8-8c エサとなること
菜瑠と四季の体重を受けた畳がしなる。
もっとダイエットしておくべきだったのか、そうじゃないのか、菜瑠は混乱気味に考えてしまう。
だが、ぶつかり合うエネルギーは拮抗をみた。衝撃はあるものの、それは畳の位置をずらすほどのモノではなくなっている。
「みんな、頑張って!」
ユキが拾った懐中電灯をぶんぶん回してエールを送ってくるが、何を頑張ればいいのかわからない。きっとユキだってわかっていない。目を閉じて何度も衝撃を受けていたが、時間の経過とともに階下からの攻勢は数を減らし、やがてパッタリとおさまった。
夜が、夜らしい静謐さをもって、あるべき姿を取り戻した。
畳の向こうに、気配はあるのか? 畳のすぐ下に、息遣いはあるのか?
まるでわからない。
喜んでいいのか、安堵していいのか、態度を決めかねたままの5人が揉みくちゃになって、ただ畳をきしませている。油断した瞬間に、ここ一番の一撃が加えられ、全て吹き飛ぶのではないか――そんな恐怖が次の行動を抑制していた。
「行ったの?」
ユキが訊いてくるが、それはケモノか畳に訊いて欲しい。
「もう少し……様子を見よう」
肉布団の下層にいるであろう遼が苦しげにも冷静な事を言う。
おそらく二段のピラミッドになっていると思われるが、足の向きさえ無茶苦茶だ。菜瑠が無理やりに仰向けになると、腹に誰かの足が乗っていることがわかるが、それが誰の足かもわからない。
目を開けると、目の前には四季の半開きの目があった。鼻先と鼻先が触れ合って、少し冷たい。満員電車で雑魚寝しても、なかなかこうはなるまい。
遠くからエイミの声がした。
「で、アレ、なんなの!? なにがいた?」
菜瑠が答えるより先に、ケンタが答えた。
「デカい毛むくじゃら」
これは余りにも抽象的な返答であり、エイミの聞きたい答えではなかろう。そして、やはりエイミは具体的な回答を求めた。
「クマ?」
「わからないよ。暗かったし、毛しか見えない。なんだか、とにかくデカい」
今度はまた離れた位置から、くぐもった遼の声だ。
「これだけのパワーだから……サルとかシカじゃないね。ナル子は見なかったの?」
「……ケンタの身体でよく見えなかった」
「まじデブねー」
「あいつ僕よりデブだよ。ぱない」
「とにかく」遼が低血圧気味のため息とともに言う。「クマだったらまずいね」
「なんで?」
「クマって執着心が強いんだ。一度自分のモノだって認識した獲物や食べ物に、異常に執着する」
エイミが潰れそうな息遣いながらもケラケラ笑い、訊く。
「変態のストーカーみたく?」
「それ以上かもね。三毛別では体長2.7mの大ヒグマに襲われて10人の死傷者が出た。何度も何度も、毎晩毎晩戻って来て、人を食った」
「ヒグマ……」
「福岡大学のワンダーフォーゲル部も、一頭のヒグマに狙いをつけられて、何日も散々付きまとわれたあげく、半数以上が殺された」
少し間を置いてから、再度エイミの質問が上がる。
「私たちもヒグマに狙いをつけられた、ってこと?」
「いや、ここ本州だからヒグマじゃなくて月の輪熊だね」
「月の輪? 白いヨダレかけみたいな模様があるクマ?」
「そうそう。一階に居るのが月の輪熊かどうかはわからないけど……。月の輪熊でも危険度はあんまり変わらない」
熊の執着心が強いと言うならば、やはり山奥から付いてきたと考えるのが妥当だろうかと菜瑠は思う。納得はできるからだ。
もっとも、山奥にいたケモノが階下にいるケモノと同一であるならば、であるが。
エイミによる素朴な質問攻勢は三毛別羆事件の詳細に及び、それに遼は淡々と答えた。山から下ろした遺体を取り戻しに来る、だの、味をしめる、だの。耳を塞ぎたくなる事実ばかりだ。
ユキは怖がって、懐中電灯を放り出して床に座っては実際に耳を塞ぐ。
血だの内蔵だの凄惨な単語ばかりを聞いてしまい、やはり胸を悪くした菜瑠は口から重いため息を漏らした。檻の向こうにいる熊はどこかユーモラスで憎めない雰囲気であったのに……。
もし畳の蓋を破られたら、どうすればよいのだろう。
到底、長棒程度で撃退できる相手ではなかろうし、二階の窓から飛び降りるべきか。
だが、この深い闇のなか、自分たちはどこへ逃げればいい?
混乱のせいか、考えはまとまらず、精神的重圧に押しつぶされてしまいそうだ。泣いて良いなら泣いている。
すると薄暗闇で面を付き合わせていた四季の唇が、唐突に菜瑠の唇を塞いだ。
こんな時に、不謹慎極まりない。それに、こんな間近に仲間たちがいるのに。
一瞬、唇を固く閉ざして拒絶しようとするが、そんな抵抗もほんの一瞬だ。菜瑠は到底抗えない。
すぐに唇を開いて、自ら舌を差し出してしまう。
「でもさ、ヒグマじゃないなら大丈夫じゃないの? 」
「僕もそこまで詳しいワケじゃないから、わからないけど、執着心があるならヤバいよ」
「そもそもクマかどうか、わかんないじゃん。そーなんでしょ? ケンタ?」
「んー。クマかどうかもわからないか、わからない。とにかく怖かってす」
「誰か入り口の引き戸開けてたの? いつの間に入ってきたのよ」
エイミによる『戦犯捜し』が始まろうかという所であったが、それは遼の一言でたしなめられた。
「三毛別じゃ……集落の人たちは戸締まりも武装もしてた。でも無意味だったんだ。もし僕らがターゲットに定められたなら……逃げるしかないね」
エイミたちによる鬼気迫る話し合いを尻目に、菜瑠は一瞬で快楽に負け、一瞬で興奮する、そしてそんな堕落した自分にすら性的な興奮を覚えてしまう。
四季は狙ってやっているのだろうか。『クスリ』の代わりに、永良四季に依存するよう仕向けているのか。
だとしたら、それはもう、ほとんど成功している。
自分にはスイッチがあり、そしてそのスイッチを四季に気付かれている。
四季の手が菜瑠の大きくもない胸を包み込むように繊細に触れ、やがてその指先が菜瑠の乳首を少し強めに――つねる。
完全に、スイッチを入れられてしまった。
「朝までこうしてるのカンベンよ? ケンタの肉が柔らかくて、なんかキモいんだけど。マジ泣きたい」
遠くて近いエイミの声。
「泣けばいいさ」
ケンタの声も近い。
「僕は……潰れそうだ」
「まだいる?」
「さぁ……」
近接距離、それも身体が触れ合うほどの距離に仲間がいるのに、自分はこんなに興奮している。その背徳感が余計に火に油を注ぐ。
「ねぇ、菜瑠。もう、大丈夫じゃない? ずっと静かだよ? もう行ったんじゃない?」
唐突にエイミに話を振られ、四季の唇が菜瑠から離れた。菜瑠は濡れた唇で、取り繕うように返事した。
「まだ、だめ」
端的な言葉を言い終わると、すぐに四季の唇が戻って来て、菜瑠は嬉しくなる。
「だってさ、音もしないし、ずっとこのままじゃヤダよ。ケンタの肉がアタシに移ってきそう……」
「もう少し、もう少しだけ……」
自分がエイミに言っているのか、四季に言っているのか、わからない。完全にのぼせあがって、このままじゃ、バカになる――そう思う。
「太ったらケンタのせいだかんね!」
「ほほほ、お嬢さん、責任とって欲しいかね?」
「変な言い方、やめてよ!」
エイミが怒鳴った瞬間、再び衝撃が畳を持ち上げる。
「来たッ!」
「ズレる! 戻して! 早く!」
「どうやって!?」
危機的状況だ。死ぬかも知れない。自分は数秒後、数十秒後には死んでいるかも知れない。なのに、菜瑠の興奮も四季の行為も止まらない。
死にたいのか、死んでも良いと思っているのか。自分でもわからない。
四季に身体をまさぐられながら、いつもより早い絶頂をピンと伸ばした足の爪先に感じる。もう少し、あと少しで。
この状況がいつもより自分を興奮させている。そしてそれは四季にも気付かれている。
――わたし、クズだ。
犯罪を許容し、同性愛の快楽に溺れ、堕落して――。そのくせに自分は潔白だという仮面をかぶって。本当は、本心では、心の奥底では世界が終わっていてもいいと思ってる気がする。
清らかで正しい世界より、よどみ、混沌とした世界のほうが自分を嫌悪せずに済むから。たくさんの罪に溢れた中に埋没すれば、本当の自分でいられる気がするから。
見つけられたくない落ち葉は、森に隠すものだから。
* * *
結局、朝が来るまで菜瑠たちは畳の上にいた。
断続的に階下からの攻勢は続いたが、明け方が近づくにつれ気配は弱まり、やがて消えた。だが夜が白み――完全に朝が訪れても、安全を確信できず菜瑠たちは動けなかった。
とはいえ永遠にこうして蓋の上にいるわけにもいかない。人間として生きている以上、逃れられないモノがあるからだ。たとえば生理現象だ。
「トイレ……」
これはユキが初めに言い出したが、それはなにもユキだけの問題でもない。菜瑠自身も黙っていただけのこと。
『行為』が終わっても、菜瑠と四季は密着したままでいたが、いつまでも甘い時間に浸っているわけにもいかない。
菜瑠は努めて『いつもの菜瑠』に戻ると、ゆっくりと半身を起こした。極度の緊張が続いたせいか、疲労は感じるが不思議と眠くはない。
「大丈夫……かな?」
これには生気のない遼が応じた。
「たぶん……」
そして菜瑠たちは恐る恐るに蓋を開け、耳を澄まし、やがて固まって階下へと下りた。朝の薄明かりの中に見る一階は、予想通り食い散らかされた食材の袋が無残に散らばっている。
「ちょ、真空パックやられてるじゃん!」
エイミは散らかったビニールのなかに真空パックの残骸を目ざとく見つけると、血相を変えて真空パック用のバックパックのもとへと駆け寄った。
「なによこれッ! ほとんどいかれてるじゃん!」
「……いますぐ、仕度して」
これで良かったのだ、と菜瑠は自らの胸の高鳴りとは正反対に、理性的に考えるようにした。もし畳が破られていたなら、自分たちもこの残骸と同じように床に無残に散らばっていたに違いない――。
これで良かった。この程度で済んで良かった。
菜瑠は自らの受けたショックを隠し、表面上、毅然とした態度で指示を出した。
「また……戻ってくるかも知れない。すぐに準備して、ここを出なきゃ。エイミ、無事だった食べ物は全部軽トラに積んで。他のみんなも協力してやって。10分で出るから!」
次の襲来はそれほど先のことではない。なんの根拠もないが菜瑠はそう感じていた。そして、真空パックなき次は、新鮮な『生肉』に目星をつけてやって来る。
エイミは食料を失った苛立ちからか、さんざん悪態をつきながら指示を飛ばした。
「ケンタ! 水も補給! 井戸からペットボトルに!」
「いや僕は車のエンジンかけるから!」
「じゃあ遼! はやく!」
「待って、やらなきゃいけないことが」
「エイミ、わたしがやる!」
菜瑠は転がったペットボトルを拾い上げ、裏口へ走りながら言った。
「トイレも順番に済ませておいて!」
裏口から外の様子を慎重にうかがってから外へ。
そうして慌てながらも両手でポンプの金具を上下させていると、裏口からバックパックを抱えた四季がゆらりと姿をあらわした。
「ありがとう、四季! そのバックにペットボトル入れるね!」
四季は頷き、ポンプ蛇口の前で膝を折ると水をペットボトルに汲みはじめた。
一刻も早く、この集落を去りたい。未知の病気に、飢えた動物。いまの菜瑠には杜倉憂理たちの安否を気にする余裕もなかった。
半村や深川に代わる脅威が、すぐそばにあった。よほど、施設の方が安全なんじゃないかと思う。水を汲み終えて表口へ回ると、軽トラックのエンジンはすでに回転しはじめていた。
米袋や長棒、鉄鍋などが荷台に載っており、運転席からケンタが助手席のドアを開け、早く早くと急かす。菜瑠は助手席に足取りのおぼつかないユキを乗せ、自らは飲料水のバックパックとともに後方の荷台に飛び乗った。そして上から四季を引っ張り上げる。
「待って! アタシを置いてくな!」
エイミが両腕一杯に荷物を抱えて、表口ぐちから駆けてくる。菜瑠は荷台からその荷物を受け取り、最後にエイミを引っ張りあげた。
「まだ、遼が!」
言った瞬間には遼が表口から姿をあらわす。
「なにやってんのよ、急いで!」
「やることがあったんだよ!」
遼が荷台に乗ると、菜瑠は運転席の屋根を叩いた。
「ケンタ、出して!」
「オッケェ!」
その声とともに車体がガクンと動き、ゆっくりと進みはじめた。菜瑠はやはり屋根を叩いて、急かす。
「もっと早く!」
こんな速度では、カタツムリにだって追いつかれてしまう。
「怖いんだって! もうちょっと、慣れるまで待ってよ!」
AT車ゆえ複雑な手順は必要ない。アクセルを踏めば踏んだだけ進む。
だが明らかにケンタは不慣れで、1分ほど一桁の時速で進み、やがて少しずつではあるが速度は早くなった。それでもようやくジョギングほどの時速だ。
頼りないといえば頼りない速さではあるが、トボトボ歩く事を考えれば遥かに速い。
フラフラとハンドルが切られるせいで、荷台の乗り心地はよろしくない。荷台に座り込んでいたエイミが立ち上がり、やはり運転席の屋根を叩く。
「ちょっとケンタ、まっすぐ走りなさいよ! 下手くそ! 酔うし、追いつかれるし!」
「頑張ってるんだって! でも車が勝手に変な方向に行く! タイヤが曲がってるかも!」
これは運転技術や車体の問題などでなく、灰まみれの路面のせいに違いなかった。
雪道で道路とタイヤとの間に雪が隙間を作る状態と似ている。ベテランドライバーでも制御しがたいモノを、初心者であるケンタに要求するのも酷というものだ。
やがて迷走しながらも軽トラックは集落の入口地点までやって来た。すると今度は遼が鋭い声でケンタを呼んだ。
「止まって!」
「なんで! せっかく良い感じで進んでんのに!」
「いいから!」
ケンタが唐突にブレーキを踏むものだから、荷台の荷物は慣性で大きく前へと動いた。荷物同様、人間も慣性に押しやられる。バランスを崩し荷台から落ちそうになった菜瑠を、四季がフォローした。
「ちょっと! あぶないでしょ!」
「うるさいな!」
そんな混乱めいた状況のなか、遼は素早く荷台から飛び降りた。
そして車から数メートル離れたところまで行くと、靴の踵で灰の積もった道路に線を描き始めた。
車で待っている仲間たちの視線を受けながらも、遼はせかせか線を引くばかりでその線引きの意味を説明しようともしない。
やがて、数本目の線が引かれた時、菜瑠はその図形が矢印であることに気付いた。
これは道路幅を目一杯に使った矢印だ。
遼は矢印を描き終えると同時に、その先端が向いたガードレールにテープで何かを貼り付けた。
何か――ビニール袋に包まれたもの。
そして、総行程でも1分に満たない迅速な作業を終えた遼は、車に駆け戻り引っ張り上げられてから端的に言った。
「メッセージ! 憂理たちへの手紙第二弾だよ」
「ケンタ! 出して!」
「行くよ!」
今度はアクセルを踏みすぎて、タイヤが灰の上で一瞬の空転をし、ぐにゃりと車体の向きが変わる。
「スリップ! スリップ!」
「うるさいな! 気が散る!」
やがてタイヤがなんとかグリップし、車体は安定する。低速でも安全が一番だ。
集落が遠ざかってゆく。
ここを安住の地にするつもりなどではなかったが、なぜか一抹の寂しさがトラックの荷台に揺れる菜瑠の心を締め付けた。『集落』という人格のないはずの場それにまで拒絶されたような、そんな気がする。
言いようもない――さりとて言うほどでもない寂しさ。人はこれを寂寥感というのか。
かくして菜瑠たちは車に乗って山を下る。
施設を出てからというもの、脅威と疑問ばかりが増えて心も体も休まる暇がなかった。見上げる空は依然として暗闇が形を成したような雲に覆われ、自分たち以外の人間と会えもしない。
ここには自分たちを守ってくれる法もなく、小動物のようにただ脅威から逃げ続けるだけ。
ここに法があるならば、それは弱肉強食というシンプルな法だけだ。古式ゆかしき淘汰と繁栄の法。弱き者は強者に生殺与奪の権利を握られ、弱者はさらなる弱者を叩く。
感慨に耽る菜瑠の隣で、エイミが遠い山間に目を細めて言った。
「街……だれかいるかな。いるといいな……」
荷台に乗る全員が、その言葉に小さな反応をみせた。だが誰も、何も、言わなかった。
この文明社会から離れた山奥。荘厳に広がる大自然は自分たちのためだけに生き、13月以前と変わらない態度で、ただ菜瑠たちを無視する。
そんな、人間以外の生物たちがかたくなに守ってきた法が、いまの菜瑠たちを取り巻く法となりつつあった。適応できねば生きてはいけない。
弱肉強食か適者生存か。いずれにせよ、法と秩序の庇護のもとに育ち、それを規範としてきた菜瑠にとって受難の時であった。
この様子では、街の状況も――想像に難くない。コンクリートのビルが建つ通り、計画的に整備された公園。おそらく、そこも法外の地となっている。そう思う。
エイミの言う『誰か』が自分たちに好ましい存在であるか――。「やぁ、こんにちは。山は冷えたでしょう、温かいココアをどうぞ」そんな敵意のないお人好しに会えればいいが、そうもいくまい。
菜瑠はそんな風に考えてしまう程度には――適応していた。
何者かのエサとなる事、養分となること。
あるいはそれも適応の一形態かも知れない。
* * *