8-9 希望と怒号と策謀と
杜倉憂理は口癖のように『こんな時代』と言う。
それが具体的にはどのような時代を指すのか、黄金時代なのか暗黒時代か。その客観的評価は現代を生きる者には下せまい。しかし、一つだけ言えるならば、『時代』と言うものは酷く燃費の悪いシロモノという事だ。
たかだか、1世紀を進むに何万バレルもの血液あるいは涙を消費するのだから。
そして今、杜倉憂理は『無血革命』を目指している。
誰一人の血も流さず、施設を半村から解放する――。
これは憂理本人にとっては、どこか悪戯遊び――あるいはサバイバルゲームの延長線上にあるような感覚だった。幼い頃に幾度と知れず繰り返した遊び。
作戦を立案し、適宜修正し、息を合わせて行動する。手慣れたものではある。
もちろん、今回は命がけではあるのだが。
上階の体育室へ向かいながら、憂理は考える。とんでもない賭けだな、と。
通常、ギャンブルは勝算の低いモノに高いレートがつくが、今回の『賭け』はそうではない。半村をやり込めたとして、それが必ずしも自分たちの勝利になるとは限らないからだ。全員が溺死するという悲劇的結末を迎える可能性もゼロではない。
そういう意味で言えば、これは賭けですらないかも知れない。
「おい、ユーリ。あいつら、またおかしな事やってるぞ」
憂理の先を歩いていた翔吾が体育室を覗き込んで怪訝な表情を見せた。
「おかしな?」
どうおかしいのか訊ねても、翔吾は『見てみろよ』のジェスチャーしか返さない。憂理はタバタを見て、肩をすくめてから体育室内部の様子をうかがった。
中ではテオットたちが4〜5人ずつのグループに分かれ、何か激しく言葉を交わしている。
各グループの中央に立つ人物を残る数人が囲み、敵意丸出しの視線を向けていた。
よくよく聞けば、敵意は視線だけではない。言葉も、だ。翔吾が1番近くにいるグループに目を細めた。
「おい、トクラッツィオ。あれノボルじゃね?」
たしかにノボルだ。ノボルは目を閉じてうつむき、唇をきつく結んで周囲からの言葉を一身に浴びていた。
「気持ち悪い!」
「なによ、アンタの声! 聞き取りにくいし、耳障りだし! ガマガエルのがマシな声してるよ!」
「話し方もバカ丸出しだし、内容もバカ」
ノボルを囲んだ女子たちは、公然とノボルを罵倒していた。翔吾などはその光景に酷く気分を害されたようで、目も口も歪めて首を振る。
「なんだよアレ。仲間割れかよ。クッソひでえな。あんなんノボル可哀想じゃん。ちょっと言ってくるわ」
たしかに酷い。こんなものを見せられては、陰口を陰でたたく――というのは実は優しさなんじゃないかと錯覚してしまう。
だが憂理は翔吾の肩を掴んで、罵倒を止めんとするその行動を諫め、そのままサマンサ・タバタに説明を求める視線を向けた。
これには何か意味がある。憂理や翔吾には理解できない、いかにもTEOTらしい理由が。タバタは肘をヘソの辺りで抱いて、憂理の批判的な視線を受け止め、言う。
「……あれは、コウヤよ」
「コウヤ?」
「そう。荒野のささやき」
「何いってんだ?」
何度もかぶせられる憂理の質問に、タバタはウンザリといった様子で説明する。
「聖人は荒野で悪魔の囁きを訊く」
これには憂理もウンザリだ。
T.E.O.Tという集団は、何をするにも勿体付けた言い方をする。くだらないところに指導者のDNAがしっかりと受け継がれているらしい。いまだに体調が万全に戻らない憂理にとって、このような迂遠的な言い方は苛立たしいばかりでなく、体調をも悪化させるものだ。
「あのさ……。そう言うのいいから、わかりやすく説明しろ」
タバタは冷ややかな目で憂理たちを一瞥し、言った。
「あれは真実を本人に伝えてるの。周りからどういう風に思われてるか」
「伝えてどうすんだ。傷つくだけだろ」
もう一度ノボルを見てみると、今にも泣き出しそうなぐらい表情を崩していた。
当然だ。本人の気にしているであろう事をこうして目の前で――悪意を持って言われ続けているのだから。
ノボルを囲む女子たちの口ぶりに冗談の色はない。あれは憂理の基準で言えば到底『ささやき』などという可愛らしいモノではない。
「ノボル君、聞いてるの? そういうトコが駄目なんだよ。すぐ殻にこもって、何考えてるかもわかんないし、正直、キモイ」
「アンタ、言葉がぶつ切れで、なに言ってるかわかんない」
「なんか、イラついてくるんだよね。アンタ見てると」
これに何の意味があるというのか。憂理は到底理解できない。
だがタバタは憂理や翔吾に向けてくる視線とは裏腹に、その罵倒を温かい視線で見つめて言う。
「みんな不安なの。みんなから、本当はどう思われてるか」
「いや、でもよ酷ぇだろ。あんなふうによ」
「残酷な事だって言いたいの?」
「そうだろ」
「じゃあ、心に思って、口に出さないが優しさ? 本当は相手に嫌な部分を感じてるのに、笑顔貼り付けて、表面上だけ取り繕う……。それが優しさ?」
これには上手く反論が思いつかない。憂理は翔吾を見るが、翔吾は罵倒集団を睨み付けたまま微動だにしない。
「じゃあ、ああやってケナすのが優しさだっていうのか。お前は」
「いえ。残酷な事よ」
「お前な……」
「でも、これでノボル君の心の重荷は降りるわ。ああやって、誰も言ってくれないことを、直接伝えられる。ノボルくんだって、自分の声やしゃべり方にコンプレックスがあったはず。それを第三者の口から嘘偽りなく伝えられる。そうすることによって内に秘めた消極的な感情を壊し去ってしまうの」
「いや。消極的な感情とかのまえに、人格が壊れるから」
憂理の否定的な言葉にも、タバタは揺るがない。
「人は幼い頃から少しずつ劣等感、コンプレックス、強迫観念を蓄積するの。多かれ少なかれ、ね。ある学者はそれを『幼児脚本』と呼んだわ。ああ私はブサイクだ。ああ私は頭が悪い。ああ僕の声は醜い。こんな人生、生きていたくない。この思い込み――幼児脚本を本人にしっかり認識させて、理解できるよう提示することで、本人はようやくそのコンプレックスの呪縛から解き放たれ、本来の自分を取り戻せるの」
間違いなく、これはタカユキの受け売りだろう。
タバタの目には輝きがあり、言葉には熱があった。
「杜倉くんが言いたいこともわかるわ。私だって残酷な事だって思う。でも、これは真実の眼を見開くための大事なプロセスなの。もちろん、この後にはノボル君の『良いところ』を同じように嘘偽りなく教えてあげるの。そうすることによって、ノボル君は呪縛から解き放たれて、本当の自分を再発見できる。あれは仲間たちが言ってるんじゃない。仲間たちの中の悪魔が言っている言葉。あれが荒野の囁きよ」
そんなことをタバタは言う。
ああやって、本人のコンプレックスを刺激するように罵倒し、それでいて仲間として受け入れることにより、ノボルはコンプレックスをも含めた自分を受け入れて貰ったことになる。そこで初めて劣等感を含めた自分を、ノボル自身が承認できるのだと。
――真実の眼ね……。
憂理はどう言い返せばよいかわからなかった。
ただこうして、いたずらに他人のコンプレックスを刺激することが良い行いとは思えなかった。このようなプロセスを経て『再発見』される自分が、本当に自分の望む姿なのだろうか。
「なぁ。翔吾」
「ああ」
「ちょっと、おれを罵倒してくれ」
「よし」
憂理の依頼に翔吾は憂理へ正対し、いかめしく腕を組み、上から下まで眺めてくる。
「はやく」
「あー。まぁまぁイケメンじゃね?」
「うれしい。ありがとう。でもそれ罵倒じゃない」
「あー。そだな。ネクラだよな実は」
「そうかも」
「実は性格悪いケド、まぁ、そうじゃなきゃツマンネーし」
「もっと」
「ナル子とできてんの?」
「できてない」
「喧嘩は弱いな」
「うん」
「好きな女とかいんの?」
「なんか、違うくないか。趣旨が」
「ケナすって難しいな」
憂理はタバタへ向き、非難した。
「おい。ぜんぜん再発見できないぞ」
「七井くんがトクラ君に甘いからよ。本気で、傷つけるつもりでやらなきゃ、意味がない」
「違うくね」翔吾が面倒臭そうに頭を掻いて言う。
「俺とかユーリとかさ、普段から本音でしゃべってっから、罵倒もそんなかに含まれてるワケよ。日常会話によ。ネクラとか性格悪いとかよ。だからイザ悪口って言われても言えねぇだけ、だろ?」
これは正しく思われた。
T.E.O.Tにハマりこんでいる者たちは、結局、本音を言わず言われずの人間関係を築いてきたばかりに本音が新鮮だと言うだけのことではないのか。
今までの社会性を破壊ないし放棄させて、T.E.O.Tという集団にとって都合のよい人間を作る行程――そういった印象がある。
とはいえ、本音で向き合える人間関係がマレである事ぐらいは理解できるし、自分が恵まれていることも憂理はわかっているつもりだ。
「ともかく、こんなことしてる場合じゃねぇよ」
憂理は誰に言うでもなく呟き、気を取り直して体育室へと足を踏み入れた。右に左に罵倒を聞きながら壇上へと向かう。
――こいつら、本気だ。
本気で『変える』気でいる。世界、そして自分自身も。
その情熱は存分に伝わってくるが、それがますます憂理の体調を悪くさせる。こうテオットの毒気にあてられては、『世界の変化』を望まない自分が間違っているのではないかと不安にもなる。これだけの人数がすくなくとも『現世』に不満を持ち、自分の居場所をT.E.O.Tに求めている。
それは現世が救えないほどに腐っているからか、あるいは黒腕章たちがワガママというだけか。どちらにせよ、彼らが迷走していると憂理は評価する。
暗闇に道を見失い、そこに現れたタカユキという光に向かい歩いているだけだ。
――自分の足元ぐらいは、自分で照らせ。
そんな事を考えながら壇上へ上がると、憂理は全体を見渡してから言った。
「忙しいトコわるいんだけど、ちょっといいか。やることが決まった」
そして罵倒が完全に絶えるのを待ってから、続ける。
「ここにいる全員を今から三つのグループに分ける。ひとつ、男たち。ふたつ、女子。みっつ、ふたつめじゃない女子。男は全員、いますぐ中央階段へ行ってくれ」
すると、体育準備室からゆらりと出てきたタカユキが壇上へ近づいて来て、首を傾げた。
「憂理。僕もかな?」
「ああ。男は全員だ」
「なにをする?」
「中央階段を登りきったトコが、コンクリートで塞がれてるのは知ってるな?」
タカユキは反応を見せなかったが、こんなことは既に周知の事実のはずだ。
憂理は返答を待たずに続ける。
「そこに今、ジンロクがいるはずだから、ロクの指示に従ってコンクリートを掘れ」
どよめきがそこかしこから上がり、にわかに不穏な空気が生まれる。
「掘る?」
「ああ。『壊す』でもいい。ハンマーでも、ドライバーでも道具は好きに選んでくれ。持ってるならバズーカーでも」
それを聞いて、タカユキは小さく笑う。
「それが、生き残りの策かい、ユーリ」
「違う」
「じゃあなぜ?」
憂理はあえてタカユキから視線を外し、テオット全体へ向けて言葉を発した。
「保険だ」
「保険?」
「今から、地下階に水を流し込む。女子を2グループに分けて、この最上階と、生活棟の水をありったけ地下へ流し込むんだ」
不自然なほどの静寂があった。
憂理の言葉を受け、それにショックを受けたのか、あるいはその言葉の意味を反芻しているのか、どよめきすら無かった。
「排水溝は全部ビニールでふさげ。ええっと、俺の合図ですぐに破れるモンなら、ビニールじゃなくて布でもいい。とにかく、全部の水が効率良くダストシュートに流れ込むようにするんだ」
憂理は計画の全貌を明かし、最後に要点をまとめる。
「いいか。地下階が100%水没じゃダメだ。目的は半村をビビらせること。半村がヤバさを感じればそれでいい。あくまでも脅しだ。排水ポンプが水没するまえに勝負を決める」
タカユキは涼しげに微笑んで、計画の脆弱性をあっさり指摘した。
「半村がヤバさを感じず、排水ポンプが水没したら? 憂理、それはとてもじゃないが……危なすぎないかな」
一瞬、憂理は言葉に詰まりそうになるが、平静を装い、タカユキを見ずに応える。
「だから、保険だ。全部の可能性をキープする。もしかしたら簡単にコンクリートが破れるかもだしな。あと手の空いた奴は空のペットボトルを板状に繋いで、エレベーターの昇降路に入れろ。イカダがわりにする。泳げない奴にはペットボトルで救命胴衣も」
「そんなので上手くいくかな、ユーリ」
「上手くいかせる」
「上手くいかなかったら?」
「うるせえッ!」
憂理が杜倉憂理史上、前例のないほどの大声で怒鳴ると、体育室の空気は凍てついた。
「黙ってろよ! なんもせずに死ぬのがカッコイイのかよ! 諦めて、スカしてんのがカッコイイのかよ! 簡単に降参すんのがカッコイイのかよ!」
憂理はタカユキを睨みつけ、激情のままに言葉を吐いた。
「死んでもいいってなら、今すぐ死ね! 俺が見ててやるから、今すぐ死ね! お前の吸うぶんの空気が無駄になんだろが! 俺は生きたいって思う奴を一秒でも長く生きさせる! そのためにはダサくてもイケてなくても、やれるコト必死で全部、全力でやんだよ!」
建前でも演技でもなく、憂理はただ内なる感情をさらけ出した。
「『本気でやるのがダセぇ』ってんなら、ハンパなまま死んじまえ! ウスラ笑いして、カッコいいつもりで死ねばいい! 止めやしねぇ、俺が最後まで見ててやる! でもな、いいか、これから本気で――必死で生きようとする奴を嗤ったら許さねぇ! そうするつもりなら、『死ね』じゃなく、『殺す』――いいな!?」
一生ぶんの怒声を一気に吐き終えると、憂理は大きく深呼吸をして、やがてテオットたちへと視線を戻した。
「えっと、なんか、怒鳴ってわりい」
幾分かに薄くなった空気を何度か胸の奥まで吸い込み、憂理は落ち着きを取り戻した。
「……これが今言える『全部』だ。ホントはタカユキの言うように、こんなの上手くいかないかも知れない。ミスっちまうかも知れない。手遅れかも知れない。あとでみんなが『バカしたな』って後悔すっかも知れない。俺は期待に応えられないかも知れない」
先ほどの憂理の怒声に気圧されたままなのか、テオットたちに反応はない。憂理は内心に冷静を取り戻し、ただ穏やかに言った。
「でも、やろう。それでもいいのなら」
静まり返った体育室内。
遠く入口の方を見てみれば、翔吾が満足そうに親指を立てていた。これは『よく言ったトクラ』だ。翔吾はいい。問題はテオットなのだ。
黒腕章たちが動いてくれなければ、計画は白紙に戻ることになる。
さすがに自分たちのボスをコキ下ろされて、気分を害しただろうか――。
だが、しばらくの静寂ののち、ようやくテオットから1人の賛同者が出た。
「おれ、手伝うよ、ユーリ。なんかダセえケド、たまには――こういうのも良いよな」
それはアツシだ。憔悴しきった表情ながらも、口角には笑みが、目には光があった。
アツシに続いて、1人の女子が歩み出た。
「ユーリくん。やるよ、わたしも。わたし、自分が死ぬのは別にいいかな、って思うけどみんなが死ぬのはイヤだもん」
イツキに続いて、私も、俺も、と次々に賛同が集まる。
憂理は安堵の息を漏らし、うつむいた。そして、ほんの小さく頷いてから、もう一度全体を見渡し言った。
「やろう。やれるから。大丈夫だ」
そうだ。やれる。
自分の勇気だの、精神だのを試される機会など人生にそうそうあることではない。そして、今がその数少ない『時』に違いない。
もとより、出し惜しみできるほどのモノは持っていないけれど。
「よし。さっきも言ったように、男はジンロクの手伝いに回ってくれ。女子は二手に分かれてタバタの指示に従ってくれ」
憂理の言葉が終わるやいなや、タバタが体育室の入口から声を上げた。
「イニシエートはエデュカチオとセットで動いて! グループ分けは教則斑の奇数と偶数で! 奇数は生活棟、偶数は上階。私以外の4人の師長は二手に分かれて上下階に」
いかにもテオットの幹部らしくタバタは指示を飛ばした。聞きなれない単語から察するにT.E.O.Tにも憂理の知らない内部構造があるらしい。
「わたし、ビニール集めてくる!」
「集めたら中央階段のあたりにまとめて置いて! 階全体を4ブロックに分けて、各グループが各ブロックを担当するの。師長はどこを塞いだか、ちゃんと把握して!」
憂理の計画通りの指示だ。
俄然生気を取り戻した者たちが、勢いのままに入口に殺到し、体育室から飛び出してゆく。この人数でかかれば、地下階まで水が到達するのにさほど時間はかかるまい。
やがて、体育室には壇上の憂理と、入口付近で壁にもたれかかる翔吾、そしてタカユキだけが残った。憂理は少しだけタカユキに負い目を感じてしまう。皆の前であんな風に言われては、ジンロクの元へも合流しがたいだろう、と。
「タカユキ。もういいからさ、お前もロクのとこ行けよ」
憂理が言うと、タカユキも言う。
「死のうと思う」
「バカ言うなよ。さっきのは言い過ぎたし、悪かったけど、お前も悪いんだからな」
「僕が本当に死のうとしたら、憂理は止めてくれるかな?」
「しらねぇよ、そんなことは」
「僕の命は憂理にあげると言った。だけど、憂理は貰ってくれるんだろうか。タダであげると言うのに、それでも貰ってもらえないような生命に――『皆の空気』を吸う価値はあるのかな」
――ああタカユキ、面倒なやつ。
いつもとさほど変わらぬ表情のタカユキだったが、なにか、どこか、違和感があった。言い過ぎたかな、と少しだけ憂理は反省する。
「いやタカユキな。あげる、って他人にあげれるなら、金持ちとか悪魔が買い占めちゃうだろ。あげれないし、もらえないし、それでいいんだよ。だいたい、俺は自分の生命だけで間に合ってる」
「憂理。僕は女々しいかも知れないね」
「そだな。爽やかに見えて、ウジウジしてる。カッコつけなくせにネクラだし。ほら、落ち込んでないで、さっさとロクんとこ行けよ。人手がいるんだから」
憂理が急かすと、ようやくタカユキは入口へ向かって歩きだした。
いつもよりタカユキの肩が下がっているのが憂理の罪悪感を刺激する。
なにか声をかけねば。だが何を言えば?
「なぁタカユキ」
憂理が呼びかけると、待っていたかのようにタカユキは足を止めた。
だが、呼び止めたはいいが、どう声をかけて良いかもわからない。今は可哀想に見えても、タカユキは躊躇無く人を害することができる人間だ。そんな思いが憂理の心を堅くした。
「ああ、いや。なんでもない」
それを聞くと、タカユキは結局振り返らないまま体育室から出て行った。
それと入れ違いに訝しげな翔吾と、不機嫌そうな『師長』サマンサ・タバタがやって来る。翔吾は言う。
「あいつ、どうしたいんだ? マジ死にてぇの? さっきまでは自分が生きるために半村殺そうとしてたクセによ」
「さあな……。でも、なんか悪いことしたかも」
「なんで」
「俺、死ね、とか言った」
「そんなん、しゃあねぇよ。実際、死にてぇなら勝手に死ねばいいんだよ。実際、俺はスカッとしたけどな」
これを聞いたタバタは不機嫌そうな表情を、不愉快にまで変えて非難した。
「人に『死ね』って言う人って、ホント嫌い」
どうにも杜倉憂理と田端沙耶というのは、近づけば近づくほど反発しあう運命らしい。もっとも、憂理自身が好かれたいとも思わない以上、釈明する必要も媚を売る必要もない。
憂理はタバタの心情を無視する形で、気になったことだけ質問した。
「なぁ。イニシエートとかエデュカチオとかってなんなんだ?」
「ステージよ。教育係と新人の」
憂理の質問に乗っかって、翔吾も聞く。
「じゃあ師長はよ? 」
「イツキ、カナ。松岡くん堂島くん。それに私。私たちは指導的立場なの。……もっとも、松岡くんは下りるべきだけど」
タバタはそっぽを向きながら不機嫌を隠そうともしない。
「なんだよ。なんでアツシが下りるんだ? あいつ、いい奴だぞ」
「心が弱すぎる。さっきも子供みたいにワンワン泣いて……みっともない。あの人、本当に世界を変える気があるのかわからないわ。みんなが幸せになるような世界を目指してる時に、士気が下がる……。彼の目は曇りだしてるのかも」
よくもまぁ、と憂理は馬鹿馬鹿しく思う。
憂理などは、松岡アツシこそ数少ないT.E.O.Tの良心だと信じて疑わないし、田端の言う『弱さ』こそ松岡アツシが『いい奴』たるゆえんであると思う。
アツシは弱く、無邪気な男だ。無邪気に新世界を求め、素直に苦しみ、素直に泣く。
それこそが『曇っていない目』の象徴になるべきなのではないか。
弱い者が弱い者のために泣くこと以上の優しさを憂理はしらない。そのような弱さを切り捨てるような新世界なら、たかが知れたものだ――。
だがタバタと議論する気も起きず、憂理はただ頭をかいた。田端沙耶という少女は、どこか路乃後菜瑠と重なる部分がある。
だが、菜瑠と違いタバタには憂理の言葉や気力を奪う何かがあった。『勝手にやってろ』と言いたくなる何かが。
「みんなが幸せな新世界、か……。その『みんな』に誰が含まれてんだろな」
タバタのキツい視線を横顔に感じながら、憂理は壇上から下りた。
思想、信条をもとに非難し合うことは憂理自身が先ほど禁じたことだ。今は悠長に『わかりあう時間』などない。もっとも時間があってもわかり合えないと思う。
もう戦いは始まっている。
さあ、やろう。生きるために。
救いがたい救済のために。万人のためでない――狭量なる新世界のために。
それでも、生きていたい者たちのために。
* * *