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13月の解放区  作者: まつかく
8章 法外の法の下で
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8-8b なにかの襲来


食事の時間が終わると、食器の片付けもしないまま各人がそれぞれの時間に戻って行く。明朝、明るくなり次第この集落を出る。もちろん車に乗って。


ケンタの運転に万全の信頼を置くことはできないが、こうなってしまった以上、仕方がない。機会を見つけて菜瑠も車の運転を教えて貰おうと思う。

かくして順序よく入浴が済まされ、全員が二階の部屋へと戻っていった。


気味悪いほど静かな夜に、菜瑠と四季のいる部屋まで男子部屋の活況が聞こえてくる。特にケンタとエイミの声は良く響いた。


「でた! でたよ! 遼さんのヘリー・ポッター! 魔法やって魔法!」


ケンタの無責任な煽りと、それに応える遼。

「真実はいつも一つか二つ!」


エイミもすっかり男子に混じり、ゲラゲラと品のない笑いを聴かせる。


「それ違うやつじゃん! つぎトンボやって、トンボ! あのエロ眼鏡!」


「うっほー! マジョ子さぁぁぁあん! ホウキじゃなくて、僕に乗ってぇぇ」


思えば、もとよりエイミは杜倉グループと親和性が高かった。

菜瑠などは施設にいた当時、それを煙たくも思ったものだ。あのよく訓練されたかのような驚異的な自由人思想と楽観主義により、彼らの周りにはトラブルと笑いが絶えなかった。

その集団の持っていた個性は、こうして暗澹たる状況下にあっても失われるモノではないらしい。

それは今となっては、たくましい、とも頼もしいとも評価できる。


「焼き芋、おいしいね」


窓辺に座った菜瑠が言うと、四季は芋を囓りながら「甘い」と小さく頷く。やはり彼女は人間かも知れない。

月のない夜の窓辺、少し冷えた焼き芋の味が菜瑠の郷愁をくすぐった。


母と食べた焼き芋。いまこうして荒廃した世界で食べている焼き芋。どちらも味に変わりがない。だが世界は確実に変化している。そして自分も。菜瑠は窓から外を見ながら、うわごとのように呟いた。


「なんか、泣けてくる」


母親と食べた焼き芋。自分は裕福ではなかったが、決して不幸でもなかった。

自分は母の背中を追いかけているつもりだったが、いつの間にか汚れてしまったように思えてならない。

あの頃の自分は純粋で、子供だった。


菜瑠は目を閉じた。

頬に暖かい夕陽に目覚め、窓から緋色の町を見た。

どこかの家から夕食のにおいが漂ってきて、遠い空に浮く橙色の雲すら美味しそうに見えた。


いつかもわからない幼い頃の記憶だ。

こんな季節には母とよく焼き芋を食べた。紅茶やコーヒーなどなかった。いつもホットミルクだ。

全てが遠い。全てが、まるで夢だったかのように遠く、ただ鮮烈な印象だけが残っている。


きっと、こんな風に過去を回想するのは自分が大人になったからでないか。菜瑠はそう思う。大人じゃなくとも、少なくとももう子供ではない。


自分は母が誇りに思ってくれるような成長を遂げただろうか。汚れている、そう思えてならない自分は、果たして母に顔向けできるのか。

『駄目でもいい、でも優しい人でいなさい』

そんな母の言葉で少しは救われるが、菜瑠自身、自分に都合のいい言葉ばかりを思い出しているようにも思えた。


目を開けば、すこし濡れた睫毛が夜風に冷たい。

いささかに、とりとめのない感傷の世界に迷い込んだ菜瑠に、四季は気をつかう様子もなかった。


「芋。美味しいわ」


ぺろりとたいらげて、半開きの瞳が菜瑠をみる。

菜瑠は母が自分にそうしたように、自らの芋を半分に分け、四季に差し出した。


「食べる?」


四季は頷き、それを受け取るとまた食べ始める。

なんとも食欲旺盛なことだ。摂取した栄養は自分と違い、胸部に注がれるに違いない、と菜瑠は少し羨ましく思う。

それと同時に、四季に世話を焼くことに喜びに似た感覚を覚えていた。母性とはこういうモノなのだろうか。それとも自分の存在価値を四季に委ねているだけなのだろうか。


「牛乳があれば、ホットミルク作ってあげるんだけど……砂糖たくさん入れて」


「甘いのがいいわ」


「街に戻れたら作ってあげるね」


こんな何気ない会話の間にも、男子部屋からの囃し声が聞こえてくる。そして、ある瞬間、スッと四季が芋から口を離した。

首だけを少し動かし、菜瑠に横顔をみせて部屋の入り口へ視線を向けた。


「どうしたの? 飲み物、欲しい?」


四季は動かない。ただ石像のような優美な首筋を見せて、固まっている。


「どうしたの?」


「音がしたわ」


「音?」


「1階に誰かいる」


仲間の誰かが降りた――ワケではなさそうだ。四季の反応がそれを示していた。


「みんな……2階にいるよね?」


「少なくとも階段を降りた音はしなかった」


「じゃあ……」


「不法侵入」


菜瑠の思考に先立って、身体が反応した。全身の産毛が逆立ち、緩んでいた緊張が、一瞬で緊迫に変わる。

そして、身体の反応に遅れてようやく思考が『理由』を組み立てた。


ワダチが戻って来たのか、と考えを巡らせるが、エンジン音は聞こえなかった。だいいち、何の声も掛けずに家屋内に侵入するなど、到底常識的ではない。

敵意、あるいは害意。身体は思考よりも早くそれを感じ取ったのだ。これは本能的なものか。

男子部屋はこんな異変に気付くこともなく、相変わらず盛り上がっている。エイミの声に緊張感は微塵もない。


「じゃあー、トイレを限界までガマンしてやばいことになってる半村やりまーす! 『あぁ? こりゃナンだ! なんでパンツ濡れてんだ?! 俺のパンツは便器か、あぁ!? オラっ! とうとうTOTOか!? あぁ!?』」


菜瑠はバックパックの側に置いていた長棒を素早く拾い上げ、足音を殺しながらも足早に男子部屋へと急いだ。

襖の向こうでは、いくつかのロウソクを囲んで仲間たちが気怠く盛り上がっていた。やはり、全員いる。


「菜瑠もやるー? シチュエーション物真似」


エイミの誘いに菜瑠は素早く人差し指を唇に当て、『静かに』のジェスチャーを見せた。そして、殺した声で言う。


「下に、1階に誰かいる……!」


その言葉はネタお披露目会の雰囲気を一変させるに充分な威力をもっていた。

どの目も一瞬で警戒の色を強め、ケンタは長棒に手を伸ばす。

「誰?」


エイミがチャラけたトーンを消して訊いてくるが、菜瑠に答えられるハズもない。

騒ぎを収め、菜瑠はロウソクと長棒を手に階段の方へと向かう。

どれだけ慎重に歩いても、板張りの床はヒステリックな悲鳴をあげ、暗い廊下に響いてゆく。


四季も菜瑠に続いて部屋から出て、2人して階段の側まで進む。

足を止めてみれば、チリチリとロウソクの燃える音が外的に最も大きな音で、内的には自らの心臓の鼓動音が最も大きな音となる。

そうしたなかで聴覚を研ぎ澄まし、階下からの音を探る。


階段の下は明かりもなく、全てを飲み込むかのような闇がただそこにある。これはまるで『無』だ。地獄へ降る階段でも、煉獄の炎や罪人の叫びでもう少し賑やかに違いない。

やがて忍び足で床を泣かしながら、仲間たちもやって来た。

ロウソクの光が階下から見えぬよう、階段の側面あたりに陣取る。


「……いる?」


「わからない」


物音がしない、というのはソレはソレで心理的負担が大きいものだ。

こちらの動きを察した相手が意識的に音を立てなくしたのかと勘繰ってしまう。ちょうど、菜瑠たちがそうしたように。


じっとりとした時間があった。

時の砂は流れているのか、そうじゃないのか、ロウソクの炎が揺らめかなければ、誰しもが時が止まっているように錯覚するに違いない。

やがて、音がした。

それは鍋を床に転がしたような音だ。その音が鼓膜に届くと同時に、身体がビクッと反応してしまう。


「いる……!」


今にも深い闇の底から2階に上がって来るのではないか。何者かもわからない何かが。菜瑠は長棒を一際強く握り、呼吸を整えた。

多数の聴衆の期待を裏切らず、階下での音は続く。


何かを引きずる音、それに続いて何かを引っ掻く音。音だけとはいえ、情報が集まってくると、推察も固まってくる。


「人じゃ……ないかも」


菜瑠が言うと、遼やエイミもその意見に賛同した。

人間が立てる音にしては、どうも派手だ。それに乱雑でもある。

それに、階上から見る限り、その存在は光源を持っていないらしく、人間が夜行性動物の目を持つように進化するにしては月日が浅すぎた。


「例のケモノ……?」


エイミの問いに答えたければ、いますぐ階段を駆け下りて、ロウソクの光の下に晒してやれば良い。

だが、そんな勇気を菜瑠は持ち合わせていなかったし、だいいち、階下にいる生物が『例の』ものかどうなど判断がつかない。

音を聞くばかりで見たこともないからだ。


菜瑠たちの食事の匂いにつられてやって来たのかどうか、実際のところはわからない。ただ、ケモノが腹をすかせているのは確かなように思えた。

エイミがしきりに菜瑠の袖を引く。


「菜瑠、どうすんの? やっつけるの?」


「やっつけるって……」


「アタシらの食べ物全部が下なんだよ? 全部食べられたら終わりよ、終わり」


とは言え、追い払うなど出来るのか。菜瑠は防衛の長であるケンタに視線を向けた。


「うーん。やめたほうがいいかなぁ。相手にもよるけど……。もし熊とかだったら、勝てる気しないもん」


これは菜瑠の心情と合致する意見であった。

もしケモノが小動物程度のものであれば、長棒でなんとかなるかも知れないが、イノシシや熊ほどの動物であったなら、刺激すればこちらも無事には済むまい。

そして階下で咆哮が上がった。

それは、到底小動物などのあげるモノではない。菜瑠の全身を細胞単位で刺激する咆哮。菜瑠の印象で言えば熊を超えている。


「お……大きい」


追い払う事は不可能だという合意が無言のうちに交わさる。そして、無事にやり過ごすことが次の課題となる。眼鏡に炎を反射させて、遼が言う。


「ちょっと、コレは……。階段上がって来たらマズいよね。僕らが食べ物になっちゃう勢いだ。ケンタ、なんとかしないと……」


ケモノは菜瑠たちを追って来たのかも知れない。だとしたら、菜瑠たちが『狩り』のターゲットということだ。

残飯程度の量で胃が満たされればよいが、大型生物の食事量に足るとも思えない。

もとより、この灰まみれの山にあって充分な食事は望むべくもなく、空腹であろうことは想像に難くない。

エイミはスッと最前線から身を引いた。


「やだ、アタシ、食べられるなんてゼッタイ嫌!」


潜めた声ながらも、確固たる拒絶の意思が伝わってくる。


「誰だって嫌さ……」


食料大臣が食料になるなど、出来が悪いジョーク以外の何物でもない。

成すべき事もわからないまま身を寄せ合って階下の状況を探っていると、ケンタがスッと集団から抜け出し、やがて長棒を手にして戻ってきた。


「見てくる」


「駄目だって! 危ないよ!」


「んー。でもこのままじゃラチがあかないし。食べ物も守らないと」


階下にいるケモノがどのような食性をしているか、菜瑠にはわからない。

ただそれが肉食であれ雑食であれ、飢えていることは確実に思われた。そして、そのような状況に置かれた獣を追い払うに、長棒はあまりにも頼りない。

その一方でケンタの言うこともわかる。このまま放置しておいても、自分たちの無事が保証されるわけではない。

菜瑠は数秒の躊躇ののち、頷いた。


「わかった。私も行く」


「ちょ! 菜瑠アンタね!」


エイミの潜め声の制止を横顔に受けつつも菜瑠は忍び足で自室へ引き返し、素早く長棒を手にして戻る。エイミは長棒を手にした菜瑠を見て、ますます必死の形相を浮かべた。


「駄目だって! 菜瑠! 危ないってば!」


「そうかもだけど、そうじゃないかも。せっかくエイミがみんなのために集めてくれた食べ物だもん。守らなきゃ」


「駄目だって、食料とかまた見つければ良いんだし!」


すると菜瑠に取りすがるエイミを押しのけて四季も前列に出てきた。そして小さく頷いてから言う。


「菜瑠が行くなら私もいくわ」


「ちょっと、四季! アンタも何いってんのよ! ちょっと、遼も黙ってないで止めてよ!」


エイミに助勢を求められた遼は、エイミを見て、菜瑠を見て、四季を見て、言う。


「行くのは反対しないけど、逃げてきた時のことも考えないと。獣が上まで追ってこれないように」


これは建設的な意見に思われた。

階下へおりて、すぐさま退却という事態に陥って、獣を二階まで呼び込んでしまうのが最悪の状況だ。二階を安全地帯とし、撤退先を確保しておくべきだろう。


「じゃあ、どうすれば?」


菜瑠が訊くと、ケンタが応じる。


「畳で蓋」


一瞬、何を言っているのか理解が追いつかなかったが、階段のフチや横幅を見て、菜瑠はようやく理解した。

これは畳のサイズとちょうど重なる。二階のいずれかの部屋から畳を拝借して、それを覆うように階段にかぶせ防御壁とする――。

シンプルであるがシンプルであるがゆえ直感的かつ効果的に運用できそうだ。


「それいいね。上で待機する人が、二枚ぐらい畳を立てかけて用意しといて、獣が追いかけてきたら、素早く閉じる。じゃあ、エイミと遼くんと四季とユキちゃんに任せて良いかな。私とケンタが下に行くから」


菜瑠は端的に指示を出したが、従うことをよしとしない者もいた。たとえば、四季だ。


「私は行くわ」


「だめ!」


「四季も菜瑠もケンタも駄目だって!」


全員の意見が折り合わない状況で、前にも後にも進めやしない。菜瑠は腕を組んでワザと厳しく言った。


「エイミ、聞き分けなさい。四季も! ちょっと様子を見に行くだけだから、ここは従って!」


シュンとしたエイミを尻目に、遼がそそくさと行動を起こし、手近な部屋へと移動して仲間を呼ぶ。


「エイミ、四季、早く手伝って。こうしてる間にも上がってくるかも」


思いのほか防御壁の設置はスムーズに進み、床に対して水平にせり出した階段のフチに、二枚の畳が立てかけられた。

これで畳を倒すだけで階段には即席の蓋がなされる形になる。旧家屋によくありがちな『無駄』な部位も決して無駄ではなかった。無論、畳で階段の蓋をする事態を想定して設計されたモノでは無かろうが。


菜瑠は片手に長棒を、片手に懐中電灯を持ち、準備万端だ。

本来ならなるべくは電池消費をおさえたいところであるが、このような危機的な事態にあっては仕方ない。惜しむべきは電池ではなく命なのだから。


「じゃあ、行ってくる。私とケンタが逃げてきたらすぐに畳で封印できるようにしてて」


遼とエイミは無言のまま神妙な面持ちで頷く。

そうして菜瑠はケンタの後に続いて階段を下り始めた。

――おそらく獣は残飯などが放置されたままの台所周辺にいる。


願わくば、懐中電灯の明かりに驚き逃げ出してくれますよう。

相手がどのようなケモノであれ、それが一番穏やかな解決だ。そうあってくれれば菜瑠とケンタはただしっかりと戸締りをして――二階へ戻り――朝までの安眠を享受すればいい。


そんな事を考えながら階段の中頃まで下りてきて、菜瑠はようやく背後の気配に気付いた。

振り向けば――四季がいる。

武器も照明も持たず、それこそ休眠状態の機械がごとく気配を殺して、菜瑠の背後にピッタリつけていた。


「ちょっと、四季!」


声を限界まで潜めて牽制するが、四季は堂々たるもので『言うこと聞かなくてごめんなさい』程度にも悪びれる様子がない。

四季を追い返そうとした菜瑠だったが、ケンタの声で動きを止めた。


「……シッ! ……いるよ」


階段から下りきる寸前のケンタが懐中電灯を台所へ向け、姿勢を低くしている。

そしてデタラメなハンドサインで『早く下りて来い。配置に付け』を伝えてくる。

菜瑠は物音を立てないよう細心の注意を払って階段を下り、ケンタのすぐ横についた。

ちゃっかり菜瑠の糾弾を逃れた四季もケンタのハンドサインに引き寄せられてくるが、ここで口論を始めるワケにもいかない。


三人が集合した場所は、完全に台所なり土間なりを見通せる位置でなく、ケンタが照らす懐中電灯の光線の先にケモノの姿は確認できない。

どこか死角に身を隠しているのか。

菜瑠も恐る恐るに自らの懐中電灯の光線を闇に向け、ケモノの姿を探した。


一階はただ静かで、懐中電灯の光源の前を埃だの塵だのが横切って行く。

物音は一つもなかった。

聴覚を最大限にまで研ぎ澄ませば、自分のまばたきの音が聞こえるのではないか――。それを試してみたくなるほど、ただ静かだった。


それが菜瑠をますます不安にさせる。

気付いているのだ。ケモノも。

気付いて、こちらの出方をうかがっている――。


自分たちと同じように、息を殺し、この闇の何処かからジッとこちらを。

不自然な静けさであった。少なくとも活動する生命体が4つある。なのにそのどれもが物音の一つもたてずに居る。


これが無声映画であるならば、物知り顔をした批評家が『過不足なき美しき緊張と静寂』――などと陳腐きわまる論評をつけそうだ。

もっともサイレント映画でなくトーキーであっても、役者たちに台詞は必要ないが。

やがて膠着した『美しき静寂』を小太りの役者が破った。


「……行ってみる」


ジリジリと毎分数センチかとも思えるような速度でケンタが前進してゆく。


「気をつけて」


ケンタを先行させ、菜瑠もすぐ後に続いた。

少しずつ前方の視界が開けて、ケンタと菜瑠の懐中電灯から放たれる光線が闇を行き来する。菜瑠の身体の中で心臓が激しく鼓動し、静寂が耳に痛い。

そして数歩だか、数十センチだか進んだところで、物音がした。

ガサ、と何かの袋を動かしたような音。


「……いる!」


先行していたケンタにより闇の一画が照らされると、そこに菜瑠も『なにか』の存在を確認した。

手汗で滑らないよう長棒を強く握り、菜瑠も懐中電灯を『なにか』に向けると、それの明確とは言えなくも毛並みが確認できた。


――茶色。


そしてそれが予想外に大きい生物だとわかる。

これはアライグマやタヌキ程度の大きさではない。犬、猿、それよりも、もっと。


「ナル子……クマじゃない?」


潜め声のケンタに問われるが、菜瑠は返事もできなかった。

クマだとしても大問題であるし、クマ以外でもますます大問題だ。いずれにせよ、ケンタや菜瑠の長棒で追い払える程度の動物ではないことは明白に思えた。

声を潜めて菜瑠は言った。


「……だめ、戻ろう。これ絶対駄目なパターン」


ケンタもギリギリ聞き分けられるほどの声で返してくる。


「……うん。……これ、無理」


ケンタが変なプライドに凝り固まった人間でなくて助かる。ここで誇りだの名誉だのを大義名分にして後先考えずに突っ込んでゆく人間は、どんな時代であれ、きっと長生きできまい。


「……四季、下がって」


低めた姿勢のまま、すり足、忍び足で後退し、3人は撤退してゆく。

そうして反転して先頭となった四季が階段の最下段に到達した瞬間のこと。

濃密な闇の向こうで『雰囲気』が変わった。

聴覚で感じる音でなく、視覚で感じるコトでなく、ただ菜瑠は変化を感じた。


それは皮膚の一番浅い所で感じる警鐘のようなもの。理屈ではなく、第六感で感じる危局だ。


「来る!」


菜瑠が叫ぶより一瞬早く、闇のケモノが激しい物音を聞かせた。第六感が当たった事を喜ぶヒマもない。


「四季、早くッ!」


四季が珍しくも素早い動きで階段を駆け上がり、菜瑠もその背を追う。

古い時代の王宮のような階段ならば3人横並び駆け上がれるだろう。だが、この古民家の階段は狭く、手摺りすらない。王宮と競え合えるのは古さだけ。

ケンタの情けない声が菜瑠の後頭部に浴びせかけられ、背中は両手で押される。


「早くっ! 来てるって!」


四季が二階に到達し、一秒も置かずに菜瑠も逃れ出る。背後の闇に長棒を投げたケンタも数秒後に階段から二階の床に転げ出した。

「閉めてッ!」


エイミの叫び、ユキの悲鳴、遼の激が飛び交い、まごつきながらも畳の蓋二枚が下ろされた。成功だ。封に成功したと同時に、遼が畳の上に身体ごと投げ出し、封印の『置き石』となった。


瞬間、遼の身体が浮いた。


バネ仕掛けのオモチャのように、たしかに浮いた。

畳の裏に激突した圧倒的衝撃が、二枚畳や『置き石』を跳ね上げた。


跳ね上がった畳のうち、一枚は階段のヘリから片側が外れ、もう一枚もギリギリでヘリに引っかかり、その上に遼がうつ伏せで落ちた。

「誰かッ!」遼の声に余裕がない。「乗って! 破られる!」

遼が言い終わるとほぼ同時に、再度の衝撃が加えられ、畳と遼が浮く。

2度目の衝撃で、畳がさらにヘリからズレた。


「ヤバいって!」


すぐに動いたのはエイミだ。ズレた畳に対しスライディングのような蹴りを見舞い、少しばかり畳の位置を修正すると、細身の身体をヒラリと舞わせて2個目の『置き石』となる。


体重だけで言えばケンタが乗れば遼とエイミ分は稼げるはず。

だが、ケンタは二階の床に転がったまま、そして菜瑠と四季は仲良く尻餅をついたまま、ただ長すぎる一秒を感じていた。

次の衝撃で、エイミまでもが数センチほど浮く。


「菜瑠! アンタも早く乗ってッ!」


余りにも凄まじい力だ。遼とエイミと畳2枚という重量は決して軽いモノではない。

それが浮かされ、ズラされ、今にも封印が破られようとしている。


「無理ッ!!」


呆然としてしまった菜瑠より早く、ケンタが動いた。


「死守ーッ!」


エイミに倣ったように蹴りで畳のズレを修正し、ドカっと3個目の置き石となる。


「菜瑠と四季も! 早く! 死守!」


断続的になった衝撃を受けながら、エイミが叫ぶ。菜瑠などは『5人も乗ったら、畳が折れるんじゃないか』と焦りのなかで逡巡してしまう。

畳が折れて全員が階下に転落しては、元も子もないではないか。だが、衝撃は続き、畳はズレ続けている。


菜瑠は意を決して畳の上に身体を投げた。間を置かず四季も菜瑠の上に折り重なってくる。畳の向こうから押し上げてくるプレッシャーがあり、ほんの10センチたらず向こうにケモノの息遣いを感じた。


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