みそ働いてる」
「へへ。おっかねぇよなぁ、まったくよ。でも、まぁ、もうチェックメイトだって」
「ツカサを通して、こっちの要求を伝えてくれ『溺れ死たくなかったら、今すぐ通風口と全てのドアロックを解除しろ』って」
「了解」
憂理は一呼吸おいて、タバタを呼ぶ。
「タバタ、始まったぞ。全員を持ち場につかせてくれ。俺の指示ですぐに排水できるように」
「わかってるわ。すでに待機してる。でもこの水……大丈夫なの? すごい勢いで地下に流れ込んでるけど……」
「大丈夫だ。たぶん、この様子じゃ、半村も水量を把握してる」
通信を終えようとした憂理の耳に、天井から呼ぶ声が降ってきた。
「彼氏かッ! こんなバカな事しやがったのはよ!」
やはり憂理は天井を見上げ、スピーカーに肩をすくめて見せ、届かない軽口を返す。
「かもね。突き抜けたバカじゃなきゃ、救世主やってられねぇもんで」
この時、憂理は焦りと闘志の狭間で、かすかな勝利の臭いを感じていた。
この半村の慌てかたは、この水攻めが半村にとって想定外の事態だったことを意味する。そして、同時に半村の選択肢がろくでもないモノしかない事実を示唆するものにも思えた。
――降伏は時間の問題。
半村によるいくつかの短い罵倒、そして全棟に響くハウリングを聞かせたのち、スピーカーは沈黙した。
「憂理、いけそうだな」
ジンロクはニヤリと笑って、憂理の肩を軽く叩き、作業に駆り出されていたTEOT男子たちもにわかに笑みを浮かべた。
「まだ気を抜くなよ!? こっからが大事なんだから!」
憂理は緊張感を失った男子たちに釘を刺し、小走りに階段を降り始めた。勝利は目前。だが完全勝利にはまだ遠い。水はまだ放出されているのだ。
階段の踊り場まで来ると、タカユキが壁にもたれかかって、ジッと憂理を見つめていた。
「タカユキも! さぼんなよな!」
「憂理」
「なんだよ」
憂理が小走りにブレーキをかけて無理やり立ち止まると、タカユキは例の涼しげな笑みで言う。
「気を抜いちゃいけない」
「んなこと、お前に言われなくても、わかってるよ!」
「それで……。イツキとは、したのかい?」
その質問が憂理の時を止めた。1秒、2秒。あるいはもっと。
憂理はタカユキと目を合わせ、石のように動けないまま無為な数秒を過ごした。
「イツキは憂理が好きなんだそうだ。さっき、会ってたんだろう?」
「なんで……お前、そんなことを」
「イツキには、『後悔しないようにしろ』と言っておいた。そして、憂理の首筋には、さっきまでなかったキスらしき痕がある」
「お前には関係ないだろ」
「否定しないということは、イツキと会ってたんだね? そして少なくとも、首筋にキスされるほどの距離で抱き合った」
「だから、どうでもいいだろ!」
「したかい? 彼女と」
した、しない、が果たして重要なことなのか。憂理にはわからない。そして、なぜタカユキがそれにこだわるのかも。
こんな変人、相手にしていられない。質問に答えないまま憂理が走り去ろうとすると、タカユキが素早く憂理の腕をつかんだ。
「答えてくれ」
質問してくる眼。
それには何か底知れぬ闇があった。まるで宇宙船の丸窓からのぞく宇宙空間のような深淵――それは憂理の怖気を刺激する。
「しねぇよ。するわけねぇだろ……!」
「本当に? なぜ? 前回も途中でやめたと聞いた。どうして?」
なんでそんな事を知っているのか。気味が悪いったらない。
「どうでもいいだろ! んなことしてる場合じゃねぇんだ!」
「なぜしなかったか、僕は知っているよ」
「えっ?」
「なぜ憂理がイツキとセックスしなかったのか。その理由を僕は知っている」
一瞬、憂理は混乱してしまう。
しなかったのは憂理の都合で、どう考えてもタカユキの知るところではない。
なのにこのタカユキは、まるで『知っていて当然』かのように涼しげに笑うのだ。
「理由……言ってみろよ」
タカユキは少しの間の後、唐突に言った。
「憂理は、同性愛者なんだ」
時が止まった。
タカユキは、この堕落の聖者さまは、何を言わんとしているのか。
呆然だか、唖然だか、憂理が再度の硬直に見舞われていると、タカユキは微笑のまま続ける。
「気付いていたかい? 憂理は女の子じゃ駄目なんだ。カッコつけてしまうから、性欲すら押し殺してしまう。本当の自分をさらけ出せない」
「え、いや、なにを……」
「本来、セックスは本性なり本能をさらけ出すものだ。だけど憂理は女相手にそんなことできない。心の中に壁があるんだ。越えられたくない、覗かれないための壁が」
降家タカユキは何者か。杜倉憂理という人格の何を知っていると言うのか。
「そんなこと――」
「気付いているんだろう? 強くありたいと願うあまりに、弱い相手に弱い自分を知られたくない――さらけ出せない自分に。その気持ち、わかるよ」
タカユキの言葉に憂理とて認めざるを得ない部分はある。だからといって、それが果たして同性愛者である証左と言えようか。
「強くは……ねぇよ。でも俺は……」
「今は憂理自身も気付いていないんだ。深層心理にある、本当の杜倉憂理に。覆い隠されたままの、憂理に」
占い師などなら、この表現を『隠された才能』などという言葉に置き換えるに違いない。
隠された才能だの、未発見の自分などというのは、その存在を証明する必要がない無責任な表現でしかない。仮に憂理が否定しようにも、気付いていないだけ、発見できていないだけ、とタカユキは言うのだろう。
秘めた才能、隠された能力、その言葉が心地よく聞こえるものはきっと、自意識の塊か、自己愛の権化ではないか。
そして憂理は、同性愛者である自分を再発見するつもりも、自身にその適性があるとも思わなかった。
冷静に――ただ、T.E.O.Tたちがタカユキに操られた手順を見たように思えた。
「隠された……本当の自分、ね」
「そうだ憂理。本当の君だ」
憂理はどう返せばよいか、わからない。
人は誰しも、それほど多くの反論を持ち合わせていない。そしてその反論への再反論は、元が正論であればあるほど予測が容易なもの。
いまタカユキとの論戦になれば、きっと手順通りに言い負かされる。
論理が飛躍していようと、詭弁であろうと、反論を失った時が負けだ。真の敗北ではないが、些細な挫折感にもタカユキは付け入ってくる――。
憂理は言った。
「お前がどう言おうと、俺は本当の自分なんて、いらねぇよ」
「どうして?」
「今は、背伸びしてでも虚勢張ってでも、タフな杜倉憂理じゃなきゃダメだ。同性愛者とか関係ない」
タカユキの目を睨み、憂理は宣言する。
「お前の口車には乗せられねぇよ。俺は自分の足元は自分で照らす。お前の導きなんて必要ない」
「憂理は勘違いしてる」
「そうかもな。だけど隠された自分なんて、俺は一生隠れたままでいい。必要ないから表に出ない」
「強いんだね」
「強くはない、って言ったろ」
憂理はスッと向きを変えて階段を降り始めた。
強いワケがない。弱いからこそ戦ってる。憂理はそう思う。今だって、無理やり強弁しただけだ。
そして、憂理は数歩降りたところで立ち止まり、タカユキへ顔を向けた。
「そうやって、人の不安につけこんで操るのか。前にお前、言ったよな。『支配すべきは心だ』って」
タカユキは答えない。ただ微笑みの消えた表情で憂理を見つめてくるだけだ。
「いいか、よく聞け。そうやって支配するお前は、自分が何者か掴んでるのか? みんなが必要としてんのは、降家タカユキなのか? ただ『傷を舐めてくれる人』が必要とされてるだけじゃないのか?」
憂理は続ける。
「『本当の自分』が必要なのはお前だよ。演じる事に慣れすぎて、人を操ることでしか自分の居場所を作れない。お前も『荒野の囁き』を受けたらどうだ。世界を変える前に、自分を変えてみせろ」
憂理はスッと前を向くと、タカユキの返答も反論も待たず、階段を降り始めた。
ただ、背中に呟きが聞こえる。
「本当の自分も、居場所も、なかったよ。最初から……最後まで」
なにも聞こえないフリをして、憂理は階段を降り続けた。なにも居場所がないのはタカユキだけではない。
憂理だって、本当は帰るところがない。そして――菜瑠だって。
みんな本当の自分をギリギリの所で隠し、無理して無茶して成るべき自分を目指している。
必ずしも本当の――ありのままの自分が、虚勢を張り背伸びしている自分より価値が高いなどと憂理は思わない。宝石だって、より輝くように原石から研磨されるじゃないか。
ただ、タカユキの言葉に動揺してしまっている自分に憂理は気付いていた。
――『憂理は同性愛者なんだ』
取るにたらない言葉。簡単に否定できる言葉だ。
それは憂理自身が男に恋愛感情を抱いたことがない事からも明らかだった。実績は十分だと思う。自分は同性愛者ではない。これまでも、これからも。
なのに、なぜタカユキはあんなに確信したように言うのだろうか。
そして、なぜそんなタカユキの世迷言に自分は動揺しているのか。
こういうときなら、本当の自分に出てきてもらって、ハッキリ否定して欲しいとも思う。そうすれば動揺は収まるに違いない。
タカユキの言葉を完全に否定するに、この動揺だけが邪魔だった。
やはり、人はそれほど多くの反論を持ち合わせていない。
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