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13月の解放区  作者: まつかく
8章 法外の法の下で
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8-10b 雨なき洪水


「杜倉くん。解放できる水道は全て解放したわ」


トランシーバーにザラついたタバタの声が届く。


「了解。なるべく全員に持ち場を離れないように言っておいてくれ。半村が降参し次第水をハケさせられるように。持ち場を離れずイカダとか救命胴衣を作れるなら段取りも」


「わかったわ」


憂理は通路の先を急ぎながらそのままオレンジのボタンを再度押した。

「ロク、聞こえてるか?」


そうしてボタンから指を放して応答を待つ。やがて数度の雑音の後、不安げなジンロクの声が届いた。


「ん、これか。これでいいのか? 聞こえてるか?」


「ああ、それでいい。ロク、そっちはどうだ?」


再度の雑音――そしておぼつかない返答がきこえる。


「あー。なんだ。男総出でやってるが、どうだかな。ハンマーで壊して……いま2センチほど掘れたかな。いや2センチ半か」


「破れそうか?」


「これは俺の体感だが、かなり分厚そうだ。ただ、全面が生コンじゃなく、コンクリートブロックを積んだ上から生コンを塗ってるな。生コン自体の質は悪くて、掘るだけなら簡単だ。洗濯室の床よりはな。ブロックは少し厄介だが」


なるほど、施設の建造と違い、封鎖コンクリートは素人普請の作業らしく粗末な作りになっているらしい。これは必然でもあろうが幸運なことでもある。安い造りならば、奇跡になど頼らなくとも何とかなるかも知れない。


「じゃあ、ロク、引き続き頼む。人手は足りてるか?」


「ん、そうだな。交代で作業してるから。今はなんとか」


憂理はタカユキの状態を聞こうとオレンジのボタンを押し、やめた。『気にしている』と思われるのもシャクだ――。


「何かあったら連絡くれ」


「ああ、了解」


順調だ。ここまでなんの問題もない。

歩きながら視線を落とせば、通路に水があふれ出し、一部には水たまりのようなモノを形成している。


「ユーリ! 遅ぇよ!」


翔吾の声が半村寝所の前から飛んできて、ようやく憂理は視線を上げた。


「やっと水が溢れてきたな」


憂理が言うと、翔吾は得意げに口角を上げて状況を報告する。


「上階は取りかかるのが早かったから、もっとスゲぇぜ。もうすぐダストシュートに水位が届きそう。ゴミとかチリとかホコリが浮いて、すんげー汚水っぷりだけどな」


「仕方ない。これが俺たち流の掃除ってことで後で生活委員に教えてやろう」


「コレでこそ大掃除だよな。でも問題発生」


「どんな?」


「寝所もロックかかってるから、ツカサにトランシーバー渡せないわ」


見れば、寝所の窓からツカサが笑顔で手を振っている。なんとも緊張感に欠ける屈託のない笑顔だ。


「杜倉さん、ココ開きません」


考えてみれば、半村は先刻の放送で寝所をロックすると宣言しており、なにもおかしいことではない。


「じゃあ、翔吾がココに残って、ツカサの通信役になってくれ」


「なんだよ! めっちゃツマンネぇ役じゃねぇか! 俺はもっと前線で活躍してぇんだよ!」


「でも、後方支援も大事な役目だぞ? サッカーだってディフェンスがいないと成り立たない」


「そりゃそうだケドよ、俺は元々MFだ。全部の場所に顔を出したい」


「ともかく、頼むよ」憂理は翔吾をなだめながら窓際まで歩み寄った。


「ツカサ。状況は?」


「やっぱり、よくわかりません。元々、そんなに詳しいわけじゃないですし。システムいじるなんて、とてもじゃないですけど……」


「四季が『何か』やってたのも、わからんまま?」


「ええ」


「よし。じゃあ半村に『水攻め』の話を伝えてくれ。さっさと通風口の封鎖を解除しないと、地下階でネズミと一緒に溺れ死ぬぞ、って」


「半村さまを刺激して、大丈夫なんですか? 僕、なんだか怖くて」


「刺激しなきゃ意味ない。なるべく早い段階で半村に『降参』か『譲歩』してもらわねーと、俺たちもネズミと浮く事になる。半村にとって不都合な点は全部指摘してやれ。まず、このままじゃ高い確率で溺死するコト。仮に生き延びても、機械関係が水没で駄目になるコト。食料も真空パックに入ってるヤツ以外は駄目になるコト。きっと服も。つまりは施設機能が完全にマヒすることを」


憂理の言葉に翔吾が付け足す。


「マヒってか、終わり、だな。さすがに水没で機械関係が壊れたら復帰もできねぇだろ。換えの部品があったって、それも水没するわけだしな。全部水に濡れーの、全部ブッ壊れーの、終わりーの。半村の負け、だろ?」


外界の危機に対して施設内に引きこもる――そんな半村の計画は水攻めにより全てが破綻する。そして、その重大なリスクに半村が反応しなければ、自分たちも終わり。


「も、もし水没したら、僕、ココで死ぬんですか?」


「そうかもな」


「そんなのヤです!」


「俺らだってイヤだよ。なぁ七井師匠」


「うむ。だからまじ、ツカサも死ぬ気でやれ。無理だったらソコで死ね。でも安心しろ、俺が最後まで見ててやるから」


どこかで聞いたような台詞を流用して、翔吾はツカサに檄を飛ばした。そんな厳しい師匠に、ツカサは不安そうな視線を投げかける。


「最後まで? 七井さん、ずっとそこに? 逃げたり、置いてったりしませんか?」


「しない。七井翔吾に二言はねぇよ? 絶対、最後まで見届けてやる。まぁ、そのあと逃げっケド」


「ズルい!」


「なんもズルない」


憂理は2人の会話を割って、自分なりに檄を飛ばした。


「ともかく、全力でやってくれ。今、全員が全力でやってる。ロクもコンクリ壁をぶっ壊してる最中だし、TEOT連中も必死だ。なにもツカサにだけ重荷を背負わしたりしねぇから。でも、それでも駄目だったら、俺もお前の最後を見届けてやる」


「その、最後のあと、逃げたりしませんか?」


「そりゃあ、逃げるけども」


「ズルい!」


「なんもズルない」


憂理も翔吾の言葉を流用し、最後に笑って見せた。


「まぁ、気楽に死ぬ気でド真剣でやってくれ。大丈夫だから。半村だってバカじゃないだろ」


憂理は窓際にすがりつくツカサから離れ、翔吾に言う。


「上階の状況を見てくるから、ツカサの側にいてやってくれ。何か変化があったらすぐ連絡を」


「了解、まかせとけ。泣いても喚いても、やることだけはやらせる」


パシャパシャと足元で水を鳴らしながら足早に憂理がその場を離れようとすると、数メートル進んだところで翔吾に呼び止められた。


「で、学長はなんて?」


憂理は足を止め、数秒の間に様々な思いを交錯させた後、答えた。


「俺たちを『息子』だってさ」



 * * *



水は低きに流れる。中央階段では、まさにその光景が見て取れた。汚れの浮いた水がちょっとした濁流となって階段を降りて来ている。

水流が滞る場所で大小の泡が汚水に生まれているのを見ると、憂理などは生活委員を糾弾したくなる。


「まったく、掃除の基本をわかってねぇわ」


汚濁流に足をすくわれないよう、一歩ずつ上階を目指していると、踊り場に到達したあたりでテオットに遭遇する。


「ユーリ。気をつけろよ。コケたら生活棟まで真っ逆さまプラス、びしょ濡れだぞ」


アツシだ。命の危険迫っている今、濡れる事など恐れはしないが、さすがにこの汚水での水浴びは遠慮したい。


「アツシ、こら。男はロクの手伝いって言ったろ」


「行ったけど、男どもが溢れててさ。手持ち無沙汰になるんだよ。それに俺、師長だから指示ださないと」


「まぁいいや。アツシ、この水どうにかならないか?」


「どうにか、って?」


「階段から生活棟に流れ落ちないように、なんとか」


「どうして?」


憂理は慎重に階段を上がりながら、説明した。水が低きに、は良い。ただ、この垂れ流しは効率的とは言えない。上階から生活棟を経由してダストシュートでは、そのうち生活棟のダストシュートの処理能力を超えるに違いない。

上階の水は上階のダストシュートに、生活棟の水は生活棟のダストシュートに、が一番効率的だ。変に生活棟に水を貯めても仕方がない。


「わかった」アツシはクルリと上階の通路に向かって叫んだ。「2班、4班! 手伝ってくれ!」


階段を登りきると、テオットの女子たちがワラワラとアツシの元へ集合して来ていた。


「じゃあ、アツシ。頼んだ」


「ああ、やれるだけやってみるよ」


「ストップの指示は追って出すから、すぐに水を排水口にハケられるようにな。マジで時間との戦いになりそうだ」


「わかってる」


アツシは疲れた様子ながらも、例の屈託ない笑顔を見せて頷いた。そして集まった女子たちに指示を出す。


「階段に流れ込むのはマズい。なるべくダストシュートに流れるよう、ここを堰き止めよう」


すると、1人の女子が質問する。


「でも、階段も地下階に続いてるからいいんじゃ……?」


これに対し、口を出そうとした憂理よりも早く、アツシが答えた。


「シャッターが下りてる。あれ防水らしいから意味ないんだ」


これは頼りになること。ここはアツシに任せて問題なさそうだ。憂理がジンロクたちの元へ向かおうと再び階段の方へと進むと、誰かが服の袖を引いた。

振り返ればイツキがいる。


「なんだよ師長さん?」


「話が……あるの」


「話? なんだ?」


「ここじゃ話せない」


「いや、俺、忙しいんだけ……」


最後まで言う前にイツキが憂理の服を引っ張り、強引に上階フロアへ引き戻した。

「ちょ、危ないってばよ!」


グイグイと憂理を引いて行くイツキに、アツシが声をかける。

「おい、イツキ。どうしたんだ?」


「ほっといて!」


どんどん引っ張られ、憂理は捕らえられた逃亡犬のごとくテオット棟の奥へ連れられてゆく。イツキは俯き気味に前を見たままで、まったくの無言だ。


「おい、どこ行くってんだよ」


当然の質問にも答えない。

ただ、ただならぬ空気が漂っており、袖を振り払うことを躊躇させた。これは冗談じゃなく、刺されるかも知れない。


「なんだよ、まじで」


やがて、ドアの破れた部屋へたどり着くと、イツキはその部屋に憂理を引き込んだ。

薄暗く、書類の散乱した部屋だ。奥にはカーテンに囲まれたベッドがあり、棚にはビーカーだの薬瓶などが並んでいる。

どこか、見覚えのある部屋だ。


「あれ、ここって……」


瞬間、イツキか振り返り、憂理を睨んだ。あどけなさの残る白面、眉の間にはシワが寄っている。


「な……なんだよ?」


気圧された憂理が一歩下がると、イツキが一歩踏み出してくる。また一歩、あわせてまた一歩。

刺される――。憂理の第六感が、危機を告げていた。

しかし、なぜ。なぜ、窒息死でもなく、溺死でもなく、刺されて死なねばならぬのか。


一歩、また一歩とジリジリ下がるうちに、憂理の背中が壁に突き当たった。

後退できない憂理にイツキがグイと近寄り、彼女は憂理の頭を挟む形で両手を壁に当てた。


イツキは腕を伸ばし、数センチほど高い場所に位置する憂理の顔を見上げ、睨んでくる。憂理は両腕の監獄に収監されながら情けなく訊いた。


「えっと、あの、俺、やらなきゃいけない事がありましてですね……」


突然、至近にあったイツキの唇が憂理の唇に重なった。

予想外の事態に頭は真っ白になり、体は硬直し、声が失われる。キスの作法としては無作法極まりないが、憂理は両目を見開いたまま数秒ほど動けないでいた。

壁を押さえていたイツキが憂理の頭を抱きかかえるかのように両腕をまわし、囚人の唇の位置さえイツキの思うままになる。


やがて、スッと唇が離れ、鼻先の触れ合う位置にイツキの顔がきた。

先ほどまでの険しい表情から一転し、今度は今にも泣き出しそうな、切なさが伝わってくる表情となっていた。


「ズルいよ、ユーリくん。わたし……返事もらってない」


――返事?

彼女の言わんとすることに憂理は思い当たるフシがなかった。微かな混乱に陥った憂理にイツキは吐息とともに至近距離から告げる。


「私、好きだって言ったのに。憂理くん返事してくれなかった。本当なのに。本気なのに。こんなのひどいよ」


頭を固定されたまま、憂理は再び唇を奪われた。蕩けそうなほどに柔らかいイツキの唇が、こわばった憂理の唇をほぐす。

憂理がようやく壁まで頭を引いて唇を離すと、イツキは切ない表情で言う。


「私、サイジョーくんに同じようなことしてた。好きって言われて、ごまかして、断らず、距離だけ置いて、宙ぶらりんにしてた。それが楽だし、私も優越感があって……。でも気付いたの。私、酷いことしてたんだね。こんなに……つらいんだね」


「いや、待ってくれ、何考えてんだ。こんな時に。お前どうかしたのかよ。熱でも……」


病気による発熱と意識混濁を疑うほどにイツキは顔は熱をおび、視線は儚げだった。しかし、そんな憂理の言葉はイツキの表情に、さらなる切なさを加える。


「……もうすぐ、死ぬかも知れないなら、ちょっとだけ、ほんの少しだけこうしてたい。『みんなの杜倉憂理』じゃない瞬間を一緒にいたい。少しだけ、ほんの少しだけでも」


「いや、死なないって。生き残るんだって言ったろ? 大丈夫だから。俺にまかせとけば、全て上手くいく。俺もイツキも誰も死にゃあしない」


「わかってる、わかってるよ。でも聞いておきたいの。さっき『俺が見ててやる』って憂理くん言ってたけど……。もし、ダメだったとき……。私が死ぬ時も、最後まで見ててくれる?」


イツキにせよ、ツカサにせよ、何故こうも『最後を看取られたい』希望者いるのか。

憂理には理解しがたいことだ。


「そうはならないって。そのために走り回ってんだから」


「わかってる。ケド、聞いておきたいの。私の最後の時、一緒にいてくれる?」


憂理は返答に困った。真面目にも、スケジュール的に『それ』が可能であるかまで考えを巡らせてしまう。

ツカサが終わってから、イツキのもとに――。

事前に待ち合わせ場所を決めておけばいけるか――。

だが、すぐにその考えの馬鹿馬鹿しさに気付くと、憂理は俯いた。


俯いた憂理の顔をイツキがのぞき込んできて、顔を逃す場所もない。

とにかく、近い。


「えっと、そうはならないけど。もし、万が一、そうなったら。……約束するから。見ててやる」


「本当?」


「ああ、責任あるしな」


「責任感で私の死ぬとこ見るの?」


なんだか、不満そうだ。憂理は誤魔化す。


「いや、まぁ、それだけじゃないけど、一人で死ぬの、怖いだろうしな」


「約束だよ?」


「ああ、約束する」


――だから解放してくれ。


首に絡みつくイツキの腕を払いのければ済む話ではあるのだが、憂理にはできなかった。人の『本気』の感情に至近距離で晒される事に、あまりにも不慣れで、性的に迫られる事にも未熟であった。


「ホント? ホントに約束してくれる?」


「ああ。見ててやる。最後まで」


なんの確認が続いているのか。どうも女というのは質問だの確認だのが多い生き物だと思う。


「私だけ?」


「いや、まぁ、先約はあるけど」


これを聞いたイツキは両目を少しだけ悔しそうに細め、引いた位置にある憂理の唇にさらに迫る。そして浅く唇を触れさせたあと、イツキは言う。


「憂理くん。私の裸みた」


虹彩までハッキリわかるほど至近にあるイツキの瞳が、批難の色を帯びて憂理を見つめてくる。目を合わせていると、心の奥底まで覗かれてしまいそうな目――これこそ『The Eyes Of Truth』というヤツかも知れない。


「男の子の誰にも……見せたことない私の裸みた」


憂理の混乱はいよいよ理性と本能の本格的な全面戦争へと発展しつつあった。

一度は『直前までいった』せいか、あるいは自らの死を間近に感じているせいか、唇が重ねられるたび、理性が抑制を失い、本能に飲まれようとしている。


「ちょっと、キスはやめろって。俺らそういうのじゃ、ないだろ? んで、えっと、あの時はお前がだな……」


「私のせいにするの? 止めなかったのに? 脱ぐの止めずに私の身体、全部見たんだよ? それに胸も触った」


「それはそうだけど、俺は……」


「でも、いいよ。もっと見ても? 憂理くんのが勃ってたの嬉しかったもん」


非常にマズい事態だと憂理は思う。

名探偵に追い詰められた犯人、あるいは蛇に睨まれたカエルのごとく、憂理はイツキの追求から逃れられない。キスの届く距離で口説かれると、こうも様々な効果があるものか。


「全部好き。誰にも渡したくない。だから私を全部あげたい」


なんだか、最近、重大なモノを貰うことが多いな、と憂理の理性が断末魔のような思考を生む。タカユキの魂だの、イツキの全部、そしてTEOTたちの命。

貴重なモノだけに扱いに困る。


「いやお前はお前のだし、俺は俺のものだ。それに、そういうのを簡単に人にあげちゃダメだぞ? 大事なモンなんだから。だいたいな、俺みたいな悪魔の変態にあげちゃったら、お前きっと後悔する――」


「そういう説教ぽいのも好き。全部好きなの」


「ええっと、聞きなさい」


「聞く。聞かせて?」


そう言ってイツキは憂理の首筋に唇を寄せ、吸い付くようなキスをして、舌まで這わてくる。これは『聞く』態度としては褒められたモノでないが、憂理はあえてそのまま続けた。


「イツキ、あのな、お前はアレなんだ。その、なんというか、この非常事態で混乱してるんだ。自暴自棄ちゅうか、暴走っていうか、そんな感じなんだよ。こういう時に勢いで『そういう事』になっても、きっとその、たぶん後悔するんだよ。こんな時だからこそ、自分を大切にしてだな、キゼンとしてないと、お前……」


「こんな時代を生き抜いていけない?」


「う」


「逆だよ?」


「逆?」


「私、憂理くんがもう施設から出ちゃったと思ってたの。その時、すごく後悔した。ホント言えば追いかけたかった。返事も貰ってないのに、ずっとこんな気持ちなんて、耐えられないよ。ズルいよ」


本気だったのか。憂理は少し申し訳なく思う。あの時は、てっきりタカユキの指示だと罠の一環だと思い込んでいたが……。


「もう後悔したくない」

イツキの顔が憂理の前に戻り、ゼロ距離で真っ直ぐな視線を注いでくる。


「なんでもいい。体目当てでも、好きになってくれなくても、それでもいい。どんな形でも、側にいさせてくれるなら。……きっと、ずっと憂理くんがどうしようもなく好きだから」


唐突に、イツキの両目から涙が溢れ出した。想定外の事態に憂理は驚き、言葉も出ない。


「でもね、わかってるんだよ? 憂理くんが私のにならない事ぐらい。わかってるんだよ? 振り向いてもらえない事ぐらい。わかってる」


ポロポロと涙を流し、イツキの感情がとめどなく溢れていた。


「身体で釣ろうとしても相手されないことぐらいわかってるよ。私、ぜんぜん魅力ないってわかってるよ。でも、言わなきゃ後悔するじゃない。死ぬなら、死ぬ前に言っときたいから」


どう応じれば良いのか、憂理にはわからなかった。

女を泣かせるのは不本意な事であったが、涙を止めるために付き合うというのも不本意で、嘘をつくのも不本意だ。しかし、振るにしてもどうすれば? そして振るのは本意なのか?

あたふたしてしまうばかりで、情けないったらない。

みれば涙に濡れるイツキ、その頭の向こうにベッドがあった。


据え膳食わねば男の恥――。どこかで聞いたそんな言葉が憂理のなかをよぎった。この女はどんな形であれ、杜倉憂理を欲しがっている……。


「来いよ」


憂理は強引にイツキの両腕を払うと、そのまま彼女の肩を抱き、ベッドへと連れて行った。そして、ベッドまで来ると、クルリとイツキと正対し、彼女をベッドの縁に――座らせた。

座らされ、見上げてくるイツキの目が、まさに絵に描いたような『呆然』だった。

これから起きる事への期待か。あるいは不安か。これは憂理の目からそれを読もうとする目だ。


だが、期待には応えられない。

憂理はそっとイツキの隣に腰を下ろし、言った。


「いや、お前。可愛いよ? 魅力ないワケないじゃん? 俺が芸能事務所のスカウトマンだったら、無理やり拉致してでもデビューさせるよ。スターダムは約束されてる」


照れ隠しで視線を床に落として、憂理は続けた。

「なんか、辛い思いさせたみたいで、俺、ぜんぜん気付かなくて。疑ったりして、ごめんな。酷いよな」


イツキの視線を横顔に感じる。過去のどの時よりも言葉を選び、憂理は続けた。


「その、体目当てとか、そういうの……ホントは俺だってアレなんだぜ? なんだかんだで男だからさ。んで、そう思うのは、お前が魅力的だから」


「ほんと?」


「ああ、ホントだ。可愛いよ。キスされて悪い気はしてない」


「でも私、みんなと比べて全然可愛くないし、胸だってないし……」


「胸とか、そういうの、問題じゃねぇよ。スレンダーでもいいじゃん。俺は好きだ」


嘘ではない。イツキという少女は、美人とされる四季やサマンサ田端、あるいは凛とした菜瑠とも違うタイプではあるが、可愛いと思う。憂理は意を決して言う。


「でも、できない」


間をもたせた。イツキが事実を受け入れる時間、自分の心を落ち着けさせる時間。そして、充分な時間とってから、続ける。


「付き合うのも無理だ。卑怯な言い方かもだけど、それは『こんな時』……だから。考えるつもりもない」


こんな時じゃなかったら――その仮定ならばあるいは付き合う選択肢もあったかも知れない。これほどに愛されているなら、これほど必要とされているなら、と。押し切られる形で付き合う可能性もあったろう。憂理だって押しに弱い。

だが、今はそれどころではない。


「だから、ごめんな。でもありがとな」


イツキの表情が崩れてゆく。乾ききらない涙の跡に、再び涙が流れてゆく。

憂理はどうしたら良いのかわからず、ただ声を押し殺して泣くイツキの頭に手を置き、軽く撫でた。幼子を慰めるように。


「なんで? 憂理くん、ズルいよ。ズルい」


「言ったろ? 俺は悪党だ、って。地獄の皇太子だ、って。ズルいの仕方ないよ。泣くなよ、俺どうしたらいいかわかんねぇからさ」


憂理は立ち上がり、大きく深呼吸をした。確実に酸素が薄くなっており、空気を満たした肺に閉塞感が残る。『今はそれどころじゃない』とイツキの恋愛感情を押しのけたが、憂理の心のどこかに納得しきれない『何か』が残っていた。


こんな時だからこそイツキは自分に正直な行動を選んだのだろう。

それと同時に、こんな時だからこそ杜倉憂理という存在にイツキが恋をしたのだとも思う。

恐怖や怯え、不安。それらに晒されたとき、人は誰かに寄り添おうとし、容易く信頼し、さらには恋愛感情を誤認識するという。今のイツキはまさにそれだと、吊り橋効果とかいうやつだと憂理は思う。


そして、タカユキ――T.E.O.Tと称する集団も、それを利用して求心力を得ているに過ぎないとも思う。ゆえに、この状況を脱すれば、全ては終わる。

田端たちのT.E.O.Tへの帰属意識は薄まり、そしてイツキの恋愛感情も太陽に晒された朝露がごとく――消える。

明確でないにせよ、憂理はそう考えたし、そう信じようとした。


「じゃあ、俺は行くからな。ちゃんと涙ふいとけよ? 可愛い顔とか、立派な師長が台無しだぜ?」


「諦めなくて、いいのかな? 私、憂理くん好きでいて、いいのかな?」


「それはイツキが決める事だよ。お前らの命は背負ったけど、感情までは背負わない。全部背負うには、俺の背中は狭すぎるよ」


イツキの涙は依然として流れ、どうにもやりづらい。

それに、憂理自身、自分のなかで少しばかりイツキへの感情が生まれつつあるのも自覚していた。女の涙というものは、魔女が惚れ薬を作るときに主原料とするモノかも知れない。


憂理は混沌とした胸の内をなるべく表に出さないよう、軽口に逃げるしかなかった。


「キスは……みんなを救う『お駄賃』として、貰ったよ。前払いでさ。だから仕事もちゃんとしないとな」


そんな上手くもない冗談に、イツキは泣き顔にもようやく笑顔を見せた。


「成功報酬も、用意しとくね」


「上手い返しだ」


自分への好意。それが人間心理の生み出す幻だと思うと、すこし寂しい気もした。

だがこれは夢だ。あくまでも現実と地続きの悪夢だ。それをキチンと認識し、破らねばならない。

人の夢を食べるという伝説の動物がいる。その伝説のバクがいれば、イツキやTEOTたちも正気になるかも知れない。これは現実にまで侵食してきた白昼夢に違いないのだから。


憂理は気を取り直し、イツキを置いてその場を立ち去った。

バクすら食当たりを起こしそうな悪夢を、自ら醒ますために。




 * * *

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